第17話 役立たず
「そう言えば、お前に訓練してやってたよな」
休憩時間に船長室で微睡んでいたはずのバハルが唐突に口を開く。部屋の隅でエレーヌの手記を読んでいたルチアは首をかしげる。そして、ゼノの道中でのことを指していることに気付き頷いた。
「どうせお前は暇だろ。ちょうど良い、俺も体が鈍ってたんだ。稽古してやる」
「良いんですか? あれ、でも私闘は禁止じゃ……」
船上での私闘は掟で禁じていると言ったのは彼らだ。しかしバハルは鼻で笑ってあしらった。
「お前と俺じゃ闘いになりゃしねえだろ。せいぜいお遊戯ってところか」
「……それは、そうですけど」
訓練ではバハルの体に触れることすらかなわず、力の差は歴然としている。
けれど、いつ何時戦が起こるともしれない以上彼に稽古をしてもらえるのはありがたい。手に持っていた本をぱたりと閉じると、ルチアは頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よし、上に行くぞ」
のそりと体を起こしたバハルに続いて、ルチアも慌ててマントを羽織り甲板に出る。
北上するにつれて凶悪な冷たさになる冷風を肌に感じ、体をぶるりと震わせる。
「武器はこれで良いな」
適当に漁った荷の中から目当ての物を取り出したバハルが、甲板の上を滑らすようにそれをルチアの足下へと投げた。鈍い銀色の刃が太陽の光を反射して輝く。それは明らかに前回使用した棒きれと違い、凶器――レイピアだった。
「え、バハルさん……これじゃ危ないです!」
「なに言ってんだ、お前は木の棒で敵とまともに戦えると思ってんのか? それで、身を守れると?」
真剣な顔のバハルに気圧されてルチアは押し黙る。
今から行おうとしているのは、決して遊びではないのだと突きつけられた気持ちになった。
「別に誰かをそれで殺せと言うわけじゃない。だが、自分を守るために人を傷つける――それが死に繋がることだってある。……まあとりあえず、俺にそいつが当たるとも思えないしな。やってみろよ」
「……はい」
足下に転がるレイピアを持ち上げ、指環に指を入れて握り直す。棒きれよりも重く感じるが、それは物量のせいだけでなく精神的な重みが加わっている。
彼の実力なら、きっと自分はこれをバハルの体に当てることすら不可能だ。けれどもし万が一にも当たれば――。
(でも私がやろうとしていることは、そういうこと……)
自分を守るために、誰かを傷つける。けれどそれで躊躇ったときに自分は命を落とす。ルチアにはまだやるべき事が残っている。だから、何が何でも生き残りたい。
甲板の上には仕事中の海賊たちが大勢いて、興味深そうに二人を観察していた。多数の視線を浴びながら、ルチアは一度だけぎゅっと眼をつむる。
そして目を大きく見開き、バハルの手にも同様にレイピアが握られたのを確認してから一声上げた。
「いきますっ!」
バハルは口元に余裕の笑みを浮かべ泰然とその場で立っている。ルチアの一挙一動を確認するように視線が動く。
「はっ!」
レイピアは突きが主体の武器だ。間合いは詰めず、ルチアは数歩の距離を残して立ち止まり勢いよく剣を突く。バハルは片足で軽く跳び、半身を横にずらしてなんなくそれを躱した。
「良いぞ。レイピアは剣の中でもリーチのある得物だ。間合いに踏み込まれないように気をつけるんだ――こんな風にな」
大きく一歩を踏み込んだバハルがルチアの直前に迫り、ルチアは思わず動きを止める。その首元の寸前に、ぎらりと光る刃が突き刺さる――その直前でバハルは動作を停止させた。
「と、まあ簡単に首元を掻ききられる。突きが基本の武器だが、片手剣のようにも扱うことができる。別に切れないわけじゃないからな」
そう言いいながら、バハルは再び少女から離れて間合いを取った。
あくまで稽古だと分かっていても、凶器が首元に迫った恐怖でルチアの心臓がぎゅっと縮こまる。忙しく鳴る胸に手をあてて、大きく息を吐きだした。
ルチアの呼吸が整うのを律儀に待ちながら、バハルはレイピアを一振りした。
「第二ラウンドだ。本来なら狙う場所は首元か鳩尾になるが、お前の場合は生き延びるための戦闘訓練だ。それなら一番効果的なのは足下を狙うことだ」
「はい」
素直な生徒の言葉に満足げにバハルが笑う。
「次いきます!」
レイピアを目前で構え、右足を一歩踏み込み剣を突いた。バハルはその剣の軌跡を、半歩足をずらしただけであっさりと躱す。そして空振りしたレイピアの先をバハルは己の剣で叩きつけた。
両手に痺れるような感覚を覚え、ルチアの手から剣がこぼれ落ち甲板にガシャリと音をたてて跳ねた。
「腰をしっかり落とせ。剣に振り回されてるぞ」
「はい!」
「ここを戦場だと思え。プライドなんて捨てろ、生き延びるためなら正攻法で戦う必要なんてないからな」
バハルがそう言い落ちた剣を足で蹴飛ばして、ルチアのつま先に当たる。ようやく痺れの取れた右手でそれを持ち上げる。
「決してお前は敵には勝てない、相手もそれを踏まえた上で襲ってくる。逆に言えば、敵には隙があるはずだ。絶対に負けっこない――そういった相手の甘い考えを利用しろ」
勝負に勝てない。それは何度も言われたことであり、ルチアもそれは重々承知している。付け焼き刃な訓練をしたところで高が知れている。
ならば、どうしたら自分は逃げられるか。
「――いきます!」
剣を掴み、ルチアはたんと踵を鳴らして勢い良く踏み込んだ。自分の動きを追うようにバハルの目がすっと細まるのが分かる。
「はっ」
彼の寸前で着用してたマントの留め金を左手で外す。そして勢いよくバハルの顔面に投げつけた。
「ぶふっ!」
さすがに予想外だったのか、マントの下から苦悶の声が上がる。バハルがマントを放り投げて剣を構え直す前に、ルチアのレイピアの切っ先がわずかに彼の右大腿部を浅く裂いた。
「っ!」
下衣が裂けて赤く血が滲んだのを見て、ルチアは剣を持つ手を震わせた。しかし青ざめる慌てふためいたルチアとは反対に、バハルは愉快げに口元を歪ませた。
「やるじゃねえか。確かにレイピアで戦うときに、帽子やマントを使って相手を攪乱させるのは良くある手口だな」
「ご、ごめんなさい。痛くないですか……?」
「おいおい。一応俺は敵役だぞ? いちいちお前は怪我をさせた敵を気遣う気か」
「でもこれは訓練で、バハルさんは敵じゃないから」
「……別にこれくらいなんてことねえよ。気にすんな」
わしわしと左手で頭をかき回される。
サピエンの宿で彼の体についた傷跡を見れば、この程度の傷には慣れているのは分かっていた。
(でもやっぱり人を傷つけるのは、嫌だな)
それがたとえそれが味方でも敵であってもだ。きれい事を言っている自覚はあったが、傷をつけたときの感触が心に残り気分が滅入る。
「消毒しましょうか」
「そのくらい放っておいて平気だよ」
ルチアの言葉に応えたのは目の前の青年ではなかった。振り返ると、アッシュグレーの髪をした青年が、いつの間にか壁にもたれかかってこちらを見ていた。
「バハル、そろそろ見張りの交代だよ。変わってくれるかな」
「あ? もうそんな時間かよ。わかった」
バハルは二人分の剣を軽々と持ち上げ片付けをし始める。
ロジェは眠そうな目をさすると、いまだ剣を握るルチアの頭からつま先までを眺めた。
「意外と剣士姿も様になってるね。それより早く中に入らないと、風邪を引くよ」
言われてようやく、自分がマントを脱いだ薄着で寒空の下にいたことを思い出す。
「バハルはそのままここで仕事してるように。ルカはこっち、君こそ手当てが必要だろう?」
「えっ。手当て……?」
「ここ」
ロジェが指し示した首元に手を伸ばすと、ちくりとわずかな刺激がある。拭った指を見ると、わずかに鮮血がついている。
「君は寸止めがへたくそなんだから気をつけないと」
「あー……わりぃ、気付かんかった」
どうやら首元で寸止めされたと思ったとき、少し掠っていたらしい。けれどバハルの頬についたものよりは浅く、指摘されなければ気づかない程度の傷だ。
「いえ、これくらい平気ですから! そう、ほら、傷くらい男の勲章ですしっ」
この程度で慌てる男はいないだろうと思い、ぶんぶんと首を振る。けれどロジェは気にする様子なくルチアの手首を掴み、「あとはよろしく」と背中越しにバハルに言った。
ルチアに反抗は許されず、そのままずるずると連行される。慌てて首だけ振り返りバハルに礼を述べてから船内へと戻った。
「君はどうして一人で旅に出ようと思ったんだい?」
手首を握るロジェが、背中を向けたままで質問を投げかけた。
「どうしてと言われても。一人だけの家族が何年も行方不明のあげくに死んだと聞かされたら探そうとしませんか?」
「普通はしないよ」
そうだろうかと疑問に思いながら、ルチアは首を傾げる。
「君みたいに幸せな人生を歩んできた子の考えは、僕には理解できないよ。なんでそんなに呑気でいられるのかな」
とげとげしい言葉にルチアは押し黙り、掴まれた腕に視線を落とす。異様に強く握られたそこは、わずかに赤みを帯びていた。
「僕たちは契約を結んだ。約束通り君をマッテラ島まで送り届けエレーヌを見つける手助けをしよう。けれど」
急にロジェは腕を離し、そのままルチアを放って自分の部屋へと戻ろうとする。
「あまり甲板で遊ばないでくれるかな? 他の人間の邪魔になる。……ああ、その傷くらい放っておいても平気だよ、死にはしない」
日頃穏やかなロジェが、今日はやけに険しい表情をしているのに気づく。
彼が自分を連れ出した理由が、手当てのためでなく邪魔だったからということをここでようやく把握し顔色が強張った。
凍てつくようなロジェの視線に、ルチアはうつむき唇を噛み締めた。
自室に戻っていく青年の後ろ姿を見送り、ルチアは嘆息する。
(ロジェさんにとって、私はただの居候にすぎないのね)
彼らと共に生活を送ることで、少しだけでも彼らに近づけたと思っていたのは自分だけなのだろう。彼らに生い立ちや過酷な運命を、知ったつもりになっていただけなのかもしれない。
(仲間になれたと思ったのも、私だけ)
けれどそう思われても仕方ないことだ。ルチアがしていることと言えば、たまにゾイの仕事を手伝うだけだ。夜に寝て、朝起きる。単調に過ごす自分の毎日は、彼らの生活を考えれば優雅すぎるだろう。
「……よし」
そうと決まれば話は早かった。ルチアは猛ダッシュで廊下を駆け抜け、階段を飛び降りる。目指す先は、階下の部屋だ。目の前の扉を勢い良く開け放し、名前を呼ぶ。
「シャット!」
「な、なんだよ」
休憩時間でくつろいでいただろう少年は、ハンモックの上で飛び上がるように半身を起こした。目をつり上げて睨むルチアの様子に、少年は驚いたように肩をびくつかせた。
ルチアは足音も荒くシャットの前に立つと、ハンモックに手をかけ叫んだ。
「僕に海賊の仕事を教えて!」
「はっ!? あんた、いきなり何を――」
「お願い! いつまでも役立たずなんて思われてたまるもんですか!」
困惑する少年の肩を揺さぶると、慌てたように手を振り払われた。目を丸くしながらシャットがため息をついた。
「おいおい。一体なにがどうなってんだよ。それにルカはゾイの手伝いしてんだろう?」
「そうじゃなくて、もっとこう、役に立ってると思われることがしたい」
「なんだよ、ロジェに穀潰しのタダ飯ぐらいとか言われたのか?」
「……そこまでは言われてない」
むっとした表情を見せ、いじけたようにルチアは頬を膨らませた。
シャットは少し落ち着きを取り戻したようで、呆れたような表情で嘆息する。
「あのなあ。ロジェの言うことをいちいち気にしてたらキリがないぞ。それにオレだって見習いなんだよ。お前に教えられるようなことはそんなにないって」
「……じゃあ、どうしたら良いの」
一方的に信頼されるのでなく、ロジェからも信頼されたい。仲間として見てもらいたい――そう思うこと自体、傲慢なことなのだろうか。
「あの人の信頼なんてそうそう勝ち取れるもんじゃない。命をかけてみんなを守った英雄にでもなりゃ話は別だけどな。そんな機会あるわけないだろ? ルカはルカらしくやってけ。な?」
がっくりと肩を落とすルチアにシャットの憐れむような視線が突き刺さる。
「なあルカ。お前は海賊になりたいわけじゃないだろ。それに――オレたちだって別に、好きでやってるわけじゃない。これしか生きる術がなかったから選んだ道だ。好き好んで海賊の真似事なんてやるもんじゃないって」
「それでも、僕は」
「やめておけって。良いことなんて、なんにもないから」
自分と変わらない年の少年に穏やかに諭されれば、ルチアもそれ以上彼に助けを乞うわけにはいかない。ルチアは諦めのため息をもらし、すごすごと船長室に戻っていった。
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