白き純情
目をさますと、狂いそうなくらいの白が目に入った。それは唐突に折れ曲がり、俺に向かって伸びている。その中央あたりには淡い光を放つ満月のような照明が引っ付いていた。小さく白い部屋を上から見下ろしているような感覚に襲われた。同時にひどい頭痛と嘔吐感に襲われた。
昨夜の酒は俺には重かったのだろう…。
天井から目を離し、部屋に目をやると淡く、消えてしまいそうな色合いで統一された清潔感のある空間が広がっていた。素朴な木製の机には数冊の色とりどりの本が置かれており、床は傷をつけないためにカーペットが敷かれている。
部屋には風が窓から吹き込んでいて、それがさらに清潔感を増す。ウッド系の香りで満たされており、心地よい。
不意部屋の扉が開く。昨日出会った少年がお盆を抱え、入ってくる。
「あの…日向さん大丈夫ですか?」
「…ああ。」
「…話していたら急に寝ちゃったので…置いてくるのも気が引けたんで…その、勝手にすみません。」
「…いや…助かる。」
俺が二日酔いに苦しんでいると感づいたのか、うなづくこと意外に何もせず、食事を机の上に置いた。そして、椅子をベッドの横に運び、しばらくぼーっとしていた。彼の目は清らかで美しくかった。澄んだその長い睫毛の生えた目は俺の何もを見透かし、それを包み込んでくれるかのようだった。
「ちょっとしたらまた来ますね。なんかあったら…、いや、何かある前に駆けつけるようにします。」
では、という声とともに舞い上がる鶴のようにそこから立ち上がり、開いたドアの横で軽くお辞儀をし、戸を閉めた。まるでそこに何もなかったかのように見える部屋には彼の香りと座っていた椅子が残っていた。
学生に助けられるなんて馬鹿じゃないのか、とつぶやいた。自分で勝手に怒って、勝手に飲んで、勝手に公園で歌ったのに、自分で後処理をしないなんて大人として、いや、一人の人間として最悪ではないか。
売れた時、俺は最高だと思っていた。
前に出るだけで観客が湧いた。
しかし、そう考えていた時点でもう俺は最高ではなかったのだと思う。
よく、テレビに映る有名人は、謙虚であれ、という。それはとても難しいことだ。一番難しいと言っても過言ではないのかもしれない。だが、同時に一番大切なことでもある。謙虚さをなくすと、全てが崩れ始める。
最後には何もなくなる。
そして、何もなくなって初めて気づくのだ。
一番大切だったものを欠いてしまったんだと。
再び寝ようとすると、静かに迫り来る嘔吐感に襲われた。おぼつかない足取りで部屋を出る。隣の扉を開ける。そこが幸い便所だったことに感謝し、便座を開け、便器の前に座り込む。
毎度この行為をするたびに屈辱的だと思う。俺は便器にもひれ伏すまでに成り下がったのか、と自分に問いかける。馬鹿らしいと思いながらも自分の中では答えは出ていた。今は便器にも縋りたいほど、今までにないくらいに圧迫感のあるそれに襲われていた。
水位が上がってきた川のように腹から喉へそれは上がってくる。
不意に背中に暖かいものが当たる。それは俺の背中を上から下へと撫で、また上に戻り、それを繰り返した。口の中に苦味と酸味が混じった汚水が広がる。それは口の中に残留物を残しながら便器へと流れていく。勢いに任せ吐き出せるだけ吐き出した。
吐き終わって少しの達成感と口の中に残る苦味と酸味を味わっていると、こっちですと美しい瞳の青年が洗面台へと案内してくれた。
口の中と周りをできるだけ清潔にし、衣類に付着していないことを確認すると、ほっとした。
鏡の中に映る自分の顔は都会の野良犬のようだった。久々に見たその顔に自分でも驚きを隠せなかった。
ふと青年の名前を聞いてないことを思い出し、最悪のタイミングであることは承知の上、聞いた。
「はるです。
「そっか…。ありがとう。だいぶすっきりした。」
「…いえ。」
彼は少し首を横に振り、頬を桜色に染めた。
「だいぶいいですか?」
「ああ。ありがとう。」
「あの…日向さん、かっこいいんだから公園で一人で寝たりしたら危ないですよ。」
真面目な顔で彼は言った。その澄んだ瞳にまた見入っていた。彼が回答を待っていることに気づき、急いで、気をつけると言った。
彼は見れば見るほど可愛らしく、無垢に見えた。
白く少し血の気の悪いその肌は俺の彼への興味をかき立てた。触れたら砂の城のようにサラサラと風にさらわれて消えてしまいそうで、また城をさらう緩やかで少し潮の匂いを帯びた風のようでもある彼は水彩画のなかの存在のようだった。
一本一本の毛が芯を持ったような黒髪はその水彩のなかに趣を足した。
✦ ✦ ✦
部屋に戻り、彼の匂いに包まれながらベッドに横たわっていた。
もう帰ったほうが良いだろう。そう思い、だいぶ痛みが引いた頭を抱えながら、ダイニングに続く戸を開いた。
「もう、大丈夫。」
「あ、そうですか…。」
彼はどことなく切ない顔をした。間を置いてから、よかったですと言った。
「お世話になった。本当にありがとう。助かった。」
「あの…もしよかったら…」
彼は何かを言おうとしたが、上唇と下唇を強く押し付けた。彼が言おうとしていることに気づいたが、自分から言うのも変だと思い、黙っていた。
外に出る。しかし、家への道がわからない。
「…家ってどこだっけ。」
俺は不器用な笑顔で彼に言った。
「家、どこですか?…あっ、でも個人情報はダメ…ですよね。」
大真面目に言う彼を見てひとしきり笑った後、俺はもう違うからいいんだよと言った。
僕のなかではいつまでもという言葉が返ってきて、口元がゆるゆるになった。
「とにかく、送って欲しいんだけど。」
「はい、喜んで。」
彼と歩く道は、いつもの道と何か違っていた。
いつもは何の意味も持たないその道は、光を与えられたかのようだった。
彼の目にはこの世界がどう映っているのだろうか。
そういえば、俺のことは、はるにはたくさん知られているが、俺ははるのことをほぼ何も知らない。有名人だったから当然なのかもしれない。しかし、知っているのは彼が学生であり、男であり、名前が「宮中はる」であり、親がいないことぐらいだ。
「なぁ、お前の親のことって聞いてもいいの。」
「いいですよ。」
「…なんでいなくなったの?」
「捨てたみたいです。僕を教会に。」
「そっか…はるはどうやって生活してんの。」
「学費は学校のほうで負担してもらってて。生活費はバイトです。」
「…頭、いいんだな。」
「いえ、必死でやっただけです。」
彼は笑った。
どうして彼はこんなに清らかなのだろう。
社会の嫌なところをたくさん見ているだろうに。
もしかしたら彼の根には何か決して汚されない土台のようなものがあるのかもしれない。もしそれがあったら、白く光りを放つ祭壇のようなものだろう。そこは白く神々しい鳥が飛び交い、静けさを保っている。
唯一の音は鳥の羽ばたく音と水の滴る音なのだろう。
「家、ここだ。」
そういうと、見ずとも彼が少し切なげにしているのわかった。
「そうですか。また…来てください。」
彼はそういうと、手を振った。
✦ ✦ ✦
数日が過ぎ、家のチャイムが鳴った。
俺の家は売れた時代に現金払いしたもので、ものはいいが、俺の心境とリンクしているかのように今は寂しげにここに立っているだけだ。
聞こえる音は生活音、家具の軋む音と時計の重い音のみ。
「はい。」
目の前に小さくも美しい彫刻のような彼が立っていた。
「…あっ。あの…はるです。体調…どうですか。」
扉を開け、大丈夫だといったあと、彼を中へ招き入れた。
「…簡素、ですね。」
「まぁ…成人男の一人暮らしなんて汚いか簡素のどっちかだろ。」
「へぇ…。」
彼の部屋の可愛らしさを思い出し、彼に見えないところでにやけた。
「でも、治ったなら…もう僕はいらないですね。」
その言葉を聞いた瞬間、桜の花びらが全て舞い散ってしまうのを見るような、池の鯉が全て流れ出ていくような、飼っていた鳥が檻から空へと逃げ出てしまうような喪失感に襲われた。
「いやだ。」
唐突に口からその言葉が出た。その三文字だけで帰ろうとドアに足を進めていた彼が動きを止めた。
「…また、会ってもいいか。」
必死に紡ぎ出したその言葉は放った瞬間に恥ずかしくなった。
彼は僕の目をいつもよりさらに大きな目で見つめていた。
「会っても…いいんですか?」
彼のその一つ一つの文字に秘められた感動を、ひしひしと感じることができた。ああ、とだけ言った。
彼を早々と家へ返した。そうしなければ、この胸にさらに強く鳴り始めた鼓動を抑えることができなかったからだ。
この鼓動はステージ前の緊張感とは違い、何か奥から滲み出てくるようだった。
濃い桜色に染められた頭の中を一生懸命無色に返そうとするが、やはり「恋」の力はすごい。ずいぶん年の差じゃないか。大体俺は男だぞ。馬鹿なのだろうか、俺は。等々狂ったのだろうか。
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