第十七話 風の宮
夢を見た。幼い頃の嫌な記憶を――あの寒空の下、悲しかった思い出を。
凍てつく風が容赦なく吹きつける中、必死で母を探した。
顔も手足もすべてが雪にまみれ、膝下まで雪に埋まり感覚がない。身体中が冷たく……なによりも心が痛い。
それでも、今、追いかけないと愛する母に会えなくなる……そう幼心に感じた。 見渡す限りどこまでも白く、なにもない世界を一人で必死に雪をかき分ける。
「シュエを置いて行かないで……いかないで母様!」
雪で膝まで埋まりながらも前へと必死で歩く。それでも愛しい母の姿は探し出せない。
「――母様!」
吹雪で前が見えなくなると絶望が襲った。
頬に伝ういくつもの滴がとめどなく溢れ出る。
感じてしまったから……大好きな母にはもう会えないと。
「おい、大丈夫か?……
誰かに呼ばれ、重い瞼をあけると、涙で歪む視界に映ったのは男の姿。しかも、私の寝ている
「皇子……」
急いで起き上がろうとするが、身体中が痛くて起き上がることさえ出来ない。しかも、熱くてだるい。
「寝ていろ。傷が熱をもっている。それに、雨の中身体が冷えていた。侍医に診せたら1週間は動かない方が良いそうだ……すまないな。すぐに助けることが出来なくて」
身分も随分下の、今は罪人扱いの私に侍医を呼び、しかも謝る皇子の姿に困惑するが、熱で上手く考えが纏まらない。
ただ、覚えているのは、皇子が私を嵌めたのかも知れないと言う警戒心。
視線を逸らすと、天蓋の四方に薄絹が垂らされ、その向こうに何人かの姿が見えた。今、着ている衣も調度品も見たこともない立派な品ばかり。
「ここは……どこ?」
「俺の宮だ。簡単に人は入れない。俺の許可なく入れるのは皇帝陛下ぐらいだ。だから、安心して休め。話はそれからだ」
「父様と妹は……無事?」
それだけは聞きたかった。私のせいで二人も捕まったのではないかと。嘘を言ってはいないか、皇子の瞳をじっと見る。
「安心しろ。お前の家族の記しは全て消し、二人にまで及ばないように手配しておいた。だから、二人は無事だ。だが、
悔しくて仕方がない。
自由のない父様に、また迷惑をかけてしまったことを情けなく思う。
「大丈夫だ。犯人さえ見つかれば容疑は晴れる。それまでは俺の宮にいろ。陛下にも言っておいた……お前、あのまま慎刑司にいたら暗殺されるぞ。自殺だと偽装されて」
なんとも物騒なことをサラリと言いのけた皇子に絶句する。
「なんで……?私、やってない」
「お前が本当に犯人かどうかなんて、慎刑司の、あの侍郎達には関係がない。あそこは、早く犯人を上げないと自分が下に落ちて行く部署だ。誰もが上を目指し権力に縋りつく……だから、雪が死んでも何とも思われない。ただ、早く犯人として処理されれば良いんだよ。そんな所だ。宮廷なんて」
疲れた様子で皇子がため息を吐くと、皇子の後ろに人影が見えた。
「――
顔を出したのは、少々恰幅の良い母のような年齢の女性。親しみやすそうな笑顔は、私の警戒心を解していく。
「俺の唯一の侍女で乳母もしていた
かいがいしく起こしてくれようとする皇子の手を払いのけ、無理やり自分で手をつき起き上がる。
「触らないで。私を騙して嵌めたの?」
敵意をむき出しに睨みつけると、風と侍女の
「はあ~?」
あきれたように頭をかく風とは違い、林杏は遠慮がちに笑っている。
「……差し出がましいようですが、お嬢様。それはございません。風様は人目のある場所では最低な振る舞いをしておりますが、この宮に置いては嘘は申しません。信用していただいてよろしいかと存じます」
林杏が、ゆっくりとした口調で、まるで子供に言い聞かせるように、私を見た。
「嘘よ。私と初めて会った時と、慎刑司で会った時と態度がまるで違うじゃない。私、出て行くわ」
風の傍になど居たくないと動き出すと、腕をつかまれる。
「その身体で、どこに行くんだ?それに、お前が俺の傍から居なくなった時点で……王剛と妹が捕まるぞ」
風が声を荒げる。
本当は、そんなことわかってる。風が助けてくれなければ、私はさらに拷問を受け……死んでいたことも。それに、父様は、私を心配しても動けなくて、妹を守るのに精一杯なのも。
「必ず助けるから、今は休め。すでに
「不思議?……どうして?」
暁雨様の名前が出てくると気になって仕方がない。
「…………教えて欲しいなら、これ飲め。そして食べろ。しょうがないから、俺が
……いやいや、皇子に別にそんなことして貰う必要ないけど。
風の合図で
仕方無く、什器を手に取り、じっと見たあと口をつけ、喉へと流す。
……美味しい。
そう言えば、慎刑司では、碌に飲み食いしてなかったことに今さらながらに気が付いた。ごくごくと飲んでいると、スッと手が差し出された。
その手は、もちろん皇子のもので
「ほら、食え――どうせ、食べさせて貰えなかったんだろ?もう少し休んだら、食事を運ばせる。今はこれで我慢しろ」
……本当に
だけど、お腹が好いている私は、チラリと風を見たあと、恐る恐る手に取り、瑞々しい茘枝を口に入れた。
「……美味しい」
果汁と甘味が口の中に広がり、思わず頬が緩んだ。
すると、風がなぜか立ち上がった。
「――用があるから夜にまた来る。何か欲しい物があるなら
いきなり背を向け、去って行く皇子を不思議に思っていると、林杏はクスクスと口元を袖で隠し笑いを堪えている。
「あ、あの……皇子様はどうしたのでしょう?」
皇子がいなくなると林杏に聞いてみる。
「ああ、お気になさらずに。お嬢様。それと、この宮では決まりとして、「皇子」ではなく「風」様とお呼び下さい。よろしいですか?」
なぜに、名前を……普通なら、名前さえ私のような身分が口にしてはならないはず。
「あ、でも…………」
「わかりましたね?」
強くそう言われると、大人しく頷いておいた。なぜか、この林杏に逆らってはならない雰囲気を感じ取ったからだ。
「では、お嬢様……こちらの茘枝も……」
「あの!私はお嬢様ではございません。宮女見習いですし、それに、今は罪人です……」
そう言うと、林杏は首を傾げた。
「この宮では、雅風様の言うことは絶対なのです。ですので、お嬢様はお嬢様と呼ばせて頂きます」
何度、断っても、決して呼び名を変えようとしない林杏に負け、私は傷ついた身体を癒すために、また横になった。
――これからのことを思いながら。
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