第12話 一会

 日間賀島診療所では午前より続いていた患者がひと段落つき、八神英二がカップラーメンにお湯を注いでいた。

「次のニュースです」

 待合室にある診療所唯一のテレビはお昼のニュースを伝えていた。画面は女性キャスターのアップに変わり、右下に『速報』と書かれたテロップが流れていた。

「2日前の夕方に発生した日本電源株式会社のハイブリッド発電所・T-POWERティーパワーで発生した制御不能事故につきまして、先程、日本電源の若松社長が会見を行いました。現場から中継です」

「はい。こちら日本電源の会見が行われている会場です。先程、会見は終わり、現在は報道陣の質問に若松社長が答えています。若松社長なのですが会見では終始、事故は収束し、T-POWERは安全であるとの考えを改めて強調致しました。昨日は警察関係者とシステム開発を手掛けた企業による事故の原因究明が行われ、一部のシステムにおいてウィルス感染があったことが分かっております。先程の会見ではその部分にも一部触れ、新たなウィルス対策を講じたと、説明しております。一方、専門家からはウィルス攻撃により制御が不能になる発電所などあってはならない、即刻停止すべきだとの声もあり、これからさらに波紋は広がりそうです。そんな中、日本電源はこの会見終了後、早ければ明日にもT-POWERを再稼働させる方針です。現場からは以上です」

 待合室の長椅子で英二はカップラーメンの汁をすすっていた。

 一口すすり、独り言をぼやく。

「この間の事故か…」

 現場からの中継後、ご意見番のニュース解説が入る。

「今回、日本電源の社長が『収束』の2文字を力強く発した背景には去年の原発事故と、今回の事故は全く性格が異なり、異質であると言うことを鮮明に打ち出す意図があったように思われます。ですが、世間の目から見れば、どちらも同じ、発電所での事故です。それも各機器の制御にネットワークを利用したリモート接続システムを導入していると言う、得体の知れないハイブリッド発電所ともなれば、原子力発電所以上に世間の目は冷ややかです。システム導入時に多くの不測の事態を想定したはずでしたが、起きてしまった今回の事故。想定していた不測の事態に不備はなかったのか、あらためて再点検をする必要があると思われます」

 T-POWERの事故対応は人の命よりも経済や政治が優先されているように感じる象徴的なニュースであった。去年の原発事故もそうだ。国は収束宣言を行い、原発輸出の推進を始めたが、依然として自分の生まれ故郷に帰れない人々が大勢いるのが現状だ。

 解説が終わり、そのままコマーシャルとなった。

 テレビ画面の一点に見つめ、英二の独り言は続く。

「不測の事態か…、人の命に不測はないがね」

 英二は豪快に喉を鳴らしながらカップラーメンの汁を飲んだ。医者だからってカップラーメンを食べちゃいけない訳じゃない、と言わんばかりの豪快っぷりだ。

「ふ~、たまにはカップラーメンもいいな」

 汁を飲み干すと同時に診療所の黒電話が鳴った。ラーメンのプラスチックカップをキッチンのシンクに投げ捨て、急いで診察室に戻り、受話器を取った。

「はい、もしも~し」

「八神先生ですか?」

 声の主は若葉台総合病院の夢野 彩だった。

「おぉ、夢野さん」

「お疲れさまです。今、大丈夫ですか?」

「あぁ大丈夫だよ。今、お昼食べ終わったとこ」

「そうでしたか」

 今、夢野 彩から連絡があるとすれば遊佐 学のことであろう、英二はそう直感した。あれから3日、佐々木のじいさんもここ、日間賀島診療所には顔を出していない。こっちから様子を見に行くのも不躾かと、遠慮している。

 慌ただしいはずの若葉台総合病院・救急救命センターだが、電話先からはひっそりとした雰囲気が伝わってきた。

「そっち静かだね」

 英二は感じたままを口に出した。

「今、先端医療センターにいます」

 それなら少し静寂なのも分かる気がした。

「遊佐 学さんのICUの前にいます」

「そっか。意識は?」

 英二は学の担当医でもなければ、若葉台総合病院の直属の医師でもない。日間賀島診療所のぼんくら医師だ。病状を聞くなど恐れ多い。

 だが、恐る恐る聞いてみた。

「戻りません。ご家族は経過観察として3日間、学さんを私に預けてくれましたが、期待に応えられませんでした」

 ひと呼吸の後、彩は続けた。

「実は昨日、ご家族が脳死判定の手続きに当院にみえました」

「脳死判定?」

「はい」

「ご家族が同意されたのですか?」

「はい。以前よりご家族には快方に向かった海外の症例も紹介しましたが、専門医の意見では今回の脳幹損傷では位置的に難しいだろうとのことで、ご家族はその意見も参考にしつつ、最終的には学さん本人の意思を尊重したようでした。ご家族への説明は私と脳外科医と看護師長を含む、計4人で行いました」

「そうでしたか」

「八神先生にはお伝えするべきかと思いまして…」

「それは気を遣わせたね。すまない」

 遊佐 学、本人の意思、それはあのドナーカードが物語っている。その我が子の意思を尊重した両親。両親の決断を考えると胸が痛む。

 と、同時に佐々木のじいさんはこのことを知っているだろうか、気が揉んだ。だが、他人のプライベートな問題に、まして人命が関わることについては余り首を突っ込まないことにしていた。

 ここ日間賀島は他人も家族同然の暮らしだ。だからこそ、めでたいときは皆で祝い、ご不孝があったときは静かに見守る、それが慣わしだ。

「脳死判定はいつですか?」

「明日にも行われ、すぐにも臓器移植となります」

「明日?」

 明日は金曜日。月に1度の診療報告会議の日であった。

 診療報告会議とは若葉台総合病院で月に1度行われる会議で救急救命センターを含む、全診療科セクションのトップが一堂に会する日であった。

 そんな一見、英二とは無縁とも思える重厚感溢れる会議だが、日間賀島診療所は若葉台総合病院の付属診療所であり、組織上の位置付けは救急救命センターと同じになるため、その責任者となる八神英二が代表して出席するのはおかしいことではない。

「報告会の日に?」

「予定では午前に脳死判定が行われて、午後に臓器移植になると思います。報告会は午前なので、私は立ち会えませんが。八神先生も…ですよね?」

「ま、そうだね」

 守秘義務上、それ以上は具体的な話が出来なかったが、心臓など一部の臓器はすでに提供者が決まっているようだった。

 遊佐 学の臓器移植。英二は彼の第2の人生が少しでも良いものになることを切に祈った。もちろん遊佐夫妻にとっても。


 翌日、英二は少し早めに日間賀島診療所を後にした。

 足取りは重かった。赤字経営を是正するようにと、普段から語気の荒い改善命令が飛び交うため、それだけでも足取りは重いが、今日はそれだけが理由ではなかった。

 港でしばらく船を待つ。いつもの定期便が定刻通りに入港してきた。

 世間は何ら変わりない、いつも通りの金曜日だ。だが、英二や遊佐夫妻にとってはそうではない金曜日だ。

 船に乗り込み、約20分。島を出るのはあの日以来だった。同じ経路で若葉台総合病院へと向かう。ただ、何となく夢野 彩に会うのがためらわれ、救急玄関ではなく、総合玄関から院内へ入った。

 総合受付の女性が英二を見るなり会釈をした。病院に総合受付を設けるなんて、と思うがそれも院長である波多野 涼の方針だった。病院は医療サービスを提供する場。そして、若葉台総合病院は最先端の医療技術と医療サービスを提供する施設。その一環が総合案内と言う訳だった。

 専門病棟3階の先端医療センターに入った。エレベータを出て、右に直進すると4床のHCUを横目に、ICUが見えてきた。関係者以外立入禁止と書かれた扉。その扉の前で立ちすくんでいると、ひとりの男に声を掛けられた。

「八神先生」

 聞き覚えのある声だった。

「お、鮫島。久しぶりだな」

 鮫島五郎。心臓血管外科のエキスパートだった。約11年前、八神英二が名古屋市大病院を追われることになるまで共に働いていた仲間であった。鮫島もメディカルフロンティアの上谷高志に声を掛けられ、ここ若葉台総合病院にやって来た医師のひとりだ。また、夢野 彩同様、八神英二と言う医師を慕い、今日まで医師を続けてきたひとりでもあった。

「白衣なしでは入れませんよ」

 五郎はそう笑いながら、右手に持った白衣を英二に手渡した。

「私のですけど…」

「診療所の島医者でも、これ着れば総合病院の医師ってか」

「何言ってるんですか。日間賀島は若葉台総合病院にとって重要拠点じゃありませんか」

 五郎の言葉には全く嫌味を感じさせない。大した男だ。

「日間賀島は先代の波多野院長の故郷。そこにあるのが現・院長の夢を担う診療施設。それこそ日間賀島診療所。そこを一手に任されているのが八神先生じゃありませんか」

 そう言いながら誰に何を言われる訳でもなく、五郎はICUの扉に設置されたリーダーにカードをかざした。ピッと言う照合音と共に扉が開いた。

 英二は慌てて、白衣を着た。

「どうぞ」

 なんだろう、この感じ。今日、ここに来ることを予期されていたような感じだ。英二は案内されるがまま、先端医療センターのICUへ入った。

 先端医療センターには8床のICUがある。そのひとつが遊佐 学のいるICUだ。五郎は英二に何を聞くこともなく、そのまま学のICUへ直行した。

「そろそろ、ご家族も見えます。それまでなら」

「鮫島」

「昨夜、夢野センター長から話があって。明日、八神先生が来るだろうから、ICUを案内して欲しいって言われまして。センター長は診療報告会があって来られないですから」

「診療報告会ね。そういやそうだったね」

 時刻は午前9時、ちょうど始まった頃だった。

「夢野センター長は八神先生ならここに来るって言ってました」

「鮫島、お前は?」

「心臓外科部長は一昨年、優秀な若いもんに譲りましたよ。もう私も定年間際なんでね」

「そうだったな。お互い、歳取ったな」

 名古屋市大病院で心臓血管外科のメンバーとして共に働いた鮫島五郎と八神英二。英二が「がんの消滅理論」を確立した際、五郎は誰よりも早くその先見性を認め、医療現場での応用技術を模索した。その応用技術が今の名古屋市大病院をがん治療における中核医療施設と言われるまでに成長させたのである。

 現在のがん治療における名古屋市大病院を築いたのは、他でもない鮫島五郎と言っても過言ではなかった。

 病床にある遊佐 学の表情からはとても脳死状態にあるとは想像もつかなかった。手を握れば、それは暖かく、人としての温もりが伝わってくる。

「今日か…」

「…にしても、鮫島の他にも人、いただろう」

 英二が鮫島の方を向くと、鮫島はうつむき加減で話を始めた。

「遊佐 学さんの心臓なんですが、松川啓介氏の元への移植が決まりました」

「松川啓介?」

 英二は驚きの顔を五郎へと向けた。

「まさか、あの松川啓介なのか?」

「はい」

 英二は言葉を失った。

 臓器移植の対象者は日本臓器移植ネットワークにより厳正に選ばれる。順番と緊急性が重視されるのだが、もともと松川啓介、本人は臓器移植を希望していなかった。今回、移植が決まったのは若葉台総合病院と松川啓介の両親との間で以前より取り交わされていた約束事によるものであった。いざと言うときには本人の同意なく心臓移植を実施する。そういった取り交わしであった。

 その松川啓介の担当医が鮫島五郎であり、今回の心臓移植を取り仕切ることになっている責任者でもあった。

「どうして彼なんだ?」

「一昨日の夜中、山梨県の甲府市民病院に救急で運ばれました。応急処置がよかったお蔭で一命は取り留めたものの、意識は以前戻っておらず、薬による延命治療が続いています。残る手段は心臓移植しかないとの判断になり、今朝ドクターヘリで若葉台総合病院に移送されました」

「甲府?」

「その日の夜中、松川理科研・秘書の桐嶋さんから電話があって、話を聞いた感じでは甲府にある国立脳研と言う施設にいたらしいです」

「国立脳研?」

「国立脳科学研究所。厚生労働省所管の研究機関だそうだが…」

「脳科学か。松川理科研が好きそうなジャンルだな」

 相変わらずだな、松川は。そう思うと少しだけ嫌味が交じった。

「それが、啓介さんはもう松川理科研の人間ではないんですよ」

「え?」

 先程の嫌味が口の中で苦味に変わるようだった。

「啓介さんは松川鉄道の人間で、もう旧松川総研とも松川理科研とも無縁の人なんですよ」

「松川鉄道?」

英二が今朝、乗ってきた鉄道会社だった。

「あの、松川鉄道?彼、ここが地元なのか」

「えぇ、そうなんです」

 英二は服役中、外部からの情報は完全に遮断され、見聞きすることは出来なかった。まして、松川啓介が実刑何年となったのか、それすら知る由もなかった。松川啓介が何を思い、3年の刑期を終えて出所したのか。遊佐 学の病床を前に八神英二は鮫島から松川啓介の生い立ちや、あの日から今日まで何があったのかを聞いた。

 英二自身も苦しみに苦しんだ4年であったが、松川啓介も同じように苦しんだ3年であった。今も松川理科研に戻ることなく、ひっそりと松川鉄道を守り続けている。担当医であった鮫島だからこそ分かる啓介の素性であった。

 そんな今の彼を知ると、金に物言わせてでも全てを手に入れようとする過去の男、松川啓介の面影はみじんも感じられなかった。

「不正はないんだよな?」

 鮫島が「ない」と断言すればそれでいい、そう思った。

「それは誓ってありません。松川啓介氏本人は寝耳に水かもしれませんが、ご両親の元、以前より日本臓器移植ネットワークに登録していたことに違いはありません。担当医として断言致します」

「そうか。それなら問題ない。ま、彼にだって人権がある。心臓移植は当然の権利だ」

「ええ。ただお伝えしておいた方かよいかと思まして」

「それはすまない。ありがとう」


 ふと英二が顔を上げると、ガラス窓の向こう側に遊佐夫妻が立っているのが見えた。英二が会釈をすると、遊佐夫妻もゆっくりと会釈をした。英二に続き、鮫島も会釈をした。ICU内部からガラス窓の向こう側に声が漏れることはない。英二は五郎に学の両親であることを告げ、ICUの出入口へと向かった。それを聞き、五郎も英二の後を追って出入口へと向かった。

 一方、遊佐智治と千恵には何を話しているのかが聞こえない。ガラス窓の向こう側で話をする八神英二ともうひとりの医師。胸の中は不安でいっぱいだ。もうひとりの医師は初めて会う医師であった。だが、遊佐 学の病床に八神英二と共にいたこともあり、これから学の身に起こることに少なからず関わりのある人物であることは容易に想像がついた。医師2人のやり取りが終わると、八神英二がこちらへ顔を向けた。智治と千恵に気付き、会釈をした。

 2人はゆっくりと会釈を返した。

 その後、足早に英二は学の病床を去り、もうひとりの医師もその後を追った。廊下の向こう側にあるICU出入口の扉が開く音が聞こえた。英二はそのまま遊佐夫妻の元へと向かった。

「遊佐さん」

「八神先生」

 一足遅れて、もうひとりの医師が八神英二の隣へ着く。

「こちらは?」

 千恵が英二に問うた。

「こちらは若葉台総合病院の鮫島五郎医師です」

 それは白衣を着ていることからも分かることなのだが、と思いながら智治は「今日は?」と聞き返した。

「担当医である夢野医師が午前中は診療報告会議でこちらへ来られないため、代理で鮫島医師にお越し頂いたと言う訳です」

 五郎には上品な言い訳に聞こえた。午後より行われる心臓移植について、担当医である夢野医師から説明がなされていない状況下で、遊佐夫妻に鮫島を紹介するには、この言い訳が最良であっただろう。

 一方、遊佐夫妻には鮫島五郎の身なりからも夢野 彩より経験のある医師であることは容易に想像がついた。遊佐夫妻にとっては逆にそれが安心材料となった。研修医のような若い医師が代理で来るよりよっぽどいい、そう思った。

「鮫島と申します。今日から数日間、遊佐 学さんのお世話をさせて頂きます」

 そう言って五郎は再度、会釈をした。

「よろしくお願い致します」

 智治が会釈を返す。続き、千恵も会釈をした。

 遊佐夫妻が頭を上げるとそこに見えるのは学のICUであった。智治がICUのガラス窓を見る。この場所からは学の姿がよく見えた。

「残念ながら容体に変化はありません」

 五郎が寂しそうに学を見る2人に言葉を添えた。

「すでに判定は終わっているのですか?」

「いえ、このあと10時すぎから先端医療センター、救急救命センター、専門病棟の医師、計4人で判定を行います。判定にはご両親も立ち会って頂くことになります」

 鮫島は偽代理ではあるが、脳死判定の経験がない訳ではない。診療所の英二が話をするよりも、若葉台総合病院の医師が話をした方がよいであろうと思い、英二より先に声を発した。英二も特段付け加えることはなかった。ここからは若葉台総合病院の役目。直属の医師である鮫島五郎に任せようと思った。

 英二は右腕の時計を見た。時刻は午前9時半をちょっと過ぎた所だった。

 若葉台総合病院の診療報告会議は9時から10時に行われ、救急救命センター、先端医療センター、一般病棟、専門病棟、日間賀島診療所の順番で報告が行われる。

 時間5分前行動は社会人の常識とも言えるが、夢野 彩が9時前に向かったのはトップバッターであるからと言う理由もある。一方、診療所は一番最後であり、それも内容は診療報告と言うよりも改善命令の方が多い。時間的には9時半から40分あたりに順番が巡ってくることが多い。

 ひとつ付け加えておくが、八神英二が毎度遅刻しているかと言えばそう言う訳ではない。船が遅れ、本当に遅刻することもあるが、今日は特別だ。遊佐 学の顔を一目見てから診療報告会議に向かう予定だった。遅れても10分程度、それが当初の目論見だった。確かに鮫島や遊佐夫妻に会うことで10分の予定が30分になってしまったが、この9時から9時半までの30分は非常に貴重な30分であったのは間違いない。

 これも一期一会と言えよう。

 だが、診療報告会議も月に1度の重要な会議。代表である英二が席を外す訳にはいかない。遅刻の理由はいつものように船が遅れたとでも言えばいい。それに今日は日間賀島診療所にとっても大きな意味のある診療報告会議とも言える。毎度、毎度の改善命令。八神英二が黙って聞いている訳がない。ついに会心の一手を打つ、その日がやってきたのだった。

 その一手、それが助産科の産婦人科医師の常駐であった。

 ついに日間賀島診療所の助産科に常駐医が来てくれることになったのだった。まさにそれは若葉台操総合病院・院長、波多野 涼の夢である『日間賀島・十月十日プロジェクト』の本格始動とも言えた。

「鮫島」

 英二は腕時計を鮫島五郎に見せた。

「あ、分かりました。あとはお任せ下さい」

 英二は遊佐夫妻の方を向いた。

「申し訳ない。先に失礼しなければなりません。不明な点はこの鮫島にお申し付けください」

 そう言って、八神英二はその場を離れた。5歩程度歩き、立ち止った。振り返り再び深く会釈をする。鮫島が英二に会釈を返した。『あとはお任せ下さい』そう言った想いが伝わるようだった。

 英二はゆっくりと頭を上げた。遊佐夫妻はまだ会釈をしていた。そのまま歩みを進める。午後より行われる遊佐 学の心臓移植。診療所で佐々木のじいさんから学の話を何度聞いたか、それを思うと居たたまれない気持ちになった。遊佐 学、智治、千恵の姿を背に英二はエレベータホールへ向かった。

 ホールでエレベータの乗場ボタンを押した。「ポン」と言う音と共に一番手前のエレベータのランプが光った。鮫島の配慮であろうか、ICUの方向からは鮫島と遊佐夫妻の話声が聞こえてくる。英二はその会話により少しでも遊佐夫妻の不安が払拭されることを切に願った。

 あとは頼む、鮫島。


 鮫島五郎はエレベータホールへと消えた八神英二を見届け、遊佐夫妻を近くにあった長椅子へ案内した。夫妻は学のICUを後ろ目に五郎の案内を受け、椅子へ腰かけた。五郎は夫妻から2人分程離れた場所に腰を掛けた。

「昨夜は眠れましたか?」

「いえ」

 返事は千恵だった。

「そうですよね…」

「…学さん、青年海外協力隊として、海外に行ってらしたそうですね」

「なぜ、それを?」

「すいません。個人情報でしたね」

 午後から行われる心臓移植に際し、移植先となる松川啓介もだが、移植元となる遊佐 学のことも調べられる。それが臓器移植の鉄則だった。その過程で五郎が知り得た情報であった。

「いえ、いいんです。ちょっと何だか嬉しいです。うちの学のことを知っていてくださって」

「素晴らしい青年ですね。人のために海外へ行くなんてね。モロッコでしたか、まだまだ発展途上の国ですよね。日本の支援を必要としている」

「モロッコの小中学校を巡回して廻っていたみたいですよ。私たちも知らなかったのですが、大学では教職課程を履修していたそうなんです」

 父と息子。智治は学から自分の将来について少しだけ話を聞いたことがあった。普段は仕事で忙しい父・智治。今となれば息子・学との時間をもっと作ってやればよかった、いや作るべきだった、そう思う。

「教員ですか」

「具体的には決まってなかったみたいですが、漠然と人の役に立つ仕事…教員みたいなイメージだったようです」

「私、その話、初めて聞いたわ」

 千恵の驚きがその場を駆け抜ける。智治は何を今更と言った感じの含み笑いで千恵に話す。

「学は常に言ってたんだよ。でも、千恵にも千恵なりの息子像があるし。だから、学は表立っては言わなかったんだ。俺だってたまたま、あれだよ。帰りの電車が一緒になって、将来どうすんだ、て聞いたらボソッと言った程度なんだから」

「そっか。学なりに考えていたのね。知らないうちに大人になって。知らぬは親ばかり、だったのね」

「ああ」

「学さんの想い、次にモロッコへ行く人に伝わるといいですね」

「そうですね。今年度は現地スタッフのみだそうで、新規派遣があるとすれば来年度だそうです」

 智治が天井を見つめながら言った。

 きっと伝わる、そう願っているようだった。

「あの…」

 千恵だった。

「はい」

「あの…」

 五郎は遊佐千恵の様子が変だと思い、遊佐夫妻の座る右側を見た。千恵はうつむいていた。何だか申し訳なさそうな表情だった。

「どうしました?」

「あの、鮫島先生の専門は何科ですか?」

 答えにくい質問だった。

 これを答えるということは午後からの心臓移植をほのめかすことにもなる。だが、こればかりはいずれ分かること。ここで嘘をついて、後から知れるより、今ここできちんと話をした方がよい。

 それが鮫島の最終判断だった。

「私の専門は心臓です」

「心臓ですか。八神先生と同じなんですね」

「えぇ」

「では、学の心臓は先生が取り上げて下さるんですか?」

 遊佐千恵の真っ直ぐな視線が鮫島五郎を捉えていた。

 千恵の言う通り、遊佐 学の心臓を取り上げるのは鮫島五郎率いるチームが執刀を担当する。同時に松川啓介への移植手術もこのチームにより行われる。

 唯一、松川財閥が影響力を及ぼしたとすれば、松川啓介の執刀を鮫島五郎が行うと言う、ただ、その一点であった。信頼のおける医師に執刀をお願いしたい。それは松川啓介の父・松川隆平の願いであった。その為に松川啓介はドクターヘリでここ若葉台総合病院に運ばれた。

「はい。私のチームが執刀します…」

「…息子さんの想い、必ず私が次の方へ運びます」

「先生なら安心出来ます。よろしくお願いします」

「移植を受ける方って、どんな方なんですか?」

 千恵の言葉に智治は驚いた。聞いてみたいが聞いてはいけない。開けてみたいが開けてはいけない、これこそまさにパンドラの箱だ。

「申し訳ありません。それは臓器移植の規定からも個人を特定する情報などはお伝え出来ないのです。ただ、私は移植を受ける方をよく存じており、必ずお2人と…、遊佐 学さんのご意志を受け継いで頂ける方であると、そう思っております」

 必ず私が遊佐 学の想いを松川啓介に伝える、そう決心した。

五郎は一呼吸おいて続ける。

「私は過去数例、心臓移植に携わって参りました。移植を受けられた方も元気になられると、提供された方のことを気にされます。もちろん、規定で個人を特定する情報などはお伝え出来ないのですが、移植する側、される側の双方からの事前承諾があれば、こうやってご家族と話をさせて頂いて知り得た情報や学生時代や社会人になってから、どのような人生を歩まれたのか、私の知り得る限りで、お話しすることもございます…」

 話をしながらも千恵の様子が気になった。

「…ご迷惑でしょうか?」

 五郎の位置からは智治に隠れてしまい、千恵の姿が見えない。表情が伺えない分、少し自分の想いが行き過ぎてしまったのではないだろうか、と不安に駆られた。そう思った次の瞬間、千恵は長椅子から立ち上がった。すごい勢いであったため、慌てて智治も立ち上がる。

 智治は「大丈夫か」と千恵を気遣った。

 千恵は目から溢れる涙を拭い、五郎の方を向いた。

 やはり、千恵は泣いていた。

 そして、

「いえ、その方によろしくお伝え下さい」

 とだけ、言葉を発して深く会釈をした。

 五郎は何も言わず立ち上がり、深く会釈を返した。


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