第3話:目覚めの部屋:You

 流水に乗って、どこまでも流れているのだと思った。

 すべてを、思考すらも流れに任せて、どこまでもどこまでも、まだ見ぬ刻の地平の果てまでも流されていくのだと、想っていた。

 流れが変わった。

 そう感じたのは、いつの頃だろうか。

 流れが速すぎて、始めにそう感じた瞬間は、遠く過去の闇に流され消えてしまい、捉えることはできない。

 ただ、ずいぶんと昔のことだと、おぼろげな意識の奥で感じるだけだった。

 流れを変える力は、その身を、意識を、思考を均一に引っ張る。

 物質に掛かる重力のように、絶え間なく一定に。

 意識に掛かる時の流れのように、単一のベクトルをもって、遙か未来の彼方へと、引き寄せようとしているかのように。

 それを、囚われたと、感じ始めたのはいつの頃だろうか。

 絶え間なく均一に掛かる力は、あまりにも普遍的にすぎるが故、本来存在など意識されない。

 意識されない故に、囚われているなどという思考が浮かび上がってくるはずがないのに。

 けれども、囚われていると感じてしまった。

 重力に。

 時の流れに。

 どこまで流されていくのだろう。

 どこへ辿り着くのだろう。

 辿り着く果てなど、存在するのだろうか。

 けれども、重力にしろ、時の流れにしろ、引き寄せられているからには、どこかにその源があるはずなのだ。


 ――――その、果てに。

















 ………………………………まぶしいと、感じた。


 目を開くと、空間のあまりの白さに、混乱した。

 瞬きを繰り返すと、次第に白さが薄れ、灰色の部屋の輪郭がはっきりと映ってきた。

 全体的に灰色の部屋。壁紙には何やら細やかな文様が描かれているようだが、天井は高くてよく見えない。眠っている僕の頭の上の方から、ゴオンと低い音が絶え間なく響いてきている。空気を深く振動させる、体の芯に響くような重低音だ。振動が何やら妙なところを響かせているのか、胸の下辺りから不安な気分が浮かび上がってきた。


「な……な、んだ、ここ?」


 混乱する声と共に体を起こす。

 ひどく重たい。

 ぐぐぐっと、全身から擬音が響いてきそうなほど、力を振り絞って何とか起こす。


「なん、だこれ?」


 首を傾けるのすら、つらい。

 だが、一つ息を吐くと、不意に全身を縛っていた力が抜けて、楽になった。

 かつて感じたことのない不可思議な感触に戸惑う。


「本当に、何なんだ」


 疑問の言葉を繰り返し、僕は改めて周囲を見回した。

 全体的に灰色の印象を持つ部屋だった。

 広さは二十畳ほど。わりと広い。

 全面に張り巡らされた壁紙はどこにでもあるような目立たないもので、色を除けば普通の民家の一室のように感じられた。

 ただし、窓はない。

 入り口も、奥に小さな木製の扉が一つあるだけ。

 置かれている物も、多くない。

 右側の壁にクローゼット。

 僕が寝ていたベッド――――……ベッド?


「なんだこりゃ?」


 金属光沢を放つ、楕円形に長細いお椀の上に、僕は寝ていた。

 下は柔らかい。だからといって、寝具に包まれている訳ではなく、弾力のあるゴムよりもやや柔らかい謎の物体。力を込めて抑えれば、ほんの少し沈み込む。どことなく暖かみを感じさせる謎の物質は、僕の肌にぴったりと張り付いてくるように感じられた。

 楕円形のお椀の頭――つまり、僕の頭が置かれていた方――からは僕の腕ほどもあるパイプが背後に伸びていて、部屋の隅にある円柱に向かっていた。円柱は、部屋を貫くように床から天井へと伸びている。やや灰色がかった黒。絶え間なく聞こえてくる低い音は、どうやら円柱の中から響いてきているようだった。

 柱から伸びているパイプは二本あった。

 一つは僕の寝ていたお椀。もう一つは、僕のお椀の隣に寄り添うように置かれている、深い灰色の縦に長細い卵状の謎の物体に。


 すぐに想像がついた。

 隣の長細い卵状の物体。

 その文様は上半分と下半分、きっちりと分かれて描かれていたから。

 上半分と下半分、たぶん分かれるんだろうなーとか。

 あれは僕が寝ていた物と同じで、ベッドで、多分あの中に誰かが寝ているんだろうなーとか。

 同時に疑問も浮かんだ。

 あの中に寝ているのは誰だとか。そもそも何で寝ているのかとか。僕のベッドの上半分はどこへ消えたとか。

 考え、思いながらベッドから降りた。

 ペタリと、素足が床に着く。

 少し冷たかった。

 ていうか、裸だった。


「……何で裸っ!」


 声を上げて、すぐに目についたのはクローゼットだった。

 着るものを求めて、クローゼットへと走る。

 扉の取っ手に手を掛けた、瞬間だった。

 ピッと、小さな電子音が鳴り響き、クローゼットの上部から機械音が流れ出した。


『使用登録者確認しました。ただいまより解凍を開始します…………3……2……1……オープン』


 機械音の終了と共に、白い蒸気がクローゼットの下から漏れ始めた。

 プシューっと、何かが漏れる音。

 と同時に僕の手に掛かっていた抵抗が消え、がたんと音を立ててクローゼットの扉が開く。


「な、ななな何だ?」


 意味がわからず、警戒して取っ手から手を離し、腕を上げて構える。

 しばらくすると蒸気の噴出は終わり、音もしなくなる。

 目の前には、何の変哲もないクローゼットがあった。


 ――何の演出だ?


 さっぱり意味がわからない。

 混乱したまま、恐る恐るクローゼットに近づく。

 近づいても、何も起きなかった。

 指を伸ばして取っ手をつついてみるが、堅い感触が返ってくるだけで何も起きない。

 クローゼットの中は、普通に服が架けられている。見た感じ、男物と女物が半分ずつ。種類も豊富だ。どこにでもあるような洋服から和服。夏物から冬物。デザインは男物も女物も、落ち着いたシンプルな物が多いようだった。流行的には僕が服にそれほど詳しくないこともあってよくわからない。しかし、手で触れてみると、どれも肌触りがよく、なんとなくどれも高級品なんじゃないかと思った。

 タンス(取っ手に触れる時、わずかに躊躇したが何もなかった)を開けると、下着も数種類そろっていた。

 きちんと畳まれた女性ものの下着を、顔を赤らめつつ出来るだけ見ないように男物の下着を漁る。

 全体的に黒っぽい色で纏めて、最後にロングコートを羽織り、何とか息をついた。


 そして、改めてもう一つの、卵形のベッドへと向かっていく。

 クローゼットの中の男物の服は、どれもあつらえたように僕にぴったりだった。

 ならば、女物の服は、必然的にもう一人の人物向けに用意された物と考えるべきだろう。

 見た感じ、女物の服は、男物の服よりもやや小さめに感じられた。ならば、あのベッドに眠っているのは僕よりやや小柄な女の子。

 それに、ちらりと――うん、本当にちらりと、目に入った下着の、ブラのサイズを見るに。


「……なかなか期待できるかもしれない」


 ――何をだ。



 自分自身にツッコミを入れつつ、僕は卵状の物体の前に立った。

 上半分の表面は、のっぺりとした金属光沢を放っている。中は見えない。どうやって開けるんだろう。疑問に思いながら手を伸ばしていく。表面に触れた瞬間、金属の表面に一つ、波紋が走った。


「は?」


 驚いて手を離す。

 だが、波紋は僕が手を触れた場所から次々と溢れ出るように、広がっていった。

 波紋が走るにつれ、中を見透さない黒い光沢を持った色が、ゆっくりと薄れていく。

 時間にして三十秒も経っていないだろう。

 次第に透明度を増していく表面から、中の様子が透けて見えてくる。


 ――女の子の、顔が見えた。


 長いボリュームのある黒髪の少女。

 十代の中頃、だろうか?

 幼い顔立ちは、非常に整っていた。

 すらりと伸びた手足に、くびれた腰、そして何より、整った形の胸は、僕の期待通りだった。


「……じゃ、なくって」


 僕は慌ててクローゼットに走り、適当に大きめのコートを取って戻ってくる。

 そして大きく広げながら、卵状の物体の上に掛ける。

 それからどれくらい時間が経ったろうか。

 ジリジリと時間を待っていると、不意にベッドの上に掛けたコートが支えを失ったかのように落ちた。

 コートの輪郭が、人の形――特にツンと上に盛り上がった胸の形(しつこい)――を顕わにする。

 そして二秒。


「何ですかこれはっ!」


 人の形が勢いよく起き上がった。

 コートがずれて、少女の肩までがむき出しになる。本能的にか、少女はコートを端を押さえて、それ以上ずり落ちるのを防いでいる。

 少女は辺りを見回し、すぐに僕と目が合う。

 一瞬訝しげな表情をして、すぐに驚愕に見開いて、戸惑ったように口を開く。


 口から言葉が零れる。


「……ユウ?」


 僕の名前が。






     ※






 閑話休題。

 等々。

 インターミッションを終えて、着替えた少女と僕は互いが寝ていたベッドに腰掛けて、改めて向き合った。

 ベッドの中の謎の物体は、服を着て座ってみると妙に座り心地が悪く、気味悪く感じた、が少女は何も感じていないように平然とした表情で僕を睨むように見ている。縁の太い、どこか野暮ったい印象の眼鏡が、少女の視線の圧力を余計に増しているように思われる。僕は出来ることならば床に座りたい、などと思っていたが少女が平然としているので、半ば意地になって平気な表情を保っていた。何より、自分だけ床に座ってしまうと、少女より目線が下になってしまう。なんとなくそれは屈辱的なものだと感じるのだった。


「それで……どうしてあたしがユウと一緒にこんな所にいるんですか?」


 ――しかも裸で。


 声ならぬ声を聞いたような気がした。

 少女はスラリとした足を伸ばして、組んだ。どことなく態度が偉そうだ。胸を見たことを怒っているのだろう。

 気に入った服が無かったことも不機嫌の原因だろう。散々文句を言いつつも、少女が最終的に選んだのはシンプルな紺のワンピースだった。どことなく子供っぽいデザインで、少女を年齢以上に幼く見せているようにも思えた。ゆったりとした作りのため、童顔に似合わぬ大きな胸――素直に「巨乳」と言えばいいと思う――が強調されないことも、決め手の一つだったのだろう。

 少女からは不機嫌以上に敵意のようなものすら感じられた。

 そのことから、僕と少女は元々それほど仲が良くなかったのだろうと思われた。

 だが少なくとも、敵意を持たれる程度の関係性はあったとも考えられる。

 少女は僕を睨みつつ、僕に回答を促そうとする。とはいえ、僕から少女の問いに対して言えることは、何も無いのだった。催促の言葉を放とうと、少女が口を開いた瞬間、僕は機先を制すように、言葉を発した。


「その前に、君は僕の名前を知っているみたいなんだけど、僕は君を知らない。君は一体誰なんだ?」


 その答えに少女は一瞬戸惑ったように表情を歪めた。そしてすぐに、元の睨むような視線に戻る。


「何を言ってるんですか? ユウ。ふざけてないで…………」


 ふいに言葉が止まり、少女の視線が宙を泳いだ。


「……ユウ…………そういえば…………ずいぶんと…………。若い? う……ん?」


 視線が緩まり、困惑した表情に取って代わられる。

 目が細められ、少女は僕をよく見返そうと、眼鏡の位置を直す。


「え、と……なん……どうし、て……あたしと、同じくらいに……あれ? ん? えっと…………本当に、ユウ、です?」


 そうしてどういう事か、疑問系で僕に聞いてきた。

 何を言うのだろう。

 僕は「ユウ」だ。

 生まれてこの方それ以外の名前を持ったことはない。


「ええと、あなた、ユウ、ですよ、ね?」

「そうだけど?」

「…………ええと、あなたの、プロフィール、教えてくれますか?」


 プロフィール?

 わけのわからない問いに戸惑いながら、僕は考える。

 考えながら、口に出していた。


「名前はユウ。坂崎優羽。神室高校二年。軟式テニス部所属。ええと……」

「……もう、良いです」


 なぜだか少女は深いため息をついた。

 そして忌々しそうに僕を睨んだ後、再び大きくため息をついた。

 人のプロフィールを尋ねておきながらため息なんて、なんて失礼な。


「それより、君こそ教えてほしいな。どうして僕が、君と二人で、こんな所にいるのか? 用意された服は僕らにあつらえたように合った。つまり、この部屋は、僕ら二人の為にそろえられた場所だ。だからこの部屋を用意した何者かにとっては、この状況は正しい、正常な状況であると考えられる。君が知っていればと思ったが、君の様子からはそれは無理なようだ。けれど、僕を知る君は、僕以上にこの状況を解析する情報を持っているだろう。なぜ、君と僕なのか? 君の知る、僕と君の関係性から、それを推察できないか?」


 一気に畳みかけるように問うと、少女はぽかんと、口を開き、次いで呆れたようにため息をついた。


「…………この男は…………変わってないです。もう、まったく…………どうしてこう、ああなんでしょう?」


 脱力したように肩を落とし、だが少女はすぐに顔を上げた。


「良いでしょう。あなたはどうやら、あたしの知るユウのようです。あたしの知るユウの事を教えてあげます。けれど、覚悟はできていますか?」


 そして脅すように下目使いで僕を見てきた。

 僕はゆっくりとうなずく。

 少女はゆっくりと語り出した。


「まず、あたしの知るあなたは、二十四歳の青年でした」

「ちょっと待て!」


 思わず止めた。


「ど、どういうことだ!」


 慌てて自分の体を見る。

 記憶では十七歳。高校二年生。体は、うん、鏡がないからはっきりと断言はできないが、高校生くらいの体だと思う。記憶上のそれとも、目立った差異はなく、違和感もない。それに少女も言ってたではないか。目の前の少女と同じくらいの外見だと。それだと、中学生くらいになるんじゃないかと思わないでもなかったけれども、それは少女が年齢より幼く見られる、ということなのだろう。きっと。


「黙って聞いててください。今から説明します。ええと、あなたは、二十四歳の青年で、戦士でした」

「せ、戦士?」


 訳のわからない言葉に思わず疑問が口をついて出てしまったが、少女は今度は何も言わなかった。

 それどころか、妙に優しげな表情で疑問の続きを促すように言葉を止め、僕を見た。

 今まで睨むような視線しか向けられてこなかったからか、その暖かい視線が気持ち悪かった。


「戦士って……戦争でも、してたの?」


 今の日本の平和惚けした様子からは、戦争なんてまったく想像もつかなかった。

 しかし二十四歳といえば七年後。何が起こるかわからないくらいの時間は経っているように思う。

 日本の周辺も、某半島とか、隣国の大国とか、色々と不穏当な状況もあることだし、まったくありえない話でもないように思った。

 未来の自分――いや、過去か――に何があったのかわからないけれども。ひょっとするとどこかの国の外人部隊で傭兵をやっている、なんて未来もあるのかもしれない。思っただけで、ありえない空想のように思うが、想像だけならば、自由に出来る。


「そうですね。世界が滅びるか滅びないか……その命運を掛けた戦争でした」


 …………レベルが違った。


「その戦火の下で、あたしたちは出会いました。時に意見の対立からいがみ合ったこともありました。しかし、互いに互いの能力だけは認めていて、いつしかそれは『信頼』から『親愛』に変わり、ついには結ばれることになるのです」


「…………は?」

「最後の戦いに赴くあなたは、ベッドの上であたしに言いました。『帰ったら、結婚しよう』――」

「それは死亡フラグだ!」

「――――と、隣のメアリーに言ってきたと」

「…………え?」

「『メアリーと結婚した後も、君との関係は続けたい』ともいいました」

「…………ちょっと待て」


 どこの人間のクズだそれは。


「あたしは言いました。『かしこまりましたご主人様』と…………」

「……………………」

「お終いです。この女の敵」

「…………何がしたいんだ君は」

「……面白かったですか?」

「いや、結局君はどこの誰で僕との関係は……」

「わたくしめのことは『下僕』とでもお呼びいただければ……」

「いや……」

「もしくは『雌豚』でも結構です。ご主人様」

「…………メスブタ」


 少女は底冷えするほどの殺意を目に込めて、僕を睨んできた。


「なんて屈辱ですか!」


 自分で振っておきながら怒り出した。


「…………んで、結局君は誰なんだ?」

「しずるです」

「本名?」


 なぜか少女は視線をそらした。


「も、もちろんです」

「……まあ、良いけどな」


 演技なのかそうなのか、冗談なのかそうでないのかさっぱりわからない。ともあれ、自称「しずる」という少女が色々とおかしな性格をしているということだけはわかった。

 それに、他にもわかった――考えたことがある。

 どうやら、僕が記憶喪失だということは、事実のようだ。こんな場所にしずると二人でいる、その理由が何も思い当たらないことから、そのことは事実だろうと、認めてしまってもいいだろう。そしてしずるが、それなりに長い時間――それがどんな形にしろ――僕と何らかの関係を築いていたということも事実のようだ。

 二十四歳だったかどうかはともかく、少なくとも僕が、高校二年生ではないというのも、事実だろう。

 若返ったなどという妄言も、完全にではないが、信じても良いかもしれない。しずるの様子からは、その点に関してだけは、嘘は見あたらなかった。

 だが、その若返りが真実だというのならば、もう一つの問題が浮かんでくる。


「んで、しずる? 僕が記憶喪失だということはいいとして、君の方はどうなんだ?」

「…………え?」


 僕は指摘する。


「二十四歳だったという僕が、十七歳に若返り、その当時までの記憶しか持っていないと同じように、君は何歳から今の年齢に若返りして、何歳分の記憶を失っているんだろうね?」


 僕の言葉にしずるはしばし考えるような表情をして、次いで驚愕に目を見開いて僕を見る。

 お互いに今の状況が理解できない。ということは、お互いに記憶を失っている可能性が高いということだ。

 それによっては、僕やしずるも、七年どころではなく、もっと高い年齢から今に若返っているという可能性も否定できないと思うのだ。

 僕はうなずいて返してやると、しずるは悔しそうに顔を歪めた。


「……だからユウは油断できません」


 顔を背けると、しずるは勢いよく足を振り上げ、ベッドから降りて床に立った。足を振り上げた時、スカートが大きく捲り上がって中が見えそうになった。見えなかった。落胆。

 立ち上がったしずるは、つかつかとクローゼットの方へ足を進める。

 何をするのかと見ていると、クローゼットの手前で振り返り、僕を睨み付けてきた。


「着替えます! こんなダサイ格好してられません。見ないでください!」


 僕は慌てて、背を向けた。


 静かな部屋に響くのは、ゴオンという低い音と、小さな衣擦れの音。衣擦れの音は一定ではなく、複雑にいくつもの音を絡み合わせている。小さな音。大きな音。鋭い音。緩やかな音。故に、音に付随する現実を想像する思考は、瞬く間に生々しい情景を脳裏に構築してしまう。

 すなわち、しずるの裸を。




 ……いや、混乱してるな。




 頭を振って、今のうちに状況を整理しておこう、と思った。



 目覚めたら知らない場所。

 知らない場所で、僕を知っているらしい女の子と二人っきり。それも可愛い、美少女。

 とても可愛い美少女。

 大切なことなので二回繰り返してみた。

 記憶喪失であることに自覚はない。

 どうやら本来の僕は、もっと年長らしい。

 そして肉体年齢は若返っているように見えるらしい。

 少女もおそらく記憶喪失で、自覚無し。十代中頃に見えるが、本来の年齢は僕同様、もっと上、のはず。

 少女の知る僕は、二十四歳で、それは少女が今の年齢に見える頃の僕の年齢、ということ。

 本来の僕と彼女の年齢差は、七歳前後。しかし今は同じ歳。

 ということは、僕と彼女は共に十七歳ごろに若返りさせられた上で、この部屋で眠っていた。記憶の喪失がイレギュラーなのかそれとも想定された事態なのか、それはわからない。けれども、肉体年齢に伴う形で、それ以降の記憶はすべて吹き飛ばされてしまっている。


 何なんだ。


「もういいですよ」


 背後からの声に振り向くと、思ったよりも近い場所にしずる、もとい、ミニスカメイド服が立っていた。

 ヒラヒラのやたらとしつこい、薄い生地のブラックスカートのしたから、伸びた足は黒いオーバーニーソックスに包まれている。白い肌とニーソックスの間には幅広のレースのフリルが着いている。白と黒の対比がひどく扇情的だった。レースはリボンで止められていて、まるでガーターベルトっぽい。腰の部分は肌に密着して、レオタードのようにボディラインをくっきりと出している。逆に胸元はゆったりとした生地に包まれていて、そこにある双丘の存在感を否応なく強調していた。


 絶句。


 しずるはやや体を前に傾けて、両胸を右腕で押し上げて見せた。


「……え、エロい」


 思わず正直な感想が口から漏れて出た。

 しずるはうっとりと微笑んだ。

 眼鏡の奥の視線が怪しげに輝き、僕を舐めるように見つめてくる。

 眼鏡のフレームも変わっていた。先ほどまでの野暮ったい太いフレームから、細めの、インテリジェンスな印象を与える物へと。

 それだけで何か、別の生き物に変化してしまったような印象を受ける。


「な、何のつもりだ!」


 僕は慌てて、しずるから逃れるように距離を取った。今までのしずるのようすから、いきなりこんな、一言で言えば「男を誘うような」格好をする理由が何も思い当たらない。

 何かの罠に違いないと思った。

 しかし少女は穏やかな表情のまま、口を開く。その目には親愛の情が溢れている、ように見えた。恐ろしいことに、本当にそう感じられた。


「いえ、本当の事をいいますと、実はユウは、あたしの親友と付き合ってたんですね。でも、親友とはつい最近――――あたしの記憶でいう、つい最近、別れてしまった。仕方ない別れでした。第三者的に見れば、どちらが悪いとも言えない。けれど、あたしは彼女と親友でした。ですから、ついユウに対して厳しい態度を取ってしまったんです。申し訳ございません」


 深々と丁寧にしずるは頭を下げた。

 恭しい態度。

 僕の体内で、心臓が大きく跳ねた。

 理由のわからぬ脅威に、恐れおののくように。


「そ、そうだったのか」


 なるほど。それならば、初めの喧嘩腰の態度も、わからなくもない。

 その親友という彼女がどんな存在なのか、僕の記憶には全くない。なんだか惜しいような気がした。


「しかし、ならばどうしてあたしとユウが、ここに二人っきりでいるのでしょう? 親友を介さない限り、接点は無かったはずなのです。しかも、ユウの想像が確かならば、あたしの記憶より、本当はもっと時間が経っているはずなのです。こんな場所に二人なのです。ならば、本当の時間軸の、あたしとユウは、当時よりもっと親しい間柄にあったと想像することができます」

「な、なるほど」


 しずるの言葉に納得しながらも、背中に張り付いたいやな予感が消えない。


「思えば、親友の事を除けば、ユウのことは嫌いじゃありませんでした。いや、むしろ好意を抱いていたと思っても過言ではない。親友の彼でなければ――と思ったこともあったように思います。それが、些細な行き違いから親友と別れてしまった。ああ、これで彼との接点はなくなってしまった。どうして別れたりしたのでしょう? すれ違いさえなければ。いえ、最初から、あたしと付き合っていればっ! そんなユウに対する理不尽な怒りが、あたしの中で育っていくのも、時間の問題でした」

「……ん、っと?」

「しかし、数年後、ひょんな事で再会。数年の空白は、あたしの中の怒りを冷ますのに十分な時間でした。お互いに共通する思い出からすぐに意気投合し、あたしたちが引かれ合うのは、自然な成り行きと言えるでしょう。そして結婚。共に暮らし始めたあたしたちは、まあ、それから色々あって、今に至るのです」

「…………それで?」

「…………とりあえず、アピっておこうかと」

 しずるは可愛らしく小首を傾げた。

「…………嘘だろ? その物語」


 ていうか、途中から面倒になって端折っただろ。


 しずるは顔を背けながら言った。

「…………めでたしめでたし」


 思わず、ため息。

 本当に何考えているのかわからない少女だ。思えば七歳差。いや、それもしずるの言葉が正しければという前提か。しかし、それほどに歳の離れた少女と話が合わないというのは、中々にリアルな状況だとも思える。


「胸、好きでしょ?」

「…………いや、好きだけど」

「たまちゃんも胸大きかったもんね」

「…………たまちゃん?」

「あたしの親友の名前」

「そこは本当なのかよ!」


 ツッコミを入れようと思って、なんとなく通じないような気がして止めた。


「ともあれユウ、状況を確認するために、部屋を出ましょう」


 確かに、ここでいつまでも馬鹿話してても状況は解決しないし進まない。

 自然と部屋についた唯一の扉に目を向ける。


「その前に、準備ですね。クローゼットで面白いものを見つけました」


 ヒラヒラと、スカートを風にひらめかせながら――見えそうで見えない――しずるは楽しそうに駆けていく。

 下着の山を掻き分けて、その奥から取り出したものを放り投げてきた。

 受け取ると、意外にずっしりとした感触。

 見ると、つや消しされた金属の固まりが、腕の中にあった。

 見た目は銃に見える。見えるのだが、全体的にのっぺりとした流線型の形はどうにもデフォルメっぽくて、とてもではないが銃口から弾が出てくるようには思えなかった。子供のオモチャなんかで稀に見かけるような『未来銃』っぽく見えたのだ。


「なんだこりゃ?」


「次元銃ですよ。ウィンターフィールド社のFD-21。ユウの愛銃でしたね」

「……は?」

 しずるは僕に背を向けたまま、クローゼットの中を漁り続ける。そして、色々なものを鞄やサックに詰め込んでいく。

「うん、やっぱりこのクローゼットを用意した者は、あたしたちのことをよく知っているようですね。好みはとにかく、必要なものを熟知して、揃えているみたいです……眼鏡の度さえも合ってるって、どういうことでしょう? ひょっとして未来のあたし自身でしょうか? …………好みが変わったのですかね?」


 なんだか意味がわからない。


 次元銃?


 何それ?


 愛銃って何?


 戦争云々は、本当だったのか?


 混乱していると、しずるは振り向いて、首を傾げた。


「そう言えば、高校生まで記憶が退行してるのなら、使い方もわかりませんよね?」


 わからない。というか、オモチャに使い方も何もあるのだろうか。


「とりあえず、右側のつまみを……、そう、それをMinuteまで絞って、ええと、あのベッドに向けて引き金を引いてください」


 言われるままにやってみる。

 が、カチリ、と小さな音がするだけで、何も起こらない。困惑の表情をしずるに向けると、しずるも不審そうに首を傾げて、バッグを置いて近づいてくる。そして、覗き込むように僕の手元の銃を見て一言。


「充電切れですね」


 何を見て、そう断言したのか不明。

 僕は首を傾げて、クローゼットに戻っていく少女を見ていた。


 なぜだか妙に懐かしい感じがした。

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