第20話 制裁
「……ん、何だ?」
ロイドの声。
ルカはさあっと血の引く音を聞いた。鍵。これを何とか隠さないと。咄嗟に〈インベントリ〉を開くとそこへ投げ込んだ。
直後には他の冒険者達も起きだしてしまい、一人不自然に倒れている姿のルカに衆目が集まる。
始めに状況を察したのはライナーだった。
「てめえ! 逃げようとしやがったな! ロイド、鍵は」
「ない、盗まれた!」
ポケットを探していたロイドが叫ぶ。
ライナーとラザリアの顔に怒気が走った。
「やっぱりか!」
「何て子だよ、手癖の悪い」
「盗んだ鍵、とっとと返せ!」
「ゲェッ!」
ライナーに横腹を容赦なく蹴られ、地面を二転三転する。激痛に息が詰まった。涙が目尻に浮かんだ。
苦しい。背中を丸め、蹴られたところを両手で押さえた。ぶわっと全身から脂汗が浮き出た。
もう蹴られるのは嫌だ。
……それでも。
「し、知らない! ボクは、トイレに行こうとしただけで」
「しら切るつもりか、コラアッ!」
「――っ!」
もう一発。さっきより強い力で蹴られた。
身体が一度地面を離れ、一秒ほどしてから地面にぶつかった。うまく転がることができずいきおいを殺せないまま地面を引きずられた。右、二の腕の皮が全部剥がれてしまったような痛み。
うつ伏せに倒れる。手に力を込めても地面を引っ掻くだけしかできなかった。
身体が動かない。
霞む視界の向こうではティーナがいた。どういう表情をしているのか、よくわからない。
「とっとと鍵返せやあ!」
ライナーの怒声。
「……しら、ない……ボク、じゃ……ない……」
震える手で体を支えながら辛うじて応える。
肩が強い力で引っ張られ、仰向けに引っくり返された。組み敷かれる。重い暗闇を背景にライナーの顔が見下ろしてきた。その顔は狂乱した鬼のようだった。
初めて、殺されるという恐怖が湧いた。この身体の奥から溢れてくる冷たいものを、ティーナはナユタを飛んでいたときに感じていたのか。記憶だけなく実感として触れたこれは、心をざわざわと震わせ身体すら支配する。喚き、逃げ出したくなった。しかしティーナを支える存在としてそんなみっともない行動を取ることは許されない。
できれば気が変わって欲しいと願いながら、覚悟を決める。
……わかっている、剣奴で盗賊だったなら逆らう奴に対して暴力を振るうのは正しい行為だ。それが一番手っ取り早く相手を屈服させられるから。
ライナーが大きく右腕を振り上げた。
ああ来るなと思った直後、頬に激痛が走った。奥歯が折れた。ペッと吐き出す。口の中が血だらけで気持ち悪い。
もう一発殴られ、さらにもう一発。
ルカの手は地面に落ちたまま動かなくなった。足から力が抜ける。
「鍵返せっつってんだろ」
「……しら……ない」
ほとんど条件反射のように呟く。掠れきった声。意味はもう理解していなかった。ただティーナに渡さないといけないという意思だけが残っていた。
視力がほとんどなくなった視界で、ティーナが霞んで見えた。表情は相変わらずわからないが、ルカがティーナを見間違えるはずもなかった。なぜかティーナは自分の鎖をまとめて持って立っている。
誰も気付いていない。
ティーナが身を翻してこちらに背を向けた。そしてこそこそと森の中へ入って行く。
逃げた。そう理解したのはまた殴られてからだ。頭の中が空白になる感覚。
鍵はもういらないのだろうか……?
また一発。
「鍵!」
「…………」
口を動かす。言葉は出て来なかった。もう掠れた声でさえ出す気力はなくなっていた。
できるなら、せめてもう一度。知らないと口にできればライナー達の意識をこちらに向けられ、ティーナの逃げる時間が稼げるのに。
また口を動かす。漏れてくるのはおかしな呼吸音だけで、意味を持つ言葉にはまるでならなかった。
痛み以外に身体の感覚がなくなっていたのが、やがて痛みすら感じなくなっていく。
意識は細い一本の糸で繋がっているような危うさで保っていた。このまま死ぬのだろうか。ティーナのために死ぬぐらい構わなけれど、鍵は渡したかった。
義務感だけが眠ることを拒否している。きっと寝てしまえば、ルカはもう起きることはない。
「チッ!」
立ち上がったライナーが苛立たしげにルカを蹴とばした。
地面を転がったルカの左腕はあらぬ方向に折れ曲がっている。腕が折れていた。ルカは呻き声もあげない。
「ライナー、服漁った方が早えよ」
「そうだな。ったく、面倒な」
ライナーがルカから服を剥ぎ取る。
たちまちルカは裸にされ、地面に転がされた。
「……ねえな」
「本当? ちゃんと探したの?」
「ねえってんだろ」
ラザリアに苛立ったように答える。
「本当にトイレに立って引っかけただけか?」
「でも鍵がなくなってるのは事実だぞ」
「どっかに落としたとか?」
三人は頭を寄せ合い相談する。ここまで殴っても知らないと言い通し、服のどこにもない。結果、ルカは本当にトイレに立っただけで、鍵はどこかで失くしたのだろうと結論に落ち着いた。
「なんだよ、人騒がせな」
「どうするよ、アレ」
ロイドがルカを見やる。ボロ雑巾みたいになってぴくりとも動かない。もう死んでいると言われても違和感はなかった。
「ほっとけ。運が良かったら生きてんだろ」
「あたしらのお金が……はあ、こんな大陸こなきゃよかった。ほんと、散々」
「だな。……おい、赤い方はどうした?」
深紅の娘――ティーナがいなくなっていることに気づいたロイドが辺りを見回す。
逃げられたと三人に焦りが湧いた。ルカが死んでティーナに逃げられたら本当に無駄足だ。なんとしても見つけなければならない。
すぐに捜索しようとしたところ、森の中から小さな人影がぬらりと現れた。突然暗闇から出てきたそれに驚いたものの、姿を確認するに至ってほっと安堵の息を吐いた。ティーナだ。
「どこ行ってやがった」
焦らせやがってという怒りの滲んだ、ライナーのドスの効いた声。
ティーナが倒れているルカを見やる。顔は完全に無表情でどんな感情をも窺うことは適わなかった。双子の片割れがボロボロになったにしては冷静だ。もっと取り乱すと思っていたライナーは少し拍子抜けする。まあ大人しい分には構わない。
ティーナの顔の腫れがいくらか引いているように見えた。もう二日ほどは腫れが引かないだろうと思っていたのだが。
再びティーナがこちらを向く。目が合い、背筋に悪寒が走った。
「ルカの殴られているところは見たくないでな。少し席を外させてもらった」
「……今度から勝手に離れるんじゃねえぞ」
言い捨て、ライナーは元の寝床に戻ろうとし、
「あ、ライナー。交代の時間だよ」
「ん……ああ、そうだったな」
見張りのためライナーは適当に木に凭れかかると、仲間達が寝床につくのを見ながら、先のティーナの視線について考えていた。
あの血よりも赤く、炎より燃え盛っていた深紅の瞳の、さらに奥。コロシアムで時々遭った表の世界の化物達と同じ眼をしていた。片腕を失くしていたり盲目だったり、何かしら枷をかけられ、全力を出せない強者。あえて甚振られることを目的に放り込まれた者達。
そんな相手を弱者であるライナー達が甚振るという見世物が一時期流行っていた。見る方はいいかもしれないが、いくら枷の掛かった相手とはいえ、ライナー達には大仕事だった。
油断すればこちらの方が逆に食われてしまう。実際、異常なまでに耐えたあげく剣奴を返り討ちにした奴だっていたのだ。数度、他の剣奴との戦いを見たが、まるで存在そのものの格が違うように思えた。
まさか、あの娘も……。
馬鹿な。ありえない。
ライナーは首を振ると浮かんだ妄想を、唾棄すべき想像だと吐き捨てた。
そのとき、ジャラジャラと鎖を引きずる音が聞こえた。見やればティーナが青い娘――ルカへ近よるところだった。
あれも随分運の悪い娘だ。もうちょっと気を付けていれば痛い目に遭わずに済んだものを。剣奴でいたとき、折檻で殴られることなど日常茶飯事だった。盗賊だったときもだ。だからライナーもやった。そこに罪悪感などなく、ただ奴隷として売っても安くなりそうだとしか思わなかった。
それだけは残念で、もう少し殴る場所を考えればよかったと思う。
ライナーはなんとなしにティーナとルカへ視線を向け続けた。するとティーナがどこからか数枚の葉を取り出す。
「なんだ、それ」
「効果は薄いが怪我を引かせる効果がある」
ティーナはルカに葉をつけながら答える。
「へー、お前は使わなかったのかよ」
「とっくに使った。寝ておる間に腫れが多少引いておった」
「ほう、そりゃあよかった」
これで価値が多少上がっただろうと、ライナーはにんまりと笑みを浮かべる。
「ユウキには感謝じゃな。アレを付けてなければ今頃……」
「ユウキ?」
「独り言じゃ」
辛うじて聞こえる小さな声に反応したら、そげない答え。ユウキとやらが何モノかは知らないが、興味もないのでライナーはそれ以上聞かなかった。
そのあとは黙々とティーナがルカの治療をする。とはいえ何かの葉っぱをくっつけて、蔓を包帯代わりに巻くだけだ。ああいう便利な物があるなら、あとでどこから取って来たか聞き出すか。
そんなことを考えているとルカが身動ぎした。ティーナの治療の手が止まる。しばらくじっとしていたが、ルカの口元に耳を近付けるように頭を下げた。どうやら何か喋っていたらしい。
長い。時間を掛けて喋っている。ティーナが顔を上げるまで結構な時間が掛かった。一体何を喋っていたのだろうか。
「……阿呆め。使うのはルカの方じゃ」
突然ティーナがどこかから取り出した小さなビンを口につけ、一切の躊躇いなくルカに口付ける。
「はあ?」
ライナーの口から思わず間の抜けた声が出た。百合は嫌いではないが、さすがにこの二人では年齢が低すぎる。何かを口移しで飲ませたのはわかるし、どこからビンを取り出したという疑問もあるが、突然の行動に対する呆れに近い困惑が勝った。
ティーナが再びビンに口をつける。一口だけ、今度は自分で飲んだようだ。
「……まったく。私はこれで十分回復したから、残りはルカだ」
そう言うと問答無用でビンをルカの口につけ、中の液体を飲ませる。すると驚いたことに、もう死ぬだろうと思っていたルカの顔がたちまち回復していく。
ようやくあのビンの中身がわかった。
「ライフ・ポーション……お宝じゃねえか、どこからそんなもんを」
ライフ・ポーション自体はそう珍しいものではなく、ありふれたものだ。安価な物ならどこの家にでも一本ぐらいは置いてあるだろう。
だが今使ったものは瞬時に怪我を回復させた。普通は三日や四日とかけて治していくものなのに、あれだけの効果があるなら相当高位のポーションであることは間違いない。
瞬時に効果を発揮する高位のポーションは、家が三つは買えるほどの価値を持つという。
ごくりと喉を鳴らす。残念ながら一本はすでに使われてしまったが、もう一本ないとも限らない。思わぬところから、思わぬ宝が転がり込んできた。
にやあっと笑みを浮かべ、ライナーはティーナの後ろから近づく。
「おい、さっきのライフ・ポーション――」
カチッ。そんな小さな音が聞こえた。
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