花の熱量

 窓の向こうから蝉の鳴き声が聞こえてくる。そんな外は灼熱の世界だということに何の疑いもない。

 窓際から二列目最後尾の席、直射日光の熱量が伝わるぎりぎりに陣取って僕は一人、ぺらりとテキストをめくる。

 だがテキストの問題量を見てシャーペンを置き、ふぅっと大きく息を吐いた。


 何で夏休みの課題って量が多いかなぁ。


 あらかじめ付箋を貼っておいたページまでパラパラとめくり、もう一度ため息を吐いてテキストを閉じる。続いてノートも閉じて机の片隅に置いておいた文庫本を手に取った。

 昨日の夜のうちに読み終わった物だ。シリーズ物の四作目で最新刊でもある。と言っても刊行されたのは去年らしい。

 まだ記憶に残っている話をペラペラとめくっていると、不意に教室の引き戸が開けられ一人のクラスメイトが入ってきた。僕の待ち人だ。

「お疲れ様」

 僕が声をかけると、ん、と小さく返事をくれてから僕の隣の机にバッグを置いた。

「今日のゼミはどうだった?」

「いつも通りかな。休みが二人いたけど」

 答えながら机に腰掛ける。プリーツスカートから伸びる足につい視線が行きそうになるが。

「そう。こっちも似たようなものだったよ」

 ウチの学校では夏期ゼミというものがある。希望制で有料だが予備校より破格であり、知っている先生が授業してくれるので受けやすい面もあるのだ。

 僕は午後一コマ目の数学ゼミを。彼女は同時間の生物ゼミと午後二コマ目の古典ゼミを受講している。科目によって教室が違うのだが、たまたま数学ゼミは僕のクラスを使用するのでゼミ終了後も教室に残って課題をやっていられ、彼女を待つには都合が良かった。



「これ、読み終わったよ。ありがと」

 そう言いつつ文庫本を差し出す。

 彼女はそれを受け取りカバーが付いたままの背表紙をゆっくりと指でなぞってから口を開いた。

「別に急がなくてもよかったのに」

「急いで読んだつもりはなかったんだけどね」

 用意しておいた言葉で答えると、彼女はやんわりと微笑を浮かべた。

 見透かされてるような気もするけどなぁ。

「前作での伏線の回収もあって、面白かったよ。次も楽しみだね」

「うん」

 返事と同時にうなづく彼女。目を細めてゆっくりとカバーを撫でた。

 お気に入りって言ってたけど、本当に好きなんだな。

 シリーズ通して読んだけど、確かに一気に読みたくなるほど面白かった。まるで僕の好みを知ってるように。というと自意識過剰かな。

 そんな事を思いつつ机の上を片付ける。待ち人が来た以上もうここで課題をする必要はない。それに今日は金曜日で明日、明後日はゼミも無く完全オフ日だ。こんな日くらい早く切り上げてもいいだろう。


 テキスト類を鞄にしまったところで僕のケータイが震えた。メールだ。

 その内容を読んで僕は思わず息を吐き、眉根を寄せてしまった。

 ケータイから視線を上げると、彼女はちょっと首を傾げてみせた。

「あー……明日の夏祭りどうする? てお誘いのメールなんだけどさ」

 どうする? と僕も首を傾げる。

 メールをくれたのはよく遊ぶ男友達であり、返答は正直どちらでも問題は無い。

 僕個人としては夏祭りに行く事は決定項なわけで。問題は誰と行くか、であり、それは今後の関係性の問題でもある。

「んー……どうしたい?」

 彼女の口から聞こえたのは疑問ではなく希望を問うものだった。

 メール画面から視線を動かし彼女の顔を見る。その眼差しはどことなくやわらかで、幾分かの余裕をもって僕を見ている気がする。


 タイミング、なのかもしれないな。


 基本的に僕は目立ちたいタイプじゃない。人前に立って笑顔を振りまける人間ではなく、出来るなら僕の事は話題に上がって欲しくないと思ってる。

 まぁどこかでそういう部分に憧れている自分はいるかもしれないけれど。

 僕はまたゆっくりと視線を外し、手に握られたケータイを見つめる。


 メールをくれたアイツなら、どう言うだろう。集まると思われる面子は、どう反応するだろう。

 軽く茶々を入れられる事はあっても、それ以上にはならない。何度考えても答えは同じ。


 それでも踏み切れないのは、自分が意識しすぎるから。

 変に意識しすぎてテンパってしまうから。

 そして、そんな自分を見られたくないから。

 そんな奴と一緒にいる、と思われたくないから。


 まぁ自分勝手な考えであるということは分かっているのだけれど。


 思考の行き着く先。それは決まった言葉だった。


「一緒に行こうか」


 僕が顔を上げ声をかけると、彼女はじっと僕のほうを見ていた。

 僕を見つめ探るような視線に、僕はちょっと微笑みかける。

 気持ち緊張を伴う視線が交錯し――。


 先に動いたのは彼女のほうだった。

 短く息を吐いてから手を自分の後頭部、一つにまとめられた後ろ髪にやり、ゆったりとした動作で髪を留めるゴムを外す。

 解放された黒髪が綺麗に波打ち、ふわりと背中に落ちていく。

 そんな黒髪が流れ落ちる様子を目にし、僕は息を呑む。

 ここから先の彼女は、クラスで僕だけが知る彼女。

 そしてまた僕は惹かれていく。そういう予感が、いや、確信が僕の胸を躍らせた。



「決めたの?」

「うん。だいぶ待たせてしまったけどね」

 正確には決めていた、と言ったほうが正しいのだけど、まぁいいかな。

 それでも色々うじうじと悩んでしまうのが僕の悪いところだ。性格でもあるから一朝一夕に直りはしないだろうけど。

 ちょっと立ち上がり、僕も自分の机に腰掛ける。そうするとやはり机に腰掛けたままの彼女の足が、視界の端で揺れているのが見える。

 インドア派という彼女の肌は、磁器のように白く滑らかに光を反射しているように感じる。

 いや、磁器なんてまじまじと見た事もないんだけどね。

 触れてみたいと思うのは健全な反応なんだろう。

 あまり彼女には知られたくない部分。なはずなんだけど。

 彼女はずっと微笑のまま。その頬がほんのりと赤く見えるのは僕の気のせいだろうか。


「あれ、もしかして誰かと行く約束してた?」

 彼女にだってお誘いの話が来ているに違いない。そんな声をかけそうなクラスメイトの顔はいくつも思い浮かんだ。

「ううん。わたしも保留してた。返事しないとね」

 そう言って彼女はケータイを取り出し操作を始める。それを見て僕も友人にメールを返す。

『一緒には行けないけれど、出来たら向こうで会おう』

 祭り会場は出店も並ぶし例年通り大混雑になることは十分予想できる。ばったり会う可能性は……考えても仕方なさそうだ。


 友人からの返信は簡潔なものだった。それを確認してケータイをズボンのポケットに押し込み、彼女に視線を戻すとケータイの画面を指でスクロールさせていた。メールは打ち終わったのだろう。

 僕の視線に気付いたのか、彼女は指を止め顔を上げた。

「姉さんに報告したほうがいい?」

 ここで来たか。と彼女の言葉に僕はちょっと眉を寄せる。

「どっちでもいいよ。まぁ……報告したほうが面倒は無さそうだけど、ねぇ」

 いくら家族とはいえ言いにくいものじゃないのか? と言いたかったが何とか飲み込む。

「うん……訊かれたら答えればいいか」

 そういう彼女の表情は苦笑い気味で。おそらく僕もそうだろう。

 彼女のお姉さんには振り回された記憶ばかりが残っている。


 昨年、僕と彼女のお姉さんは同じ委員会に所属していた。先輩たるお姉さんは、まぁアグレッシブな人で、ともすれば行き過ぎてしまうような人なのだが、不思議と憎めず多くの人から好かれていたようだった。

 面倒見が良かったのだろう。その代わりに、色々と首を突っ込む悪い癖もあったのだけれど。

 そんな姉に巻き込まれる第一の被害者は妹たる彼女だった。そして委員会の後輩で彼女と同級生の僕も巻き込まれ――……あまり思い出したくも無いなぁ。


「ちなみに、先輩は今は?」

「帰って来てる。お盆終わるまではこっちにいるって」

 彼女は答えながらやれやれ、と肩をすくめて見せた。

 ある種トラブルメイカーたるあの人には近づきたくないのだが、それ由縁で僕らの関係があるのだと思うと、正直複雑な気分にもなるわけで。

 僕らの関係が知られればすぐにでもメールが来る。それは断言できる。

「姉さんのおかげで姉さんに勝てた。本当に複雑だわ」

 重ねての苦笑い。才色兼備と謳われたあの人に彼氏が出来ないのは、やはりその性格が原因なのだろうか。


「姉さんに気に入られてたよね、たしか」

 見つめられる視線がどことなくジメーっとしたものになった気がする。

「僕のほうには先輩に特別な思いは無いけどね」

 これまでにも何回か繰り返した事のあるやり取り。どうも彼女はそこが気になるようで。

 僕の知る限り、姉妹間の仲は悪いわけではない。確かに首を突っ込みたがるのは先輩の悪い癖だけど、その圧倒的な行動力故に非常に頼りになる面もあるというのも事実なのだ。

「姉さん、ああ見えても結構人の物を欲しがるタイプ。よくわたしの物も勝手に持って行くのよ」

 言葉と共に嘆息が聞こえた。もう諦めてる、といった感じだ。

「兄弟姉妹なんてそんなもんじゃない?」

「そうかもしれない。でもあの人は飽きっぽいし、ちゃんと返してくれない事もあるの。そのくせ外面は良いし。気に入らない事も多いわよ」

 言葉を吐きながら足をぷらぷらさせる彼女。


 普段は冷静で落ち着いた微笑を見せている彼女だが、お姉さんが絡むと結構感情が表に出てくる。

 そんな彼女を初めて見た時は驚いたものだ。たまたま姉妹で言い争うところを目撃したのだが、あの時はなんとも微妙だった。

 先輩はお構いなしに僕に話しかけてくるのに対し、彼女はバツが悪そうに眉根を寄せて僕を見ていた。

 同じクラスになって数ヶ月、彼女が声高に主張するシーンを見たことは無く、そんな困惑した顔を見るのも初めてだった。


 彼女と話すようになったのは、それからだ。

「あの人と付き合ってると、体も時間がいくらあっても足りないわよ」

 開口一番がこんな言葉だった。普段と違い感情を吐き出したセリフ。苛立ち、諦め、かすかな憧れ。

 彼女にとってお姉さんは身近な目標であり、高き壁だったはずだ。

 年の近い姉妹だし、色々比べられてきたのだろう。僕にも年の離れた妹がいるから何となく気持ちは分かる。けれど年が近ければ近いほど顕著に見え、そして感じるものだろう。


 偉大な姉を持つと妹は苦労するものよ――。


 彼女は何かと巻き込まれる僕に対処法を教えてくれた。それだけでなく、僕の見ていない所でも身内として先輩を抑えようとしていたらしい。

 まぁ結局先輩は僕にその事実を耳打ちしてきたわけだ。

 あの時の先輩は確実に面白がっていたなぁ。何を面白がっていたのかは考えたくもないけれど。


 そんな中で、僕達は先輩への共同戦線を敷いた。もしかしたらその行動すら先輩の手のひらの上だったのかもしれない。そんな考えもあったけど、せめて一度くらいは先輩の裏を掻いてみたい、という彼女の手伝いをしたいと思ったのも事実だった。



 などと思い返していると、彼女はケータイを自分の隣、机の上に置いた。友達とのメールのやり取りも一段落を迎えたのだろう。

「今日はもう帰る?」

「ん? もうちょっと待ってくれる? まだ一人返信が来てないの」

「まぁ大丈夫だけど」

 僕の答えに彼女はゆっくりと目を細める。心なしか口角が上がっているような気もする。

 夏休みに入って二週間ほど。それは関係が変わってからの期間でもある。

「ほんと物好きね。姉さんじゃなく私を選ぶなんて」

「まだ言うんだね」

 僕は思わず苦笑い。初っ端から不安が先行しているようで、それはそれで落ち着かない感じがするし。

 はて、どうすれば信じてもらえるのだろうか。

 そういう関係として出来る行動もいくつか思い浮かぶが、果たしてそれで不安解消につながるのか。

 単に僕がしたいだけ、と言えばそんな気もするし。

 そして意識してしまうと視線がそういうところに向いてしまうのは男子たる性か。

 僕は目を逸らすように腰掛けた机から降り、窓際へと向かう。


 焼け付くような日差し。響き渡る蝉時雨。

 彼女と最初にゆっくりと話をしたときも、こんな日だったな。

 あれから約一年。こんな未来は想像していなかった。



 最初にあったのは純粋な興味。普段の彼女と先輩の前での彼女、その違いが気になった。

 そしてなんだかんだと連絡を取り話をし、行動を共にした。

 僕がもっと知りたい、傍にいたいと思ったのは先輩ではなく彼女自身である事。その事はきちんと伝えてあるはずなんだけどなぁ。


 思考の中、近づく気配を感じる。確かめるまでもなく彼女だ。

 その足音はすぐ傍で止まり、僕の背中にそっと手のひらが当てられた。

 触れられた感触はどこかくすぐったく、しっとりと暖かく。

 彼女の手が熱いのか、僕の体が火照っているのか、それとも夏の暑さのせいなのか。いずれも正しくて、間違っているのかもしれない。

「ごめんね。分かってはいるんだけど」

 手を添えられたまま呟かれた言葉。これもいつものことだ。


 気持ちを言葉にすることは、本当に難しい。自分では伝えたい事を表現したつもりでも、聞き手がその通り受け取るとは限らない。

 あの日以来、彼女は今のようにそっと僕に触れる。単純に手を繋ぐよりもその存在を感じる気がするのは何故だろう。

 おそらく彼女自身、自分の中の葛藤をなんとか処理しようとしているからなのだろう。

 言葉通り僕に申し訳ないと思っている。自分を選んでくれた僕を、自分のコンプレックス故に信じ切れない、といったところか。


「うん。僕も分かってる」

 言葉と同時に振り返る。背中に触れていた彼女の手はそのままの高さのまま浮いていた。

 ゆっくりと手が落ちていく。手が描く弧の軌道が途中で止まったのは、僕の手によってだった。

 拾い上げた手を指を絡めて握り返す。言葉で伝えきれないのならば、せめて少しでも行動で示さないと。


 そう、一緒に行こうと決めたのなら、なおさらだ。


「こんなとこ、誰かに見られるちゃうかもしれないよ?」

 わずかに上気した顔をしながらも、彼女は余裕の口ぶりだ。そのあたりは本当によく似た姉妹だと思う。先輩の切羽詰った物言いなど聞いたことが無かった。

「意識、しちゃう?」

 僕もちょっと余裕ぶって言葉を紡ぐ。本当にぶって、だ。

 自分でした行動ながら、鼓動が激しくなっているのは分かっている。おそらく顔も赤いだろう。

「そんなの、確かめる必要ある?」

 彼女は目を細めながら半歩距離を詰めてくる。そのリアクションは想定しておらず、僕は思わず後ずさりしそうになる、がなんとか踏みとどまってみせる。

「当然、意識するよ。当たり前じゃない。でもそれは嬉しい事、逃げる事じゃない」

 今度は言葉と同時に手を強く握り、自分のほうに引きつけるよう動かしてくる。こちらからも距離を詰めろということか。

 僕は軽く息を吐き、半歩の距離を詰める。同時に反対の手を彼女の肩にそっと置いた。

 彼女はさらに目を細め、そっとその瞳が閉ざされた。


 流れ落ちる黒髪。

 閉じられた切れ長の瞳。

 はっきりと紅のさした頬。

 早まる鼓動。

 意識は両手に、視線は桜色の唇に惹きつけられ――。


 瞬間、全て消えた。

 背中に感じていた夏の暑さも、響いていた蝉時雨も、隣の教室から聞こえていた講義の声も。

 ただ三点でのみ、その存在を、熱量を感じていた。


「……ん」

 一点が離れると同時に小さく息が漏れた。

 そして僕達は顔を見合わせ、同時に笑いあった。

 これで何が変わったのか、正直うまく表現出来ないけれど。

 それでも何かが僕達の間に出来た事だけが、はっきりと理解できた。

 そういうのを積み重ねていくしかないんだろうな。

 そう思いながら彼女の黒髪をそっと梳いていく。すると彼女はくすぐったそうに微笑んだ。

 つぼみが開いたようなその顔が可愛くて、再び距離を縮める……が。

「あ……はは」

 世界を破ったのは机の上で着信を告げる振動音だった。他に人のいない教室だと余計に響いて聞こえる。

「仕方ないね」

 彼女はそう言うと僕の手を引いて携帯を取りに行く。手を離したくない気持ちは僕も同じだった。



  ***


 翌日。待ち合わせはごく普通に駅前になった。

 さすがに人出は多く、色とりどりの浴衣がそこかしこに見受けられる。駅前からいかにも祭りという雰囲気が広がっていた。

 メイン会場はゆっくり歩いて十分ほどだ。自然人の流れもそっちを向いている。

「お待たせー」

 声に振り返ると浴衣姿の彼女が目に入った。朝顔だろうか、花があしらわれた浴衣を身にまとい、普段は後ろでまとめている髪も今日はアップにしてある。その髪にはやはり花をあしらったかんざしが見えた。

「どう、かな?」

 僕の前で一回転、とまではいかないけれど体を捻って見せる彼女。いや、正直可愛いのだけれど。

「似合ってるよ。和装がよく似合うね」

「ありがと。でも、それだけ?」

 見抜かれていたらしい。ここで照れても仕方ないのは事実だけどさ。

「見違えた。可愛いよ」

 照れを誤魔化すようにそっと彼女の頭をぽんっと叩く。

「まぁ合格かな」

 そう言って彼女は僕の手を握る。反対の手には籠巾着が揺れていた。

「さ、行きましょ」

 手を引かれて歩き出す。その手はこれまでで一番熱く感じた。


 多分今後もこうなんだろう。表面は押さえつけているけれど、彼女は本来、先輩と同じく行動的だ。

 本人はお姉さんに及ばないと思っている。けれど僕にとってはそんな彼女の方が魅力的に思えた。

 比べられてきたし、これからも比べられていくだろう彼女を、僕なりに見つめ、認め、一緒にいたい。

 いや、理由付けなんていらないか。

 どうせ言葉になど出来ないだろうし。



「おおー!」

「わぁ!」

 お腹に響く振動と共に夜空に大輪の華が咲く。

 僕達は建物の壁を背に花火を見上げていた。

 色鮮やかな花火が次々と打ちあがり、夜空を彩っていく。

 ちらりと横目で盗み見た彼女の笑顔もカラフルに光っている。

 打ち上げられているのは牡丹だろうか、それとも菊だろうか。

 知識として知ってはいても見分けなどつくわけがない。

 時折ハートマークや星型の花火などもあがり、歓声もそこかしこで上がっている。

 そんな花火を無心で見上げていると、ちょいと隣から手を引かれた。

「ん?」

 振り向くと彼女は扇子を片手に口を動かしている。

 何かを言おうとしているだろうけど、破裂音と歓声で聞き取れない。

 僕はそっと腰を折って耳を彼女の方へ近づける。すると彼女は扇子を僕の顔の前で、鼻から下が隠れるように開いた。

 ちょっとでも聞き取りやすくするためだろうか。僕は意識を耳へと集中させる。


「ありがと」


 聞き取れた声と同時に、頬に触れるやわらかい感触。

 驚いて振り向くと、彼女は綺麗な笑顔を向けてくれていた。

 その頬が赤く見えたのは花火のせいじゃないんだろう。

 まったく、可愛い事をしてくれるものだ。

 僕が彼女の頭をそっと撫でると、彼女は目を細めて再び夜空を見上げた。

 そんな顔が大好きなんだけどな。

 僕が再び夜空を見上げると、今日一番の華が咲いた瞬間だった。

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