第10話 恩師

 佐々木のじいさん、佐々木泰三の娘である遊佐千恵からの一報を受けた八神英二は電話を切るなり、日間賀島診療所を飛び出した。

 つい5分程前のことだ。電話が鳴り、世間話をしていた佐々木のじいさんは気を遣って診療所を後にした。その電話の内容と言うものは、佐々木のじいさんに関係するものであり、電話の相手は娘である遊佐千恵であった。千恵の声からは気が動転している雰囲気が伺えた。佐々木のじいさんとは先程も話をしたばかりで、健康面から考えて、家族から電話が入るような事態は想定できなかった。事態が全く呑み込めなかった。

 そんな英二に千恵は言った。

「お父さん、本土に来れませんか?」

 本土で親戚一同が集まるのかもしれない。孫が祖父の元を訪れたのも、何か良い報告があったのかもしれない。ふと英二は思ったが、電話先の千恵の声からは何か違う嫌な雰囲気を感じた。

「本土に?いつですか?」

「今からです」

「はい?今から?」

 先程のじいさんとの会話、電話先の娘さんとの会話、内容のギャップから、拍子抜けた声がもれた。

 今日は佐々木のじいさんの孫である遊佐 学が、ここ日間賀島に遊びに来る予定だ。じいさんがそう言っていた。じいさんが本土に行く予定ではないはずだ。つい先程も学が来てはいないかと、馳せる気持ちを抑えながら自宅へ帰ったはずだ。

「今から若葉台総合病院に来れませんか?」

「若葉台総合病院?」

 確かに、ここ日間賀島診療所は若葉台総合病院の付属診療所だ。CTやMRIなど高度な診療機器が必要な検査の場合は若葉台総合病院に行く必要があり、検査結果を知るには、そこへ行かなければならない。だが、佐々木のじいさんはここ数か月、若葉台総合病院では検査をしていない。若葉台総合病院に行く用事はない。仮に佐々木のじいさんの検査結果だとしても主治医である英二の元に誰よりも先に結果が届かないことはあり得ない。

 やはりおかしい。

「すいません。ちょっと状況がつかめないのですが…。佐々木さんが今から若葉台総合病院に行くことは出来ると思います。ただ、立ち入ったことを伺いますが、何かあったのでしょうか?」

 電話先からは千恵の泣き崩れる声が漏れた。そして、千恵が他の誰かと話をしている様子が伺える。英二には聞き取れない会話の後、男性の声に変わった。

「すいません。変わりました、夫の遊佐智治と言います」

「あ、初めまして」

 千恵に変わり、電話先に出たのは佐々木のじいさんの娘、遊佐千恵の夫、遊佐智治であった。

「あの、実はつい先程なんですが、息子の学が交通事故に遭い、ここ若葉台総合病院に運ばれまして、意識不明の重体なんです」

「え?」

「今、救急救命センターで処置が続いています」

「ERに」

 これはよっぽどだ。英二の直感だった。

 交通事故でも軽微なものから重度なものまでさまざまだが、救急救命センターへ運ばれたとなると命に関わる状況に置かれていることは間違いないこと。1分1秒を争う状況にある。

 とっさに英二は若葉台総合病院に現状確認を行おうと思ったが、命の現場はセンター長である夢野 彩に任せて、今の自分に出来ることを考えた。

 今の自分に出来ること…、佐々木のじいさんを本土に連れて行くことだ。

「状況は分かりました。佐々木さん、先程までこちらに見えて、今はご自宅に帰ってると思いますので、確認してみます。また、連絡します」

「お義父さんにはこちらからも連絡を…」

「そうですね。お願い致します」


 英二は電話を切り、そのまま診療所を飛び出した。と、診療所の出入口付近で思い立ったようにUターンをし、電話台のそばに置いてあった船の時刻表をひと思いにつかんだ。時刻表がグシャとなったが、そんなのはお構いなしだ。

 久々の全速力。英二も還暦をこえ、体が言うことを効かない。だが、一心でじいさんの自宅へと走った。少し走った所で息が切れ、立ち止り、歩く。同時に時刻表を見た。若葉台総合病院は常滑にある。次の船は師崎行きだが、師崎に行くより河和まで行ってしまった方が近道だ。河和行きの船までは少し時間があった。

 英二は焦る気持ちを抑え、再び歩き出した。足取りは重いが、急いだところで、次の船まで待つしか仕方ない。そう自分に言い聞かせた。

 少し歩くと佐々木のじいさんの家が見えて来た。やはり落ち着いていられず、英二は小走りになった。家の門を抜けると庭に面した縁側で座っているじいさんを見つけた。小さく見える佐々木のじいさん、英二にはひどく落ち込んでいるように見えた。そりゃ当然だ。

 英二の足音にじいさんが気付いた。

「せんせ~」

「佐々木さん、大丈夫ですか。気を確かに」

 そう言って、英二はじいさんの元に駆け寄り、腕を握った。同時に脈を測った。脈がいつもより少し早いように感じる。だが、英二も冷静な判断が出来る状況にはなかった。多分、大丈夫だろう。そんな感じになってしまった。もし脈に異常があっても若葉台総合病院に行かねば、と言う思いの方が勝っていた。

「孫が…」

「うん、聞いた。何も言わなくていいから。行こう、お孫さんの所に」

「わし行けるかの?」

「大丈夫、私も付き添うから」

「せんせ~も行ってくれるのかぁ?」

「もちろん」

「すまん、すまん。本当にすまねぇ。ありがとうよ、せんせ~」

 じいさんのしわくちゃの顔から大粒の涙がボロボロとこぼれた。

 こんな時、人は平常心でなんかいられる訳ない。でも、じいさんの年齢や身体の状況を考えれば心の安定こそが第一、心が不安定になれば連鎖的に命も不安定になりかねない。老いるとはそういうことだ。

 英二は何よりもじいさんの心のケアを考えた。きっと焦る気持ちは英二と同じだ。大丈夫と言ったって、心に届きはしない。それでも、その言葉を言い続けた。

「大丈夫、大丈夫だから。若葉台総合病院の救急救命センターにはトップクラスの医師がいるから。だから、大丈夫だから」

「だな、わしも助けてもらった」

 過去、佐々木のじいさんは若葉台総合病院で一命を取り留めたことがある。当時の担当医は八神英二でも今、救命担当にあたっているであろう夢野 彩でもなかったが、じいさんにとって「若葉台総合病院」なら大丈夫という絶対的な信頼が、そこにはあった。

 それを知っている英二にはもう、夢野 彩に全てを託すしかなかった。呼び捨てで「頼んだ、夢野」心でそう叫んだ。


 船の時間までは少しあると言えど、ゆっくりとはしていられなかった。おおよそ30分もすれば船は港に着く。英二は佐々木のじいさんと西港で30分後に待ち合わせることにした。

 英二は一旦、診療所へ医療カバンを取りに戻った。幸いにも待合室には患者はおらず、置きっぱなしにしてあった英二の携帯電話も鳴っていなかった。どうやら急な診察はなさそうであった。そのまま携帯電話をカバンに入れ、診療所に鍵をかけた。そして、出入口のドアに「本日休診、急患は携帯まで連絡下さい」と書かれたプレートを下げた。

 時間は刻一刻と過ぎた。余裕があるように感じられた30分であったが、あっという間に20分が過ぎ、港へ着くとすでに搭乗口に船が入っていた。佐々木のじいさんの姿も見えた。じいさんは事前にチケットを買っていたようで、英二が着くと、チケットを英二に手渡した。英二が礼を言いながら財布を取り出すと、じいさんは笑って「お代はいらん」と言った。

 佐々木のじいさんの真っ黒でしわくちゃの顔、涙で腫れた目の向こう側には精一杯の笑顔があった。たった、この30分で笑顔を作り出した、じいさん。自分が悲しんでいてどうする、気を強く持て。今一番ツラいのは学であり、千恵だ。わしは毅然と振る舞わなければ。

 そう言ったじいさんの強い想いを英二は感じた。

「じゃ、お願いします」

 じいさんがそう言った。


 じいさんと英二が船に乗り込むと、エンジン音が一気に上がった。発進の準備のようだ。車で言うニュートラルのままでアクセルを踏んでエンジンを吹かしたようなものだろう。同時に船の煙突からは黒い煙が吐き出された。埠頭では舫い杭につながれたロープを外す船員の姿があった。「まもなく出発します」とアナウンスが船内に流れた。じいさんと英二は船内を見渡し、空いている席に腰をかけた。平日の昼間、そんなに乗客は多くなかった。

 座席に着くと船はゆっくりと後退を始めた。埠頭では島の住人や、島に残る船員が船に向かって手を振っていた。カーフェリーなどであれば、甲板に立つ観光客に向かって手を振ったりするが、80人乗り程の高速船では電車のような座席に設けられた小窓に向かって手を振るのだった。

 ここ日間賀島はトラフグやタコで有名な愛知県随一の観光地だ。またのお越しをお待ちしております、と言った想いで手を振るのだった。

 船が埠頭から少し離れると、エンジンが轟音を立てた。同時に前進を始める。港内の緩やかな波をかき分けて前に進む。船の揺れは少ない。だが、しばらくして防波堤を越えると、船は荒波を受けて大きく横に揺れた。船のエンジン音が更に上がる。速度も上がっていく。すると不思議と船の揺れは安定した。

 河和まではおよそ20分。あっと言う間の船の旅。だが、今の2人にとってこれほど長く感じる20分はないだろう。

 5分も走れば見渡す限り、海となった。ときに左手に見える陸地は知多半島であろう。そんなときだった。英二の携帯電話が鳴った。携帯の画面には日間賀島診療所からの転送である表示がされていた。こんなときに急患か、場合によっては河和で引き返すことになるか、そう思いながら英二は席を離れ、電話が出来る船内の場所へと向かった。電話に出ると相手はじいさんの娘・遊佐千恵であった。千恵の声は思った以上に落ち着いていた。電話の内容は救急車で運ばれ、緊急手術となったが、無事手術が終わり、一命は取り留めたというものだった。英二には千恵の安堵の表情が浮かんだ。本当によかった、そう伝えたあと、佐々木さんと一緒に今そちらに向かっているから、と付け加えた。

 少し、話をしたあと、電話を切った。

 だが、英二はすぐには席に戻らなかった。千恵の話の端々に登場した「ICU」と言う言葉が少し気がかりになったからだ。ICU、それは集中治療室のことだが、緊急手術とは言え、術後にICUへ入ったとなれば、ただの交通事故とは思えない。それにICUへ入る患者にしては手術時間が短いようにも思う。医師である英二には依然として危険な状態が続いていることが容易に想像がついた。

状況確認をしようと、若葉台総合病院の夢野 彩に電話をかけようとしたとき、船内にアナウンスが流れた。

「まもなく河和に到着致します」

 外を覗くと船はすでに河和湾の湾内に入っていた。今から電話を掛けるとじいさんに悟られる可能性がある、そう思って、英二は携帯電話をしまった。

 客席に戻ると乗客に何人かは降車の支度を行っていた。席と席との間の通路を歩く。じいさんと目が合い、席へ腰かける。

「そんな急ぐことはないよ」

 と、だけ言った。英二は何事もなかったように振る舞った。

 船が河和湾に入り、停泊準備をしている。船員のひとりが舫い杭にロープをつないでいる。世間話のような船員同士のやり取りがあり、大きな笑い声がしたあとしばらくして、船内に降車を促すアナウンスが流れた。英二とじいさんは席を立った。船の搭乗口まで行くと船員のひとりが、「足元にご注意下さい、ご乗車ありがとうございました」と言った。今日の河和湾は少し波が高いようで、陸地ではまた別の船員が船と陸地の間に敷かれた小さな桟橋を監視していた。

「ご乗車ありがとうございました」

 その船員も笑顔でそう言った。

 英二とじいさんは河和に降り立った。冷たい海風が頬を伝った。

「河和駅行き、まもなく出発します」

 別の船員が河和駅行きのシャトルバスを案内していた。


 河和湾から河和駅までシャトルバスでおよそ5分。名鉄・河和駅から河和口駅、富貴駅、知多武豊駅までおよそ10分。そして松川鉄道・知多武豊駅から常滑駅までおよそ30分。英二とじいさんが常滑駅に着いた頃には一報を受けてから2時間程が経過していた。

 若葉台総合病院は常滑駅から知多バス常滑線で西におよそ10分行った海沿いにある。常滑では常滑市民病院と1位、2位を争う程の大きな総合病院だ。最上階にはオーシャンビューの広がるVIP病室があることでも有名だ。

 英二とじいさんはバスを降りた。普通であれば総合玄関へ向かう所であるが、英二はそのまま救命玄関へと向かった。2時間前は慌ただしかったのだろう、救命玄関も今はひっそりとしていた。玄関の守衛に若葉台総合病院の医師証を見せると、守衛は小さな声で英二に話しかけながら、自動扉を開けた。

「どうぞ。遊佐さんの件で?」

 英二は小さく頷く。

「八神先生がいらしたら、救命センターの所長室へ寄って下さい、と夢野先生から伝言がありました」

 佐々木のじいさんに聞こえるか、聞こえないか、程度の声だった。

「ありがとう」

 そう言って、英二はじいさんと共に救急救命センターへ入った。静かに玄関の自動扉が閉まるとセンター内は静寂に包まれた。じいさんはきょろきょろしている。孫の学を探しているのだろう。

 若葉台総合病院の救急救命センターは敷地1階の南に位置しており、この裏手玄関から入ると中央手術室と集中治療室ICUはこの廊下の突き当たりを右に曲がった奥となる。救急車でここへ運ばれると、まずこの廊下をストレッチャーに乗せられて走ることになるが、その廊下の両脇には外傷、災害、麻酔などの各専門分野に精通した8部屋にも及ぶ救急医学の専門医師が利用している控室が続いている。それは患者をストレッチャーで搬送中、容体に異変があったり、事前に救急救命士から聞いた容体と異なる場合でも患者の容体に合わせてすぐに専門の医師を呼べるように考案された間取りと言う訳だ。「コンコン」と部屋をノックされれば、医師はその救命担当の予定ではなくても一目散に手術室へ向かうのだった。その控室のうち、裏手玄関から見て一番奥にあるのがセンター長の所長室であり、夢野 彩の控室だった。

 じいさんがきょろきょろしながら歩く中、英二は彩の控室を通り過ぎ、突き当たりを右へ曲がった。すると集中治療室ICUが見えた。その前でガラス越しにICUを覗いている夫妻がいた。遊佐 学の父・遊佐智治と母・千恵だった。千恵はじいさんの姿を確認するなり、こちらへ走ってきた。

「お父さん、学が…」

「大丈夫、千恵。大丈夫」

 毅然とした態度のじいさん、佐々木泰三であった。

 千恵の後を追うようにゆっくりとした足取りで遊佐智治が近づいてきた。

「お久しぶりです。お義父さん」

「元気じゃったか。大変だったな。今日、仕事の方は大丈夫なのか?」

「お父さん、学が大変なときだって言うのに仕事の話なんて」

 千恵がじいさんを睨みつける。

「えぇ、午後から休暇取りました。あとは若いもんに任せました」

 智治がフォローに入る。

「そう、そうじゃな」

 じいさんはシマッタといった表情で智治に言葉を返す。一方、千恵はじいさんと智治を双方に見ながら、男の人はいつもそう、仕事のことばかり、と言った怒りにも似た表情を浮かべた。

 その場を取り繕うようにじいさんは英二の方を向く。智治と千恵の視線がほぼ同時に英二へと向いた。英二は目が合うなり、会釈をした。

「八神です」

「先生、どうもありがとうございました」

 夫妻、ほぼ同時だった。

 英二はそのまま、ICUの窓ガラスへ目を向ける。先程より遊佐夫妻が見ていた窓ガラスだ。その向こうにはICUがあり、その第2治療室では今もなお、遊佐 学の懸命な治療が続いていた。

「手術は無事終わったんですね」

「えぇ。外傷がありましたので、その治療で。比較的早く終わりました」

 英二の問いかけに智治が答えた。

 この比較的早く終わった手術後にICUと言うのがどうも釈然としない、医師・八神英二だった。

「では、すいません。別にちょっと用がありますので、この辺で失礼します」

そう言って英二は会釈をして、この場を離れた。同時にじいさんに、「また迎えに来るから」と伝えた。

 遊佐夫妻も会釈をして、再びICUの見えるガラス窓の方を向いた。佐々木のじいさんも千恵の隣に立ち、ガラス越しに学の姿を確認した。人工呼吸器やら多くの機器に囲まれている学、それを見るなり、じいさんのしわくちゃの顔は一層しわくちゃになり、目から涙がこぼれそうになった。だが、泣くものかと佐々木泰三はぐっと堪えた。

 英二は来た廊下を戻り、左に折れたすぐそこにある彩の控室を遊佐夫妻に勘ぐられないように小さくノックした。室内から「はい、どうぞ」と彩の声が聞こえた。部屋に入ると、椅子に座っていた彩は立ち上がり、英二に会釈をした。

「よっ。お疲れさま」

 英二がそう言うと、彩は「いえ」と答え、困った表情を浮かべた。

 夢野 彩は今や常滑を代表する大病院である若葉台総合病院・救急救命センターのセンター長である。人の上に立つ者として、常に毅然なふるまいを心掛けてはいるが、相手が英二となれば、そうもいかなかった。昔の恩師である八神英二にはつい弱い自分が先行してしまう。普段では見られない弱気な彩がそこにはいた。

「家族への説明は?」

「まだです」

「そうか」

 夢野 彩は英二に椅子を進めた。重苦しい空気の中、2人は椅子に座って向かい合った。

「家族への説明については緊急手術の後であったこともあり、ご家族の想いを案じて、まだ時期尚早ではないかと考えています。ですが、今夜中には…、と思っています」

「そうか」

「ただ…」

 センター長の判断に何も言うことのない英二だが、反面、彩は英二に何か意見を求めているような、そんな雰囲気であった。

「ただ、どうした?」

「目立った外傷は右足の骨折だけでした。手術が行われたのは、その部分になります。ただ、それ以上の損傷があったのが脳で…」

「脳?まさか」

 彩は椅子を回転させて、パソコンの液晶モニターの電源を入れた。しばらくして、画面が表示された。そこには遊佐 学の脳をスキャンしたCT映像が映し出された。

「こ、これは」

 英二の目の前には脳幹に影が映ったCT映像が映し出されていた。脳幹の影、それは外からの強い衝撃による出血であると思われた。

「断定するにはまだ早いと思います。ですが、この映像と現状から見て、覚悟が必要なのは確か。生還しても後遺症が残るは避けられないと思います」

 家族への説明を遅らせている、もう一つの理由。それがこのCT映像であった。遊佐 学の今後の経過治療についてセンター内の医師で意見が割れているのだった。再度、脳の緊急手術を行い、脳幹の出血を止めるべきだ。一方では開頭すれば取り返しのつかない事態を招きかねない。薬による経過観察をするべきだ、との双方の意見がぶつかっていた。

 そして、もう一つの理由。それは彩が胸ポケットから取り出したこの1枚のカードであった。それはドナーカードであった。正確には臓器提供意思表示カード。遊佐 学はそのカードを持っていたのだった。

 英二は彩からカードを受け取り、裏面を見た。このカードを手渡されれば、きっと万人が裏面を見るであろう。その裏面、1番として『私は脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します』と書かれた箇所が○で囲まれていた。ただ、年月日欄と本人欄に署名はあったが、家族欄に署名がなかった。いつか家族の署名をもらおう、そう思いながら日々過ごしていたに違いない。

「まだ分からない。これは家族へ返せばいい。最終判断は家族だ」

 英二の言わんとしていることは十分に理解出来る。まだ回復の可能性はある、希望を捨てるな。医師である前に人間だろ。そう言いたいのだろう。だが、この状況下、彩には医師としての判断を問われている。このまま経過治療をした所で家族の経済的な負担ばかりが増え、結果的に何も得られないこともあり得る。もちろん、その逆で回復もあり得る。どちらの可能性もあり得る。そのパーセンテージが分からない。

「3日間、経過観察。私ならそうする、かな。あとは家族が決めることだ」

 英二は思い切った発言をした。

 名医・八神英二。今はとある島のぼんくら医師だが医療の最前線に立っていた遥か昔、今日のような決断を迫られる場面と数多く対峙してきた。ときに訴訟になりかけたこともある。だが、信念はいつも変わらない。1人でも多くの人の命を救う。救えなかった命があれば、その倍の人の命を救う。そうやって、人ひとりひとりの命と向き合ってきた。

 そんな八神英二に多大な影響を受け、今の医師人生の礎を築いた夢野 彩。英二の言葉を受け、自然と答えは導かれた。

「私も同じこと考えてました。決心がついた。さすが師匠」

 彩に少しだけ笑みがこぼれた。

 英二は小さく2度頷いた。ガンバレ夢野。エールを送ったつもりだった。

 そのときだった。守衛近くにあるナースセンターが急に騒がしくなり、続いて彩の内線電話が鳴った。

「ごめんなさい」

 彩はそう言って電話をとった。優しい目から一転、厳しい目つきへと変わる。彩はメモを取り、時折、隣にいた看護師に指示を出した。どうやら救急が入ったようだ。話が終わると彩は受話器を置き、デスクにある救急ボタンを押した。すると救急救命センターの廊下にあるパトライトが赤く光った。同時に、センター中に救急音が鳴り響き、続いて、彩の声で患者の容体、到着までの時間がアナウンスされた。ガラガラと言った引き戸を開ける音があちらこちらから聞こえる。専門医師が利用している控室、全てのドアが開かれたのだった。

 夢野 彩は立ち上がり、白衣を着た。

「すいません、急患が入ってしまって」

 八神英二に会釈をして、自分の控室から飛び出した。真っ白な白衣を風になびかせ、廊下を駆け抜けて行く。1人でも多くの命を救いたい。そんな想いを背に今日も夢野 彩は走る。聞こえる救急車のサイレン、到着が近いことを物語っていた。救急玄関が開き、明るい外光がセンター内に差し込む。夢野 彩はその光の先へと消えて行った。

 若葉台総合病院・救急救命センターは再び臨戦態勢に入ったのだった。


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