第2話 登龍
卵龍が滝の元へ向かい、そしてすぐさま引き返す。いよいよかと身構え、なのに土壇場で怖気づいた様子を見てメロスの顔から表情が失せた。
そして、どうやら卵龍の意思を促そうとしているだけでは甘かったらしいと、認識を検める。
〈
水面を歩く仙術スキルを使い、メロスは水面に降り立った。
続いてそのまま片膝をついてしゃがみ込むと、水に右手を触れる。
〈
神仙であるメロスがほんのわずかに使える魔術スキルのひとつで、ランクは八ツ星に相当する。
メロスの強大な魔力に支えられた魔術によって、通常ではありえない現象を見せながら流水が凍り始める。
メロスを囲むような円状の氷ができあがると、そのまま水底まで凍りついていく。水面から水底まで貫くそれは、さながら氷の楔となって穿たれた。
しっかり水底まで食い込んだことを確認したメロスは、さらに魔力を込める。氷の円柱からいくつもの棘が二メートルほどの間隔を開けつつ左右に伸びていく。滝を囲むように、卵龍を囲むように。
氷の檻が完成した。この間、卵龍は何故逃げなかったか。単純に、逃げる暇もなく完成してしまったのだ。その氷結速度はメロスと同じステージに立たなければ知ることさえ適わない。
しかしここで終わりではなく、むしろここから〈
檻と化したいくつもの円柱から槍のような棘が無数に生え始め、氷の棘が滝へゆっくり伸びていく。水流を止めないだけの空間はしっかりと開いているが、十メートルという体を持つ卵龍の通れる隙間は一切ない。
氷の棘は様々な方向に伸び、別れ、合流し、卵龍徐々に徐々にと追い詰めていく。逃げることを許さない。
運悪く水に流された一匹の魚が棘に刺さると、一瞬にして凍りついた。それは卵龍が刺さってしまったときの未来を示していた。
欠伸の出るほどゆっくりと、しかし恐ろしい速度で。卵龍の動ける範囲は小さくなる。
「慌てているな」
うろちょろうろちょろ、小さくなっていく氷の檻の中を泳ぎ続ける卵龍。逃げ場はクアトラの滝ただ一つ。さながら滝は地獄に垂らされた蜘蛛の糸か。
「残り五分」
メロスの声が聞こえたでもなかろうが、追い詰められた卵龍がようやく滝の真下へ潜り込んだ。通常卵龍が即死するだけの圧力を受けたはずだが、まるで堪えた様子もなく、じわじわと滝を登り始める。
〈不死再生〉の力は滝の圧力を完全に跳ね返していた。
さっきまで右往左往していたはずの卵龍が今では鼻歌さえ歌っているように見えてしまう。問題ないのだと理解したため心に余裕が生まれたのだろう、随分と現金なことだ。
問題に直面し、全力で取り組みそれでも尚破れぬ壁に挑戦することこそ、成長の証しであるというのに。
卵龍にやや不満を覚えながらも黙って見ていたメロスだが、直後予想外な事態に直面して笑みを浮かべた。
「……残り三分」
滝を登り始めた途端、生命力の減りが速くなった。〈不死再生〉は残っている生命力を使い莫大な力を得るため、生命力を減らす行動にでれば残り時間も当然短くなる。
もちろん滝が卵龍の生命力を削ることをメロスは予測していたが、削られる予測時間は十数秒。二分も削られてしまうのはさすがに予想外で、卵龍の力を見誤ったというより滝の力を見誤ったという方が正しい。
忸怩たる思いはあるが、それ以上にメロスは事態の行方を楽しんでいた。
「さて、どうするか……」
〈不死再生〉を使ってからすぐに昇っていれば間に合ったことを考えると、自らの怯懦が招いたことと突き放すこともできるが。
しかしそれでは詰まらない。面白味の欠片もない。
「仕方ない。五メートルは登っているし、構わんだろ。本来、自分一人の力だけで挑戦しなければならないことを考えれば、十分過ぎるともいえる」
このままでは半分行けずに死ぬと判断し、〈不死再生〉を切断した。無理に続けさせれば途中で死ぬのだから仕方ない。
それに卵龍の死ぬ原因は、滝壺に生まれる水流によっておかしな角度で滝に打たれてしまうからであり、すでに登り始めている卵龍にはその心配がない。
色々な面から考慮して、もはや卵龍に手助けは必要ないのだ。
〈不死再生〉が切られたことで卵龍が纏っていた神々しい光が消え去り、姿が視認できなくなった。突然〈不死再生〉が切れたために落ちて圧死している可能性もあるが、しっかりと全力で登っていたのなら問題ないはずだ。
「〈千里眼〉を使えば見れんこともないが、たまには気配を読むか」
不便であることこそ退屈を紛らわす妙薬である。メロスは滝の中にある生き物の気配を感じ取り、最も大きい気配以外を遮断した。
この辺りはスキルを使わずとも長く生きていれば自然とできるようになったものだ。
「さっきより少し落ちたか。さては手を抜いて登っていたな、全力であれば下がることなどありえん。それで生命力の減りは――問題無いな」
メロスは卵龍に声が届くように滝へ近付く。さすがに聞こえないかもしれないが、それはそれで構わない。卵龍が知っても知らなくても、メロスにとっては面白い。
「常に全力でなら十五時間後に登り切れるが、十八時間以上掛けると滝に流されても押し潰されて死ぬぞ。生きたければ力の限りを尽くせ」
声を張り上げたが、聞こえたかどうかは定かではない。
この規模の滝であれば何の強化も施されていない卵龍が下まで落ち切ると飲み込まれて死ぬしかないのだが、しっかりと理解できたのだろうか。
……どうやら必死に昇り始めたようだ。気配が徐々に上を目指す。
「この調子なら大丈夫そうか。なら、そろそろ準備の方でも進めるかな」
メロスは意味深な笑みを浮かべてそう言い残し、空を駆って立ち去った。
◇◆◇◆◇
あれからおよそ十七時間経過し、もうすぐ朝日が昇ろうとしている。またあの卵龍はサボったらしい。どこまでも意気地の無い卵である。いくら格が高く強大であろうと、この性格ならば心の弱い龍になること請負だ。
しかし怠け者の卵龍も長く短い水の旅を終えて、ようやく到達しそうだ。大量の水が背後に流れていくなか、赤い魚影がはっきりと色を落としている。
すでに卵龍は垂直から水平へと移ろうとしていた。卵龍が淡い光を発し始め、しかし安定しないまま明滅する。
――進化の兆候。
初めて見る現象に、メロスはそう直感した。
後少し。
もう少し。
卵龍がいよいよ登る。
メロスですら今までに見たことのない光景を見ようと、卵龍の登る瞬間を息を殺してじっと待つ。
そしてようやくその時が来た。
卵龍が世界最大の登竜門を登り切ったのだ。
変化は劇的であった。
錦鯉が煌々と紅く光輝く。その様は朝日が昇るところを彷彿とさせ、神秘そのものを体現していた。未だしつこくこびりついていた夜を焼き世界を照らす。
長き時を過ごし情動の小さくなってしまったメロスですら、心動かされるある種の天変地異。
赤い光はその姿を変えていく。
弱く脆い錦鯉の姿から、雄大で強大な龍へ。生物の頂点に立つ雄々しき姿へ。
小さな儚い卵がこの世に新たな生命を生み出した。
すでに取り払われた夜空を背景に映しだされた龍の姿は、メロスに酷く懐かしい光景を思い起こさせた。
それはまだこちらの世界に来る前のこと。メロスがゲームプレイヤーの一人であったとき、画面に映ったオープニングムービーの一場面。
夜空を背景に雄大なる龍が天へと登り、最後にこちらを向いて大きく咆哮する姿。そして画面を埋め尽くす閃光を放ち、タイトルが大きく表示される。
〈ドラゴン・ライズ〉。それがメロスのプレイしていたVRMMOゲームの名前だった。
二千年以上も前の名前を、今になって思い出した。
「色は赤ではなくて深紅。
メロスは苦笑し呟いたが、それは大自然の前にすぐ掻き消された。
それよりも、と顔を上げる。目の前には雄大な龍がいた。
やはり、思った通りであった。
この子龍はまだ幼く力も弱いが、大きさはすでに通常の成龍を越える。
これが成長したらどれほどの力を得るのだろうか。いや、最も強くなるように導き育てたとしたら。これほどの素質を持って生まれたドラゴンを、他に知らない。
メロスが将来の龍の姿に思いを馳せていると、深紅龍がこちらへと鎌首をもたげて体躯と同じ深紅の瞳で私を見る。その瞳の中に憎悪が混じっていることをメロスは認めた。
「ふむ。己の力で登れずにいた癖に逆恨みで牙を剥くか。想定の範囲内だが不快なのは変わらんな」
恩知らずな龍に対して顔を歪めていると、深紅龍の口が大きく開きエネルギーが凝縮されていく。
そして発せられた咆哮。龍の下位スキル、〈
メロスはそれを情けないとばかりに肩を落として、龍術スキルを行使し迎え撃つ。
〈制空支配〉
不可視の壁がメロスを包むように出現する。そして、激突。〈
しかし、それが限界だった。
どれほどの時間攻撃をぶつけても〈制空支配〉の結界は微動だにしない。音と光だけをメロスに届かせるのが精一杯の〈
たかだか一個人が生まれたばかりの子龍とはいえ純粋な龍の力を前に、完全に受け止め上回って見せた。
どちらが上位者か。たった一撃のやり取りは一人と一匹の関係をこれ以上ないほど明確にする。
〈
だが怯ませただけだ、まだ折れてはいない。
「あまりに暇だったので随分前に開発し会得した龍術スキル。〈ドラゴン・ライズ〉時代にはなかったが、出来は見ての通りだ。龍が使うよりも威力は落ちるが、属性すら乗せられていない攻撃なら問題無い。お前の力など、所詮その程度だ。〈インベントリ〉開示」
未だ言葉すら扱えない幼子に無情な事実を突きつけて、システムから〈インベントリ〉を呼び出した。
ショートカット設定をしているためリストの画面を出さないまま、収納されている無数のアイテムを脳内にて把握する。目的のものを探し出し、選択する。
手のひらに野球ボールほどの黒い玉が現れ落ちる。成龍が百年という長い時間を掛けて体内で作り出したもので、龍玉と呼ばれる宝玉である。
純粋無垢な力の塊でありながら龍の力によって変質してしまったものと謂われ、龍玉を吐き出さず体内に留めたままにいる龍は、やがて玉の発する毒に侵されて死に至る。
龍が作りながら龍を殺す毒の塊、それが龍玉である。
しかし高エネルギー体である龍玉には数多の使い道がある。
メロスはにやりと笑って今一度、神仙術スキルを行使した。
「『汝は調和の守り人にして混沌に対す者、あらゆる自然の顕現者。混沌たる力を喰らいて汝が力を現世(うつしよ)にて示せ』〈神龍召喚〉」
手の中の玉が砕け、世界が変わった。
空は雷雲に覆われ、雷光が各地で輝き遅れた轟音が鳴り響く。
圧倒的な力。
生まれたばかりの深紅龍は可哀そうになるほど怯えきってトグロを巻き、不安そうに推移を見守っている。
各所で雷雲が割れた。
緩やかに降りてきたのは長大な蛇の体躯、覗くは巨大な龍の頭部。
神龍。
神仙術とはあらゆる神と交渉する術である。
故に、召喚術でさえ呼べない神龍をも詠唱と代償で呼び出すことを可能とする。
神龍が口を開き、嘶いた。スキルですらない、ただの威嚇。しかし深紅龍にはこれ以上ない波動となって襲い掛かり、瞬秒の堪えを見せただけで吹き飛ばされ、岩壁にぶつかって気を失った。神龍の前では戦いにすらならない。
仕事を終えた神龍はその肢体を虚ろにさせて、溶けるかの如く還っていく。世界の雷雲が晴れて日常を取り戻す。
わずか、咆えるだけ。神龍のやったことはそれだけだが、代償が龍玉ひとつではあの程度が限界でもある。
しかし望んだことはしっかり果たしてくれた。
メロスは気を失って死んだように眠る深紅龍の元へ降り立った。
今回、心を折るだけならば神龍を召喚せずとも、龍術スキルの〈
だが敢えてメロスは龍の頂点たる神龍を呼び出した。これでこの龍は決して増長することはなくなる、最強の龍を知ったが故に。
これでこの龍は強くなるはずだ。メロスは満足し頷く。
そして呟いた一言は聞くものがいれば、到底信じられないものだった。
「――それでは封印するか」
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