第11話 親心
経過観察を開始して、2日が経った。母親である遊佐千恵は毎日、見舞いに来ているが、残念ながら依然として遊佐 学に快方の兆しはなかった。
この日、救急救命センターの集中治療室から先端医療センターの集中治療室に移る準備が始まっていた。若葉台総合病院の規則で救急救命センターにいられるのは例外を除き基本3日と決まっているためだ。救急救命センターの集中治療室は3床しかなく、救急患者を抱える救急救命センターとしては集中治療室を長く使用されては次の救急患者の受け入れに支障が出る恐れがある。そう言った理由からだった。容体が安定した患者から、順番に一般病棟もしくは専門病棟に移っていくのだった。
一般病棟は病気やケガをされた方が入院治療する病棟で、その中でも専門的な治療を行うのが専門病棟である。その専用病棟に属し、更に高度な治療を必要とする患者を対象とした施設が先端医療センターであった。
先端医療センターは5床の手術室ORと8床の集中治療室ICU、4床の高度治療室HCUを備え、設備も救急救命センターと同等、もしくはそれ以上が整っており、若葉台総合病院でも中核となる位置づけの施設である。救急を除く全ての治療、手術はここで行われる。
遊佐 学は右足の外傷があり、加えて脳の脳幹に強い衝撃を受け、意識不明の重体となっていた。だが、生命維持装置が取り付けられている状況下では命に別状はなく、容体は安定しているとの判断に至った。
受入先は脳神経外科となり、病棟は専門病棟の先端医療センター、当面の担当医は夢野 彩となった。本来、一般病棟もしくは専門病棟に移ると受入先の診療科である脳神経外科の医師が担当するのだが、今回は救急救命センターと専門病棟それぞれの医師による話し合いで夢野 彩となった。
若葉台総合病院は例外を除き一定期間の間、救急患者を一番最初に受け入れた施設に対して大きな権限を与えていた。それはその施設を救急患者の担当施設と位置付け、専門外であっても治療方針を含む全ての決定について、変更も可能とする大きな権限であった。必然的に救急救命センターが、一番強い権限を持つことを意味しており、また、同時に病院と言う命を預かる現場において救急救命センターこそが一番責任の重い施設であり、重要な施設として位置付けられている証拠でもあった。
今回はその権限を使用した良くあるケースの一例であった。経過観察を必要とする患者において、こういったケースは珍しくない。要するに救急救命センターのセンター長である夢野 彩が遊佐 学の経過観察には救急救命センターも関わっていく必要があると判断した、と言うことだった。
翌日、遊佐 学は救急救命センターから専門病棟の3階に位置する先端医療センターへ移動した。母親である遊佐千恵も朝から病院に赴き、移動を見守った。午前中、移動先の先端医療センターでは久しぶりの救急患者受け入れと言うこともあり、準備に多少の混乱があったが、午後には落ち着きを取り戻していた。程なく千恵の面会も許された。
先端医療センターの集中治療室は救急救命センターの集中治療室よりも若干ゆとりのある間取りだった。それは逆に言えば患者と家族、患者と医師との間に距離が生まれると言うデメリットでもあるが、医師、看護師としては働きやすい環境とも言えた。
千恵は先端医療センターでも救急救命センターのときと同じようにガラス越しに学を見守っていた。今、ひとりで戦っている息子・学。そう考えるだけで涙がこぼれそうであった。
そこへ白衣を着た女医が近づいてきた。夢野 彩だ。千恵が振り返るなり、彩は会釈をした。
「当院の事情でこういった移動となり、申し訳ありません」
「いえ、それは仕方のないことですから」
遊佐夫妻は3日前の夜遅くに夢野 彩から病状の説明をされた際、快方の兆しがない場合は3日後に先端医療センターに移動になると聞かされていた。病院の事情もそのときに説明を受けていた。だから、移動に関しては気持ちの上でも割り切れる部分がある。だが、移動になったと言うことは快方の兆しがない、と言うことを如実に示されている訳で、千恵の内心は複雑な思いでいっぱいであった。
彩は千恵の隣に立ち、話を続けた。
「センターは変わりますが、担当は引き続き私がさせて頂きます」
この絶望的な状況において、彩の続投は遊佐千恵にとっては唯一の明るい希望とも言えた。
夢野 彩も千恵同様に先端医療センターの集中治療室を眺めた。
「こっちのセンターはうちよりも設備が良いんですよ」
だが、そう言った彩、本人も、それを聞いた千恵もそれが気休めだということは分かっていた。本当に欲しい言葉、それは『治りますから』の一言に尽きる。だが、医師として、それを言える確証はどこにもなかった。
「先生」
千恵も集中治療室を眺めている。その視線の先には学がいる。
「はい」
「先日のお話、主人とも話し合ったのですが、親としてどう受け止めたらよいのか、分からないのです」
千恵はそう言って、うつむいた。
彩は医師として少しでも希望が持てるような事を言いたかったが、今の状況下では、単に無責任な発言としかならなかった。遊佐千恵は彩からみれば10程目上になるが、同じ女性としてならば少ならず言えることはあるように思った。
「私には子供がいませんので、お母様のお気持ち察するに余り有らないですが、息子さんを思うお母様の気持ちに善し悪しはないと思います。お母様として、ご両親として、納得出来る結論を出されるべきだと思います」
千恵は一点を見つめていた。
「難産だったんですよ、この子」
彩は驚いて千恵を見た。落ち着いた表情がそこにはあった。
「そうだったんですか」
「もうあれから25年です。生まれるときもそうでしたけど、生まれてからも小さい頃は引っ込み思案な性格でしてね。でも、高校と大学でボランティアに携わる機会がありましてね、ちょっと変わったんですよ。自分から何かを始めたりする子ではなかったのですが、自ら人の役に立ちたいって、ついこの間も青年海外協力隊として海外に行っていたんですよ」
遊佐 学が青年海外協力隊として海外に派遣されていたことは八神英二から聞いて知っていた。だが、それ以上に驚いたのは遊佐 学が引っ込み思案な性格であると言うことだった。断片的とはいえ、母親から語られた遊佐 学の生い立ち。引っ込み思案な少年が成長するにつれ、人の役に立ちたいと思うようになった…。そこにはどのような気持ちの変化があったのか、何を思い、何を考え、そう思うようになったのか。
彩にはひたむきに自分と向き合おうとするひとりの少年が目に浮かんだ。学が元気になったら、その胸のうちを聞いたみたい。そのためにも医師として最善を尽くさなければならない。そう思った。
「素晴らしいじゃありませんか」
その言葉を最後に、2人に会話はなくなった。ただただ静かに集中治療室を見守り続けた。しばらくして彩のPHSが鳴り、急患が入った旨を告げられた。
彩は千恵に会釈をして、その場を離れた。
千恵はその後も時間の許される限り、息子のいる集中治療室を見守り続けた。
その日の夜、遊佐千恵は夫である遊佐智治と今後について話し合うことにした。
智治も3日前の夜に担当医である夢野 彩から病状についての説明を受けている。快方の可能性もある。だが、脳の脳幹の損傷が思った以上に激しく、快方に向かったとしても後遺症は免れない、とそこまで言われた。
風呂上り、智治は冷蔵庫からビールを取り出し、テーブルの上へ置いた。千恵は「大切な話をするのよ」と言いながら怪訝な顔をしたが、「ごめんな、一杯飲まないと心が折れそうなんだ」と言う智治を見て、妙に納得してしまった。
「千恵も飲まないか?」
そう言う智治に千恵は不謹慎だと思ったが、不思議と手にはグラス、智治の酌を受けていた。千恵も智治のグラスにビールを注いだ。
ただ、乾杯はしなかった。しんみりと静かにビールを煽った。
「今日、行けなくゴメンな」
智治が私に謝るなんて何年ぶりかしら、そう思いながら千恵は首を振った。
「別にいいのよ」
千恵はそういって一口飲んで、続けた。
「そう言えば。今日、夢野先生と少し話をしたわ」
「なんて言ってた?」
「特に何も。ただの世間話よ。学が生まれたときの話」
「もしかして、難産の話か?」
「えっ?」
千恵の驚きぶりに智治がニコッと笑った。
「大変だったもんな。10時間にも及ぶ激闘。やっと授かった命、嬉しかったな」
「そうよね」
「そういや、本当はサトシにしよう、って言ってたんだよな」
「えっ?そうだっけ?マモルじゃなかったかしら?」
「違うだろ、サトシにしようってほぼ決まってたんだけど、ユサのあとにサは言いにくいだろって話になって、じゃあマナブって…。あ、マモルも候補にはあったかもな、確か…」
「そうよ、マモルはかなり上位のはずだったけど、あなたがマナブだって言うから、私が折れたのよ。もー、すっかり忘れてる」
「そうだったな」
「アハハハ」
いっときだが2人の間に、学の話題を通じて笑顔が溢れた。
「そして25年か、短くも長い25年だったな」
智治はそう言いながら空いたグラスをテーブルに置いた。千恵が智治の空いたグラスにビールを注いた。
明日、家族の意思があれば遊佐 学の脳死判定が行われ、臓器移植へ向けた準備が始まる。もちろん、このまま延命治療を続けたっていい。
夢野 彩は3日前、遊佐夫妻に病状の説明をすると同時に、3日間の経過観察後、必要であれば脳死判定を行います、との説明も行っていた。
3日間、それは彩の思いひとつで決まった日数だった。集中治療室に長く留まることは経済的にも楽なことではない。だが、最低3日間は医師である私に学さんを預けて欲しい、この3日間で何とか快方に向かわせたい、そう言った彩の必死の想いがそこにはあった。
だが、それも叶わず、無情にも3日が経過した。
「まだ学の人生は25年で終わった訳じゃないわ」
千恵の心の叫びを聞いたようだった。でも、その言葉には不思議と穏やかな波長を感じた。
「分かっている。そ、そうだよな」
智治はグラスのビールを眺めていた。炭酸の泡が下から上へ昇っている。千恵は学の延命措置を望んでいる、当然そう思った。
「そういう意味じゃないわ」
「えっ?」
「学の臓器が他の人の役に立って、その人が長く生き続けてくれれば、それは同時に学も長く生き続けているってことにならないのかしら?そういう意味よ」
「千恵」
「学は自らの意思でドナーカードを持っていたのよ。交通事故とは想定外でも、海外にいれば、いつなんどき危険な状況に遭遇するとも限らない。それが分かっていたから、いざと言うときでも、人の役に立ちたい、と思っていたのよ、学は」
「いいのか、それで?」
「どうして?我が子の意思よ。親が尊重してあげなくてどうするの?それとも何?あなたは延命措置を望んでいるとでも言うの?」
千恵の語気が強くなった。ここは冷静にならなければいけない、智治は言葉を選んだ。
「親として、快方の兆しが1パーセントでもあるというなら、延命措置を続けたい。でも、それを学が望んでいるか、と考えると…」
2人は黙ってしまった。
夢野 彩は決して遊佐夫妻に対して絶望的な話ばかりをした訳ではなかった。1年くらい経って突然意識が戻った人もいる、と言った海外の事例も紹介した。だが、一方で脳神経外科の専門医は確かに海外の事例も数多く報告されてはいるが、今回の事象は脳幹の損傷している場所が悪いため、必ずしも報告されている事例では参考になりにくいとの見識も示していた。
延命治療こそが親心なのか、
子心を尊重することこそが親心なのか、
子心を尊重するとして、お前の好きにすればいいじゃないか、と言ってやりたいが、その「お前」は今や病院のベットの上だ。唯一、意思を示すものがあるとすれば、それこそあのドナーカードであった。
息子の想いと、父親の想い、母親の想い、それぞれの想いが交錯していた。
「なぁ、千恵」
「なに?」
L字のソファに座っていた智治は千恵の方を向いた。目が合った。
「ゴメンな、千恵」
「え?」
さっきもだが、智治が私に謝るなんて…。智治も精神的にかなり参っているのだろう、そう感じた。
「ダメだな、俺。いっつも一番言いづらいことを千恵に言わせてしまう。本当は俺が言わなきゃいけないんだよな」
「何を」
「学の脳死判定、受け入れないか?」
千恵はグラスについた水滴を手でなぞっていた。そして、決心したのか、強く唇をかみしめた。そして、
「そうね」
とつぶやいた。千恵の視線はしっかりと智治を捉えていた。
「強がってないか?」
「強がってなんか…、ないわよ…」
そう言いながら、千恵の目からは大粒の涙がこぼれた。
智治は千恵の肩を抱いた。智治の胸を借りて思いっきり泣く千恵。
母は強し、と言うけれど、その強い母を縁の下で強く支えていたのは、他でもない息子の学であった。学と言う大きな支えを失った千恵はか弱く、小さく見えた。
「本当にいいんだな?」
智治がそうつぶやくと、千恵は智治の胸で小さく「うん」とうなずいた。
一人息子であった学を失えば、また夫婦2人だけの生活となる。そのとき、千恵を支えてやれるのは自分しかいない。
仕事の取引先の受付にいた千恵に恋をして、想いを伝えた。そして1年の交際を経て、結婚した。その後、子宝に恵まれず、もうこのまま2人でもいいよね、なんて言っていた頃、やっとの想いで「学」を授かった。本当に嬉しかった。生まれた日、分娩室から病室に戻ってきた千恵に開口一番「ありがとう」と言った記憶がある。智治はそのときの気持ちを思い出していた。
ふと目に手をやる。ひと雫の涙が頬をつたった。
翌日の朝早く、遊佐智治は日間賀島にいる義理の父、佐々木泰三に電話をかけ、学の脳死判定を受け入れると言った内容を伝えた。佐々木のじいさんは終始、「そうか、そうか」と言うだけだった。「千恵は大丈夫か?」と娘を案じていたが、電話先に千恵が出ることはなかった。出来るだけ父親には心配かけたくない。今、父親の声を聞いたら、それこそ涙が止まらなくなる。そう考えた千恵なりの配慮であった。
その後、救急救命センターの夢野 彩に電話をかけようとしたが、まだ朝早かったため、彩との連絡は千恵にお願いして、智治は少し早く出勤した。
朝起きて、朝食を食べて、歯を磨いて、顔を洗って、義父に電話した。そのあと、ソファーに座り、コーヒーでも飲もうと思った。でも、なぜか何をしても身が入らず、落ち着かなかった。家にいても、手持ち無沙汰だったので出勤することにしたのだった。
会社に着いても心ここに非ずと言った感じであった。偶然にも重要な会議はなかったため、溜めてしまっていたメールの整理を行うことにした。
昼の少し前、千恵から智治の携帯に電話が入った。若葉台総合病院の夢野 彩と連絡が取れ、手続きのために夫婦で病院へ来てもらいたい、と言った内容であった。千恵は落ち着いた口調で「手続き」と言ったが、智治には「学」がモノ扱いされているようで何だか切ない想いに駆られた。最後に「うん、分かったよ。じゃ、午後2時。病院で」とだけ言い、電話を切った。
智治はその日、体調不良と言う嘘の理由で午後休暇を取った。
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