第14話 再会
今日の日柄は大安だった。
愛知県常滑市にある若葉台総合病院の屋上にはさわやかな風が吹き抜けていた。そこにひとりたたずむ男、八神英二であった。
今日は診療報告会議が開催される日ではない。そのため若葉台総合病院にいるはずのない英二だが、今日は日間賀島診療所にとって大きな意味を持つ日であったため、来院していた。英二、本人は出来るだけ日間賀島診療所を留守にしたくない、と来院には否定的であったが、院長である波多野 涼からの懇願があり、その熱い想いに押される形で午前中だけ来院することにしたのだった。
その、日間賀島診療所にとって大きな意味。
それは先月の診療報告会議において、報告がなされた事案。ついに日間賀島診療所の助産科に産婦人科医師が常駐することになり、『日間賀島・十月十日プロジェクト』が本格始動することになったのだった。
そのプレス発表が今日であった。
若葉台総合病院、1階に位置する多目的ルーム。普段は部屋のほぼ中央に仕切りがあり、2部屋として利用されているのだが天井のレールに沿って仕切りを取り払えば、優に数十人は入れる約53畳の多目的ルームへと変形するのだった。そんな多目的ルームには既に数十人の記者が集まっていた。
日間賀島診療所の責任者として『日間賀島、十月十日プロジェクト』の当事者となる八神英二だが、別に英二自身がプレス発表を行うという訳ではなかった。今日と言う日は全て若葉台総合病院の広報部が段取りをしており、あの日のように八神英二が表舞台に立つことはない。
そう、あの日。
それは今から約10年前、場所は名古屋にある東急ホテル・ヴェルサイユの間。着席で約1000人を収容できる大広間。その場で発表された驚愕の理論、それは人類の夢、「がんの消滅理論」であった。その際、表舞台に立ったのが他でもない八神英二、その人であり、理論を確立させたパイオニアとして世界から称賛を受けた、あの日だ。
だが、今の八神英二にあの日の面影はない。
あの日の面影、それは「私は医学の神へと飛躍する」と、その一言を発した英二自身だ。人が人を超えた存在となる。そこに見えていたのは「神への階段」のはずだった。
しかし、人は、やはり人。
だから、人らしく生きる。
だから、今の八神英二にあの日の面影はない。
「お久しぶりです」
若葉台総合病院の屋上にたたずみ、常滑の街並みを眺める英二。その英二の背中にひとりの男が声を掛けた。英二にはその声の主が誰であるかすぐに分かった。ゆっくりと振り返り、声の主を確認した。
予想通りだった。その声の主、それは松川啓介であった。
松川啓介は約1か月前、持病である拡張型心筋症をこじらせ、心臓の発作を起こして、ここ若葉台総合病院に緊急入院していた。その2日後、担当医である鮫島五郎の判断と家族の意向により心臓移植手術が行われ、本日無事に退院を迎えたのだった。
八神英二は松川啓介が若葉台総合病院に入院していることをもちろん知っていた。だが、普段は日間賀島にいるため、なかなか啓介の病室を見舞う機会がなかった。啓介に会うことにためらいがあった訳ではない。容体を気にしつつも、今日という日を迎えてしまっていた。
見ると、松川啓介の身なりは背広姿だった。彼らしい、と直感でそう思った。
「お久しぶりです。松川さん」
松川啓介と八神英二。この2人が旧松川総合研究所のいち時代を築いたと言っても過言ではない。
松川啓介の財力、八神英二の実力、その双方のいずれかが欠けても「がんの消滅理論」は完成しなかった。神への階段こそなかったものの、あれから10年、医療現場ではがんの消滅理論が応用され、がんにより死亡する人の割合が激減したのは紛れもない事実だった。
「ご無沙汰しております」
啓介は深々と頭を下げた。
「よく、この場所が分かりましたね」
「鮫島先生に伺いました。今日はここにいるはずだと」
「鮫島か…」
そう言いながら啓介を近くのベンチへいざなった。
「…体調の方はいかがですか?」
「お蔭さまでこの通りです。ありがとうございました」
「そうですか。それはよかった」
啓介はベンチに腰を掛け、英二もそれに続いた。
「今日は天気がいいですね」
「そうですね」
その後が続かなかった。あの日の話をしてよいものなのか…、両者の想いが交錯しているようであった。
若葉台総合病院からバスで10分程にある常滑駅。この屋上からは常滑駅がよく見える。と同時に駅を発着する電車の警笛もよく聞こえてくるのだった。2人は何を見る訳でもなく、フェンスの向こう側を見ていた。
静かになると時折、小鳥のさえずりが聞こえ、合間、合間に他の患者と看護師との会話が入り交じる。だが、長時間屋上にいる人は少なく、しばらくするとまた静かになり、電車の警笛が聞こえ、小鳥がさえずるのだった。
そんなしばらくの沈黙。
その沈黙を破ったのは八神英二だった。
「私が内部告発したこと、恨んでますか?」
唐突な質問だった。
八神英二が松川啓介を裏切った、あの日。
あの日以来、2人は会っていなかった。
「いえ…」
ベンチに座った啓介はしっかりと前を見据えていた。
「…逆に感謝してます」
「感謝?」
「いつしか、研究所を私物化している自分がいました。松川総合研究所は常に人の役に立つ商品を世に送り出す企業でなければなりません。にも関わらず、私は私利私欲のためにセクトを運用した。あなたは自分を犠牲にして、それを断ち切り、松川総研を生まれ変わらせてくれた、そのことに感謝しています」
「私利私欲ですか、それを言えば私も一緒ですよ。あなたの財力を利用して、がんの消滅理論を完成させた。その上、セピアシステムまでも利用した」
英二がそう言うと、2人はまた黙ってしまった。
誰だって、自分が一番かわいいし、誰だって、自分が一番大切なのかもしれない。自分の人生は自分のものであり、他人のものではないし、人に心という感情がある限り、そのように思うのは当然の摂理なのかもしれない。
でも、少し視点を変えるとどうだろうか。もし世界中の全人類が自分ひとりだけになったとしたら。
それでも人は「自分が一番だ」と思うだろうか。
極論だと言われるかもしれないが、「自分が一番」を論じる上で、周りを見渡せば常に人がいる、ということ自体を否定せずに物事の視点を変えた所で、行きつく結論に大差はない。
私利私欲。それは自分がいて、周りに人がいて、初めて成り立つ感情なのかもしれない。もし、そう思えるのならば、1日のうち、1時間くらいはいつも隣にいてくれる、あの人のことを想い、考えてみても良いのではないか。
そう思う。
「ボランティアをしていたそうですね」
短い沈黙を破ったのは松川啓介だった。
「鮫島から聞いたんですか?」
「えぇ。でも、規律があるそうで、具体的には何も。ただ、その青年の祖父が日間賀島に住んでいらっしゃって、その主治医が八神先生だ、とか」
「そこまで聞きましたか」
「すいません。どうしても彼のことが気になってしまい、いろいろと鮫島先生に聞いてしまいました」
「個人情報はお答え出来ませんよ」
「分かっています」
「でも、彼の意思を受け継いでもらえると私としても嬉しいです」
「この与えられた第二の人生。次は誰かのために生きる。そんな生き方もいいな、と思っています」
「そうですか。第二の人生、彼の分も生きて下さい」
「はい」
遊佐 学を通じて、八神英二と松川啓介のわだかまりが少しだけほどけたようであった。これから始まる松川啓介の第二の人生、啓介と英二の人生が再び重なり合うことはもうないだろうが、啓介には精一杯生きて欲しい、泥臭くても思いっきり生きて欲しい。時間がかかってもいいから、自分と向かい合い、与えられた命の使い方を考えて欲しい。
切にそう願う、八神英二であった。
「所長?」
そんな2人の間に申し訳なさそうな一声が割り込んだ。
振り返る啓介。そこには松川理化学研究所・所長の松川美奈子と第二秘書の桐嶋が立っていた。
「桐嶋」
隣を見やる。美奈子が立っている。
「美奈子まで」
啓介が立ち上がると、英二も立ち上がり、2人に会釈をした。
「八神先生。お世話になりました」
美奈子が会釈を返す。
「いえ。私は何も」
松川美奈子、桐嶋一樹、旧松川総合研究所を知っている2人にとって、八神英二と言う人物は今でも偉大な人物だ。松川総研があり、今の松川理科研がある。がんの消滅理論がいかなる経過を経て完成したとしても、がん患者が減少しているのは事実であり、その知的財産価値が今の松川理科研の資産価値を押し上げていることも、また事実であった。
「お迎えに上がりましたよ、所長」
啓介が英二の方を見る。
「すいません。こちらからお声掛けしたにも関わらず、お先に失礼することになり」
「いえ。いいんです。退院おめでとうございます。お体、ご自愛下さい」
「はい。今度、日間賀島に遊びに伺います」
「ぜひ」
松川啓介、八神英二。2人の顔には笑顔があった。
啓介は英二に深く会釈をして、桐嶋と美奈子の元へ歩みを進めた。
退院間もないと言うのに、そのしっかりとした歩み。その一歩、一歩に英二は只ならぬ決意を感じた。
松川啓介、きっと次会うときはその足で次なる夢の舞台に立っていることであろう。
「もうやめてよね」
美奈子が啓介を迎えた。
「何が?」
「もう、うちの旦那をこき使わないでよね」
「おい、ミナ…」
タジタジになっている桐嶋一樹。啓介はそんな一樹を初めて見た。
「は?」
美奈子と一樹、双方の顔を交互に見る啓介。
「は?」
「は?」
「所長、ここで申し上げることでもないかと」
「所長?どっちの所長?」
美奈子が一樹を問い詰める。
一瞬にしてその場の空気が張り詰めた、…ように感じたが、次第に美奈子の表情から笑みが零れ出した。
「ウフフ…」
「…報告が遅くなってゴメンね。私、一樹さんと結婚するの」
「はぁ?」
「所長、申し訳ありません」
「お前、…」
と、言いながら桐嶋の方を向く啓介。その顔は笑っていた。
「…いいのか、うちの妹なんかで」
「ひっど」
美奈子がぼやく。
「はい」
一樹が決意を返す。
「そっか。そっか。そりゃそうだよな。お互い1番近くにいた者同士。別におかしな話じゃないよな」
頷きながら、笑みのもれる啓介。
「おめでとう」
「ありがとうございます。所長」
「だから、所長って誰よ?」
「アハハ…」
そう言えば、桐嶋にとっては啓介も美奈子も、どちらも所長だった。今日のように2人が出揃うことなど、もう何年ぶりのことだろうか。
そんな2人に仕えた桐嶋一樹。そこで人生最高の伴侶を得たのだった。
笑いながら若葉台総合病院の屋上出入口へ差し掛かる3人、その背中に英二が声を掛けた。
「松川さん」
振り返る啓介。に続き、一樹と美奈子。
英二は一呼吸おいてから、啓介に聞こえる声で言った。
「遊佐 学さんと言います」
啓介には英二の真意が瞬時にして分かった。
そして、深く会釈をして、「ありがとうございました」と返した。
来春、松川理化学研究所は総合理化学研究所として再スタートを切る。
それは松川美奈子が所長を退き、後任として桐嶋一樹が所長に就く人事を内々で決定しているからだ。
これぞ看板の掛け替えと言われ兼ねないが、研究所名から「松川」の名前が消えること自体に重要な意味があるのだった。
桐嶋一樹は松川に長く仕えてきたこともあり、美奈子との結婚となれば婿養子になるだろうと思っていた。だが、婚約の際、美奈子の父である隆平は「桐嶋の姓を名乗り、松川理科研を支えてくれるのであれば許す」と話したのだった。元々、婿養子になることが目的で美奈子との交際を開始したわけではない一樹は、その場で「はい、よろしくお願い致します」と即答したのだった。
松川美奈子は桐嶋美奈子として、一樹を支えていくのだった。
後日、一樹は隆平から「松川理化学研究所の名称を総合理化学研究所に変える」と直々に連絡を受けた。それは松川HDのCEOである松川隆平が松川総研、松川理科研に長く仕えた桐嶋一樹を深く信頼し、次の世代となる一樹へ希望を託した証とも言えた。
また、同時に松川理科研・浜松分室は完全に整理され、資産管財課の塩川清二は自ら退職願いを申し出たのであった。
ついに松川財閥、松川グループの同族経営の一端が終わりを迎えるのだった。
だが、それは新たな夢への第一歩であり、希望で満ち溢れた第一歩でもあった。
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