capture by hands

「はぁっ、はぁっ」

 乱れた呼吸を落ち着かせながら早足で歩く。身を切る風は冷たいが、火照った顔には心地いいくらいだ。

 思ったよりも遅くなっちゃった。先輩、怒ってるかもな。

 いちおうメールはしておいたものの、最初のしか返信が無い。

 急いだほうがいいかもしれないな。

 首に巻いたマフラーを外して鞄にしまい、再び走り出す。目的地はもう見えているのだ。


「スイマセン! はぁっ……。遅くなりました」

 駅ビル内の本屋で立ち読みをしていた先輩を見つけ声をかけると、先輩は読んでいた本を戻してちらりと携帯に目をやった。

「三十五分、か。まぁ予想通りかな」

 その声色は普段通りみたいで。怒っているみたいじゃないようだけども。

「本当にすみません。お詫びにジュースおごりますから」

「ん。じゃ、行こう?」

「は、はい」

 声色は普段通り。だけどちょっと素っ気ないように感じる。

 まぁ仕方ないか。

 俺は気付かれないように小さくため息を吐き、先輩の隣に並んだ。



 憧れの先輩と付き合ってる事が、正直今でも信じられない。

 告白は緊張のあまりガッチガチだった。今思い出すと本当に恥ずかしい。

 噛みながら必死に絞り出した言葉に、先輩はちょっと間を置いてこう答えた。

「うん。いいよ。これからよろしくね!」

 あまりにあっさりと爽やかな笑顔で言われて、正直拍子抜けしてしまった。

 一目惚れして、よく知らない相手に玉砕しにいくほど俺は大胆じゃない。どっちかといえば小心者だ。

 今だって先輩と付き合っていることは、周囲に伏せたままだ。

 とりわけイケメンでもなく、何がしかの取り柄があるわけでもない。

 自信なんて、これっぽっちも無かったんだ。


 先輩とは、中学時代に所属した委員会が同じだった。

 当時先輩は三年生、俺は二年生でその姿を近くで見ていた。

 というよりも、こと委員会において俺は何故か諸先輩方に気に入られていたらしくて、おかげで三年生と下級生の橋渡しみたいなのが俺の役回りになっていた。

 まぁ先輩と近づけたという意味では悪くなかったと思っているけれど。

 でも結局何事も無いまま先輩は卒業してしまった。

 自分の中の淡い思いが何なのか、はっきりしないままで。


 結果的に、一年後に俺達は再会を果たした。

 この高校を選んだ理由に先輩の存在があったのか、と訊かれると、ノーと言える自信は無い。

 それよりも、先輩が自分のことを覚えているかが不安だった。

 でも、その不安はあっさりと吹き飛ばされた。

 入学式から数日、先輩はまだ一人で帰っていた俺を見つけるなり「おー!」と嬉しそうに声をかけてきてくれたのだ。

 そのテンションは変わっていなくて。でも高校の制服に身を包んだ先輩がすごく眩しくて。

 俺は一年以上抱えてきた淡い思いが何なのか、そこで初めて気が付いたんだ。



 どこかお店に行くのかと思ったら、先輩はさっさと改札を抜けて電車に乗ってしまう。

 俺達の地元駅までは三駅ほどだ。地元はこれといって目立つ物が無い、いわゆるベッドタウンであり、逆に言えば俺達が遊ぶようなところも少ない。

 だから普段は地元に戻らずにどこかに寄ることが多い。高校最寄の駅前の方が発展しているからだ。

 それがどこにも寄らず電車の中でも終始無言で。やはり怒っているのだろうか。

 だけど本屋での、そして今もその表情を見る限り怒っているようには見えない。むしろ、何かを考え込んでいるような印象だ。

 話しかけようか逡巡しているうちに駅に着き、ホームへと吐き出されてしまう。

「先輩、ちょっと寄ってきます?」

 それでも改札を出たところで俺は駅前のファーストフード店を指した。

「うーん。たまにはちょっと別なところへ行こうか」

「別?」

「そ。行くよー」

 先輩はそう言って俺の背中を軽く叩いた。


 先輩と中学の校区は同じでも、小学校は違う。なので駅を中心とした場合、家の方向が異なる。

 先輩は異なる方角の、そのちょうど中間の方角へ歩いていく。

 そっち方面にどんな店があったか。ぼんやりと考えてみるがあまり思いつかない。

 思いだしたのは昔ながらの中華料理店くらいだが、さすがにそれは無いと思う。

 そんな事を考えながらも、周囲に注意を向けていた。

 地元だけあって、いつ誰かに見られるか分かったもんじゃない。

 地元連中にはあまり知られたくない。単になんとなく恥ずかしいだけなのだが。



 先輩の歩調が緩んだとき、目の前には小さな噴水のある公園――通称・西公園――の遊具が目に入った。

 西公園には自転車で結構来たことがあった。近くに住む小学生がよく遊んでいたイメージがある。

 さすがに冬の夕方では、人影も見当たらない。

「久しぶりだな。ここ来るの」

「先輩の家、近くじゃないですよね?」

「うん。小学生の頃来てたんだ。あたしも男の子に混ざってボール追いかけてたんだよ」

 ボールを追いかけ走り回る先輩。そもそも子供の頃の先輩がどんなだったか、想像がつかない。

「写真とか無いんですか?」

「家にはあるよー。気になる?」

「そりゃあ、まぁ」

 活発な女の子だったんだろう。そんな当時に出会っていたらどうだったんだろうか。


「さ。着いた」

 先輩は鞄を噴水前のベンチに下ろした。

「飲み物、買ってきますね」

 俺も先輩の鞄の隣に自分の鞄を置き、公園入り口そばの自販機に向かう。

 いつもながら彼女の思考が読めない。怒っているわけでもないわりに、いつもより静かだし。

 自販機でホットの紅茶とカフェオレを買って戻ると、先輩はベンチに座り噴水を見つめていた。

「先輩、どうぞ」

「ありがと」

 先輩はちょっと微笑んで紅茶の缶を手に取り、熱いのかセーターの袖を引っ張り出して包むように缶を握った。

 俺もそんな先輩の隣に座り、缶を開けて一口飲む。

 ほろ苦く甘い後味を残して、吐き出した息が白く広がり消えていった。

「キミと付き合いだして、二ヶ月になったね」

「そうですね。そのくらいになりますか」

 告白をしたのは十二月の頭だった。今は二月。あっという間の二ヶ月だった気がする。


「そろそろ、改めてみようか」

 先輩は真っ直ぐ前を向いたまま語りだした。



「二ヶ月前まで、キミは気の利く楽しい後輩だった。当然、嫌いじゃなかったし。中学の頃を知ってるからかな。落ち着いてきたキミは昔以上に優しくて。きちんとあたしを気遣ってくれて、ホント嬉しかったよ」

 改めて言われると、正直照れる。それを誤魔化すように俺はカフェオレを喉に流し込んだ。


「あたし、本当に人を好きって思ったことなくてさ。みんながその手の話をするの、一歩離れて後ろから眺めてた。友達からキミの事を訊かれたときも、そんなんじゃない、って答えてた。キミの事を気に入っていたけど、それとは違うと思ってたんだ。友達の事を好きっていうのとの違いが分からなかった」


 初めて聞く話だった。告白した時、彼氏がいる、と断られるだろうと思ってたなんて言えない。


「そんなあたしを、キミは好きだって言ってくれた。あたしもキミが好きだけど、どっちなのか分からなかった。付き合って関係が変われば分かるかも、って思った。だから、オーケーしたの」

 そこで先輩は紅茶を一口飲み、白い息を吐き出した。

「そんなんで付き合いだしたこと、キミに謝らなくちゃって思ったの。本当にゴメンね。勝手な言い分で」

「先輩……」


 何と答えていいか分からなかった。思いもよらない独白の内容を整理するだけで精一杯だ。

 無意識に缶を口に運んでいた。が、すでに空っぽだったことに気付く。

 だが外気に冷えた缶を唇に付けたことで、冷静さが戻ってきた。

「だから、関係を伏せよう、って言ったんですね」

 俺の言葉に先輩はうなづいた。

 周りに事実が認知されてしまえば、そんなの酷い、とか言われるかもしれない。だから隠した。俺みたいに照れ隠しじゃなく、本当に。

 じゃあ、先輩の気持ちは……。


「それでね」

 先輩の声。ちょっと震えているように聞こえた。

「今日、キミを待ってて気付いたの。あたしはキミに会うのが待ち遠しかった。早く会いたいって。メールが届くたびに、もうすぐ会えるんだって。待ち焦がれるって、こういうことなんだ、って。プレゼントを待つ子どもの頃みたいなさ」


 そう話す先輩の表情は、本当に子どもっぽくって。


「それでやっと会えて。顔を見て。そばにいて。ほっとしてるけど、やっぱりどっかドキドキしててさ。ううん。今だけじゃない。キミを待ってる時もそうだった」

 そこまで言って、先輩はすっと立ち上がった。

 そして噴水の方に数歩歩いて、ちょっとだけ空を見上げてからこちらに振り返った。


 ふわりと舞ったプリーツスカートから見える生足が視界に入り、目をそらすように視線を上げると、先輩はじっと俺を見つめていた。


「だから、改めて言うね」


 真っ直ぐこちらを見て。その顔はちょっと赤くて。


「キミのこと、好きだよ。一人の男の子として。だから……付き合ってください!」


 想像もしなかった逆告白をした彼女は、今まで見た中で最高に可愛くて。


「俺も好きです。先輩」

 俺も立ち上がって返事をする。すると、

「うん。知ってる」

 最高の笑顔が、返ってきたんだ。


 先輩は怒っていたんじゃなくて、自分の気持ちを整理していたんだな。

 俺もまだまだ彼女の事を分かっていないみたいだ。



「隠すの、もういいと思うんだ」

 公園からの帰り道、先輩が切り出した。

「その必要は無いということですね。まぁいいですけど」

 今更だが、いちいちみんなに報告をするのはちょっと恥ずかしい。

「ま、こんなとこ見られたらどうしようもないですしね」

 俺の片手は先輩に握られている。

「そういうこと。まぁ言いふらす必要は無いけど、否定することも無いじゃない」

 その通りだ。彼女がそう言っているのに、俺が文句言うわけにもいくまい。

「それに、こうしている時間も限られてるしね」

「時間?」

「うん」

 先輩はちょっとうつむいてから言葉を続けた。

「来年の今頃は、もう受験終わってるかな。まぁそれは置いといて。いちおう受験生だし。ゆっくり過ごせるかなんて、分からないから」

 確かにそうだ。たとえ夏休みでも、受験生である三年生は 勉強しなくちゃならないもんな。


「あと一年遅く生まれたかったなぁ。そしたら、こんなに悩まなくて済んだのに」

 心底くやしそうな口調で語られ、思わず吹き出す。

「む。キミは年下彼氏を持つ女子の苦悩を知らないな? いろいろあるんだぞー?」

「例えば?」

「女子は若いってだけで一つのステータスなの。進級すれば後輩も入ってくるし。若い娘に目移りしないか心配で心配で」

「人をどっかのオッサンと一緒にしないでくださいよ」

 みんながみんな、そうだと思われるのも心外だ。

「他にもイロイロ。でも、年下彼氏って羨ましがられるものみたいよ?」

 そんなものなんだろうか。男子の場合、年下が好きとか言うと即行でロリコンとか言われるものなんだが。


「そんなこと言ったら、俺だって心配ですよ。色々と」

 人当たり良く、面倒見の良い先輩の方こそ、と考え始めるとやはり不安にもなってくる。

「あは。そんなこと無いのにー。って否定するのは簡単なんだよね」

 言葉と共に手を強く握られる感覚があった。

「だからさ、時々そういうこともきちんと話しないといけないと思うんだ。言わなくても分かることもあるけれど、言葉にすることも必要だと思う。特にキミは遠慮する方でしょう?」

「う……」

 否定できなかった。実際いまだに呼び方ですら先輩のままの小心者なのだ。周りに気を使うのも、その小心者の裏返しだし。

「あたしに対しては、もっとフリーダムに来ていいよ。キミならいつでもウェルカムだからさ」

 ぎゅ、ぎゅ、と握られる感覚。けして強くはなく。でもその感触を刻みこむように。

「やっぱり手大きいね。男の子だ」

 嬉しそうに話す先輩の手は柔らかくてすべすべしてて。

 正直心臓の鼓動が早くなっていると自覚していた。出来るだけ意識を手から逸らそうと視線を動かす。

 日が落ちかけた街並みは、徐々に暗さを増していく。同時に冷え行く空気が否応無しに暖かいものを求めさせる。

「……あ」

 隣から零れてきた小さな声。

 おそらく、強く握られた感覚に驚いたのだろう。

 横から視線を感じたが、あえて俺は振り向かなかった。

 握り返された感触が心地よくて、何より照れくさかったんだ。


「それじゃ、また明日」

 先輩の自宅前で手を離す。とたんに滑り込む外気が、より寂しさを増加させる気がする。

 お互いに離した手を振って挨拶する。離れがたい思いもあるけれど、どうすることも出来ない。

 出来る限りの笑顔を作り、先輩の家の門扉を背に歩き出す。

 ここから自宅までは歩いて三十分近くかかるけれど、まぁ仕方ないか。

「ねぇ!」

 背中から聞こえた予想外の声に、思わずつんのめりそうになりながら振り返ると、先輩が門扉から顔だけを覗かせていた。

「明日、絶対いつもの電車に乗ってよね! 待ってるから!」

「分かってます。また明日!」

「バイバイ!」

 住宅街の中で何大きな声を出してるんだか。

 でもなんか嬉しかった。やっと、付き合ってるって実感が沸いてきた気がする。

 角を曲がり他の通行人が見えたところで、ふと冷静に戻る。

 もしかして、ずっとニヤニヤしながら歩いてたんじゃないだろうか。

 もし誰かに見られていたら……。

 思考と共にぞわっと寒気を感じて首元に手をやる。

 そういえば、マフラーを外したままだった。どうりで寒いわけだよ。

 鞄からマフラーを取り出して首に巻く。ついでに口元も隠すように。

 暖かいのは、手だけじゃなかったんだな。

 しみじみと思いながら歩く足を速める。

 明日が待ち遠しいと思ったのは、いつ以来だろうか。子どもの頃は毎日そう思っていた気がするけれど。



 ふと今日行った西公園での出来事を思い出す。

 自転車で日々活動範囲を広げていた小学生の頃、仲間と一緒に来てボールを蹴っていた。仲間のサッカークラブの友達とかが来て、十人くらいで遊んでいた。

 そんな時、飛び出したボールを拾ってくれて、仲間に入れて、と言ってきた少女がいた。短い髪を揺らし、男子顔負けの脚力を見せていたのを覚えている。

 あの少女の笑顔と、今日の先輩の笑顔。

 どこか似ている気がするけれど……まさかね。



 翌日、俺が駅へ着くともう先輩は待っていた。

 今までより近い距離で車両に乗り込み、ドアのそばに居場所を確保する。

「明日は楽しみにしててね?」

「明日?」

 まだ今日も始まったばかりだというのに。

 何のことか、と口を開こうとした時に、車内の中吊り広告が目に入る。そこにはバレンタインの文字が。

 ああ。なるほどね。

「もちろん楽しみにしてますよ」

 返ってきたのは笑顔だった。

 それを見てやはり思う。

「先輩、一つ訊いていいですか?」

「ん? 何かな?」

「小学生の頃、知らない男子に混じって公園でサッカーしてませんでした?」

「ふぇ!?」

 まったく予想してない質問だったのだろう。本当にびっくりした先輩を見たのは久しぶりだ。

 それから先輩はちょっと目を泳がせて。小さく息を吐いた。

「思い出しちゃったかー。あそこに行ったのは失敗だったかも」

「それじゃ、やっぱり!」

 今度は俺が驚く番だった。

「そう。あたし達はあそこで会ってるの。中学でキミを見てびっくりしたよー」

 相変わらずサバサバした調子で先輩は言う。

「あの時、転んだあたしをキミが引っ張って起こしてくれたんだよね。だから覚えてたんだ」

「そんなこともありましたね。でも俺はそれが先輩だなんて、全然……」

「まぁ、髪型も違ったしね。でも、そんなこと今は関係ないじゃない」

「まぁ、そうですけど」

 今どうこういって何か変わるわけでもない。せいぜい思い出話がいくつか出てくる程度だと思う。

「今、どうするか。高校生でいられる時間も限られてるんだし。出来る限り濃い時間を過ごしたいじゃない?」

 どこまでもバイタリティに溢れた人だ。でもだからこそ、俺はこの人に惹かれた。

 あまり自信を持つことがない自分だけど。それでも先輩は俺を選んで、受け入れてくれたんだ。


「さ、行こう?」

 電車のドアが開き、先輩はそっと俺の手を引っ張った。

 臆することはない。きちんと彼女の隣に立って。歩いて。


 その貴重な時間を、離さないように。

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