隠者の暇潰し

ハナモト

弟子収集編

第1話 山岳の隠者

 ピチャン。

 十メートルの高さはありそうな崖の淵。急流に釣り針を垂らす音が鼓膜に響いて、こんな小さな音が聞こえたことにメロスは一人苦笑する。

 この十年ほどはずっとここで釣り糸を垂らす生活をしているが、あんな小さな音でも拾えるのか。

 ほんの五十メートル先。そこでは瀑布の音がこれ以上ないくらい大きく響いているというのに、改めて自分の身体能力は化け物じみているとしみじみ思う。

 あまり意識していないが、年々ステータスに現れない肉体性のが向上しているように感じる。果たしてそれは気のせいなのだろうか。


 冴えない黒髪黒目の青年、メロスは空を見上げた。心地良い晴天であればよかったのだが、不幸なことに――あるいは当然のように、広がっているのは灰色一色の曇天。この大陸では晴れの日は三日に一度程度の割合でしかなかった。


 視線を落とし、釣り糸の先を見やる。

 何か掛かるまで今日はどれぐらいの時間がいるだろうか。できることなら夕方までに一匹ぐらいは釣っておきたいものだった。


 深い森の中で草臥れたローブを纏い釣り糸を垂らす様はまさしく隠者という有様で、どこか太公望を彷彿とさせた。

 どこといった特徴のない男。彼を見た者なら誰でもそう口にするだろうが、その存在感のなさは返って異常だった。目の前にいてもわからないし、気づかない。

 質量を得た幻、そんな存在がメロスという男だった。


 適当に釣り竿を揺らし、魚を誘う。これで本当に魚を誘えているのかはわからないが、できるだけおいしそうにと考えながら動かすのは、それなりに楽しかった。

 それでも一時間経ち、二時間経った頃には瞑目して石像のように動かなくなった。

 小鳥が飛んできてメロスの肩に止まる。まるでメロスを人とは思っていないようで、ゆったりくつろぎ羽繕いをする。

 無の境地。今のメロスの状態である。魚一匹釣るために己の気配を完全に消していた。

 たかが釣りのことで大袈裟ではあるが、全力で楽しむということこそ、悠久のときを生きるメロスが生に飽きないコツでもあった。


 メロスが瞑目し、じっと待っているとやがて努力が実ったか、釣り糸がクイクイと力強い引きを見せた。ふっと顔を上げる。途端に肩で休んでいた小鳥が空へ逃げる。

 メロスは立ち上がり、剣を構えるように釣り竿を構えた。スキルを発動する。


〈不天動地〉


 足が地面に着いている状態でのみ発動可能な五ツ星仙術スキル。その場から動けなくなる代わりに、地を走る龍脈より力を借り受け万夫不当の力を得ることができる。このスキルの最大の特徴は、使用者を通じて持っている道具にすら力を分け与えることが可能ということだ。

 〈不天動地〉によって釣り竿の強化が完了する。


 メロスの発する力を察知したか、釣り竿が強く引っ張られ大きな弧を描く。糸を引き千切ろうと必死になって暴れ、岩礁にぶつかり、小さな地震のように大地を揺らす。

 だが、この釣り竿はユグドラシルの枝を使った特別製。糸も大王蜘蛛の巣から回収した自然界最強の糸。ただでさえ簡単には壊れないものが〈不天動地〉によって強化されたのだ、逃げられるものではない。

 それにしても暴れ方が激しい。思っていたより大物らしいと、メロスは笑みを深くした。


 このまま釣り揚げようとすれば、道具はともかくとして足場は持たなさそうだ。

 メロスはただちに〈不天動地〉の有効範囲を足元の足場にまで広げ、憂慮を消し去った。

 釣竿の先を下げ、一息に引き揚げようと構える。バサバサと付近の鳥が一斉に飛び立ち、いくつもの巨影を大地へ落とした。


 大きく息を吐き出す。未だ水中で抵抗を続けている獲物だが、常に一定の力で抵抗を続けているわけではない。暴れる方向を変えようとして力の緩む瞬間がある。そこを狙い――引き揚げた。

 軽い抵抗。釣り糸の垂れる水が盛り上がり、割れるようにして赤い魚が飛び出した。


 理不尽なほどの強大な力によって引き揚げられた赤魚は、一度崖にぶつけられたが勢いは減じることなく、そのまま宙を飛んだ。魚影が大地に落ちるという珍しい現象を起こしたあと、物理の法則に従って赤魚は大地に衝突した。衝撃で再び小さな地震を引き起こす。


 赤魚が輝かんばかりの鱗を陽の元に晒し、その姿を見たメロスが目を瞠る。


 大きさこそ十メートルを越え、それを越える長い二本の髭を持っているものの、まさしく赤い錦鯉。


「ほぅ、珍しい」


 釣果を見たメロスは思わず感嘆の声を漏らし、子供さながらに喜んで近付く。


「この姿形といい、大きさといい。最大の特徴は全身以上の長さを持つ髭か。まさしく卵龍。登竜門を登りに来たか」


 一メートルを越える鯉を卵龍と呼び、それは文字通り龍の卵だ。錦鯉の形は取っていても鯉ではなく生物ですらない。

 龍は自然の塊ゆえに親も子もない。卵龍は自然現象と相違なく、近くに滝があることを条件として突如生まれ出る。発生すると言い換えてもいい。

 その大きさは滝の大きさに比例し、格は髭の長さに比例する。


 故にこの卵龍は強大な龍へと成長するのは疑いようがない。――登竜門を登り切ることさえできれば。


 登竜門とは卵龍の登る滝の別称であり、発生した一番近い滝が登竜門になる。これを登り切ることで卵龍はようやく子龍として生を得ることができるのだ。

 しかし大半の卵龍は登竜門を登れない。龍となれば悠久のときを過ごせる長寿を得るが、卵龍の寿命は僅か半年。この期間の内に登り切れなければ生を得る前に死を迎えるのだ。

 そして、メロスは嗤う。


「お前を登竜門に登らせてやろう」


 次の暇潰しはなかなか面白そうだ。



 ◇◆◇◆◇



 三日後。

 卵龍を釣った場所から五十メートルほど離れたところに、クアトラの滝と呼ばれる幅四十メートル、高さ百メートル級のこの世界最大の滝がある。ナイアガラの滝が五十メートルほどだということを考えれば、滝壺に近付くことの危険さが多少なりとも理解できるだろう。

 メロスは涼しい顔で滝壺の上空から、この水の城壁ともいえる滝を眺めている。


天駆あまがけ


 仙術スキル天駆により宙を地面があるかの如く屹立し、魔術で風の流れを操作して決して水飛沫を浴びないよう逸らしていた。

 こちらの世界に来る前の滝だと落ち切る前に水蒸気となったが、マナがある影響か、クアトラの滝は水蒸気に変わることなく、莫大な量の水を途切れさせないで落とし続けている。爆音と呼ぶことさえ烏滸がましい音の壁は生物が近づくことさえ拒んでいるようだった。


「さあ、登れ。卵龍よ」


 メロスは滝を指さして、足元を苦しげに泳ぐ龍の卵に指示を出す。しかしこの三日間、全く進む様子もなければ、挑戦しようという気概もない。

 それも当然といえば当然ではある。クアトラの滝を登るということはその滝に打たれるということで、卵龍如き弱小の自然現象では本物の天災に打ち勝つことができないのだ。

 やや回りくどい説明であったためより具体的に言い直せば、滝に打たれた瞬間に卵龍は死ぬ。


 それを理解していながら近付くはずのは愚か者と同義だ。これこそが大抵の卵龍が龍へと登ることなく、寿命を迎えてしまう理由。ほとんどの卵龍では滝を登れないのだ。それでいて登れなければ寿命を迎えて死ぬしかない。

 辛うじて卵龍単体で登れるギリギリが二メートル程度ということを考えれば、十メートルほどの体躯で百メートルの滝に挑戦しなければならない無謀さが多少なりとも理解できるだろうか。


 おそらく、未だこの大きさの卵龍が龍となった事例はない。これはそれほどの難行、卵龍が怯えて進めないのも当然といえる。

 が、メロスは許さない。

 この三日間は自分で挑戦ぐらいしてみせろと構えていたが、そろそろ焦れていた。


 できることなら無理難題に挑戦する気概ぐらい見てみたかったメロスだが、呆れた溜め息一つ落として水面に近づく。

 そして徐に瓦割りのような動作で、掌打を水面向かって放つ。何の工夫もされていない攻撃、そして水面にさえ拳は届いていない。だというのにその衝撃は水中深くにまで達し、膨張。水面が大きく盛り上がった次の瞬間、爆発音が轟いた。


 大量の水が高く空まで巻き上げられ、無数の魚影が共に宙を泳ぐ。その中に卵龍の姿もあった。

 メロスはすぐに卵龍へ接近し、片手で掴み取り離脱する。

 たっぷり十秒ほど経ち、すでに大地の上の住人となっていたメロスの背後で、滝とは違った水同士の衝突する音が響いた。


「卵龍よ。あの滝を登らねば死ぬぞ?」


 地面に置かれた卵龍がびちびち跳ねると、まな板の鯉のようで笑いを誘う。たとえ腐っても龍なのだ、メロスの言葉は通じているはずだが跳ねるだけ跳ねて返答らしいものはない。


「お前はこのまま朽ち果てるのを望んでいるのか?」


 ピタリと動きが止まり、大きな丸い目がメロスを見る。


「龍になりたいか」


 またびちびちと跳ねる。生を得ていないとは随分不便なもので、意思を発することにも一苦労らしい。


「力を貸してやろう。ただしこれで登ることができなければ、お前は寿命を迎えることなく死ぬ。どうする?」


 びちびち、びちびちと跳ね方が激しくなって、どこかへ跳びそうになった。これは逃げたいのであろうか、力を貸して欲しいのであろうか、判断が分かれるところだ。


「良し、じっとしていろ。力を貸してやる」


 近付くとむしろ暴れ方が酷くなり、どうやら逃げたがっていた方で正解である。

 メロスの顔にわずかな怒気が走った。


「どこまでも気概というものを持たない卵龍だ。少しじっとしていろ」


 頭を一発殴れば目を回して大人しくなった。これで良しとばかりに頷いてから詠唱に入る。


「『生よ、死よ。あらゆる自然の統治者よ。彼の者の生ける力を死せる力へと転じ、深淵たる摂理によって、根源たる力を呼び覚ませよ』〈不死再生〉」


 詠唱を終えると、メロスの指先が強い光を発した。それを卵龍の額に刺す。

 十メートルある卵龍の全身に指先の光が移ったように輝く。それは命が燃えているような神秘的な輝きで、触れがたい神聖さを内包していた。

 メロスは何が起こっているのかわからない様子の卵龍の前にしゃがみ込み、笑顔を向ける。


「その光、お前の生命力が燃えている証しだから消えたら死ぬぞ。助かりたかったら龍になる以外にない」


 それだけ教えて卵龍の頭を掴むと、腕の力だけで滝壺へと放り投げた。大きく弧を描いて水飛沫を作りながら水中へと戻った。


「これで何もしなかったら本当に死ぬが、どうなるやら。〈天駆〉」


 再び宙を歩いて卵龍の落ちた辺りへと向かう。光っているので水面を通じてどこにいるのかはすぐにわかる。どうやら怖いらしくまだ滝へと向かわずにうろちょろと泳ぎ回っていた。


「大体十分、か」


 意外と高い卵龍の残存生命力と減少率からおよそのタイムリミットを計測した。この時間内に龍になることができなければ卵龍はここで死ぬことになる。

 超位ジョブ〈神仙〉だけが使える十ツ星神仙術スキル〈不死再生〉。自然界の神から力を借りて発動する術故に契約を意味する詠唱を必須とする。仮に神の了承を何も得ようとせず力を借りようとすれば――無詠唱で発動しようとすれば、神の怒りを買い自らを滅ぼすことになる。


 しかし神仙術のどれもが超の付く一級の技。

 今回はメロスの半分以上の魔力と、卵龍の残っていた生命力全てを凝縮して使い、全能力値を大幅に増幅させた。

 もちろん効果だけ見れば似たような術は他にもあるが、力の効率が全く違う。上位仙術でようやく五倍とすれば、神仙術は約二十倍。仮にも神の力を拝借するのだから、それだけの力が得られるのは当然のことだ。


 おまけにこの不死再生に限れば使い勝手も非常に良い。莫大な魔力とある程度の仙気は必要だが、契約たる詠唱さえしてしまえばコントロールを握って置く必要も無い。


 しかしこの術は途中で切らなければ当然ながら死ぬ。

 そして〈不死再生〉は契約者しか途中で切ることはできない。つまり、卵龍は自分で切ることができず、メロスに切るつもりはない。これで登れないのなら生きていてもどうせ寿命を迎えるだろうと考えている故に。

 存外十分という長い時間が与えられたが、どう行動するのか。


 ちなみに、一般男性でおよそ三十秒しか持たず、近衞騎士隊長クラスで三分。メロスでも三十分がやっとということを考えれば、卵龍は腐っても龍であると図らずも示したことになる。

 またこの世界ではあまり関係のなくなったことではあるが、〈不死再生〉のデスペナルティも通常の二十倍となるので、好んで使うには問題のあるスキルだった。


「三分経過」


 まだ行かない。

 滝を登り切るだけでも五分は掛かるはずだった。

 もう諦めるのだろうかと見ていると、


「む、動いた」


 卵龍が轟々と落下する水の下へ向かった。

 あの怯えた様子から結局挑戦できないまま、死を迎えるのだろうと諦めていたが。もう少し楽しめそうだ、とメロスは口元に悪い笑みを浮かべた。

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