第15話 故郷

 名古屋駅の西口には「銀の時計」というオブジェがあり、そこは待ち合わせの定番になっている。同じく、東口にも「金の時計」があり、こちらも待ち合わせの定番になっている。

 その銀の時計前でひとり、とある人物を待つ男がいた。

 松川啓介だった。

 退院から2か月、今日と言う日を特別な思いで迎えていた。敢えて待ち合わせの場所に銀の時計前を選んだにも理由があった。その理由、それは銀の時計前は金の時計前に比べて行き交う人が少ないと言う理由だった。今から会う人物、その人物は極度の人見知りをする人物だと聞いていたからだ。

 今日、その人に会うことになった事の経緯。思い起こせば2か月前、松川啓介が心臓発作で倒れた、あの日までさかのぼる。


 2か月前の松川理化学研究所・浜松分室『小型原子力開発室』、そこではセピアシステム再起動の作業が懸命に行われていた。作業を行っているのは東亜セキュリティの大矢祐司。その場に立ち会っていたのは松川理科研、資産管財課の塩川清二と秘書課・第二秘書の桐嶋一樹だった。

 一方、松川啓介は山梨県にいた。国立脳科学研究所・先端研究センター・Rユニット、そこにはセピアシステムと瓜二つのシステム、エリカシステムがあった。そのエリカシステムが暴走したと、同研究所の所長、佐伯博信からの一報を受けて啓介は急遽、その研究所へ向かったのだった。

 到着後しばらくしてから、啓介はセピアシステム再起動OKとの電話連絡を桐嶋から受ける。そして、起動を実行しようとした、その時、

『お久しぶりですね、松川さん』

 Rユニット内に坂井慶一の声が響いたのだった。セピアシステムが再起動した瞬間であった。そして、程なくして松川啓介は心臓発作で倒れた。

 この後だ。

 この後、起きた出来事を松川啓介は知らない。退院後、しばらくしてから桐嶋より聞かされた事実である。

 再起動したセピアシステム…こと、坂井慶一は初めこそ難色を示していたが、塩川清二と話をするうちに、いま自分の為すべきことは何かを考えた。その結果、エリカシステムの暴走を阻止することを約束したのだった。

 その際、坂井慶一は「ひとつだけ頼みがある」と申し出た。

 本来であればその申し出を松川啓介が聞くはずであったが、倒れてしまった今、その場にいた桐嶋が代理で聞くことになった。その申し出を聞いた桐嶋は固唾を呑んだ。しばらくその場に立ちすくみ、考えを巡らせた。

 所長がこの場に居たとして…。居たとすればどうするだろうか。この申し出を今の所長であれば「分かった」と言ってくれるのではないだろうか。この10年。所長と歩んだ、この10年。時は流れた。環境も変わった。所長自身も変わった。きっと大丈夫。万が一、もし駄目だったら自分が坂井慶一の申し出を受ければいいだろう。それよりもエリカを止めなければ。

 そして、決断をした。

 桐嶋は啓介の退院を待ち、そのことを話した。

 それを聞いた啓介は「分かった」と、即答したのだった。

 そして、今日。

 松川啓介は男同士の約束を守るためにここ、名古屋駅へ来たのだった。


 行き交う人々、金の時計前程ではないが、さすがに休日だけあって、銀の時計前もにぎわいを見せていた。辺りを伺う啓介。ちょうど手前にあった銀の時計を見ると、そろそろ約束の時間だった。

 JR名古屋駅太閤通口、そこは新幹線のりばが一番近い改札口だ。啓介はふとその改札口を見た。いたって普通のスーツを身にまとった美しい女性が目に入った。仕事で名古屋にやって来たのだろうか。だが、何となく以前に見かけた記憶があるような気がした。ナンパの定番フレーズでもあるまいし、啓介は自身を笑いながら、その女性から目線を逸らした。すると次は、その女性の隣を歩くひとりの男性が目に止まった。

「あ、来たか」

 国立脳科学研究所付属・人工知能研究センターの佐伯博信の姿だった。

「ん?」

 佐伯博信の隣を歩く女性。先程のスーツを身にまとった女性。その女性は周りを気にしながら、こちらへ向かって歩いてきた。

「ん…」

「…エリカ…?」

 啓介が桐嶋から伝えられた、あの日の事の経緯、その全てが事実であることを改めて実感した。ナンパのフレーズなんかではない。あの日、あの場所…、あの国立脳研・先端研究センター・エリカユニットで見た、彼女だった。

 この日本のど真ん中、名古屋と言う大都市で、人が創りだしたヒトが歩いている。それも周りを行き交う人々はその事実に気付いていないのだった。

 啓介との距離が10メートル、9メートル…と短くなっていく。既に博信は啓介の位置を捉えている。エリカはうつむいたままだが、博信を頼りに歩みを進めている。

 そして、啓介の目の前に2人が立った。

「啓介」

「博信」

「久しぶりだな。良かった、元気になって」

「すまん。心配かけたな」

 ゆっくりとエリカが顔を上げた。

「はじめまして…」


 東亜セキュリティの大矢祐司が構築した『セクトAとαの分割システム』はセピアシステムをセクトAとαに分割することを主の目的とし、構築された。だが、その中で大矢祐司の判断を大きく迷わせた事象があった。

 それはセピアシステムが当時、高性能計算機ERIKAに接続され、機能的に全盛期を迎えた際に、青いバラの記憶を取り出すことを目的として、この世に蘇ったひとりの女性。その女性をセクトAに残すのか、坂井と共にセクトαに動かすのか、その2つに1つ、二者択一を迫られたときのことだった。

 そして、大矢祐司は『その女性』をセクトαに移す決断をした。

 結果、セピアシステムの再起動と共に『その女性』もこの世に蘇ることになった訳だが、それが功を奏する結果を導くことになる。

 暴走したエリカシステムのERIKA。そのERIKAを止めるためには居場所を突き止める必要があった。だが、坂井慶一には何ギガビットにも及ぶ現代のネットワークスピードに追い付くだけの対応力がなかった。さすがのセピアシステムもほぼ同機能、いや今やそれ以上となるエリカシステムを基幹システムに持つERIKAを追いかけるのは容易ではなかった。

 そこで坂井が考えた案、それが『その女性』にセピアシステムの一部を解放することだった。『その女性』は坂井より数十年も若く、対応力に長けている。必ず、ネットワーク上のERIKAを探し出してくれるはずだ。

 坂井慶一は決断した。『その女性』に未来を託す。

 もし、ERIKAの暴走を止めることが出来たら、その見返りと言う訳ではないが、『その女性』をエリカに転送して、1日だけヒトとして現世に蘇らせて欲しい。そして、今の彼女の夢を叶えてあげて欲しい。

 それが坂井慶一の申し出であった。

 その女性とは…そう、「紺野由美」その人であった。


 啓介とエリカの目が合った。

「コ、コンノユミさんですか?」

「はい。紺野由美と言います」

 由美はしっかりとした口調で答えた。

 極度の人見知りをする人物。それもそのはずだ。身体はエリカ、心は紺野由美、そんな摩訶不思議な現実に気付かれはしまいかと、ビクビクする本人の気持ちを察すれば、致し方あるまい。

 啓介はこれがヒトなのか、と完成度の高さに驚愕した。

 だが、見た目の完成度もさることながら、流暢に言葉を交わすためには、乗り越えなければならない壁があった。それが心と身体の調和であった。

 人も、ヒトも、その点においては何も変わらない。

 ただヒトは全く別の次元で創られた心と身体を一体化させる必要ある訳で、それにはある程度の時間と手間をかけて慣れ親しむと言う過程を踏む必要があった。人も同じ、慣れ親しむことで次第に調和していく。そういうものだ。

 そこで一役かったのが、あの国立脳研・先端研究センター・プロジェクトコードP・エリカユニットにある、渋谷の街並みを見事に再現してみせた、あの空間映像技術というわけだ。

 エリカ…、紺野由美はあそこで約1か月の間、調整を行い、今日を迎えたのだった。

「体調とか大丈夫ですか?」

 由美は至ってごく普通の女性に見えるが、発作でも出やしないかとやはり気になる。

「大丈夫です」

 うつむき加減であった由美だったが、目的の地、名古屋に着き、啓介の顔を見て落ち着いたのか、安堵の笑みを漏らした。

 笑うことも可能なのか、もう人とヒトの区別がつかない、啓介だった。

「博信も行くのか?」

「悪りぃ、急に打合せが入ってしまって。僕のお役目はここまで」

「そっか」

「ありがとうございました」

 由美は丁寧にお辞儀をした。

「じゃあ、行きますか」

「よろしくお願いします」

 その場で啓介と由美は博信と別れ、名古屋駅に乗り入れをしている中部環状鉄道のホームへと向かった。

 中部環状鉄道は名古屋駅とJR蟹江駅を結ぶローカル線だ。環状鉄道と名称が付いているものの、実は環状線になっていないと言うのが、ここ名古屋の七不思議のひとつとも言われているのだが、事の真相はちょっと昔にさかのぼる。

 JRが旧国鉄であった時代、今の中部環状鉄道が走っている線路の一部はJRの貨物専用線として建設が進んでいた。線路は名古屋貨物ターミナル駅(名古屋駅)から南西の方角へ進み、烏森町。そこからは真っ直ぐ南へ荒子町、中島町を抜け、そこから進路を東へ変え、愛知県武道館を横目に望みながら中川運河を越え、東海道新幹線とぶつかった所から併走するような形で南東に進み、笠寺駅、終点の大高駅へとつながる。これが貨物列車と旅客列車を別線敷設にすることで貨物列車の運送能力を増強しようと目論んだ、世に言う幻の南方貨物線と呼ばれる貨物線である。

 だが、時代は貨物からトラックへ変わる再編期。同時に国鉄の労使紛争が拍車をかけ、貨物列車の需要は激減した。そんな矢先、国鉄は民営化され、JRとなった。そして、ほとんど建設済であった名古屋貨物ターミナル駅から愛知県武道館付近までの約10キロメートルが民間に売却されることになり、そこに名乗りを上げたのが当時まだ仮名であった中部環状鉄道と言う訳だ。

 だが、まだこれでは中部環状鉄道、社名の謎は解決されない。ここからが七不思議たる由縁のドタバタ劇の始まりで、JRより南方貨物線の購入を内諾された中部環状鉄道はこの時点で名古屋駅と三重県亀山駅を結ぶ関西本線の名古屋、蟹江間も同時に売却される公算が高いと勝手に判断し、会社名を申請していたのだった。中環鉄の経営陣は南方貨物線の再南端、愛知県武道館から西へ当知町、南陽町、戸田町、蟹江駅までの沿線工事を行い、そこから関西本線で名古屋へ戻る環状線にしようと考えていたのだ。

 そして、肝心な確認が成されないまま会社名の申請は承諾され、南方貨物線の売買契約が結ばれた際、当然のことながら関西本線売却の話は全く議題にも挙がらず、経営陣は皆、顔を見合わせ、「あれ?まぁ、いいか」と、言ったらしいと言うのが事の真相だ。

 ま、こんなお粗末な話が名古屋七不思議のひとつではあるが、中部環状鉄道が地元名古屋市民に愛されるローカル線となった、これもまたひとつの理由でもある。

 中部環状鉄道・名古屋駅のホームに3両編成の列車が到着した。

 すぐ隣をみやれば16両編成の東海道新幹線のぞみ。ホームこそ違えど同じ名古屋駅に乗り入れを行う列車だ。大都市と大都市を結ぶ最新鋭の東海道新幹線のぞみ。一方、名古屋の西側圏、田舎と田舎を結ぶ時代遅れの中部環状鉄道。そんな都会と田舎が共存する都市、それが名古屋という街なのかもしれない。

 2人はその列車に乗った。名古屋駅を出ると次は中環鉄・光条駅。JR旧笹島貨物駅付近だ。

 ふと、由美の横顔を見る啓介。懐かしそうに辺りの景色を見ていた。きっと、あの高校時代、短い期間ではあるが、この中環鉄を利用し、学校へ通ったあの日の事を思い出しているのだろう。大人びた顔立ちのエリカだが、たまに覗く幼い表情が、彼女の高校時代を感じずにはいられなかった。まだ大人になりきれない高校3年、青春真っ只中の紺野由美が、そこにはいた。

 啓介は大学時代の由美を知っている。だが、由美はと言えば、啓介のことなど知る由もない。今更と言えば今更だが、旧松川総研の暴走…つまりは松川啓介の暴走が由美の死後を大きく狂わせたと言っても過言ではない。本来であれば経緯を説明して謝罪すべきだが、今の由美に謝罪をした所で何になる。それは啓介自身の自己満足なのではないだろうか。誠意をもって謝罪することも大切だが、今日ではない。

 啓介はそう思い、口を閉ざしていた。

 今日は彼女にとって限られた大切な1日。ウソをついてでも夢のような1日にしてあげたい。坂井慶一の申し出を実直に守ろうとする松川啓介が、そこにはいた。

「次は下野北、下野北です。お出口、右となっております。お降りの最、お忘れ物のないよう、ご注意ください。まもなく到着です」

 顔を見合わせた2人。啓介は静かにうなずいた。

「ここですよ、由美さん」

「はい」

 中部環状鉄道・下野北駅。駅の南には田園風景。駅の北には夢見ヶ丘と呼ばれる緑地公園。その公園の一角には彼女がもう一度、最期に行きたいと願った場所、今でも彼女の夢が咲く場所、「秋桜園」があるのだった。


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