第17話 約束
由美に残された時間は刻一刻と過ぎていった。
下野北の駅前にあるベンチに座る2人。秋桜園を後にし、駅の方面まで歩いてきたものの、2人は列車に乗れずにいた。列車に乗れば、もうここには来られない。二度と来られない。あの恋し草もアプローズも見られない。
そう思うと、ここから立ち上がれなかった。
でも、そうは言っていられない。
「もう帰る時間ですよね」
由美がぼそりとつぶやいた。
「まだ、いいですよ。ここにいても」
「いえ。もう大丈夫です。本当にありがとうございました」
「そうですか」
由美はスーツのポケットからUSBメモリを取り出し、啓介に渡した。
「これは?」
「坂井先生からです」
「私の首の後ろ部分に、このカードを差し込む口があります。そこにカードを差し込んで下さい」
「差し込むと…」
「お別れです」
「そ、そんな」
「坂井先生との約束なんです」
啓介は小さなUSBメモリを握りしめた。
「約束って。まだ時間もあるし、いいじゃないですか」
「これ以上ここにいたら帰れなくなってしまいます。わがままばかり言ってすいません。お願いです。カードを差し込んでくれませんか」
もう十分に泣いた。涙は枯れた。でも、声は涙声になっていた。
人が人らしく生きるのが難しい、この時代。そんな中、紺野由美はヒトでありながらも。人として必死に今を生きようとしたのかもしれない。
だから、彼女の今日一日に、もう悔いはないのかもしれない。
「そうですか」
ベンチに座ったまま由美が前のめりになると、確かにうなじの部分にUSBを差し込む口が見えた。
「じゃあ、差しますね」
「はい」
「由美さん」
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「いえ、私は何も…」
「では、さようなら」
啓介はUSBを差し込んだ。
「さようなら、由美さん」
由美はうなだれたまま、動かない。しばらくの間、特に変化はなかった。
そして、1分くらい経過した頃だろうか、由美の身体がゆっくりと起き上がった。啓介には長く感じた1分だった。
「由美さん?」
「由美さんは帰られました。私はエリカです」
「あ、エリカさん」
「松川さん、いろいろとありがとうございました」
「えっ?」
「坂井先生との約束を守って下さって」
「あ、いえ」
「坂井先生から遺言があります」
「遺言?」
「はい、今から読み上げますので聞いて下さい」
「はい」
「セクト8の事故から今日までいろいろとありましたね。まさか、こういった形であなたに言葉を残すことになるとは思いもしませんでした。でも今、この言葉を聞いていると言うことはERIKAの暴走は阻止され、由美さんの夢は叶い、そして松川さん、あなたが元気だということですよね。本当に良かった。さて先程、ネットワークを通じてセピアシステムをエリカシステムに開放するよう指示を出しました。これはあなたが約束を守ってくれた、ささやかなお礼でもあります。今までブラックボックス化されていた全てのコントロールを開放しましたので、もうセピアシステムは破棄され、エリカシステムに統合されることになります」
啓介の表情が驚きに変わった。
「松川さん、エリカシステムを必ずや人の役に立つシステムにして下さい。私の夢を次の世代へ繋げて下さい。これが私の最後の夢です」
「最後の夢?」
「本当に今までありがとう。さようなら」
エリカはそう言い終わると、自身の右手をゆっくりと首筋へ運び、USBメモリを抜いた。そして、そのままスーツのポケットへとしまった。
「エリカさん?」
「はい?」
「今のは?」
「先生の遺言です」
そう言ってエリカはそれ以上何も言わなかった。先程の由美とは明らかに違う人間味のないヒトがそこにはいた。
これが坂井慶一と紺野由美の最期となった。奇しくもこの日は紺野由美の命日であった。本当の意味での命日が今日となったのだった。
「まもなく名古屋行きホームに列車が到着致します。白線の内側へお下がり下さい」
下野北駅のホームにアナウンスが流れた。
啓介とエリカの2人はその列車に乗って名古屋駅へと向かった。
坂井慶一が残した最後の言葉。
『次の世代…、最後の夢…』
慶一が何を伝えたかったのか、この時点ではさっぱり分からなかった啓介だったが、後日、国立脳研AIセンターの佐伯博信から受けた電話で全てを悟ることになる。
坂井慶一の夢のバトンは間違いなく次の世代へ手渡されようとしていた。
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