第16話 喝采
駅を出ると北へ真っ直ぐの一本道が続いていた。左手を望むとタクシー乗り場があり、その付近には公衆トイレと公衆電話、そして鉄製の地図が設置されていた。この街の案内地図のようだ。
由美はその地図を見つけるなり一目散に駆けだした。啓介はその後を追う。
地図上、この一本道の先。北の方角には大きく緑で塗られた場所があり、その一角には桃色で塗られた場所があった。
「
啓介がつぶやいた。この古錆びた鉄製の地図を見たとたん、風情に浸ってしまった啓介は自分が事前にネット地図で場所を確認していたことすらもすっかり忘れてしまっていた。
「はい」
ここまでは松川啓介の出番。だが、ここからは紺野由美の出番だった。
ヒトとして今日1日だけ蘇った紺野由美。この看板を見たとたん、その記憶を含む全てが完全に蘇ったのだった。
「この桃色の場所。ここが…秋桜園です」
「秋桜園ですか…」
北風が由美の頬をかすめる。誘われるようにそちらの方向を向く。すると、そこには北へ続く一本道。由美は啓介の顔を見た。
「行ってもいいですか?」
「もちろん」
「はい」
ゆっくりと歩みを進める由美。啓介は人ひとり分くらい後方から、そんな由美を見守りながら歩いた。
小さな踏切を横目に歩道橋を渡る。今は使われていない踏切のようだ。それもそのはず、歩道橋が出来て、使われなくなった踏切だ。でも、昔は歩道橋なんてなかった。だから、あの踏切を毎回渡ってたんだ。懐かしい多くの記憶と想い出が一気に溢れだす。
歩道橋を下り、駅前の交差点を渡る。そして、少し北へ歩けばもう本当にあとは一本道だった。一歩、一歩、歩みを進める。
すると、歩道の端に小さな看板を見つけた。
「秋桜園まで100M」
昔から何も変わっていない、あの看板だった。体の奥から嬉しさがじわじわと湧いてくる。80M…、70M…、道幅が少しずつ狭くなり、視線の先に赤い光を見つけた。1台の車が後ろから2人をゆっくりと追い越して行った。一瞬、車の陰に隠れ消えた光。車が右折し、道が開けると再び2人の視線に、その光は飛び込んできた。
「んっ」
啓介は自然に手で目を覆った。手で覆った隙間から由美が見えた。2人の距離は人ひとり分どころか、何十メートルも離れているように感じた。先へ行ってしまった由美。焦って追いかける啓介だが、不思議と距離は縮まらない。それどころか、まぶしい赤い光は次第に強くなり、顔を伏せる程だ。それでも前を行く由美の姿がかすかに見える。そして、由美が視界から消えた、その瞬間。白い閃光が啓介を襲った。強い光に一瞬、視力を失った啓介だったが少しずつ目が慣れていくにつれ、目の前には大きな花壇が一面に広がったのだった。
「ここが秋桜園なのか」
たくさんの秋桜が咲き誇る、とてもこの世とは思えない美しい風景であった。
瞬時に由美の行方を探す啓介、かなり広い秋桜園をひとり歩き出した。秋桜畑の中央には丸太で出来たログハウスがあり、その傍らに設置された蛇口からジョーロに水を汲む男性の姿が目に入った。男性はゆっくりと啓介に会釈をした。背広姿の啓介が場違いに見えたのかもしれない。何かの仕入れに来た、そんな風に捉えられたのかもしれない。でも、男性は啓介に話しかけることもなく、そのまま花壇へ水やりに向かった。
辺りを見渡す啓介。目に飛び込んで来るのは、どれもこれも秋桜ばかり、ここが秋桜園と呼ばれる由縁が分かるようであった。
そのときだった。啓介は小さな花壇の前に由美を見つけた。しゃがみ込んでいるように見える。もしや気分が悪くなったのだろうか。啓介は急いで由美の元へ向かった。
「由美さん…」
由美はゆっくりと顔を上げた。
「…大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
そう言って、視線を花壇へ戻す。
「ここが私の花壇なんですよ」
その視線の先には美しいピンク色の秋桜がたくさん咲いていた。そして、その花壇の傍らには木で出来た立て看板が花壇の土に刺さっていた。
『Yumi Konno』
立て看板にはそのように書かれていた。
何も心配することはなかったようだ。安心した啓介は由美と同じようにその花壇の前へとしゃがみ込んだ。
「ここへ来たかったんですね」
「はい」
「でも、ここの秋桜。他の花壇とは少し違うみたいですね」
下調べをしていた啓介だが、ここ秋桜園については何も調べていなかった。
「この花壇に咲く秋桜は恋し草と言います」
「恋し草…ですか?」
「はい。秋桜の中でも特に花びらが綺麗なピンク色で、咲かせるのが難しい品種なんです」
「確かに綺麗な色の花びらですね」
「はい」
「へ~、咲かせるのが難しい花…、なんですね」
「はい。恋をしている人にしか咲かせられない花…それが恋し草なんです」
由美は恋し草を一点に見つめていた。その視線の先には当時の恋人が見えているのかもしれない。
「恋をしている人にしか咲かせられない花、ですか…」
「はい」
「そうですか」
秋の風がふわりと2人を包む。由美の髪がふわりと浮いて、想いにふける横顔がふと覗く。
「あの…。その時、恋し草は咲いたんですか?」
「えっ?」
その時。なぜ、啓介が『その時』を知っているのか。
由美はただ単に『恋をしている人にしか咲かせられない花』としか言っていない。それに彼女の高校時代に恋し草が大きく関わることなど、啓介が知る由もない。それなのになぜ、啓介がそれを勘ぐれたのか。それは由美の横顔から覗く幼い表情が全てを物語っていたからなのかもしれない。
由美の口元には笑みがもれた。
「はい」
でも、咲かせたのは私ではありません。そう続けようと思った由美であったが、あえて言わなかった。彼は今を生きる人、私とは違う世界で生きる人。今、彼の想い出を語れば自分が辛くなる、そう思ったからだ。
「それはよかった」
何も知らない啓介。だが由美にとってはそれが何よりもありがたかった。
「はい」
しばらくの間、2人は由美の花壇を見つめていた。何も語らずとも不思議と違和感がない、あえて言葉を交わす必要はない。恋し草を通じて想いが伝わってくる。そんな感じであった。
そんなときだった。
「青いバラ、入荷しているよ」
と、ログハウスの方から男性の声が聞こえた。先程の男性だ。
「えっ?」
驚きの表情を隠せない由美。
「それはアプローズと言います」
ログハウスへ向けられていた由美の視線は一瞬にして啓介へと戻った。
「アプローズですか?」
「はい」
啓介は立ち上がり、ログハウスへと向かった。先程の男性はお客の応対をしている。声を掛けるには最悪のタイミングであったが、そんなことお構いなしだ。啓介は無理を言ってアプローズを一本、拝借してきた。
「2008年に日本の企業が商品化に成功しました。不可能と言われた青いバラ、それがこのアプローズなんです」
アプローズを由美の手元へ差し出した。
「由美さん、これがあなたの追い続けた夢…、なんですね」
目から伝わる青い花びらの色彩。手から伝わる青い花びらの感触。
長年、ブルーローズに携わってきた由美にはこのアプローズが本物であることがすぐに分かった。
この、何ひとつ偽りのない『青』
そして、夜明けの空を想わせる淡い『青』
それはあたかも新しい時代の到来を感じさせる色彩であり、また同時に新たな時代の到来に何ひとつ偽りがないことへの確かな宣言であるとも言えた。
まばたきをした瞬間、由美のつぶらな瞳から1滴の光が落ちた。そして、瞳に残ったひとひらの滴には、あの場所で起きた奇跡が映し出されたのだった。
そう、あの場所。それは松川総合研究所・地下2階・セクトA。
セピアシステム・坂井慶一と、セクトA・主任研究員の八神英二により、透明なアクリル板で出来た培養カプセルの中で目を覚ました紺野由美。その、由美の視線の先にはひとりの男性。
それは当時の恋人だった。
『久しぶりだね。まさかこんな形で会えるとは思わなかったよ』
『私もだよ。もう会えないと思っていたよ』
『今日はきちんとさよならを言わなければいけないと思って来たんだよ』
『うん』
『私もきちんとさよならを言いに来たんだよ。神様が少しだけ時間をくれたの。でもね、一緒にデートをするにはちょっと時間が足りないみたい』
『…』
『由美』
『何?』
『プレゼントがあるんだよ』
『私に…』
『あぁ。由美がここに忘れていった大切な想い出だよ』
『何?』
ゆっくりとカバンの中から大きめのビンを取り出す。
由美の視線に飛び込んできたのは青い花びらをつけたブルーローズであった。ニコッと微笑む由美の姿が培養カプセルのアクリル板越しに見えるようであった。
『青いバラ?』
『そうだよ』
『由美』
『うん』
彼が創ったブルーローズ。それは彼の優しさそのものだった。由美にとっては何にも代えがたい大切なブルーローズである。
そして、今。長い年月を経て、この世に生まれた、もうひとつのブルーローズ。それがアプローズであった。
どちらのブルーローズも由美にとっては大切なブルーローズであった。
啓介がアプローズを指差して言う。
「アプローズ。日本語訳は『喝采』。花言葉は『夢かなう』なんですよ」
「夢かなう…」
それを聞いた由美にはもうそれ以上の言葉をつなげることが出来なかった。
彼の優しさに溢れた『青』
何ひとつ偽りのない『青』
その両方の『青』が胸の奥深くで渦巻くのが分かった。
1本のアプローズに雨の如く涙が落ちる。
その涙をとめることは誰にも出来なかった。
秋晴れの空の下、紺野由美の花壇には恋し草、秋桜園にはアプローズ、ここには彼女の夢が咲いているのだった。
『由美が叶えたかった夢、ちゃんとここにあるからね』
『ずっと秋桜園で由美は生き続けてるよ』
恋をしている人にしか咲かせられない花…恋し草。
誰にも咲かせることができないと言われてきた青いバラ…ブルーローズ。
夢を探し、夢を追い、夢に破れ、それでもまた夢を探し、夢を追い。
そしていつしか、夢かなう。
きっと、その夢は満開に咲き誇ることだろう。
そんな夢が咲く場所、それが紺野由美の大好きな秋桜園であった。
「大丈夫ですか?」
男性の声にふと見上げると、そこにはログハウスにいた、あの男性が立っていた。右手にはハンカチ、それは由美へと差し出されていた。
「あ、すいません」
由美はハンカチを受け取ると同時にアプローズを返そうとした。
「それはどうぞお受け取りください」
「えっ?」
「アプローズを手にして、涙されている貴女(あなた)から、それを奪うことなど出来ませんよ」
その男性はニコッと微笑んだ。
そして、由美の涙が嬉し涙に見えたのか、「夢、叶いましたか?」と続けた。
由美はもちろんこの男性を知っている。
河合憲正、秋桜園の責任者だ。
だが、憲正はエリカを知らない。心は由美であったとしても、憲正にそれが分かるはずもない。
体はエリカ、心は由美。
由美は心の中で「憲さ~ん」と叫んでいた。なかなか返す言葉が見つからない。憲さんに返す言葉が見つからない。
涙ばかりが無情に零れてゆく。
笑いたいのにどうして、
嬉しいのにどうして、
どうして、涙が零れるの。
だけど、もう、泣かないよ。笑うから、私。
だって、夢叶ったんだもん。
「はい」
由美は涙をふいて、青空を見上げた。
「私の夢、叶いました」
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