第19話 夢紬
※
2013年、6月。
名古屋、広小路通りを東へひた走る1台のタクシー。そこに乗っているのは中京新聞・報道部記者、新島篤志であった。
「そこの信号、右で」
後部座席から身を乗り出す篤志。
「お客さん、フロントロビーは向こう側ですが…」
向かっている先は名古屋東急ホテル、篤志にとっては懐かしの東急ホテルであった。
今から約12年前。当時の松川総合研究所が満を持して世界へ発表した「がんの消滅理論」。その発表会場こそが、ここ東急ホテル・ヴェルサイユの間であり、報道記者として、その場を取材したのが新島篤志、その人であった。今や中京新聞の報道部デスクと言う肩書を持ち、外へ取材に出かける機会がめっきり減った篤志ではあったが、今日ばかりはそうもいかなかった。
およそ1週間前、各報道各社に出回ったファックス。
そのファックスの発信者は『医療法人若葉会・若葉台総合病院・波多野 涼』であったが、そのファックスには連名があり、そこには松川理化学研究所の後身となる『総合理化学研究所・桐嶋一樹』の名前があったからだ。
そのファックスを見た新島篤志は「あの日の再来」を予感した。
松川理化学研究所の前身と言えば、あの松川総合研究所だ。
今日ばかりは若いもんには任せておけない。その一心でタクシーに飛び乗ったのだった。
「運転手さん、いいよ。裏口から入るから」
「かしこまりました」
タクシーの運転手はそう言うと信号をゆっくりと右折し、裏道へ入った。篤志は少し行った所でタクシーを止め、ホテル裏口まで歩いた。ホテルの裏口など手慣れたもんだった。裏口出入口で守衛に止められたが、報道関係者の証明書を見せれば、すんなりと通してくれた。ちょっとセキュリティが甘くなっている具合も当時と非常に似つかわしい。それは関係者だけではない、ホテル側もいきりだっている証拠であった。
ファックスの表題は『若葉台総合病院・再生医療センター新設について』
と、書かれていた。
単に新センターの発表なのだろうか、とてもそうは思えない。この異様な雰囲気に「何かある」とは思わずにいられなかった。そもそも、その新センター新設になぜ総合理化学研究所が関係あるのか。当時の松川総研にてクローン技術が研究されていたとか、いなかったとか、そんな噂が過去、報道関係者の間に出回ったこともあるが、その延長上に今日があってもおかしくはない、そんな想いに駆られるのだった。
東急ホテルの3階に着いた篤志。フロアは大勢の人でごった返していた。受付で手続きをして、会場へと入る。篤志は見慣れない風景に辺りをぐるりと見渡した。今のヴェルサイユの間にあの日の面影はなかった。真新しいエレガントなシャンデリア、まさにヴェルサイユ宮殿…、新しいヴェルサイユの間がそこにはあった。
しばらくして、篤志の席から前方10メートル程先に設けられた檀上に人が現れた。ひとりひとりが壇上に設けられた席に着くと、その席にひとりずつの名前が貼られていった。
篤志はその貼紙をひとりずつメモしていった。
「医療法人若葉会・若葉台総合病院・院長・波多野 涼」
「医療法人若葉会・若葉台総合病院・再生医療センター・夢野 彩」
「医療法人若葉会・若葉台総合病院・日間賀島診療所・助産科・
「松川ホールディングス・総合理化学研究所・所長・桐嶋一樹」
「松川ホールディングス・総合理化学研究所・セクトA・大矢祐司」
「国立脳科学研究所付属・先端研究センター・佐伯博信」
「国立脳科学研究所付属・先端研究センター・スピカユニット・神内奈緒子」
「株式会社メディカルフロンティア・営業部・上谷高志」
そして、その出席者の頭上には、
『若葉台総合病院・再生医療センター新設について』と
『再生医療分野における各企業間の業務提携について』
と、書かれた横断幕が掲出された。
その横断幕に会場はざわついた。
一方、篤志は「なぜだ?松川啓介がいない」とひとりつぶやいたのだった。
あの日の再来。
それは松川啓介の復権そのものであり、今日と言う日はそのためだけに用意された単なるイベントであると思っていたからだ。総合理化学研究所も若葉台総合病院も全ては世間や報道の拒否反応を緩和するためのカモフラージュであり、最終最大の目的は「松川啓介の復権」であると思っていた。
だが、この後に続く若葉台総合病院・波多野 涼の発表により、新島篤志は「がんの消滅理論」以来の衝撃を受けることになるのだった。
檀上、中央に席を陣取るのは「若葉台総合病院・波多野 涼」であった。波多野 涼はざわつく会場が落ち着くのを待ってから、マイクのスイッチを入れた。
「本日はお忙しい中、当院の再生医療センター新設におけるプレス発表にお越し頂き、誠にありがとうございます」
「さて、まずはひとりずつご紹介いたします。私の右手、新センターとなる再生医療センターのセンター長をお願いすることになります、夢野 彩さんです」
夢野 彩が席を立ち、会釈をした。
「夢野 彩と申します。よろしくお願い致します」
「夢野さんには現在、当院の救急救命センターのセンター長をお願いしており、来月付きでそちらのセンター長を退任、新たに再生医療センターのセンター長として就任して頂きます」
彩は再度、会釈を行った。
「続きまして、その隣ですが。当院の付属診療所となります日間賀島診療所・助産科の生方恵子さん。尚、生方さんには再生医療センターの新生児ユニットのユニットリーダーを兼務して頂きます」
生方恵子の挨拶に続き、涼が続ける。
「さて、続いては私の左手からご紹介致します」
総合理化学研究所、国立脳科学研究所、株式会社メディカルフロンティアの順に紹介が続いた。
はて?と会場内の多くの記者が頭を傾げた。再生医療センター・夢野 彩、日間賀島診療所・生方恵子までは分かる。その後に続く人たちが再生医療センターとどんな関わりを持つのか、その説明が全くなされなかった。
だが、次なる波多野 涼の一言はその疑問を一掃することになる。
「さて、ここから本題となりますが、当院の再生医療センターは当院と関係企業2社で共同技術開発を行った『エードロップ細胞』による世界で初めての再生医療技術を提供するセンターとなります」
同時に前方、スクリーンには『エードロップ細胞』の詳細がプロジェクターによって映し出された。
「エードロップ細胞だって?」
ざわつく会場。一気にカメラのフラッシュがたかれた。
「エードロップ細胞の詳細につきましては、国立脳科学研究所・神内奈緒子さんより説明して頂きます。神内さん、よろしくお願い致します」
「はい…」
会場を見渡す神内奈緒子。大きく息を吸った。
「…ここからは国立脳科学研究所が主体となり、若葉台総合病院と総合理化学研究所にて共同技術開発を行ったエードロップ細胞について、ご説明致します」
スクリーンに映し出された画面が変わり、奈緒子の説明が始まった。医療を専門としない記者にも分かり易いようにと図解を取り入れるような形で説明がなされた。会場の方々から率直な疑問が挙がっていたが、時間最後に設けられた質疑応答までお待ちくださいと制止された。
そして、およそ15分。説明が終わったその後にマイクを引き継いだのはなんと上谷高志であった。
「メディカルフロンティアの上谷と申します」
上谷高志は若葉台総合病院の波多野と、総合理化学研究所の桐嶋に目で合図を送り、何かを確認した後に口を開いた。
「さて、ここからはこのエードロップ細胞を利用した再生医療プロジェクトについて、ご説明差し上げます」
そして、前方スクリーンには驚くべき言葉が表示されたのだった。
『フェニックスプロジェクト』
もう、会場のざわつきは自然に収まる程度のものではなかった。それは普通の人間でも分かる…、人類の歴史上で大きく何かが変わろうとする瞬間。その瞬間に立ち会える人々の高揚を表しているようであった。
「申し訳ありません。少しお静かにお願い致します」
高志は会場内を伺い、しばらくしてから言葉をつなげた。
「エードロップ細胞を利用した再生医療プロジェクト。それがフェニックスプロジェクトとなります。尚、このプロジェクトは国立脳科学研究所を所管する厚生労働省より来月早々にも認可が下りる予定となっております」
ついに国立脳科学研究所・先端研究センターがひた隠し、守り続けた「フェニックスプロジェクト」が公になるのだった。だが、これは新規プロジェクト名よりも既存名の方が厚生労働省からの認可が早いという盲点を突いた佐伯博信の考えた方策であり、公になるのは名称のみであった。
当初、国立脳研の幹部は名称の使用すらも許可しなかったが、エリカの存在を含めプロジェクト・コードPに関わる先端総研全ての施設は頑なにその存在を伏せることを条件として、博信の説得に応じる形となった。
これで若葉台総合病院と関係企業3社のつながりがはっきりしたのだった。
「さて、このフェニックスプロジェクトにつきましてご説明致します」
ついに高志よりフェニックスプロジェクトの全貌が明らかになろうとしていた。
「現在の再生医療、その最先端を行く技術は『iPS細胞』であると思われますが、そのiPS細胞の10年先を行く技術、それがこの『エードロップ細胞』であります」
上谷高志も神内奈緒子もこの場での明言は避けたが、「エードロップ」とは「a drop」をカタカナ読みしたもので、その和訳は「一滴」と言う意味だ。
そう、血液一滴から生成可能な万能細胞、
それが『エードロップ細胞』であった。
「そのエードロップ細胞を生成するためのシステム。それがスピカシステムと呼ばれるシステムとなります。システム開発を手掛けたのは国立脳科学研究所・スピカユニットであり、そのシステムを支えるプラットフォームとしてネットワーク型高速計算機SPICAを開発したのが、総合理化学研究所・セクトAとなります」
国立脳科学研究所・スピカユニット。
セピアの「ピ」と、エリカの「カ」。あとは語呂合わせで「スピカ」。
総合理化学研究所・セクトA。
幻となったセクトα、その原点となるセクトA。
少しでも先人の想いを世に…、と敢えて使用された名称であった。
「この各技術はそれぞれ単体では機能致しません。全てがネットワークにより繋がり、若葉台総合病院の生体ポット、国立脳科学研究所のスピカシステム、総合理化学研究所のSPICA、相互に認証が出来た時点で初めて機能するフールプルーフを取り入れた設計となっております。また、同時に悪意のあるテロ攻撃にも耐えうるようにSPICAにはネットワーク迎撃機能を搭載し、万全の体制としております」
高志は水を一口だけ口に含んだ。
「そして、若葉台総合病院を窓口とし、その技術を幅広く日本国民の皆様に提供させて頂くプロジェクトが、このフェニックスプロジェクトとなります」
決してこれは神への冒涜ではない。人類が自らの力で切り開いた再生医療と言う列記とした再生医療技術、そのものであった。
高志が「以上です」と言うと、会場内からはスタンディングオベーションが送られた。会場を見渡す。見る人見る人、全ての人が8人を称賛の眼差しで見守っていた。予想以上の反響に驚きを隠せない壇上の8人。
8人共、ふと気付くとその場から立ち上がり、深く頭を下げていた。
やっとこの日が来た。
思い返せばさかのぼること、松川総研・セクト8。その夢のバトンはその後、セクト12を経て、国立脳研・佐伯博信の元へ渡った。
バトンを受け取った国立脳研・佐伯博信はエリカシステムを開発。そのシステムにより血液一滴からヒトを創りだすことに成功した。だが、それは不安定で、かつ倫理を超えた存在であり、世界から受け入れられるはずもなかった。エリカシステムを世に送り出すためにはどうしたらいいのか。模索する日々が続いた。そんなある日、起きてしまったシステムの暴走事故。松川理科研の力添えで早期に収束したことで明るみになることはなかったが、それはシステムが不安定である事実を裏付けることにもなった。だが、事故が収束して数か月後、奇しくもその答えは坂井慶一がセピアシステムを解放することによって導かれた。システム開放により可能となったセピアシステムとエリカシステムの統合。不安定であったシステムを安定させることに成功したのだった。
そして、佐伯博信は松川啓介にひとつの提案を持ちかける。
「ヒトが駄目なら万能細胞ならどうだ。万能細胞による再生医療」
その一言がひとりひとりの夢をつむいでいく。
松川啓介は具体的な相談を総理研の桐嶋一樹と、若葉台総合病院の波多野 涼に持ちかける。
桐嶋一樹はセピアシステム再起動の実績を買って大矢祐司を雇用し、高性能計算機『ERIKA』にスーパーコンピュータ『
波多野 涼は万能細胞を取り扱う専門施設として同院内に再生医療センターを新設。そして、この万能細胞による再生医療をきちんと日本国民に提供できるように国の医療・健康・福祉を所管する行政機関である厚生労働省との仲介役として、自身が信頼を置き、かつ医療法律にも詳しいメディカルフロンティアの上谷高志を指名したのだった。
あの日から始まったひとりの男の夢。
それは長い時を経て受け継がれ、いつしかみんなの夢となっていた。
その男、坂井慶一の夢は今、世界へ向けて羽ばたこうとしていた。
スタンディングオベーションが収まり、マイクを握る波多野 涼。記者一同は質疑応答が始まるものだとメモ帳やデジタルレコーダーを取り出したのだが、涼から発せられた次なる言葉はスタンディングオベーションの続きを彷彿させるものであった。
「最後にフェニックスプロジェクトには当院の付属診療所である日間賀島診療所・助産科も参加致します。このフェニックスプロジェクトは我々、若葉台総合病院が掲げる
波多野 涼と生方恵子の両名が席を立った。
「これからも若葉台総合病院をどうぞよろしくお願い申し上げます。尚、当院の十月十日プロジェクトの詳細につきましては別途お問い合わせ頂ければと存じます」
そう言った後、残る6人が席を立った。
「本日はお忙しい中、誠にありがとうございました」
と、波多野 涼を含む8人は頭を深く下げて、その場を締めくくった。
波多野 涼と他7人の夢もまた、世界へ向けて羽ばたこうとしていた。
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