無名恋歌 ーシキイロー

舞島 慎

落花

 春、だなぁ。


 陽光は暖かく、もうコートの必要は無い。

 ジーンズにフルジップのパーカーを羽織って、私は家を出た。

 制服に袖を通さなくなってもう三週間ほど。今現在でも制服は部屋の片隅でハンガーにかけられたままだ。


 住み慣れた街の見慣れた裏道を抜けていく。この辺は一家に一台というより、一人に一台という方がしっくりくるほどの車社会。要するに、田舎なのだ。

 なので車一台分の幅しかない裏道も結構車が通る。その都度端っこに寄って避けなければならないけれど、避ける方も運転手側も慣れたものだ。

 十分ほど歩いて最後に高台への上り坂を上ると、そこには小さな神社がある。鳥居と拝殿しかない本当に小さな神社だけど、高台にあるので見晴らしが良くて、小さい頃からお気に入りの場所だ。

 長じてから、ここが城跡であることを知り、遊びも変わっていく中で、ここに来る機会も減っていった。

 それでもお気に入りなのは変わらない。特に春は好きだし。

 上り坂を上ってきた体に吹き抜ける風が心地よい。そして何より、ここから見る景色が好きなんだ。

 向こうに見える山は季節によりその色を変えるし、その麓を流れる川は、桜並木が少しばかり有名だ。


 今年はまだ桜は咲いていない。例年より遅いみたいだ。となると、今年はここの桜を見れない。それはちょっと残念ね。


 後ろでひとつにまとめた髪が、パーカーのフードと共に風に靡く。それを感じながら坂を上りきった。

 鳥居をくぐり左方向へ進むとすぐに視界が開ける。神社とはどう考えても合わない様な簡素な柵にそっと寄りかかり、向こうの山を見る。

 山はだいぶ緑に見える。これからだんだんとそれが深くなっていくんだろう。

 麓に見える川沿いは、もう少しすればピンクの帯になるはずだ。近くから見るものいいけれど、離れた位置から見るものまた綺麗なんだ。

 初めてここに来たのは幼稚園の頃だったか。今は亡き祖母が散歩に連れてきてくれたのが最初だった。

 あの時、真っ先に目に入ったのは――。




「やっぱりここだったか」

 かけられた声。振り向かなくても誰だかは分かる。そして、そのトーンを聞けば分かってしまう事も、やはりある。

「おめでとう……かな」

 私はゆっくりと振り返り言葉を返すと、彼は予想通り見慣れた笑顔を浮かべていた。

「ありがとう。なんとか置いてかれず済んだ。嬉しいというか、ほっとしたな」

 彼はそう言うと私の隣に立ち、ポケットからガムを取り出し口に入れた。それを見て私はまた視線を戻す。

「見納め、か?」

「別に今日明日ここを離れるわけじゃないわ。ただ……何となくよ」

「そうか。まだ桜は……咲いてないみたいだな」

「私達のサクラは咲いたじゃない」

 多少の時期の違いはあれど、無事に大学に合格したのだ。

 私は去年のうちに推薦で決まっていた。早々に決まった安堵感と嬉しさ、他の皆への後ろめたさみたいなものが混じって複雑な心境だったのを覚えている。

 皆は祝福の言葉をくれた。もちろん隣にいる彼も。

 今こそその言葉を返すとき。そう、分かっているのだけれど。


「住む所は決まってるんだろ?」

「もちろんよ。荷物も少しずつまとめてるし。ま、向こうで買い足す物もあるでしょうけど」

 合格が決まったのが早かった事もあり、部屋選びも納得がいくものになった。

「君は実家のままね」

「ああ。ま、通学時間が今までよりかかるけどな」

「国立だし、私立より学費も安い。目標だったんでしょう?」

「家への負担、少なくしたいからな」

 彼はずっと地元の国立大学を志望していた。彼のお兄さんが都内の私大に通っている事は知っている。多分、彼なりに気を使ったんでしょう。


 絶対、そうは言わないでしょうけど。



「でも、お前も出て行っちまうんだな」

 珍しく、しんみりとした口調で言われた。

「ええ……。分かっていた事でしょう?」

「まぁそうなんだけどな」

 私が地元じゃない大学を選択した時点で分かりきっていた。

 気心が知れた彼と、離れるということは。


 これもひとつの縁なんだろう。




 彼とは幼稚園の送迎バスの乗降場所が同じだった。

 小学校一年の時も同じクラスで、同じ登校班に属し、外でもご近所付き合いの中にいた。中学も一年三年と同じクラスだった。

 もっとも、うちの中学はほとんどが同じ小学校からの持ち上がりだ。制服に身を包み、受ける授業が増えても、周りには見慣れた顔ばかりだった。

 私達は世間一般で言うところの、幼なじみなのだ。

 かといって一緒に遊んでいたか、と言えばそうでもない。

 親同士もそこそこ仲が良い。頂き物だなんだとお互いの家にお使いをすることもよくあった。


「ねぇ。いつから私達、こんな風に話するようになったか覚えてる?」

「いつから? そうだなぁ」

 視線を向ける方向は変えないまま、ふっと焦点をずらす。

 子供会の行事なんかもあった。でもその頃はただのクラスメイトでしかなかった。

 きっかけ、それは彼の両親に勉強を見てくれと頼まれた事だった。夏休みの宿題が終わらない、とかだった気がする。

「夏休みの宿題、だったわよね」

「そういえば……よく覚えてんな」

 まだ子供だった。今が大人かと言われると違うかもしれないけれど。

「確かにお前と長話をするっていうのは、夏っていうイメージがあるな」

 麦茶を飲みながら。西瓜にかぶりつきながら。クラスメイトの話題からアイドル、Jポップ、映画、漫画、色々な話をした。

 そんな事をしていると、周りの皆は知らなかった。噂好きの誰かさんに知られたら、ある事無い事吹聴されるだろうと思っていたから、外で余計な話はしないようにしていた。

 でもそれも中学までの話だ。高校で同じ中学出身者同士が話をするのは自然であり、そんなものだと周りに受け入れられた。

 むしろ高校ではそれぞれの属する男女グループの橋渡し的、潤滑油的存在として機能していた部分が多い。おかげで高校生活は総じて楽しいものだったとしみじみと思う。

 そしていつからか、こうして話をするのがひどく落ち着く自分がいた。

 長い付き合いのなかで、彼の好みも把握している。向こうにしてもそうだろう。


「明日、行けるんだろ?」

「もちろん。しばらく会えなくなる訳でしょ。楽しまないと」

 明日は高校の仲間との食事会だ。それぞれが進学準備で慌しい中、時間を割いて集まる事になっている。

 地元に残る人もいるし、私のようにここから離れる人も当然いる。皆が揃う機会なんてそうそう無いだろう。

 これからまた新たな場所へ皆出て行く。これまで一緒にしてきた事も、明日皆でご飯を食べる事も、過去の一ページになっていくのでしょうね。

 吹き抜ける風が髪を撫でる。そっと右手で髪を耳にかけると、視界の中を白い何かが横切った。

 追うように視線を下げると、そこには小さく白い花が風に転がっていた。花の形を残したままであり、地面に咲いているようにも見える。

 こぼれる、と言うけれど、本当にそうね。

 桜は散るのが美しいという。ならば、これはどうなのかしらね。

 白く小さな花。初めて祖母に連れられてここに来たときも、梅の花が咲き誇っていた。

 そのどこか凛とした姿がすごく印象に残った。

 祖母は優しい人だった。上品さが挙措から窺えるような人物であったと、後から聞いた。

 私は時々祖母に似ていると言われる。隔世遺伝? 私のどこをどうとったら、祖母のような部分が出てくるのかしら。



「皆やっぱり、胸を躍らせて出て行くのかしらね?」

「どうだろうな。俺には分からない」

 そうだろう。彼は出て行く人間ではない。

「でもな。少なくとも悲観的に出て行く奴はいないと思うぞ。不安があるのは当然だとしてもな」

「……そうね。望んで出て行くのだもの。そうだよね」

 慣れない土地に行く事に不安を覚えることは当たり前。それでもその先にある何かを求めて、皆出て行くのだ。

「不安、なのか?」

「私だって人並み程度に不安はあるわよ? 今は……寂しさの方が大きいかも」

 私の言葉を聞き、彼は体の向きを変えて柵に背中を預けて空を見上げた。


「寂しい、か。それだけ皆が、この街が好きだってことの裏返しだろ。それに、お前自身がここを離れるのを寂しいと思うのと同じように、お前がここを離れるという事を、寂しいと思う奴もいるんだぜ」


 言われて彼を振り返る。

 彼はただ空を見上げ、乱暴にガムを噛んでいた。


「まさか、君の口からそんな言葉が出るなんてね」

「お前がらしくもない態度を見せてるからだ」


 照れ隠し、ね。

 でも正直意外だった。彼もそう思っていたなんて。

 そう考えると自然と頬が緩む。いけないいけない。こんな顔、見せてなるものか。

「でも、そう言って貰えるのは嬉しいわね。私がいなくても、この街には何の関係も無いと思っていたわ」

 学生が一人、街から去っていくだけ。

 角の本屋から立ち読みをする人が一人減り、商店街の精肉店のコロッケの売り上げが少し少なくなったり、行き着けの洋菓子店のシュークリームの減りが少なく……はならないか。あそこは人気店だもの。

 せいぜいそんなものだと思っていた。私が去ることで寂しく思ってくれる人が一人でもいるなら、今までの私も捨てたものじゃなかったようね。


「関係無いわけないだろ。どれだけ側にいたと思ってるんだ?」

「十数年ね。長いものだわ」

「色々あったよ。ほんとにな。でも、な」

 彼はガムを包み紙に吐き出すと箱へと戻した。

「お前がいて良かったと思うわ。高校生活も楽しかったし、無事大学に合格も出来た。あの頃から俺の勉強に付き合ってくれなかったら、こうはいかなかっただろう。そう意味でも、お前には感謝してる」

 またしても意外な言葉に、私は思わず目を開いてまばたきを一つ、二つ。

 ほんと彼らしくない言葉ね。でも概ね同意出来るかな。

「そうね。私も同じよ。君がいてくれて良かったわ。ありがとう」


 私は知ってる。

 君が色々気遣ってくれた事。意見の合わないとき、根回しに骨を折ってくれたり、私の機嫌が悪い時、それとなく解散にしてくれたり、行事でも率先して手伝いに行ったり。

 いつもどこからか、皆を見ているのよね。

 そう分かってた。だから私は自由に振舞えた。

 私が行き過ぎそうになる時、君は必ず私の手を引いてくれる。


 そう、信じていたから。


 何人もの友達に訊かれてきた。

「彼と付き合ってるの?」と。

 私はその度に軽くかぶりを振って、決まってこう答えてきた。

「そんなんじゃないわ」と。

 そうすると決まってこう返される。

「答えまで同じだね」って。


 そんなに付き合っているように見えるのかしら。

 ただお互いに知っていて、気楽なだけなのに。


 お互いに好きな人がいた事もある。

 私はそれを隠したまま、ちょっとした拍子に知った事実で人知れず失恋をした。

 彼は中学時代、同級生が好きだった。女子のネットワークに何故だか引っかかってきた情報で、ちょっと驚いたのを覚えてる。

 高校に入ってから、彼に訊いたことがあった。彼は「そんなこともあったな。今は学校も違うし接点もないから、もう気にしてないな」とあっさりと答えてくれた。

 後にも先にも、そんな話をしたのはそれっきりだ。その後彼に好きな人がいたかどうか、私は知らない。

 訊くチャンスはあったのかもしれない。でも私は訊く事が出来なかった。

 それは何故なのか。その理由だけは、考えないようにしていた。


 考えないようにしていたはずだった。


 当たり前だったことが、そうじゃなくなる時。それに気付いてしまった。

 依存していたつもりなんてなかった。それでも、知らずに寄りかかっていたのかもしれない。

 隣で彼は変わらず空を見上げたまま。私はそっと柵を握る手に力をこめる。


 一番のわがままは、私だったのね。


 何度もここに来たいって、祖母に駄々をこねて。

 進学にもわがままを言った。高校も、そして大学も。

 どれだけ我を通してきたんだろう。いや、皆そうだと言えばそうなのかもしれないけれど。

 現実を目の当たりにして、じりじりと追われるように焦ってる。

 引越し準備もしなくてはならないのに。焦る中で制服も片付けていないのがその証拠だ。

 らしくない。彼も言っていたが、その通りだと思う。

 本当に今更なのだ。

 そして、どうしようもない現実。


 今更、君と離れたくないなんて、言えるわけ……ないじゃない。


 今はっきりと現実を突きつけられて、私はひどく落ち込んでいる。

 ずっと聞いてきたその声も、いつもの距離で感じる微かな熱量も、すぐには手の届かない場所になってしまうなんて。

 お互いに呼べば応え、打てば響く。それが在り様だった。

 居心地の良い場所を離したくないという、単純な感情だと最初は思ってた。

 だからお気に入りの場所であるここを離れなれるなら、大丈夫だろうと考えていた。


 でもダメね。

 この場所は帰ってくればずっとここにある。曲がりなりにも神社なわけだし、簡単にはなくなったりしない。

 だけど、彼は違う。

 人なんだ。環境が変われば、人は変わっていく。

 それはもちろん私にも言える。でも同じ場所にいれば、その距離は変わらない。いや、どうにだって修正出来る。現にこれまでだってそうやって来たのだから。


 何故、君をそういう風に思ってしまったんだろう。

 焦がれて焦るなんて、これじゃまるで……。



「大丈夫か?」

 声をかけられて我に返る。

 手は柵を握ったままで、これを解くにはちょっと時間がかかりそうだ。

 私は彼の言葉に応えず、向こうの桜並木を見つめていた。

 隣でふっ、と息を吐く音。

 一拍おいて、そっと私の頭に手が乗せられた。

「いつでも帰って来い。俺はいつでも待っているから」


 やっぱり、分かってしまうのね。

 いや、それでこそ私が想う君なんだ。


「ええ……」

 私は小さく言葉をこぼし、ちょっとだけうなづいてみせる。


 これ以上は言葉に出来ない。

 不可能な事を言い合うような、そんな時間を私も君も望んでいない。

 だから、今だけは……。

 視線を落とすと、足元にこぼれる白い花が見え、淡くぼやけていく。

 頭に君のぬくもりを感じながら、私は一切の抵抗を止めた。


 君の前で取り繕う事など、何の意味も持たないんだね。

 そんな半端にせず、胸くらい貸しなさいよ。

 なんて言葉も、ただの嗚咽にしかならない。

 言葉なんていらない。

 想いなんて、全部流してしまえばいい。

 形なんて残らず、バラバラになってしまえばいい。

 残したいものは、ただ一つだけ。


 本当に、ありがとう……。






 それから十余日後――。


 新居の整理を終えた私は、ふらりと外へ出た。

 まだまだ見慣れない街並みを眺めながら、通う大学を過ぎて裏へと回る。

 そこにあったのは、池を中心とした公園だった。例年よりは遅かった桜の花が、七部咲きくらいだろうか、公園を鮮やかに彩っている。

 うん。悪くない。大学からも近いし。

 もうちょっと見晴らしの良い場所も欲しいけど、それはまた後で探そう。

 桜の花を眺めながら、ゆっくりと池の端の歩道を歩いていく。

 犬の散歩をしている人も見受けられる。地元の人によく使われているみたいだ。

 ぼんやりと池を一周し終わろうとする頃、私の意識が何かをとらえた。

 視線の先にあるものをじっと見つめる。

 それは池とは反対のフェンス際に植えられた一本の木。

 枝に花はほとんど残っておらず、代わりに地面には白い小さな花が多数見えた。

 ゆっくりと歩を進め、そっと枝に触れる。

 こんなところにもあるのね。皆は桜に目を取られて、もう視界には入らないというのに。

 そんなことはお構いなしに、この木は最後の花まで咲かそうと頑張っているんだわ。


 大丈夫。私はきちんとやれる。

 私はしゃがんで落ちたばかりだと思われる花を一つ拾い上げる。

 花言葉、確かいくつかあったと思うんだけど。

 私が今欲しいのは……そう、忍耐、ね。

 ゆっくりと腰を上げる。すると待っていたかのように電子音が響いた。

 電話だ。私は上着のポケットを漁り、買い換えたばかりのスマートフォンを取り出す。

 そしてディスプレイに表示された名前を見て、自分の口角が上がることを意識した。


 大丈夫。


 私は通話ボタンを押すと、片手に花を持ったままスマホを耳に押し当てた。

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