第4話:探索開始:You


 部屋の外は長細い通路が続いていた。

 結局あれからしずるは再度着替えることもなく、改造メイド服のまま、部屋を出た。

 僕だけならばとにかく、他人の目に触れたりして恥ずかしくないのだろうか?

 僕が気にすることじゃないと思いつつも、なんだかよくわからないまま持たされた次元銃(?)をコートの内側に隠し、サックを背負って、僕らは二人連れだって、長い廊下を歩く。

 廊下は狭く、二人肩を並べて歩くことはできない。一応僕が前に出て、しずるが後に続いた。

 廊下は緩やかな右カーブを描いていた。

 明かりは天井に敷き詰められた蛍光灯。しかし、進むにつれて、蛍光灯の設置の間隔はだんだんと広がってきた。そう思っていたら、コンクリートの壁も、少しずつ塗装がシンプルになっていく。辺りが暗くなってきた。そう感じ始めたころには、壁の塗装もなくなり、灰色のコンクリートの壁が無機質に続いているだけだった。と思っていると、外壁は石組みに変わった。逆にレトロになって、お金掛かってるんじゃないか、と思った頃には蛍光灯の明かりは全くなくなり、所々にランタンが天井からつり下げられているだけになった。

 ランタンの油変えるの、大変そうだな、と思っていると、突然開けた空間に出た。


 石組みの壁に包まれた部屋のように見えた。

 しかし、扉はどこにもない。

 どこからか湿った空気が流れてきている。

 初めの部屋とは比べものにならない、レトロでぼろぼろの部屋だった。

 石壁には所々こけが生えているようだったし、よく見たら扉は無いのではなく、錆びた蝶番が地面に転がっていた。

 木製の扉が長い年月の果てに腐って消えてしまったのだろう。そんなことを思った。


 廃屋を内側から見たら、こんな風景になるのだろうか?


 時間の経過により、自然劣化したような部屋の有様。

 少なくとも数年は人の手が入っていないように見える。

 けれども、誰も足を踏み入れなかったはずはないのだ。

 この部屋に来るまでの通路も然り。部屋は全体的に暗かったが、壁に掛けられたランタンには煌々と明かりが灯っていた。

 誰かが定期的にランタンの油を変えに来ているのだ。

 こんな所に誰が、どうやって、何の為に行っているのかわからない。

 最初の部屋は蛍光灯が灯っていて、電気が通っているようだったのに、なぜこの部屋は前時代的な油なのか、その理由もわからない。

 推測して、判断する材料は足りない。

 思考が働かない。


 しかし――


「行き止まり?」


 入ってきた場所以外に、扉らしきものは何も無い。

 どうしようかとしずるを振り返るが、しずるは僕の脇をすり抜けるように駆けて、部屋の奥へと走っていく。


「ここ、壁が崩れています」


 言われて近づくと、丸い石のテーブルの壁に隠れてわかりにくかったが、確かにしゃがめば人一人通れるほどの穴が壁に開いていた。

 だが、壁の奥は真っ暗で何も見えない。

 明かりらしきものを、僕らは何も持っていない。さすがに入るのは、躊躇した。


「それと、上にも」


 しずるに言われるまま顔を上に向ける。


 天井はかなり高い。真ん中辺りに蓋らしき物があり、そこから真っ直ぐに梯子が降りていた。

 ただし半分ほどの高さまで。


 ジャンプしてぎりぎり届かないくらいの高さまでしか、梯子は下りてきていない。

 僕がしずるを肩に乗せて、しずるが僕の肩の上に立てば手が届くだろうか?


 どうしようかと考えていると、しずるが手を引いてきた。


「廊下のランタンを分捕ってきます」


 手を離して廊下へと駆け戻っていく。止める暇などありゃしない。

 二分ほど待って、軽快な足音と共にしずるが戻ってきた。手にランタンを大切そうに抱えて。


「さあ、行きましょう!」


 妙に張り切った様子で、崩れた壁へと向かう。

 そして壁の奥へランタンの明かりを向けた瞬間だった。


「ぐるるるる……」


 小さかったが、それは確かに、大型の肉食獣を連想させるような、低いうなり声だった。

 思わず顔を見合わせる。


「や、止めましょう!」


 元気よくしずるは引きつった笑顔で後ずさった。

 何かが、奥にいる。


「と、とりあえず梯子を登って、蓋が開くかどうか、確かめましょうか」

「そ、そうだな!」


 僕もとりあえず元気よく応えて見せた。


「ジャンプしても届きませんので、ユウ、椅子になってください」

「おう!」


 勢いよく応えて、床に四つん這いになる。

 靴――服は色々な種類があったが、なぜかスニーカーが一セットずつしか置いてなかった――が目の前に置かれて、スラリとした足がゆっくりと上に向かっていく。


「あ、言うまでもないと思いますが、上は見ないでください」

「あ、ああ」


 わずかに動揺が漏れてしまった。

 程なく背中に重圧。

 しずるは、思ったほど重たくはなかった。


「ううーん。もうちょっと、届きませんね」


 つぶやきが聞こえた瞬間――


「えいやっ!」


 軽やかな掛け声と共に、しずるは僕の背中を蹴って、飛び上がった。

 何が起きたのか意識する間もないほどの刹那、しずるはあっさりと落下してきて、僕の背に落ちる。


「ぐへっ」


 つぶれたカエルのような声を上げて、僕は地面に倒れ伏した。


「いたたた……」


 しずるが乗っている。

 おしりの柔らかな感触を確かめる間もないほど、僕は突然の攻撃による苦痛に呻いていた。

 何が起きたのかは明白だった。しずるは僕の上で飛び跳ねて、梯子をつかもうとして失敗し、そのまま墜ちてきたのだ。


「な、何をしやがる」

「あはははは、失敗ですね。ごめんなさい」


 悪びれた様子もなく、しずるは愛想笑いを返す。


「ごめんなさい。今度は上手くやるのでもう一度台になってください」

「おいっ!」

「いや、本当に、さっきはちょっとタイミングを見誤っただけなんです。ほら、手は届いてたんですよ」


 さびの付着した手を広げてしずるは笑った。

 なんだか疲れた僕は。


「もう一回だけだぞ」


 つぶやいて地面に両腕をつけた。






 再度のしずるの試みは成功した。

 右手にランタンを持ったまま、しずるは器用に自分の体を持ち上げ、梯子に足を掛けた。

 それを見ていた僕の目には、ばっちりとスカートの中身が映っていた。いや、ランタンの灯りの影になって、よく見えなかったけれども。

 薄暗いスカートの影の奥。じぃーっと目を凝らせば何とかはっきり見えないかと、僕は凝視を続けた。


「うんしょ、うんしょ、です」


 しずるは妙に可愛らしい掛け声を上げながら、一歩一歩梯子を登っていく。そして、天井の蓋に、手を掛けた。


「お? あれ、あれれー?」

「どうした? 開かないのか?」

「ええと……いえ、何とか開きそうなんですけど、片手じゃ力が入りにくくて……」


 右手にランタン、そして梯子を掴んだまま、しずるは左手だけで蓋を押し上げようとしていた。

 ランタンと共に影が揺れる。

 蓋は灯りに照らされ、僕の所からもはっきりと見えた。しずるは顔をしかめて押し上げようとしているのだけれども、蓋はピクリともしない。


「うーむ。どうにか手伝うことができたらな」


 僕自身では、梯子にまで手が届かないし、しずるに台になってもらうわけにもいかないだろう。意外としずるは力があるようだし、上に引っ張り上げてくれたらな、などと思う。


「そうですね。どうしましょうか……」


 ぼんやりとしずるは考え込むように宙へ視線を彷徨わせ、僕を見た。

 僕としずるの視線が絡み合う。そしてしずるの表情が何かに気づいたように閃いて。


「ちょ! 上見ないでくださいっ!」


 慌ててスカートのお尻の方を押さえるのだった。

 でも、ミニスカートなので、あまり上手くは隠れない。


「ああ、大丈夫。ランタンの灯りが強いから、逆光になってて、中は黒くて見えないよ」


 平然と、にこやかに、爽やかに声を返した。


「く、黒って……見えてるんじゃないですかっ!」


 しずるは涙目で叫んだ。


 え? 黒? ホントに黒なのか?

 引っかけるとか、鎌をかけるとか、そんな意図は全くなかった。


「やあ、もう降ります!」


 盛大な自爆をしたしずるに、何やら言い知れない罪悪感を覚えて、僕はそっと目をそらした。

 その時だった。

 小さくがらりと、何かが崩れる音と共に。


「ぐるるるる」


 うなり声が反響して、部屋に響いた。

 ぎょっとして視線を向けると、先ほどの崩れた壁穴の奥から、のっそりと、黒い毛並みの動物が顔を出していた。


「えっ?」


 自分でもよくわからない疑問の声が漏れる。


 犬、のように見える。全長は人間ほどの大きさの、犬。犬にしては大きすぎると思った。犬じゃなくて、狼かと思った。お腹が空いているのか「ぐるるるる」と絶えず喉を鳴らしている。大きめの口の右端からはよだれが垂れて、黒い毛並みを濡らしている。というか、よだれは垂れ過ぎじゃないだろうか。ぼとぼとと、粘性の強いよだれは、糸を引きながら地面に落ちて、水たまりを作っている。眼光も鋭く、薄闇の中でもぎらりと光を放っているように感じられた。明らかにそれは僕を見て――。


「ユウ!」


 しずるの叫び声に我に返った。

 それを合図としたかのように、犬は僕に向けて突進してくる。


「ひああっ」


 我ながら情けない悲鳴を上げて、避けた。

 巨大犬の大きな爪が、僕の目の前の空間を引き裂くように横切っていく。

 間近で見ればなおさら、その犬の異質さが目についた。口は、普通の犬と比べると、明らかに大きい。赤ずきんを飲み込んだ、狼の口のような。都市伝説の妖怪、口裂け女のような。明らかに頭の大きさと比して異常なほど大きな口を、その犬は持っていた。

 僕の目の前の空間を駆け抜け、すぐに振り返る。

 だが、即座に再度飛びかかろうとはしてこず、犬は僕を威嚇するように大きく口を開いた。薄暗い中、鋭い犬歯がわずかな光を集めて放つ。口の端から絶え間なく零れるよだれが、より一層、その生き物のアンバランスさを増強させているようだった。


 ――もはや僕は、それを『犬』とは、呼べなくなっていた。


 犬なんかじゃない。犬とは別の、生き物だ。

 犬と聞いて連想されるような、人懐っこさや従順さなど、この獣には欠片も見られない。


「ユウっ!」


 しずくの声が、もう一度飛んだ。

 声は僕の頭の上から聞こえてきた。

 僕は振り向けない。

 しずくの声に、一瞬、獣の視線が僕から外れたようにも思う。

 けれども僕は外せない。一瞬でも視線をそらしてしまえば、刹那。自分が、あの大きな牙によって狩られている。そんな姿が容易に想像つくのだ。

 しずくは梯子の上にいる。そこまでは、獣の足も届かないだろう。そのことだけが、唯一の安心できる要素だった。

 けれども、逃げ場はない。

 視線をそらさずに見続けたからと言って、何も変わらない。僕の視線には、相手の動きを留めるような、特別な力などありはしない。そう遠くない未来、いや、次のこの瞬間かもしれない。獣は僕に襲いかかるだろう。

 走っても、獣の方が圧倒的に足が速い。

 元来た道を逃げ戻ろうにも、すぐに追い付かれてしまう。

 僕には武器がない。

 コートの内ポケットに入れてある未来銃にはエネルギーの残量がない。




 ――それからの時間を、僕はよく覚えていない。

 数分、いや、分にも満たない、本当に短い瞬間だったのかもしれない。

 意識に留めておくことができないほど、状況が目まぐるしく変化し、脳内での整理が追いつかない。


 飛びかかってくる獣。足を滑らせ、倒れる僕。獣が僕の頭上を通りすぎる。獣の腹に一房だけ見える白い毛が、やけにくっきりと目に焼き付いた。しずるの悲鳴。何かが割れる音。視界が一瞬暗くなり、獣の絶叫が響き渡る。顔を上げると、燃える獣の頭。だが、獣が頭を地面にこすりつけると、あっさりと炎は消えてしまう。その間に僕は何とか立ち上がり、何か武器になるものはないかと辺りを見回す。目についたのは、しずるが地面に置いたままのバッグ。大きく膨れあがっているように見える。持ち上げるが、意外と軽い。これじゃ、ダメだと手を放そうとしたその時、再び獣の咆哮。咄嗟にバッグを持った右手を振り上げる。右腕に異様な圧力が掛かり、あっさりと手を離してしまう。右腕に釣られるように、僕は地面に転がった。そして獣もまた、バッグと絡み合いながら地面に倒れた。獣の体が小さくバウンドするのが、妙にスローモーションに見える。その上に――――


 梯子から飛び降りたしずくが、落下した。


 ぐちゃり。


「……あ、イヤな音がしました」


 妙にあっけらかんとした物言いで、しかしどこか引きつった表情で、しずるは獣の上に跨ったままつぶやいた。


 僕は、何が起きたのか、混乱して、唖然として見ていた。


 獣の体は、それからしばらくはピクピクと四肢を蠢かせていたが、程なくそれも緩慢となり、止まった。


 薄暗闇の中、ランタンの灯りに照らされて、獣としずるの姿が浮かんでいる。

 しずるの下の、獣の顔。

 妙につぶれている。


「……し、死んだのか?」


 僕は起き上がり、恐る恐るとしずるに近寄っていく。

 しずるも僕を見て、微笑んで、膝の埃を払う仕草をしながら立ち上がった。

 しずるの左膝は、妙に濡れていた。膝についた雫が、払う仕草につれて、飛び散る。しずるは左膝を払った左手の平を見つめて、顔をしかめた。

 やや不機嫌そうに口を歪め、僕に近づき、


「頭を潰されても動く物は、生き物じゃありませんよ」


 よくわからない哲学っぽいことを言いながら、左手の平を僕の服にこすりつける。


「……何をしている?」

「手が汚れたので拭こうかと思いまして」


 僕の服で。


 何か、ツッコミを入れようかと思った。

 きっと、それが僕のキャラで、そしてしずるもそれを期待しているのだとわかっていた。


「自分ので拭けよ!」とか、「僕ので拭くなっ!」とか、どちらでも良い。どちらかを言えば、言ってしまえば、それでいつも通りの、僕らの会話なのだ。僕がしずるの存在を知って、主観ではまだ、一時間も経っていないと思う。けれどもこの短い時間で交わした会話から、僕としずるはこんな関係なのだと、わかっていた。


 しかし僕の口からは、何も言葉は出てこなかった。


 沈黙する僕を見て、しずるは不審そうに、目を細めた。眼鏡の奥の瞳が、僕の心中を見透すように輝いていた。

 その奥に、彼女が何を見たのか、僕は知らない。

 けれどもしずるは、何か深い物を吐き出すように、諦めたように、落胆したように、深くため息をついた。


「……本当に、記憶ないんですね」


 散々確認した事実だ。


 しずるが言いたいことは、多分わかる。

 しずるの知っている僕ならば、この場面で沈黙などすることもなく、簡単にツッコミを入れることができたのだろう。

 今の僕ではない、未来の僕ならば。


 戦士だったという。

 二十四歳だったという。

 正直、しずるの話は、きっとでたらめだらけで、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか、まるでわからない、けれども。


 ――今の僕にはできない。


 七年で、何が変わるのか、なんてことも思うけれども。


 しずるの右手。僕のシャツについた汚れ。

 それはきっと、頭を潰された獣の体液。

 血とか、よだれとか、脳漿だとか、そんな感じの物。


「とりあえず、着替えに戻りませんか?」


 あっけらかんと微笑むしずる。

 動物とはいえ、獣とはいえ、生き物を殺しておいて、平然と何事もなかったように当たり前に振る舞えるしずるを見て、僕は正直引いていた。

 しかし、戦争云々が本当ならば、生物の死など、それこそ日常茶飯事のことで。未来の僕にとっても当たり前のことで。しずるの知る僕は、きっとこんなことじゃ、引いたりしないのだ。それが、平和ボケした十七歳の『今』の僕と、二十四歳の『未来』の僕との最大の違いなのだろう。


「そうだね」


 僕は一言だけ答えて、元の通路へと足を進める。


 ――短い返答。

 震えているように、聞こえなかっただろうか?

 強がりのように、聞こえなかっただろうか?

 不自然に、聞こえなかっただろうか?


 薄暗い部屋を跡にしながら、ずっとそんな言葉が、僕の思考を支配していた。


「あ、ちょっと待ってください」


 通路に入ろうとした僕を、押し止める声に振り向く。

 そしてぎょっとして、目を見張った。

 しずるが警戒して、部屋の中央を見ていることに気づく。

 部屋の中央。その上部には天井から降りてきた梯子がある。そして、梯子の下にはしずるが潰してしまった獣の死骸がある。


 ――獣の死骸が、発光していた。


「な、なんだ?」

「なんでしょう……まさか、何か危ない元素とか、放出してるんでしょうか?」


 光は紅い。

 ワインの色にも似た、濃い、アカだった。

 赤。紅。クリムゾン。

 全身がぼんやりと光を帯びて、そこから、小さな粒子がいくつも風に煽られるようにふらふらと浮かび上がっていた。


 ざっと、足を滑らせながらしずるが死骸へと近づいていった。


「お、おい」


 慌てて僕も、追う。


 死骸の光は、少しずつ膨れあがってきているようにも見えた。

 だが、近づくにつれ、少し違うと気づいた。

 全身が等しく発光しているように思えたのは勘違いで、それはいくつもの光の粒子の集合体なのだとわかった。

 粒子はゆっくりと、少しずつ獣の体から離れるように、空気に溶けるように広がっていく。

 光が広がるにつれて、


「小さくなってます……」


 そう。獣の体も、小さくなっていった。


「なぜ!」


 思わず声が上がる。

 一種のツッコミだ。

 しずるによる、獣殺害ショックも治まり、調子を取り戻してきたのだろうか、などとどうでも良いような言葉が頭の中に浮かぶ。

 ツッコミにしては精彩に欠けて、面白くも何ともないけれども。


 僕らは足を止めて、獣の体が少しずつ紅い光の粒子へと変化していく様子を見ていた。

 これは一体、何の現象なのだろう?

 獣の死骸が、何か目に見えぬほどの虫に喰われて、喰って血肉を得た虫が、そのエネルギーを使って発光している――のだと考えてみる。

 そんな虫が存在するのかどうか、僕の知識には無いが、まず現実的にありそうな状況だと思った。

 しずるも先ほどまでの余裕のある表情を消して、真剣な目でそれを見ている。

 獣の体から、紅い光が離れていく。

 紅い光はゆっくりとまとまって、宙に浮かんでいく。

 跡に残されたのは、色彩を失った獣の体。

 一瞬の静寂の後、獣は灰のように、形を失って崩れてしまう。

 びくりと、しずるの体が震えたのがわかった。その手が、何かを探すように動き始めたのを見た。しずるの右手が、僕の左手に触れるのを見ていた。


 光に目を戻すと、宙に浮かんだそれは、やがて僕らの目線の高さで留まった。

 そしてしばらく戸惑ったように、その場で静止続けていた。


 僕はじっと、それを見ていた。


 瞬間――――紅い光に、見返された。


 しずるの右手を強く握って、僕は駆けだした。


 なぜか、見られたと感じた。

 悪意も、善意も、意志らしき物は何も感じなかったが、なぜか見られたと思った。

 直後、体の底から、獣と対峙した時にも起こらなかったほどの恐怖が湧いてきて、僕は逃げ出した。


「ユウっ!」


 僕に手を引かれるまま、しずるもすぐに反応してくる。


「あれはおかしい。なんか、変だ」


 理由にならない言い訳めいた言葉を返しながら、僕は走る。

 だが。


 背後から抱きすくめられるように、僕としずるの体を紅い光が包んだ。


 間近に見ても、それはただの光のように見えた。

 光の中心には何も無い。

 光はただの光だった。

 それらは瞬く間に僕らの体を包み込み――――ふっと、消えてしまった。


「な、なんだ?」


 僕の足は止まる。

 しずるも止まり、その場で跪いた。


 消えた。


 どこに?


 僕の、僕らの、僕としずるの体の中に。


 ぞわりと、背筋がざわめいた。

 悪寒がした。


 いや、むしろ体は、どこか温かく、熱を帯びているように――。


「何が、起きて――?」


 混乱して思考が追い付かない。言葉が意味を成さない。


 しずるを見る。

 どこか熱に犯されたように、表情を赤らめながら、潤んだ瞳で僕を見上げて、しずるは言った。


「ご、ご主人様。体が熱いの……」


 ギャグだと気づき、僕は無言でしずるの頭に拳を叩き落とした。

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