第18話 行路

行路こうろ


 それからおよそ1週間後のある日、松川啓介の携帯電話に松川理科研、桐嶋からの着信が入った。

「遊佐 学さん、分かりました」

 桐嶋は興奮気味でそう話した。

 遊佐 学。

 その名は啓介が退院したあの日、八神英二が教えてくれた命の恩人の名前だ。本来であれば、名前ですら分からないのが普通だが、それを知り得たのは八神英二の厚意と言えた。それだけでも感謝しなければならない。

 啓介は遊佐 学について調べていたのだが、松川鉄道の社長である啓介に、まとまった時間が取れるはずもなく、そこで桐嶋が途中交代、代打として登板したと言う訳だ。

 桐嶋も暇な訳ではないのだが、秘書と言う職務上、不思議と多くの情報が集まってくるのも事実。その点においては啓介より桐嶋の方が適任であったかもしれない。とは言え、相手は故人であり、それも聞いたのは名前だけ。調べを進めるのは正直容易なことではなかった。

 そんな矢先、松川理化学研究所と国立脳科学研究所、そして常滑市にある若葉台総合病院が業務提携を結ぶと言う話が持ち上がったのだった。急な話ではあったが、勘の鋭い桐嶋がこのチャンスを逃すはずはなかった。遊佐 学は若葉台総合病院で息を引き取っている。業務提携締結へ向けて若葉台総合病院に出入りをすれば必ず何かしらの情報は手に入る。桐嶋は松川理科研・所長の松川美奈子に自分を業務提携の担当者にするよう掛け合った。すでに一樹と美奈子の婚約も決まり、一樹が次期所長に内定している状況下で美奈子がその方針に反対することはなかった。

 そして、桐嶋が若葉台総合病院に出入りすること数回。看護師同士の話を盗み聞きした結果、知り得た情報がこれであった。

「遊佐家の墓は八事霊園にあります」

「八事か」

「それと偶然なのですが、今日が百か日法要になります」

「百か日法要?」

 松川鉄道、本社事務所の一角。社長室と呼べるような場所は敢えて作ってない。そんな自分の居場所で啓介は桐嶋からの電話を受けていた。携帯電話を左に持ち替え、右手でパソコンのマウスを操作する。検索画面を出して、検索ワードに『百か日法要』を入力した。一瞬にして検索結果が画面に表示される。

「死後100日目の法要。遺族の悲しみをリセットするための法事、か…」

「はい。ご遺族の悲しみが癒えることはないと思いますが、信仰上は悲しむのをやめるという意味の日です…」

 少しおいて桐嶋が続けた。

「今日、行かれてはどうでしょうか?」

 さすがであった。啓介が何を考えているのか、お見通しのようであった。

 時計を見ると午前10時。今から八事霊園に向かっても、午前中には十分間に合う。啓介は桐嶋に礼を言って、電話を切った。

 本社を出て、松川鉄道・西浦北駅から常滑駅へ向かう。そこから名古屋鉄道を使い、金山総合駅。そして、名古屋市交通局・地下鉄名城線に乗りかえれば、およそ1時間で目的地の地、八事であった。

 駅から徒歩10分、八事霊園と書かれた石碑を見つけた。その石碑の前には数件の花屋。手ぶらの啓介は一番近い花屋で仏花を購入した。と、同時に「ひゃっかにち…」と言ってみた。すると花屋の店員は「あ、遊佐さんですか。それはパンダの目印、えーっと」と言いながら、霊園の地図を啓介に手渡し、説明をしてくれた。

桐嶋の言う通りだった。それはそれは広い八事霊園。遊佐家の墓石を見つけることは容易いことではない。これが桐嶋の思い付いた方法であった。

 遊佐 学の百か日法要の話は若葉台総合病院の看護師から聞いた話であり、かなり固い筋からの情報であった。百か日法要を行うとすれば墓前供養をする可能性が高い。そうすれば仏花を事前に準備ことが予想される。もちろん、場当たり的に仏花を購入する可能性もあるため、ある種これは賭けでもあったが、ま、花屋の店員が「百か日…」と聞いて反応がなければ、また別の手段を考えればいい、そう思っていた。

 啓介は花屋の店員に説明された通り、霊園内を歩いた。

 石碑を通り過ぎ、左手に納骨堂を望みながら、うさぎの看板、かにの看板を通り過ぎる。途中、数人の墓参された方とすれ違い、挨拶を交わした。平日であると言うのに、思った以上に墓参される方が多いことに驚く啓介であった。

 これこそ、御先祖を大切にする古き良き日本人の気質と言えよう。

 少し歩くとパンダの看板が見え、そこから石で出来た階段が一直線に上へと続いていた。

「この上かな」

 見上げる啓介。階段の段数はおよそ数百段。もし夏であれば汗が吹き出すのは必至だ。啓介はパンダの看板付近にあった水道で水桶に水を足した。

「さ、行こう」

 一段一段、歩みを進めた。右足、左足。比較的整備されている階段ではあるが、一段一段の段差が異なっており、非常に登りにくい。しばらくの間、もくもくと登り続けた。途中、階段の手すりにつかまり、来た道を振り返る。パンダの看板が小さく見えた。辺りを見渡すと数えきれない程の墓石が眼下に広がる。啓介は八事霊園の規模の大きさに圧倒された。

 花屋の店員にもらった地図を見返し、再び進行方向を向く。地図で見た感じではあと三分の二と言った所だった。

 数段登って、上を見上げると60歳前後の夫婦が階段を下りてくるのが見えた。啓介はすれ違いざまに挨拶をした。

「こんにちは」

 不思議と啓介の方から声が出た。

「こんにちは」

 夫婦は普段着でもなく、喪服でもない、黒っぽい控えめな服装を身にまとっていた。啓介をやり過ごした夫婦は階段を数段下った後、ふと振り返った。自然と視界に入る啓介の背中。そして、その視線の先には我が家、先祖代々の墓。

 夫婦は互いに顔を見合わせ「うん」とうなずき、再び階段を下りだした。


 ここまで来ると手元の地図を見なくても遊佐家の墓がすぐに分かった。

 すでに綺麗な仏花が飾られてあり、墓の中心に置かれた線香立てからはもくもくと煙が立ち昇っている。

「遊佐家之墓、これだ」

 墓を前にして、大きく息を吸った。

 啓介の胸がドクンと波打つ。一瞬、発作かと思った啓介であったが、手術をする以前に過去何度も発作には襲われている。この感じ、その発作とは何かが違って感じた。発作と言うより自分が生きていることを実感させられるような力強い鼓動のようなものに感じた。

 と、次の瞬間であった、

『生きて下さい』

 と男性の声が啓介の脳裏をかすめた。ハッと辺りを見渡す啓介。そこには誰もいない。

「遊佐さんですか」

 そう言いながらゆっくりと遊佐家の墓へと歩みを進めた。

 辺りには誰もいないはずなのに啓介には何かが見えるようであった。墓前、いや、自分のすぐ目の前。そこに遊佐 学が立っているように感じた。

 墓前に立ち、水桶から仏花を取り出す。その仏花を既に飾られた綺麗な仏花に追加するような形で墓の花筒へと挿した。小菊にカーネーション、スターチス。白、赤、黄、色とりどりの花が遊佐家の墓を華やかに引き立てていた。

 啓介は墓前にしゃがみ込み、数珠を指にかけて手を合わせた。

 そして、そのまま目を閉じた。

『遊佐 学さんですね。初めまして、松川啓介と言います。あなたが提供してくださった心臓のお蔭で私はこうやって今も日常生活を送ることが出来ています。本当にありがとうございました。あなたが青年海外協力隊として海外に行かれていたこと、聞きました。人のために生きる…人の役に立ちたい、と周囲にも、そう話していたそうですね。素晴らしいことだと思います。私があなたくらいのとしつきに同じことを思えたかと言うと、自信がありませんね。ちょうど研究所の所長を任される前後の頃でしょうか。人の役に立つ商品を世に送り出す…、その一心で邁進したつもりでしたが、結果的にそれは私利私欲でしかなかった。本当の意味で、人のために生きることの難しさを感じました。そんな難しさと向かい合い、自ら実践してきた学さん。あなたは本当に素晴らしい人だと思います』

『生きて下さい』

 啓介はハッと目を開けた。辺りを見渡すが、やはりそこには誰もいない。

 何かを悟った啓介は再び静かに目を閉じた。

『生きます。あなたの分まで生きます』

 静寂に包まれる八事霊園。

 だが時折、遥か遠くから聞こえてくる人の小さな声や道を走る車の音、小鳥のさえずり、普段聞こえるはずもない小さな音が鮮明に聞こえるようであった。それは音を耳で聞くのではなく、心で聞く。そういう意味なのかもしれない。

 啓介はゆっくりと目を開ける。

 墓の両脇に飾られた鮮やかな仏花。線香の煙は天に向かって真っ直ぐに立ち昇っている。まるで、この現世で叶わなかった遊佐 学の夢を、来世へ運ぶかのようだ。すると、真っ直ぐに立ち昇っていたはずの煙が、ふと啓介の方へ流れた。啓介はその煙をすくうように、両手を前に差し出した。

 煙が啓介の両手を包み込むように舞う。

「これがあなたの夢…」

 手のひらを通じて伝わる遊佐 学の叶わなかった夢。啓介はその一端を垣間見た気がした。再び目を閉じ、墓前で手を合わせる。しばらくしてから、ゆっくりと目を開ける。すると先程とは一変、線香の煙は天へ向かって真っ直ぐに立ち昇っているのだった。


 啓介はその場から立ち上がり、遊佐家の墓を後にした。

 出所してからと言うもの、松川鉄道の経営においても、自身の生き方においても、現状維持を重んじることが啓介の基本姿勢となった。それはそれとして、とても大切なことではあるが、松川総研時代に味わった数多くの失敗をもう経験したくない、その想いが根本にあるがために、新しいことへの挑戦すらも忘れてしまっていた。

 そんな啓介に届けられた言葉。

『生きて下さい』

 啓介は、その言葉の続きを悟ったのかもしれない。

『生きて下さい。失敗してもいいじゃないですか。失敗しても死ぬわけじゃないですよ。だけど、死んでしまったら失敗すらも出来ないですよ』

 パンダの看板から一直線に伸びた石の階段。その階段を下る啓介の足取りは不思議と軽やかであった。もしかすると、啓介の背中をそっと後押しする遊佐 学がそこにいたのかもしれない。


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