第16話 船医エンリケ

 階段を駆け下り、調理室の扉を勢いよく開く。いきなりの登場に驚いたゾイが目を丸くしながら振り返った。

「どうしたルカ。そんなに息を切らして」

 ナイフを持つ手を引っ込め、ゾイがルチアをまじまじと見つめる。視線を逸らして、何事もなかったかのように息を整えた。

「手伝いをさせてもらって良いですか?」

「そりゃ、こっちは構わないけどな。じゃあ朝飯の用意を手伝ってくれ」

 ゾイの目の前には、得体の知れない緑色の物体が切り刻まれている。つんとした匂いにたじろぎながら、手渡されたナイフを右手に持つ。

「これ、ピクルスですか?」

「ああ。先生が食事に必ず入れるようにって指示でな。俺もよく分からんが、栄養がとれるらしい」

「先生?」

 聞き慣れぬ名称に首をかしげるが、ふとそれに思い当たる人物が一人だけいたことに気がつく。

 珍しいツル付き眼鏡をかけた、ひ弱そうな男性を脳裏に浮かべた。

「もしかして船医のエンリケさんのことですか?」

「そうだ。結構料理にも詳しくてなあ。うちの食事は先生の指示も入ってるから、そんじょそこらの船の食事より味も良いし、栄養も申し分ないそうだ。」

 誇らしげにゾイは胸を張り、手際よくチーズを小さく切って皿にのせていく。まだカビの生えていない新しい堅パンも並べ、えんどう豆を添えた。

「航海中で一番怖いのは海軍でも荒波でもなく病だ。特に体のあちこちから出血する奇病は一番危険だと言われている。じわじわと死に至らしめる病気にかかれば命はない……って全部先生の受け売りだけどな」

「エンリケ先生も、元奴隷ではないですよね?」

 特権階級にあたる医師が奴隷として捕らえられていたとは考えられない。そう尋ねると、ゾイは当たり前だと言わんばかりに頷いた。

「先生は元々コーネリアスが雇ってた船医だよ。クーデターのとき船長のほうへ寝返ったんだ。ちょっと癖のある人だが、悪い人じゃない」

「そうですか……」

 あまり関わりたくないタイプというのがルチアの正直な気持ちだ。けれど彼らの仲間を悪く言うことも気が引け、吐露することはせずに心の奥底にしまい込む。

「ゾイのおっさん、腹減った」

 くすんだ茶髪の少年が扉を開け、眠そうな目を擦りながら調理場へと入ってくる。ルチアとゾイは同時にそちらへ顔を向けた。

「シャット、休憩なの?」

「あれルカもいたの? ……見張り当番終わったし、朝飯食べたら寝る」

 大きなあくびを見せるシャットへ、盛りつけを終えた皿を手渡す。皿の上の質素な朝食を見て、シャットはあからさまに落胆を見せる。

「肉が食べたい。オレ育ち盛りだよ?」

「明日は肉を出す日だ、我慢しろ。むしろこんだけ立派な船上食なんて海軍だってあまりないんだぞ? ありがたく拝みながら食え。それに多少食事が変わった程度で背は伸びねえぞ」

 笑い飛ばすゾイの言葉に、シャットがこめかみに青筋を立てた。

「うるさいなあ! ルカだってオレとあんまり変わんないし」

 ルチアとそう変わらない身長は、男にしては低いと言える。まだ子どもとはいえ、男性の平均身長に満たないであろう己の背丈を気にしているらしい。

 けれど女のルチアは自分を低いと思ったことはなく、むしろ同年代よりは多少背が高いほうだ。むくれるシャットに苦笑いをして誤魔化した。

「ま、諦めろ。身長よりお前は筋肉を付けるべきだな。まだまだ細っこい腕してやがって。ほら食え食え」

 わずかに筋肉のついたシャットの二の腕を掴み揶揄するように笑い、シャットはむっとした表情を見せて手を振り払った。

「おっさんはそろそろ二段腹を気にしたほうが良いんじゃない? 仮にも海賊ともあろう者が、そんなみっともない体してさ。少しはお頭を見習ったら?」

「言うじゃねえか、くそガキが」

 一触即発の雰囲気に、ルチアははらはらとしながら様子を見守る。けれど二人はそれ以上言い争うことなく、シャットはもう一度あくびをしながら皿を抱えて出て行った。

「良いんですか?」

「なにがだ?」

 ゾイは何を言われているのか分からない表情で首をかしげた。

 どうやらケンカ別れを気にしているのは第三者のルチアだけらしい。彼らにとってあのような喧嘩腰に見える会話は日常茶飯事なのだろう。

(男所帯ならあれくらい普通なのかしら……)

 女二人で生活してきたルチアには縁のない会話の類いだ。育ちの良いとされるルチアは、人を罵るようなことはあってはならないと教えられてきた。

「……ん? ルカ、顔が赤くないか?」

「え、そうですか?」

 朝方のバハルとの会話が尾を引いているのかと、頬に手を当てて隠そうとする。しかしゾイはまじめな顔をして、ルチアの額に大きな手のひらを押し当てた。

「ちょっと熱があるかもな。昨日の嵐の中、外に出ただろ? そのせいかもな」

「そうでしょうか。自分じゃ、良く分からないんですけれど」

 実際特に気持ち悪さや辛さは感じていないが、たしかに言われたとおり頬を触る手のひらからはいつもより熱を感じる。

「とりあえずこっちはもう平気だから、エンリケ先生のところへ行ってくるんだ」

「う、それは……」

 嫌です、と言うことは出来なかった。ゾイの瞳に気圧されて、ルチアはしぶしぶ頷くと調理場をあとにした。



 以前ロジェに教わった船医室の扉の前で、逡巡するようにルチアは何度も廊下を往復する。

 このまま部屋に戻ってしまおうか。いや、部屋にはバハルが眠っている。けれど調理室に戻ればゾイに怒られるだろう。

 どうするか悩んだすえに、意を決して扉に手をかけた。しかしノブに力を込める前にガチャリと音を立てて扉が開く。

「さっきからウロウロしてるけど、用があるんでしょ?早く入りなよ」

 呆れたような声色でエンリケはそう言い、扉を開け放した。

 どうやらルチアが部屋の前にいたことに、随分前から気付いていたらしい。黒髪の男に胡散臭い笑顔で手招きされ、ルチアは仕方なく言われるがまま部屋の中に入った。

「ここ座って。それで、どこか体調が悪いの?」

 きちんと整頓された室内には、簡素な寝台が二つと、医学書が並んだ小さな本棚がある。見えるところに薬品は置かれていないが、つんと鼻につくのは確かに薬草の臭いだ。

 ルチアは言われたとおり、手前の寝台の端に腰掛けた。

「ええっと……なんか熱があるみたいで」

「ふむ。どれどれ」

 額に当てられた冷たい手の感触に、思わずびくりと肩を揺らす。エンリケは気にした様子もなく、考え込むように何度か頷いた。

「そうだね、少し高いみたいだ。じゃ、胸の音を聞くから前拡げて」

「……………え」

 何を言われたのか理解した途端、ルチアは思い切り後ずさった。聴診されるということは、つまりルチアの体を見せなければいけない。それだけは断固阻止する必要があった。

「た、大した病気じゃないですから! 寝てれば治りますし!」

「なにを言ってるの。それを決めるのは医者であって君じゃないでしょ。ただでさえ船の上ってのはきちんとした設備はないんだよ? ちゃんと見ておかないと、他の人間にうつる病気だったらどう責任をとるつもりなの」

「う、いや、その」

 どうやってこの場を切り抜けるべきか。逃げる手段が浮かんでは消え、頭の中が真っ白になっていく。

「はいはい、お医者さんの言うことは聞かなきゃダメだよ。じゃあ大人しくそこに寝てみようか」

 とんと軽く肩を押されて、ルチアは呆気なく座っていた寝台に押し倒される。そして彼の手が、きつく握りしめた胸元のボタンにかけられた。

「いっ……嫌っ! やめてっ……お願い……」

 ルチアの目元から滴が垂れ、最後は言葉にならなかった。エンリケの手がぴたりと止まり、嗚咽を漏らす少女を見て苦笑いを浮かべた。

「……いや、ごめん。さすがに泣かすつもりはなかったんだけど。ちょっと無理強いしすぎた?」

「うっ……」

「ああ、もう泣かないでよ本当に、悪かったって」

 涙で赤く染まった目元を押さえ、自由になった半身を起こして寝台の奥へと逃げ込む。

「女の子って確信が欲しかっただけで、他意はなかったんだけど」

「な、なんで」

 エンリケが自分に対して女だと疑っているということは、初対面のときから気付いていた。しかしここまで強行手段をとられるとは考えておらず、混乱しながらも涙をこらえる。

「うん、ごめんって。完全な好奇心でさ、女の子が性別を偽って船に乗り込むなんて面白そうだなあと思って」

「そんな、そんな理由で……?」

 キッと彼を睨み付けると、エンリケは人差し指で頬を掻いた。

「でも医師を味方に付けておけば楽だと思うよ? 今後君が怪我や病気になって、意識がないうちに服を剥がれちゃ困るだろ?」

「それは……そうですけど」

 彼の言うことは一理ある。かといって、エンリケの無体を許せるかと言えば話は別だった。

 未だに威嚇する獣のように目をつり上げる少女に、エンリケは降参とばかりに両手を挙げた。

「今のは僕が悪い。この通り、謝ります。申し訳ありませんでした。それで、だ」

 すんなりと謝罪を口にしたエンリケが、すっと目を細めた。

「僕と取り引きをしないかい?」

「取り引き?」

「そう。僕は君が女の子とだということは言い触らさない。なにかあればバレないように手も回す。その代わり、君は僕に情報を流して欲しい。何でも良いんだ。バハルやロジェが、今後どう動く予定なのか、どこの奴隷市場を見つけたのか。僕は非戦闘員だから、その辺の詳しい情報が回ってこなくてね」

 エンリケも海賊の一味だ。彼自身が聞けば、必要な情報は与えられるはずだ。

「そんなの、直接バハルさんたちに聞けば良い話でしょう? あなただって、仲間なんだから」

「うーん。それがなかなか、ちょっと話がややこしくてね。厳密に言えば、僕は海賊の一味じゃないから」

「どういうことですか」

「僕は、海軍の人間だ」

 今度こそルチアは目を見開いて一歩退く。

「そんなに怯えないでよ。別にいますぐ君たちをどうこうしようと考えているわけじゃない」

「……あなたは一体、何者なの。なぜ海軍がここにいるの?」

 その問いに、エンリケは曖昧に微笑むだけで答えはくれなかった。

「君にとって、彼らは金で雇った駒だろう。悪い話じゃないはずだ」

 自信満々なエンリケの顔は、少女が提案をのむと確信している様子だった。だから、ルチアは毅然と顔を上げた。

「お断りします! 私はバハルさんたちを信じてこの命を預けました。なにがあっても、彼らと共にすると。それを仲間と言わず、なんと言うんですか。私は彼らを売ったりなんて出来ません」

 覚悟はとうに出来ている。ルチアにとって、もう彼らはただの他人ではない。だからエンリケの話に頷くことは不可能だった。

「私が女だと言いふらしたいなら、それでも構いません。きっと、彼らは受け入れてくれると思うから。その代わり、私もあなたがスパイ行為を仄めかしたことを告げます」

「……それは困るね」

「なら取り引きしましょう。あなたは私を女だと言わない。私もあなたのことを言わない。お互いに魅力的な話じゃありませんか?」

 主導権はルチアに移った。きっとエンリケはその話に乗ってくるはずだ。

「参ったよ。もっと簡単にいくかと思ってたんだけど。でも良いの? 僕がなにか企んでるってバハルたちに言わなくて」

 案の定、彼は嘆息してから頷いた。

「船上にいる間は情報を掴んでも伝える手段はありませんから。下船したときは私自らあなたを監視します。それで不都合があると判断したら、そのときは報告します。今はまだ、あなたの利用価値があるから」

「意外としたたかなんだね、お嬢さんは。……分かった、先にこちらのカードを提示した僕のやり方が悪い。しばらくは君の下僕にでもなりますよ」

 エンリケは立ち上がり、備え付けのキャビネットを漁るとポンとルチアに何かを投げつけた。慌ててそれを受け取り、紙包みを開くと白い粉末が入っていた。

「元々熱でここに来たんでしょ? それを飲めば、すぐに良くなるよ」

 同時に水差しを手渡され、ルチアはありがたく受け取り口に含んだ。久しぶりの真水が喉を潤し、満足げにルチアは息を吐いた。

「それ毒だったらどうする?」

「毒!?」

 ニヤニヤと笑い、目元のガラス板の奥にある瞳が愉快げに揺れていた。ルチアにしてやられた意趣返しに違いない。

「……性格悪いって言われません?」

「君も、なかなか良い性格だよ。お互い様じゃないかな」

 火花を散らして視線が交錯する。どちらも引く様子はなく、重い空気が医務室に広がっていった。

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