第6話 霊峰にて

 ナユタ大陸から海を挟んだ北に位置する場所。寒風吹きすさぶその海上に雲を貫き成層圏にすら届く、世界最大の霊峰があった。海に浮かぶような雄大な山は神々しさすら発し、見る者をひれ伏させる力を持つ。しかしナユタ大陸を介さねばならぬ故に、その存在は極一部にしか知られていない。


 一合目付近までなら魔物もいて、様々な霊薬の元となる素材を多々採取することができる。知られてさえいれば冒険者に人気のスポットとなるだろう。

 二合目から四合目になると植物が姿を消し、少数の特殊な魔物のみが生存する場所になる。ひたすら雪の積もる場所だ。


 しかしそれ以上登ると、雪すら降らない氷の世界。青空すら姿を消した、夜の支配する領域に到達する。

 植物も、魔物も。あらゆる命が生きることを拒まれる場所となる。死の世界というものが現世に降り立ったなら、まさしくこの場所こそが、その名を冠するに相応しい。


 静寂。高高度であるが故に激しく風が吹き荒ぶっていたが、それでもこの場所を静寂と断じるに何の躊躇もない。

 命のない場所は誰もいないというそれだけで静かで、夜に輝く満月は、美しさよりも寂しさを象徴しているようだった。


 そんな場所に一陣の柔らかい風が吹いた。


 自然の風とは一風変わったソレが止んだとき、誰もいなかったはずの山頂に大小二つの人影が佇んでいた。


 一人は黒髪黒目の青年。草臥れたローブを纏った姿は浮浪者のようであり、世を捨てた魔導師のようにも見える。

 社会からの逸脱者。あるいは逃亡者。そんな言葉が良く似合った。

 存在感は乏しく、人通りのあるところなら周囲に溶け込んで見つけることも困難になるだろう。あるいは目の前に立たれたとしても気が付かないほど、青年は「そこにいる」という印象が薄かった。

 まるで実態を伴わない蜃気楼が意思を持って歩いているようだ。


 もう一人、黒髪の青年とちょこんと手を繋ぐのは、五歳くらいの幼い少女。肩口を越えるぐらいの綺麗な深紅の髪をポニーテールにし、気の強そうな深紅の瞳を油断なく周囲に走らせた。しかしその様は、子供の真似っ子程度にしか見えない微笑ましさがある。

 誰もいない死の世界を訪れるには不似合いの、活力に満ちた少女だった。


 ここは成層圏。生きていられるはずのない場所に、二人はこともなげに立っている。それだけで只人でないことが窺え知れた。


 警戒というよりは確認のため、ゆっくり辺りを見渡した青年――メロスが歩き出す。


「師匠、ここに何があるというのじゃ。何もないではないか。あと、この手は離せぬのか? 一瞬一秒と触れていたくないのだが」


 昨日メロスの弟子となったばかりの少女――ティーナが不快を隠す様子もないまま、メロスを睨みつけた。

 ホムンクルスに封印されると精神がその肉体に多少引っ張られがちになる。元々魔物を封じ込めることを想定しているからこその安全装置のようなものだ。

 つまり今のティーナは龍としての精神と同時に年齢相当――人間の五歳ほどの精神を内包しているということになる。……なるのだが、メロスを見る目は憎い仇を見るのと同じもので、とても五歳くらいの少女がするような目つきではない。


「向かってる場所は湖だな、綺麗なところだ。手については離してもいいがお勧めしない。まともに呼吸もできなくなるし、この気温の中ではすぐに動けなくなる。ついでに風の音で声がかき消されるから、互いの声も聞こえなくなるな。それでも手を離してみるか?」


「……チッ」


 ティーナは舌打ちし、口を閉ざす。


「なんだ、つまらん。試してみる気もなしか」


「なぜ貴様を楽しませるために命を懸けねばならぬのじゃ。そんなもの、修行の中だけで十分よ」


「ほう。修行はまだやっていないが、覚悟はあるか」


「当然よ。大体、ナユタを飛び回らせたのも修行の一環だろうに、私が気づいていないと思ったか」


「へえ、よくわかったな」


 ティーナはふんと不愉快そうに鼻を鳴らして、顔をメロスの反対側に向けた。視界にも入れたくないようだ。

 嫌われたものだ、とメロスは小さく笑ったが、さして気にもしていなかった。

 そもそもティーナを強くするため師となったのであって、親となったつもりはまったくない。必要以上の面倒を見るつもりはさらさらなく、むしろ怒りの矛先をメロスに向けている間は、いい暇潰しができたと喜んでいるぐらいだ。


 互いに黙り込んだため、しゃきしゃきと氷を踏みしめる音と強い風の音だけが周囲を満たした。

 しかし、それもそう長く続くことなく破られる。


「ここだ」


「……ほう。確かに美しい場所だ。師匠の癖にセンスがいいから腹が立つ」


 湖に着き、始めは感嘆の声を漏らしたティーナが、毒舌もどきを口にして湖の美しさを称賛する。

 そこはこの閉ざされた世界で広がる、水の園だった。透明度のある紫がかった青――瑠璃の水が辛うじて見える向こう岸いっぱいまで満ち、凍りついた死の世界に僅かな、しかし目を惹かせる彩りがここにはあった。


 湖の周りは凍りついているのに、湖自体には氷のひとつも浮かず、強風が吹いているのに波のひとつすら立っていない。

 すがすがしいほどに幻想的な景色だった。


 水を覗き込もうとしたのか、繋いだ手を離して湖に近づこうとしたティーナを慌てて引き寄せる。バランスを崩して足に凭れかかったきた。そのままティーナが顔を上げ、メロスと目が合った。


「もう忘れたのか?」


「……すまぬ。つい」


 スッと顔を逸らすティーナは、まるで自分の失敗にふてくされる子供のようだった。人型のホムンクルスに似合うような行動はあまり見なかったが、確かに五歳児の精神も同居しているのかもしれない。

 そうでなければ、さすがにさっき言われたことを忘れて手を離そうとしたことに、説明がつかなかった。


 失敗したばかりのティーナだが、よほど覗き込んでみたいのか、湖に名残惜し気な視線を送っている。手を離すのが問題なのであって、一緒に近づくなら問題ないのだが、ティーナがそのまま湖に落ちそうな気がして、密かにティーナを今後水場に近付けさせないと決めた。


「これは水ではない」


「いや、どう見ても水であろう?」


「よく見てみろ。お前ならわかるはずだ」


 ティーナは首を傾げながらも、スッと目を細めて集中した。


「――ッ!」


 直後、水の正体に至ったらしく瞠目し言葉を失っていた。そんなティーナを見てメロスは満足し小さく笑う。悪戯が成功したからではなく、ティーナの並外れた五感を再確認して、だ。

 触れたならともかく、見ただけでこの液体の正体に至る者は数少ない。


「わかったか? これは水ではない、魔力だよ」


「液体状の魔力、ということか。ここまで溜めるのにどれだけの魔力が必要なのか……」


「別に珍しいことではない。ナユタ大陸やフルーシア大陸であれば時々見ることのできる現象だな」


「しかしここはナユタ大陸ではなかろう。もしやフルーシア大陸か?」


「……なぜそう思う」


「漂っておる魔力の質が違っておる。普通、わかるじゃろうが」


 あっさり口にするティーナに、メロスは一瞬言葉を失うほどの驚きに襲われた。

 何のスキルも使わないまま魔力の質の違いを見極めるのは、魔法に優れるエルフが少なくとも百年の研鑽の先に得たる技術だ。いくらなんでも、一月ほど前に生まれたばかりの赤子にわかる違いではない。

 メロスは自身の驚愕を誤魔化すようにふむと頷き、ティーナの疑問に答える。


「大別すればナユタ大陸の一部ではあるんだがな。ナユタの北の海に浮かぶ霊峰がこの場所だ。ナユタと比べて魔力の質がどう違うか、わかるか?」


「澱みがなくて澄んでおる。ナユタの魔力が沼ならここは流れる清水じゃな」


「なるほど。特徴をよく捉えている。この魔力は液体になってはいるが、精霊の宿す魔力――霊力と同質のものだからな」


 魔力から余分な“要素”が消え、限りなく澄み切った魔力――それを霊力と呼ぶ。


 あらゆる世界を巡り歩いても霊力がこんな状態で液体化しているところは他にない。たとえばエルフの住むフルーシア大陸だと魔力の液体化現象が比較的起きやすいが、せいぜい水溜り程度の濁った魔力水ができるだけでしかなく、決して霊力にはなり得ない。もちろんそれはそれで利用価値は高いのだが、これと比べればまさしく雲泥の差だ。


 そもそも魔力も霊力も液体に変えるのは水蒸気を水にするのと同じで、わずかな液体を作り出すだけでも魔術師が何十人となく必要になる。

 それが湖となり満たすほど液体になっているとなれば、元の霊力はどれほどの量を必要としたのだろうか。

 もはや想像するだけ馬鹿らしい。そんな量になるのは間違いない。


 なぜこんなことが起こるのか。考えられる原因はいくつかある。

 成層圏であったり、温度であったり、空気の薄さであったり、はたまた周囲に生命がいないことこそ原因に当たるのかもしれないし、それらが複合的に重なった結果奇跡的にも液体霊力などというものを作り出したのかもしれない。


 結局のところ、原因なんていうものは今でもわかっていないし、わざわざ原因究明のために足を運ぶ変わり者もいない。重要なのはここに大量の霊力があるという一事のみだった。


 メロスはインベントリから淡い虹色に輝く石を取り出すと、ティーナの手に押し付けるようにして渡す。丁度ティーナの手のひらと同じ大きさだった。ティーナは手の中の石を転がしながら不思議そうに訊ねる。


「これは?」


「大精霊の核石だ。それにティーナの魔力を目一杯込めろ」


 渡した物の正体を告げると、ティーナが顔を引き攣らせた。

 精霊がある意味で龍と同種だからだろうか、これがどうやって手に入るのか知っていたらしい。


「……師匠よ、確か大精霊の核石とは、大精霊が寿命を迎えたときに残る石だと、私の知識にあるのじゃが、どうだ?」


「それであっている。龍の知識か、そんなものがあるとは知らなかったな。今度色々試してみるか」


「何を恐ろしげなことを決めておる。いや、今はそれより……これを、どうやって手に入れおった……」


 精霊の寿命は千年、大精霊の寿命は一億年と言われている。普通に生きていれば手に入れるどころか、まずお目に掛かれない代物だ。値段をつけるとすれば大国の国家予算でさえ足りないだろう。

 大精霊の核石ひとつを手に入れようとして、大陸二つを巻き込んだ大戦争に発展したという曰くの品だった。


「大昔に少しな」


 メロスは言葉を濁し、手に入れたときのことを思い出す。

 〈ドラゴン・ライズ〉の時代に課金ガチャで手に入れたアイテムで、レア度の割に使い道が限られているため、扱いとしては外れよりはマシ程度の物でしかなかった。

 さすがにこの世界に来てからは手に入れる機会もないが、インベントリの中には当然のように肥やしとしてまだまだ残っている。たとえひとつふたつ駄目にしても問題ないぐらいだ。


 前世界の課金ガチャで手に入れたメロスより、余程ティーナの方が価値を理解しているのだろう、深紅の少女は手の中にある核石に怯えきり、目尻に涙を浮かべながらメロスを縋るように見上げてきた。

 子供バージョンの精神が強く表に出ているらしい。観察していたメロスの感覚だが、どうやら感情が激しく揺れ動くときに子供の精神が表に出やすくなっているようだ。


「本当に魔力を込めてよいのか?」


「魔力を込めるぐらい問題ない。早くしろ」


 メロスが冷たくあしらうと、ティーナは泣きそうに顔を歪めたが、すぐに意を決して大精霊の核石に魔力を込め始めた。なぜか自分の身体から離すように、手を突き出しながらやっている。

 一気に魔力を込めると壊れると思っているのか、慎重に魔力を流していく。淡い虹色の輝きがティーナの魔力に反応し、徐々に強まった。


「そこまででいい」


 始めてから四時間は経っただろうか。終了を告げるまでに一度、魔力を回復させるマジック・ポーションをティーナに飲ませた。

 今日中にという制限を考えなければ時間をかけても良かったのだが、封印術をしたときに焦ったことが脳裏をよぎり、瞬時に回復するタイプを使わせた。

 緊張から解き放たれたティーナが、ふうと息を漏らす。

 大精霊の核石は今や小さな太陽のように、煌々とした輝きを放っていた。空は星の瞬く夜空だったはずなのに、核石の輝きを前にして星はすっかり姿を隠してしまっている。


 ティーナは魔力の出力においてはホムンクルスに依存して低レベルだが、魔力量自体は龍らしくかなり多い。それが一度空になるほどの魔力を込めたのだ、核石の魔力がどれほど膨大になったか、それだけでも窺い知れる。


「さて、月がいい按排の位置に来たな」


 空を見上げながらメロスが言うと、ティーナも合わせて空を見た。星の消えた夜空には、ぽつんと月が寂しく浮いている。

 月に向かって、メロスが空いていた方の手を上げた。


「『並ぶものなき孤高の守護者にして、慈悲を賜う月光の美姫。そなたが優しき抱擁にて現世うつしよを照らし、光明なき我らに道を示したまえ』〈月影魂魄〉」


 たったひとつを為すために存在する神仙術スキル。体力、魔力、そして仙気の三つが急激に失われていくのをメロスは感じた。

 単純な疲労は代償がない分だけ、〈神龍召喚〉より厳しく感じる。特に体力は魔力や仙気に比べると少ないので、疲れを誤魔化すようにゆっくりと息を吐き出した。


 腕を上げ続けるのが億劫になってきたところで、メロスの待っていた現象が起こる。湖面に月が落ちたのだ。

 湖面の月が大きくなる。広がって行く。始め月の光を受けていただけの湖面が、ほのかな青い光となって輝き始める。いつしか湖全体が――霊力が強い光を放って氷の世界を一変させた。


 ティーナが息を呑んだのを気配で察知する。しかしメロスの視線は空に浮かぶ銀色の月を向いて離れない。

 高位の神仙術スキルを使ったため、魔力と仙気は半分ぐらい減っただろうか。体力に至っては尽きかけていて朦朧とする中、メロスはインベントリからライフ・ポーションとマジック・ポーションを取り出し、一本ずつ呷る。

 じりじりと回復し始める感覚。ようやく人心地ついて肩の力を抜いた。


「感動しているところ悪いが、次はその石を湖に放り投げろ」


「……あ、ああ。投げ込めばいいのだな?」


「そうだ、早くしろ」


 疲労を解消するように肩を揉みほぐしながら重ねて命じると、ティーナが十全に魔力の込められた核石を放り投げた。躊躇いがなかったのは何かしら心境の変化でもあったのだろうか。

 大きく弧を描いた石は、チャポンといつか聞いた水の音を鳴らして、輝く水中に沈んでいく。

 何が起こるんだろうと興味津々に、ティーナが石の沈んだ辺りをじっと見つめていた。


「ここからどうなる?」


「まあ見ていろ。お前のやることは全て終わった」


 ――ここからは私の仕事だ。


 言外にそんな意味を匂わせて、湖面を見つめ続ける。

 変化はそれからすぐに訪れた。


「あ」


 ティーナが小さく声をあげた。湖面、石の沈んだ辺りが波を生じ始めたのだ。今まで暴風に近い風でもさざ波ひとつ立てていなかったのに、だ。

 波が強くなるにつれ、メロスには湖の水位がわずかに下がった気がした。ミリか、センチか。それぐらいの差であり、普通の人ならば決して気づくことのない変化。

 だが長年に渡って磨かき抜かれたメロスの感覚は、確かに水位が減ったのだと訴えている。そしてその感覚を、メロスは疑っていない。

 減った分の霊力はどこに行ったのか。すぐ見当がついたものの、だからこそ容易に信じられない事実に戦慄を覚えた。


 見た目は決して変わらず、しかし顔を強張らせたメロスの前で、湖面の光が一カ所に集中していく。核石を投げた辺りだ。しばらくすると光っているのはその場所だけとなり、最初の月影のような大きさになった。その瞬間、一際強く青い光が周囲を焼いた。

 ティーナが小さな悲鳴と共に目を覆う。

 光は五秒、六秒と続いてようやく弱くなり、それを契機に急速に消えていく。全ての明かりが消え、夜が帰ってきた。

 儀式の完了である。


「ティーナ、見てみろ」


「……なんぞ、あれは」


 おそるおそる目を開けたティーナの第一声に、メロスは顔を強張らせたまま苦笑を浮かべた。


「あれ扱いは酷いな。――影法師、お前に忠実な精霊だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る