第13話 二人

 東亜セキュリティ株式会社は岐阜県岐阜駅の駅前に本社を置く、セキュリィ専門の企業である。主な取引先には国立病院や公共施設もあり、その活動範囲は岐阜県内に留まらず愛知県や三重県にも及ぶ。その中でも比較的新しい取引先となるのが「松川理化学研究所」であった。

 もともと、松川理化学研究所の前身となる松川総合研究所のセキュリティは別の企業がその役目を担っていた。だが、所長交代による経費見直しから、東亜セキュリティが新たにその役目を担うことになったのだった。

 その松川理科研と東亜セキュリティが新たに契約を結ぶ際、極秘裏に締結された契約が「松川総合研究所・浜松分室の保全警備」であり、その契約内容の曖昧さ上に、松川理科研の第二秘書である桐嶋が保全警備の事前準備業務として依頼したのが「セクトAとαの分割システム」であった。

 その分割システムを担当することになったのが当時入社2年目の若きエース「大矢祐司」、その人だった。


 大矢祐司は奈良県にある平城大学の情報科学研究科を卒業し、厳しい就職戦線を切り抜けて、東亜セキュリティに入社した。

 当時の東亜セキュリティは施設警備や交通誘導警備を主な業務内容としていたため、一見、情報系であった祐司とは縁がなさそうにみえる会社ではあるが、来る情報化社会に備えて、異業種とも言えるITセキュリティ業界に参入を決めたのが、ちょうどこの時期だった。情報系の学生を多く採用し始めたのも、この頃だ。今となっては、東亜セキュリティの半分以上の売り上げをIT事業部が占めると言うから驚きの成長率だ。

 その「セクトAとαの分割システム」が遂に10年と言う月日を経て、契約完了となった。今日から数えること、3日前の出来事だ。


「お疲れさま」

 上司に声を掛けられ、大矢祐司は会社を後にした。さすがに今日は定時退社だ。この3日間、まともに帰宅することもかなわなかった。松川総合研究所・浜松分室に付きっきりであったからだ。だが、やっと終わった。10年と言う長い月日、想像もしない長い月日。重責から開放された大矢祐司の足取りは不思議と軽かった。

 エレベータで1階に降りると、会社の先輩とすれ違った。

「おう、ユウ。帰りか?」

「はい。お先に失礼します」

「おう。お疲れ」

「失礼します」

 祐司が頭を下げる。その先輩はエレベータに乗ると同時に閉まるドアを手で押さえ、祐司の背中に声をかけた。

「よくやった。松川の件。おつかれ」

 その声に祐司が振り返った頃には、既にエレベータの戸も閉まり、先輩の姿は確認出来なかった。

「先輩」

 当時社会人1年生の祐司に社会のイロハを教えてくれた人物だ。また同時に大学の先輩でもある。IT企業への就職を希望していた祐司だったが、思うようにいかず悩んでいる中、異業種とも言える東亜セキュリティを紹介してくれたのも、この人だった。「ある物事を1点の方向からしか見ていては見えるものも見えん。異なる角度から見ることで初めて物事は立体に見えるようになる」と、先輩の口癖だった。情報系の人間はIT企業しか就職先がない、それが1点の方向からしか物事を見ていない、まさにそれだ。先輩は固定概念や既成事実、そんな言葉が大嫌いな社内でも変わり者だった。

 実は祐司の担当となった「セクトAとαの分割システム」も先輩の光るアイデアが満載のシステムだった。祐司がロジックに困ったときは先輩に聞いた。先輩のアイデアはいつも斬新だった。入社2年目だった祐司が「セクトAとαの分割システム」を完了できたのも、先輩の下支えがあってこそだった。

 そんな先輩には話していなかったが、ついさっき、退社する前に今月いっぱいで会社を辞めさせて欲しい、と上司に告げた。

 退職理由、それは「セクトAとαの分割システム」がその全てと言う訳ではない。この10年、いろいろと経験出来たことはありがたく、恩もある。だが、結婚してから9年、妻の大矢優花と一緒にいられた時間はその半分にも満たないように感じる。だからと言って、別に妻のために辞めようと思う訳ではない。自分のために辞める。セクトAとαの分割システムが契約完了したら、会社を辞めよう。

 ちょっと前から、そう決めていた。

 妻の優花には内緒で勝手にそう決めていた。


 JR岐阜駅に降り立ち、名古屋行きの電車を待つ。祐司の自宅は愛知県一宮市だ。最寄り駅は尾張一宮駅、快速電車で岐阜駅の次だ。電車に乗れば寝る暇もなく到着する、それ位の距離だ。

 向かいのホームにふと目をやる。親子連れがホームを楽しそうに歩いていた。子供の両手は右にお父さん、左にお母さん、ジャ~ンプと言った掛け声で子供はピョンピョンと飛び跳ねていた。母親はもうあと1回だけよ、と言いながらも楽しそうに笑っていた。

 大矢祐司と優花の間に子供はいない。仕事に追われた生活がその理由と言う訳ではないが、家に帰る時間が少ないとなれば必然的に子宝にも恵まれにくくなる。優花はそのうち出来るでしょ、別に気にしていないし、と祐司に話すが、保育士を目指して平城短期大学へ進学した優花の本心だとはとても思えなかった。子供は大好きなはずだ。それに普段、祐司が家を空けることが多いのならば尚更、子供が愛しく思えてもおかしくはない。

 今すぐにでも子供が欲しい、そう言うのは簡単だが、言えば祐司も気にするだろうし、優花自身も妊娠を意識し始めてしまうかもしれない。彼氏・彼女として交際していた頃は何でも話し合えた2人だったが、結婚してお互いにお互いを思いやる優しさから、つい本心を言えずにいる夫・祐司と妻・優花だった。

 子供が欲しいね、それが2人の夢だった。

 会社を辞めたからと言ってすぐに子供が出来るわけではないが、今以上に2人の時間は増える。そうすれば「コウノトリ」も飛んでくる。祐司の簡単な方程式だった。

 そして、あともうひとつ。やっぱり優花が大好きだった(笑)

 祐司は仕事を辞めた後ろめたさ半分、嬉しさ半分。そんな想いを胸に、尾張一宮駅で電車を降りた。改札を通り、大通りにちょうど到着した江南駅方面行きの名鉄バスに乗った。

 しばらくしてバスは発車した。2つ、3つ信号をくぐるとバスは真清田神社の前を通り過ぎる。進行方向から言えば左手の方向だ。不思議と座った位置から神社が見えた。いつもなら気にならない風景なのだが、今日は不思議と気になった。

 それもそう、2人が挙式を挙げた神社が、この真清田神社だった。

 祐司の勝手な想い…、優花にはドレスより和装の方がよく似合う。褒め言葉なのかどうか、疑問に感じつつも、そう言われた優花は「うん」とだけ答え、挙式は神前式で、真清田神社となった。結局、金銭的な理由で披露宴は行わなかったため、優花がドレスを着る機会はなかった。だが、優花の色打掛姿、それはそれはモデルさんのように美しかった。式当日、そんな優花の色打掛姿を見て、また恋したことをふと思い出す、大矢祐司だった。

 優花の色打掛姿、それは祐司にとって色褪せることのない、記憶のフォトグラフだった。

 祐司が降りるバス停は浜町5丁目だった。バス停の向かいには最近出来たばかりの『テラスウォーク一宮』と言う大型ショッピングセンターがある。近隣住民にとっては便利でありがたい反面、最近ではちょっとだけ行き交う人も増え、良し悪しと言った感じであった。

「次は浜町5丁目、お降りの方はボタンで…」

 祐司はボタンを押した。信号が青に変わり、バスが走り出す。3つほど信号をくぐれば浜町5丁目だ。バスが停車し、降車口が開く。2、3人の乗客に続き、祐司もバスを降りた。

 ここから北へ少し歩けば2人の住んでいる小さなコーポがあった。


「ただいま」

 玄関の扉を開けると、夕食のいい匂いが鼻をくすぐった。

「おっかえり~」

 明るい優花の声が祐司を出迎える。

 2人が住むのは2DK、ひと部屋がリビング状態で実質1LDKのようにしか使えない、そんなおかしな間取りのコーポだ。玄関を抜ければすぐ左手に台所があり、そこで優花が料理をしていた。祐司は優花と背中ですれ違うような形で台所を通り過ぎ、珍しくガスレンジの鍋を覗き込んだ。

 いい香りの正体はこれ、今夜のメニューはカレーだった。カレー鍋を覗き込んだ祐司だが、ふと右を見やると、なぜか優花と目が合った。

「ん?おかえり」

「う、うん。ただいま」

「どした?」

「カレーだね」

「そ、そだよ」

 すると、シンクでトマトを洗っていた優花の手が止まった。優花は焦る表情で祐司の方を向いた。

「あ、もしや、今日のお昼、カレーだった?」

 シンクの蛇口からは水が流れたままだ。

「み、水」

 優花は祐司の方を向いたまま、慌てて水を止めた。

 蛇口の位置を体が覚えているから、横向いたままでも無意識で水が止められる。それは優花がそれだけ台所に立っている証でもあった。この9年、優花は必ず2人分の夕食を作ってきた。祐司の帰りが遅いときや、急な仕事で泊りになって夕食が残ったとしても、翌日の朝か昼に自分が食べればいい、そう思っていた。それよりも優花にとって大切なこと、それは毎日仕事に出かける祐司が無事に帰宅するように祈り、夕食を作ることだった。別に浮気やら不倫やら、そんな意味での無事を気にしている訳ではない。ただ毎日、何事もなく無事に帰ってきて欲しい。神社での願掛けではないが、毎日夕食を作ることで1日の安全を祈願しているつもりだった。

 優花は「ん?」と言った表情で祐司の方を見ていた。

「いや、カレーじゃないよ」

 祐司は優花に背を向け、テレビのある部屋へ向かった。そんな祐司の背に優花は話しかける。

「な~んだ。じゃ、何よ~?」

「な~んもだよ。な~んもだからいいんだよ」

「まっ、そうね」

 な~んもだからいいんだよ。今日も1日、何事もなく過ごせたからいい日だったよ、ありがとう。毎日、2人分の夕食を作る優花の想いを知らないはずの祐司だが、優花には不思議とそう聞こえた。

…ありがとう、と。


 祐司が部屋でテレビを見ていると、しばらくして優花が祐司のカレー皿とサラダを運んできた。当然、優花の両手はふさがっている。と、言うことは…、祐司はその場から立ち上がり、台所を見た。思った通り、台所には優花のカレー皿が置かれていた。祐司は何も言わずに台所まで優花のカレー皿を取りに向かった。「これでいい?」祐司がそう聞くと、優花は「うん。ごめんね、ありがとう」と答えた。ついでに冷蔵庫からドレッシングを取り出し、部屋まで運んだ。

「はいよ」

「ありがとう」

 優花はコップにお茶を注いでいた。2人で手を合わせた。

『いただきます』

 スプーンでカレーをすくう、優花にとっては至って普通の1日、だが祐司にとってはちょっと特別な1日だった。

 今日はごく普通の庶民的な味のカレーだが、一口、一口がとてもおいしく感じた。今日まで毎日、仕事に追われて味わう暇もなかったと言えば、それまでだが、そもそも食事と言うものをただの食事としか考えていなかったのも事実。単に栄養を補給するための食事、そんな風にしか考えていなかった。

 だが、今日は違った、自分の愛する人の手料理。視覚的に目に見えるものは何らいつもと変わらないが、口に含んだ瞬間に伝わってくる、作った人の想い。その想いを感じ取れたような気がした。

「今日はずいぶんと噛むのね。歯医者でも行ったの?」

 想いを巡らす祐司とは対照的に、普段通りの優花は素っ気ない表情で祐司に話かけた。

「え?」

「いやにもぐもぐするね、って聞いたの」

「もぐもぐ?」

「カレーって飲み物だろ、って言う人がさ、もぐもぐやってるからさ。おいしくない?」

「あ~、あっハハハ。言ってたね、俺」

 ふと、祐司には笑いが込み上げた。

 そう言えばそうだった。昔、カレーって飲み物だろって言ったことがあった。今でも仕事中に時間がないときは飲めるからひとまずカレー、みたいなイメージがあった。だが、今日は違う。ほんのちょっと心持ちを変えただけで、カレーがここまで絶品料理になるとは、思いもしなかった。

「何よ?まずい?」

「うまいよ」

「そう?ならいいけど。でも、なんか変よ」

「いつも通りだろ。いつも通り、変だろ」

「ま、確かにね」

 そう話しながら優花はテレビを見た。ちょうど明日の天気予報がやっていた。

「明日、晴れか」

「出張なの?」

 祐司が天気を気にするのは仕事が出張のときくらいだった。

「いや、明日は休み。デートに行くんだ」

「誰と?」

「誰と?って、ゆっかと」

「うそ?」

「ホント」

「でも明日、予定…」

 シマッタ。祐司は事前に優花の明日の予定を確認していなかった。だが、それも仕方ない。仕事が片付いたのはつい3日前で、退職するとは言え、明日の休みは法律上やもなく取らされた代休というやつだ。優花の予定を確認する暇なんてなかった。

「マジか~」

「予定…ない」

「は?」

「優花はヒマであります」

 イイ歳して、優花の敬礼ポーズ。ま、でも、優花ならアリかな。

「なんだよ、ビックリさせんなよ。なんだよ、今のウソ。必要ね~し」

「ごめん、ごめん。だって、何年ぶり?ゆうちゃんからのお誘い♪私の方がビックリしたって~の」

「何年ぶり…、そうだよな」

 何年ぶり?それは優花の本音だったのだろう。

 大矢祐司と優花(旧姓、山下)は愛知県立野嶋高校1年生のとき、同じクラスで出会った。山あり谷あり笑いあり涙ありの高校3年間を経て、祐司は平城大学、優花は平城短期大学へと進学した。お互いに進学先を意識しつつ、近づきすぎる距離に戸惑いながらも、不思議と2人の出した結論は同じ系列となる奈良県奈良市の平城大学と平城短期大学への進学だった。

 だけど、ひとつだけ。お互いのために夢を持とうと話し合った。もともと祐司は理科系だったが時代の潮流であろうか、情報系の情報科学研究科へ、子供が大好きな優花は幼児教育学科へ、お互い違う夢に向かって歩き出した。

 卒業後、祐司は岐阜県に本社を置く東亜セキュリティへ入社、優花は短期大学であったため、祐司より一足早く愛知県稲沢市治郎丸柳町にある次郎丸保育園に勤務した。その3年後に2人は結婚。今年で結婚して9年となる。紆余曲折はあるものの、人並みに幸せな毎日を送っている。強いて言えば祐司の仕事が忙しすぎる、と言った所だろうか。

 何年ぶり?

 ほとんど家にいなかったから、そう言われても仕方ない。逆を言えば、亭主元気で留守がいいと言われなかっただけマシなのかもしれない。たった一言ではあったが、その一言には妻・優花の…、9年分の想いが詰まっているように感じる夫・祐司であった。


 翌日、祐司が起きると、すでに優花は起きて朝食の支度をしていた。パンにハムにレタスにミルク。ここ数年は仕事の疲れもあってか、祐司が朝からそんなに食べる気がしないと言うので、毎朝この組み合わせだった。だが、優花の本音は白米に鮭に納豆に味噌汁と言った日本古来の朝食だった。

 スーパーマーケットに行けば、お菓子と区別がつかない程、甘そうな菓子パンが棚にひしめき合って並んでいる。子供連れの母親が「明日の朝、どのパンにするの?」、と子供に聞けば、大概はパン生地にチョコレートが織り交ぜられた菓子パンと答える。優花はそんな光景を見て、家族と言うものに憧れを頂く一方で良し悪しではないが、母親としての在り方を何となく考えることがあった。

 とは言うものの、子供がいない優花には朝食にパンを買って帰る母親の気持ちが分かるはずもなく、今は祐司がパンでいいと言うから、パンを買って帰るのだった。いつか自分に子供が出来たときは白米を食べさせてあげたいな、と思う、大矢優花だった。

「おはよう、ゆっか」

「おはよう、ゆうちゃん」

 祐司だから「ゆうちゃん」、優花だから「ゆっか」、そのまま呼んだらお互い同じ呼名になってしまうと、2人で相談して決めた呼名だった。もう出会って18年、付き合っている頃から呼び合っている呼名だった。

「ゆっか。朝、食べたら行くよ」

「早いね。で、どこへ?」

「内緒。言ったら楽しくないだろ」

「おぉ~、楽しみ~」

 パンを食べ終わった優花はそう言って、歯を磨きに洗面台へ向かった。祐司も食べ終わり、シンクに置いてあるプラスチック製の洗い桶に食器を置いた。荒い桶には優花の食器も置いてあった。ふと洗面台に目をやる。歯磨きの終わった優花はお化粧をしていた。自分が歯を磨けるまでは少し時間がありそうだ。そう思った祐司は台所のシンクの蛇口をひねり、水を出した。そして、食器洗いを始めた。

 祐司は自称・日本男児だが、食器洗いや風呂掃除、洗濯に掃除機くらいの家事はなるべくやるようにしている。唯一、やらないと言うか、やれないのが料理だった。自分には料理のセンスがないと言うのが、その理由だ。そんな祐司は自分のことを「二十一世紀型、日本男児」だと言うのだった。

 台所のシンクで水を出すと、洗面台の水量は一気に下がる。それに気付いた優花が洗面台から台所を見やる。

「ごえ~ん、あんがと」

「ん?あ、いいよ。帰り遅くなるかもしれないしさ。片付けといた方が後々気楽だろ」

「あん」

 化粧をしながら返事をしている優花。とぼけたような声が祐司に届いた。化粧した優花はもちろん、していない優花も、しながら話をする優花も、全部が優花で、そんな飾らない優花に惚れたんだ。洗面台の方を見ながら祐司はほくそ笑んだ。

 そして、

「人って、こんなに人を好きになれるんだね、優花」とつぶやいた。

「え?なに?」

 言いながら、優花は洗面台から台所へ向かって歩いて来た。祐司は洗い終わった食器を拭いていた。こちらへ向かって来る優花。そこには綺麗に仕上がった大矢祐司の妻・優花がいた。さっきのつぶやき、聞こえるはずがない。本当に小声だったんだから。祐司は優花に吹き上げた食器を手渡し、「しまっといてくれる、歯磨いて来るわ」と言った。「う、うん」と優花はそう返事をした。

 やっぱり聞こえてなかった。祐司は胸をなでおろした。

 その後、祐司は歯を磨き、10分も経たないうちに家を出発した。玄関にカギをかける優花。祐司の右手には愛車のキー、もちろん今日は優花の車ではなく、祐司の愛車でのお出かけだ。

 祐司の愛車、それはマツダ・ロードスター☆通称、NBと呼ばれるロードスターの2代目だ。NBとはエンジン型名のことで、初代ロードスターはNAと呼ばれている。現行のロードスターは3代目で、もうお分かりだろうが、NCと呼ばれている。ちなみに、マツダ・ロードスターと名が付いたのはこの2代目からで、初代ロードスターは販売チャンネルの関係でユーノス・ロードスターと名がついていた。

 祐司のロードスターは排気量1600cc、トランスミッションはマニュアルの5MTで、マツダスピードのマフラーに、エキゾーストマニホールド、車高調整式サスペンションを装備した、祐司セレクションで身を固めたこだわりの1台であった。

 と、車の性能について能書きを垂れるのもいいが、祐司がロードスターに感じた1番の魅力は何と言っても「オープンカー」と言う、その響きでもあった。

 普通、一般的な車にあるはずの屋根、それを取り払ったのがオープンカーというわけだ。ま、雨の日もあるため、常にオープンかと言えば、そうではないが、今日のような雲ひとつないイイ天気、こんな日にはオープンにしない理由はない。「なぜ、わざわざオープンにするんですか?」って野暮なことを聞く人がいたら真っ先に、「そこに青空があるから」と答えるのがオープンカーユーザーの流儀だ。ま、学校では教えてくれない、これが真っ当な解答例だ。

 祐司は優花に右手のキーを見せた。

「え~、まさか屋根開けるの?…なんで?」

「そこに青空があるから」

「バッカじゃないの」

 と、これが一般男女の普通のやり取りと言うわけだ。

「じゃ、行きだけ。帰りはクローズで」

「はいはい、いいよ。分かった。でも、なんでオープンがいいのかね~」

「そこに青空があるから、さ」

「うわっ、2回目。聞いた私も私だが、言っちゃうゆうちゃんもゆうちゃんね」

 祐司が運転席に乗り、優花が助手席に乗った。2人乗りなので、これで定員いっぱいだ。祐司はクラッチを踏み、ギアがニュートラルにあることを確認して、キーを回す。キュルキュルとセルが回り、エンジンがかかる。久しぶりに聞いた、祐司・ロードスターのエンジン音。そろそろオイル交換の頃かな、と思いながら、アクセルを踏み、エンジンを吹かした。ブオ~ンといった音と共にタコメーター(エンジン回転速度計)の針が一気に3000回転くらいまで跳ね上がる。まだ、エンジンが温まっていないから吹かし過ぎは禁物だ。

 ロードスターのコックピットは左がタコメーターで、右がスピードメーターだ。双方ともダイヤグラムの針は時計で言う6時の位置がゼロ値で、ここにもマツダデザインのこだわりを感じる。

 祐司が2回、アクセルを踏むと優花が言った。

「屋根開けよっか?」

「あぁ」

 祐司・ロードスターは幌タイプで、しかも手動。あまり乗り気でなかった優花だったが、もともと車が嫌いなわけじゃないし、こんなバカみたく車に夢中になる祐司が好きだった。意外にも昔から屋根を開けるのは優花の役目、慣れた手付きで屋根を開けた。すると車内は一気に青空でいっぱいになった。さっきはバッカじゃないの、と思った優花だったが「そこに青空があるから」と祐司の言葉、今日ばかりは説得力のある一言だった。

「空、青いね~」

 つい釣られて言ってしまった、優花。

「だろ」

 得意げに答える祐司がそこにいた。

「あと、これね」

 そう言って、ダッシュボードからサングラスを取り出し、優花に渡す。そのついでにカーナビのスイッチON。スピーカーからFMラジオが流れた。

「さ、出発」

 そう言って優花はサングラスをかけた。

「はいよ」

 祐司はクラッチを繋ぎながら、アクセルをグッと踏んだ。祐司・ロードスターは勢いよく駐車場を飛び出した。


 祐司・ロードスターは国道22号線を南下、一宮ICから東名高速道路に乗り、春日井IC手前で、東名から中央自動車道に乗り換えた。一路、北東へ。中津川ICで中央道を降り、国道19号、そして県道7号。すると、見えて来たのは旧中山道43番目の宿場である馬籠宿だった。

 県道沿いにある馬篭館を抜け、次の十字路から右を望めば、石畳の敷かれた坂に沿う宿場町がそこに広がる。石畳の両側にお土産物屋が並び、商いをしていない一般の家庭も当時の屋号を表札にかけている。そこには旧中山道の歴史と文化を後世に伝えようとする岐阜県中津川市馬籠の想いを感じるようだ。

 約2時間半のドライブ、時計を見ればすでにお昼間近。車を降りた2人は石畳の街道に沿うお食事処で食事を取った。今日は平日、比較的客は少なく、お昼時ではあったが店内から見える風景や情景を眺めているうちにあっという間に1時間が過ぎていた。そのあと、2人は手をつなぎ石畳の街道を散歩、お土産を買ったり、お団子を食べたり、久しぶりに2人の時間を満喫した。

 夕方となり陽が落ちた馬篭宿。それもまた幻想的だった。石畳の街道に行燈が並べられ、宿場の街並みは淡い灯りで包まれる。そんな街並みを後ろ目に2人は帰路に就くことにした。まだ、ここから2時間半かかる。今帰っても家に着くのは21時付近だった。

「ごめんな、ゆっか。明日、仕事だもんで」

「分かってるって」

「でも、今月いっぱいで辞める」

「仕事?…」

 うなずく祐司。優花が一呼吸おいて、

「…そっか」

「怒ってる?」

「怒る?なんで?」

「なんでって、大切なこと相談もなく決めたし」

「別に怒ってないし。それに昨日、ゆうちゃんが『デート』って言葉使ったとき、もしかしたら昔の2人に戻れるのかな、って思ったよ。ま、その答えがこれだったっかっ…アハハ」

「アハハ?」

 笑顔の裏にある怒り?とも思った祐司だが、そもそも優花は笑顔の裏に怒りを隠すような、そんな女性だったろうか。いや違う、祐司の知っている優花は表側の笑顔しか持っていない。

「もう決めたんでしょ。ならいいじゃない。私はゆうちゃんについてくよ」

 やはり優花の笑顔は表側だけだった。

「ゆっか、ありがとう」

「さ、帰ろう。うちらの宿場町、尾張一宮へ」

「おう」

 祐司がエンジンのキーをひねる。行きと同じようにキュルキュルとセルが回り、エンジンがかかる。と、同時にスピーカーからFMラジオが流れた。

そのとき、優花が「あっ」と言葉を発した。

『…ずっと、ずっと、ずっと変わらない…♪』

 スピーカーから流れてくる曲に優花が反応した。

『…会いたい、会えないのに、愛してやまない、missing u…♪』

「ん?」

「これって」

「これが何か?」

「イマドキなやつ、携帯電話のCMソングでバカヒットしてる曲よ」

『…あの日、飾らない君に惚れた…♪』

 今朝の俺か、そう思うような歌詞に祐司はエンジンをかけたまま聞き入ってしまった。優花もカーナビの地図表示を何気なく見ながらしばらくの間、聞き入った。

 曲も終盤、絶妙なタイミングでラジオのDJが曲紹介を入れる。

『先週に続き今週も第1位、スパイシーチョコレートで「ずっと」でした』

「ずっと?」

「そう、ずっと…」

 ずっと?祐司はふと思い出していた。

 今から10年前、名古屋の駅前でストリートミュージシャンたちがDragon AshのGrateful Daysを演奏していた、あの日。そう、あの日に祐司は優花にプロポーズをした。「ずっと、ずっと、一緒にいようね」と。

 優花は覚えているだろうか。

「いい曲でしょ。また、あのCMもいいんだよなぁ。男の子と女の子が出てくるんだけどさ、遠距離恋愛なわけよ、なかなか会えない状況の中でも、お互いの気持ちはずっと変わらない…よね、ってなストーリーなのよ」

「へ~、それが携帯電話のCMかよ」

「そ。想いをつなぐ…。それがイマドキの携帯電話の使命よ」

「そりゃ、携帯電話会社も大変だね」

 優花の話もそこそこに。祐司は心ここにあらずだった。フロントガラスの向こうに見える馬篭の夜景。そんな夜景を何気なく見ながら、祐司は10年前のあの日のことを考えていた。ま、別に覚えていなくたっていい。これから先も優花と一緒にいられればそれでいい。そう考えれば別になんてことはない。

「ゆうちゃん」

「ん?」

 優花の声に祐司が振り返った。するとすぐそこには優花の優しい顔があった。目が合った瞬間、優花が助手席から身を乗り出す。すると、2人の唇がバックミラー越しに重なった。祐司は身を乗り出した優花をそのまま抱きしめた。しばらくして、優花が「痛いよ」と言うので祐司はゆっくりと腕を離した。

「あ、ごめん。ゆっか…」

「も~、痛いよ。でもいいよ。エヘヘ…」

 ちょっと赤らんだ優花の表情、照れ笑いだろうか。

 そして、続けて祐司に言った。

「ずっと、ずっと、一緒にいようね。ゆうちゃん」

 それはあの日、あの時の、あのプロポーズ、そのものだった。

「ゆっか…」

「ねっ」

 ロードスターのバックミラーには馬篭宿の淡い灯りに照らされた2人のシルエットが優しく重なり映っていた。


 会社を退職してから約4か月。再就職先を探していたある日のこと、大矢祐司の携帯電話に思わぬ人物からの着信が入る。その相手とは松川理化学研究所・第二秘書の桐嶋であった。桐嶋は開口一番、「今から会えませんか?」と聞き、予定のない祐司は二つ返事でそれを了承した。

 この一報により祐司と優花、2人の人生は大きく動き出すことになる。

 また、同時に優花の心と身体にも大きな変化が始まろうとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る