第五話 夜の夢

 「王雪ワン・シュエ!あなたは何をしているのです。それも、そんな泥だらけで。宮女試験の最中に何をしているのです」

 さっきも怒られた気がする。

 心の中でうんざりしながらも、すました顔で女官長様に頭を下げる。

 「申し訳ございません。池に落ちてしまいました」

 リィリィから逃げるように、女官試験の説明が行われた外宮の宮に戻り冷静になると、あることに気がついた。

 着ている衣が泥だらけで、しかも大雨にあったのかと思うほどの、ずぶ濡れだと言うことに。

 すれ違う女官見習い達が奇妙な反応を返してきた不思議さが、今、やっとでわかった。さっきと同じように、床に座り女官長様の次の言葉を待っていると楽しそうな笑い声が耳に届く。

 「いいじゃない女官長。凄く面白いわ、この子。今までの試験で池に落ちるなんて初でしょ?」

 梅の花が描かれている折扇せっせんを口元にあて、笑いが止まらないとばかりに目に涙まで浮かべているのは、試験官の娜娘娘ナ・ニャンニャン

 ……本当に運がなかった。

 泥だらけで、しかも、ずぶ濡れの状態に気づいて、急いで着替えようとしたのに、この宮に飛び込んだのが運のつき。

 この娜娘娘に見つかったのだ。しかも、宮の前で呑気に茶を楽しんでいた娜娘娘に。

 そして、問答無用でここへと連れて来られ、その失態は中で待っていた女官長様にまでばれた。

 そして今、女官のたしなみについての有難いお言葉を聞くこと正味1時間、寒さもあって倒れそうだ。

 「女官長、それくらいにしてあげて。このままだと時間がなくなって、その子不合格になるわよ」

 いいことを言ってくれると見直しながら、娜娘娘に深々と頭を下げる。

 もちろん娜娘娘は、ここでも優雅にお茶を楽しんでいる。私が這いつくばる様に頭を下げている姿を見ながら。

 「娜娘娘からのお許しも出たので今回は目をつぶります。だが、今後は気を付けて行動なさい。もし内宮で、そんな姿を誰かに見られたら、私達の立場も悪くなる……」

 いきなり女官長様のお言葉が途切れ、不思議に思いチラリと視線を上げると、奇妙な顔をしたまま私を凝視していた。

 なんだろう?と思っていると、またしても娜娘娘の笑い声。これには女官長も、いつもの様子で渋い顔を見せている。

 「もういいわよ。着替えて落ち葉探しに行きなさい」

 「は、はい。ありがとうございます」

 これで離れられると安堵すると、娜娘娘の強い視線を感じた。

 な、なに?

 真っ直ぐと射抜くような瞳で見られると怖くて動けない。

 「最初にその姿を見た時は驚いたのよ……見つけたのかと思って」

 不思議な発言をする娜娘娘に、どきどきしながら首を傾げた。

 もしや、リィリィと第9皇子のことを言っているのかと思い緊張が走る。

 リィリィはともかく、第9皇子のことを言っているのなら、皇子様を地面に転がし、しかも意識まで失わせたのだ。間違いなく……首が飛ぶ。

 それは困る!

 目を左右に動かし、いかにも怪しげな態度をとってしまったが、ふいに娜娘娘がくすりと笑った。

 「そんなに挙動不審にならなくてもいいわよ。気づいたのでしょう?落ち葉拾いの意味に」

 落ち葉拾いの意味?なんのことだろう?

 わからなくて娜娘娘を見返すと、娜娘娘の顔つきが険しくなり目を見開いた。

 「あら、ごめんなさい。関係なかったようね」

 すぐに口を閉じ、茶器を片手に持ち蓋を少し開け茶を飲み始めた。

 もしや、今のヒント?私のこの最悪な姿を見て「落ち葉拾いに気づいた」と娜娘娘はおっしゃった。どこかにヒントが?

 「王雪、すぐに行きなさい。このままでは不合格ですよ!」

 女官長の雷のような大声に震えあがり、慌てて頭を下げ立ち上がりその場を去る。走りながらも娜娘娘のヒントと第9皇子のことを考えていた。



 「どうしよう……もう夜になったのに全然わかんない」

 とぼとぼと歩く足取りは重く疲れが一気に押し寄せる。

 内宮の黒の瓦と朱の壁を背にし空を見上げた。空には雲からかすかに月の姿が見え隠れしている。

 辺りは、夜の帳がおり薄暗く人気がない。普段なら歩くだけでも提灯が必要だ。だが、今日は提灯がなくとも問題がなかった。

 今日が女官試験だと知らされているためか、内宮と外宮の入り組んだ道には、一定の間隔で蝋燭の灯が灯されている。

 その蝋燭の光を見つめながら、壁を背にしてその場に座り込んだ。

 「もう、みんな合格してるのかな……」

 一人という寂しさと、わからない悔しさに泣きたくなってきた。無意識の内に指が耳に触れる。

 リィリィに付けられた、あの耳飾りだ。

 娜娘々と女官長様には何も言われなかった。髪も纏め結んでいるから、付けていたらすぐにわかるはずだ。なら、この耳飾りは他人には見えないと解釈してもいい。

 「なら、どうして第9皇子には見えたんだろう?」

 考えていると、熱くなってきた鳳血玉を片手で耳ごと包み込み手に気を集める。

 内功を使いこの耳飾りの力とも言える熱さを抑え込むしか方法がなかったのだ……力で力を抑え込む。

 昔、父様に教えられた。

 私が内功を使えるとわかった時、哀しい顔をしながらも、力の制御と操る術を基礎から全部叩き込んでくれた。

 この力は巨大で危うい。だからこそ、人前では使ってはいけないと言われていたのに。

 「どうして、あの時使ったのかな。普通に頭を下げていたら皇子様は耳飾りを外してくれたかな?」

 冷静さをなくし力に頼った自分を責めた。そして、ずっと思っていたことがある。

 第9皇子は誰かに見つけて貰えたのかと。

 さすがに幽霊のリィリィが誰かを呼ぶなんて不可能。強く気を入れた訳ではない。少しの痛みはあるかも知れないけれど、夜までには目覚めているはず。でも気功に疎い人だったら、効きすぎて明日の朝まであのままかも。

 まさかね……仮にも皇子。鍛えているはず。でも……。

 頭に過ったのは、第9皇子があのまま誰にも発見されずに池の畔で倒れたままではないのか? と言うこと。

だとしたら、春が近づいていると言っても、まだ寒い。

 それに第9皇子は言っていた。あまり宮から出ず特定の人にしか会わないと。だとしたら、あのまま倒れている可能性が高い。

――助けに行かないと。

 皇子のことが心配で、慌てて立ち上がり、リィリィのいた朱燿殿に向かって駆け出した。

 試験中だということが頭から綺麗に消え去り、全速力で走り抜ける。

 しばらくすると、警備をしている兵士が「大変だな」と言うように、憐れんだ瞳を向けられ、自分が試験の最中だということを思い出すが構っていられない。

 大方、兵士たちは、私が試験の内容もわからずがむしゃらに意味もなく走り回っているように見えるのだろう。それは……半分当たってはいる。

 息を切らしながら、あの池のある朱燿殿へと足を踏み入れた。


 「…………えっ?」

 別の場所かと思い宮の門の上に書かれている文字を確認する。

 『朱燿殿』

 さっきは混乱していたが、ここはリィリィの母上、朱月皇后が住んでいた宮だ。今は主人がいないために無人のはず。

 門を潜り抜け池へと向かう。

 そこは、昼間とは雰囲気がまるで違った。

 紅梅や杏子の木々が鮮やかに暗闇に映え、ときおり月が怪しく照らす。

 なによりも不思議なのは、昼間は咲いていなかった睡蓮と蓮の花が見事に咲き誇り白い花が神秘的な美しさを称えている。

 「どうして?昼間は咲いていなかったのに。それに……まだ花が咲くには早いはず」

 「――これは、夜咲き種だ」

 どこともなくかけられた声に息を飲む。

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