吐息






くれがかった空から射した光が部屋の一部を蜜柑色に染める。

そこの部分だけ他の次元に存在しているかのようでもあった。

白いソファは簡単にオレンジ色に染め上げられ、最初からその色であったかのようにそこに存在している。

そのソファの上に、半分蜜柑色に染まった男が特に何をするでもなく、天井を眺めていた。



✦ ✦ ✦




ずっと、彼のことしか頭の中に存在していない。彼の撫で心地が良さそうな首筋がまるで静止画のように頭の中に映し出されている。それと同時に彼の、安心へと導くような声がこだまする。同時に隣でずっと彼の声と姿を独占したいと思った。

彼が隣にいたら、と考えるだけで胸が圧迫される。

二十八のおじさんが青年に対して何考えてんだよ、と思いながらも妄想を止められなかった。




彼が家に来た。学校帰りに来いといったのを覚えていてくれていたのだ。制服姿は彼の白い肌の美しさを際立てる。

風が吹き込む部屋の中で、耳にイヤホンを装着しながら、彼は熱心に問題集を解いていた。何の音楽を聴いているのか、必死で聞き取ろうとしたが、不可能だと思い、おきらめた。

姿勢が良く、ペンの進む音も良い。思わず目を閉じて、その場で眠りについてしまいたくなる。

だが、その心地よさを断ち切ったのは俺だった。


「なぁ、一緒に暮らさないか。」

ペンの音が止まると同時に、彼が頭を上げる。


「もう一回…言っていただけますか…?…すみません、イヤホンしてたので。」

申し訳なさそうに彼が言った。


「一緒に暮らさないか?」


「日向さんと…ですか。」


「それ以外に何がある。」


大きな目をさらに大きくした彼は、数秒間俺の顔を見つめてから、こちらこそおねがいします、という簡潔な答えを出した。

長く、淑やかな首が丁度染井吉野の花びらの色のように色味を帯びていた。

彼が俺の家に移動することに決め、一通りの日程を定めた。



彼と暮らすにあたって、ある部屋の掃除をしなければならなかった。前、俺の彼女だった人が暮らしていた部屋だ。あなたと暮らした思い出はいらない、といい全ての家具を残したまま出て行った。

俺が売れていた頃だった、彼女が別れを告げたのは。

俺の初恋の人であった。別れを切り出した理由は、会いにくくなったから、という単純かつありきたりなものだった。




彼を家に住まわせようと思ったのは、一人で家賃を払いながら生活するのは厳しいと思ったからだ。この家はローンは不要なため、水道代や電気代さえ払えばいい。彼とは割るということにしておいたが、大人が子供に払わせるのは身がひける。


しかし、それだけが理由ではないのかもしれない。


前に感じた胸の鼓動や、彼の瞳に見入ってしまうことに理由があると言われれば、否定はできない。大体、彼女がいた部屋の掃除をできるのも、もう彼女に対して未練がないからだろう。少し前までは部屋に入ることさえできなかった。となると、俺は少年にやはり、恋をしているというのか。彼に唇を強く押し付けたり、唇を絡ませたり、彼の裸体に触れたり、彼を喘がせたりしたいのだろうか、俺は。考えれば考えるほど自分の心理がわからなくなり、考えることを放棄した。




彼がこの部屋に引っ越してきた日は、7月の初め、歩くだけで少し汗が滲み出る時期だった。一つの荷物を運ぶだけで怠くなる。彼の少ない荷物を運び終え、彼の首筋に流れる数筋の汗をぼんやりと眺めた。何故荷物がこんなに少ないのか、と尋ねるといらないものは邪魔になっちゃうんで処分しました、と返ってきた。

彼の汗に見惚れていた為、エアコンを付け忘れていたと気づいたのはだいぶ時間が経ってからだった。





一通り荷物が片付いた為、彼を風呂に勧めた。



夢のようだ。彼がこの家の中にいる。これからは朝から夜まで彼はここが拠点となる。それだけで…いやそれがあることが全てになっていた。それ以外は何もいらない、と言ってしまっては過言になってしまうが、彼がいる以上、俺が幸福であることに変わりはなかった。




「お風呂、綺麗ですね。」

シンプルな青と緑のボーダーのTシャツに、濃いベージュの半パンを履き、タオルを肩にU字型に巻き、髪を半濡らしにしたはるが軽い足取りで風呂場から出てきた。


「ああ、風呂にはこだわったからな。」


「お風呂が好きなんですね。」


「ああ…まあな。…それにしても早いな。」


「…なにがです?」


「入浴時間。」


「そう、ですか…?」





身につけていたものを全て脱ぎ捨て、鏡の中のもう一人の自分と向き合う。数秒して、その自分に背中を向け、風呂場へと入った。濡れた床に彼の汗がまだ残っているのだろうか。この溜まり水のどこかに彼の一部だったものが沈んでいる。


数十筋の水を無駄使いしながら、彼の妄想に耽る。シャンプーを頭に擦りつけ、念入りに毛根をほぐしながら、汚れを流す。その後にまた別の液体を髪の毛につける。髪の毛一本一本に浸透させるように優しく撫で、放置する。体には液体だったものの泡を凹凸を艶に撫で回す。彼の顔が頭に浮かんだ。

体についた全ての泡を流し、浴槽へと入った。



風呂から上がると、ソファーの上で彼は寝ていた。寝ているその姿は芸術作品のように繊細で手に入れたくなった。彼の隣で紅茶を飲み、十分に寝顔を堪能したところで、彼の背中と足の関節の後ろに腕を入れ、持ち上げた。顔の距離が近くなり、抑えられそうになかった。



彼の唇に軽く唇を重ねた。彼の吐息が微かに、そして密かに顔にあたった。



そして思った。やはり俺は恋してる、と。





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