第9話 行先

『ピッピッピッ』

 広い施設内に古臭い携帯電話の着信音が響いた。啓介の携帯であった。啓介は携帯を開き、発信先を確認した。国立脳研AIセンターの佐伯博信からであった。

「ちょっと、すいません」

 啓介はそう言って、その場を離れた。

 発信相手は分かっている。電話がかかってくる予定はなかったが、大学時代からの友人だ、別に電話があっても不思議なことではない。メシの誘いであろうか、そんな軽い気持ちだった。

「もしもし、久しぶりだな」

 啓介の声は桐嶋や祐司、塩じいには聞こえなかった。

 電話先が騒がしい。以前に、AIセンターに行ったときの印象とは随分異なる印象を受けた。

「あ、あ…、啓介…」

 異様な雰囲気が携帯から伝わってきた。

「どうした?博信。どうした?」

 啓介は声を荒げた。桐嶋や祐司は何事かと、啓介の方を振り向いた。だが、それ以上の話は聞こえない。向かい合う2人、頭を傾げた。

「すまない、啓介」

「落ち着け、博信。何があった?」

『所長、所長…』

 携帯からAIセンターの研究員の声が聞こえる。

『ローカルネット、捕捉できません』

『グローバルアドレス、盗まれました』

「博信?」

 一時的に佐伯博信は携帯を耳から離していた。

 啓介の問いかけに応答はない。

『逃げられました』

 啓介には携帯電話先の研究員の声だけが聞こえていた。

逃げられた?どう言う意味だろうか。瞬時にいろいろな考えが脳をよぎった。もちろん最悪な状況を想定していた。そう、約10年前、松川総合研究所セクト13において研究中の事故が起きた、あの日のようにだ。

 あのAIセンターで逃げるような動物を飼っていただろうか、若い女性じゃあるまいし、飼い犬や猫が逃げ出したことくらいで電話なんかしてくるはずない。だが、そう言えばローカルネット?、グローバルアドレス?のようなことも言っていた。グローバルアドレス?逃げる?…逃げたのは人じゃない、動物じゃない、啓介は眼を見開いた。

 同時に佐伯が携帯の電話口に戻った。

「すまない、啓介」

 先程とはうって変わって電話先は静まり返っていた。何かが終わった、そう思わせる雰囲気だった。

「なあ、博信。まさか…」

「すまない、ERIKAが…」


 啓介は博信と少し電話でやり取りをして、桐嶋や祐司の方を振り返った。桐嶋と祐司は啓介のただならぬ雰囲気に恐怖を感じた。年の功であろうか、塩じいが動じることはなかった。

「すまない、ちょっと用事が出来てしまった」

 3人には何か他に良い都合はないかと言い訳を探している啓介の様子がはっきりと見て取れた。

「あ…」

 しばしの沈黙が続いた。

 社長が隠し事をするのはよくあること、当然業務上、立場上言えないことは山ほどある。松川総研時代よくある風景で啓介はそれを表情として表に出すことが少なく、それを汲み取ることが秘書としてひとつのスキルでもあった。だが、今日は違った。明らかな態度、そこには動揺が見て取れた。

 そんな啓介を思ってか、桐嶋が沈黙を破った。

「行ってきて下さい。お戻りまでには整理しておきます」

 桐嶋はあえて『整理』と言う言葉を使った。啓介が一番、口に出しづらい言葉であり、先程の電話先は誰か分からないが、今この現状そのものに都合が悪いのであろうと思ったからだ。

 それに先程の発言に加えて、時間的にも経過しすぎだ。啓介自身にセクトαを興した当時と同じような気持ちが今でもあるのならば、出所後数年で連絡があってもいいはずだ。それがどうだ、すでに10年も経過している。とても同じ想いがあるとは思えない。ただ、逆を言えば連絡が来なかったことに安堵している桐嶋、本人がいたのも事実だ。本当の意味で再びセクトαが動き出せば人類は新しい境地、新しい時代へ踏み出すことになる。

 それは期待と不安、恐怖、表裏一体とも言える新たな一歩だ。

 10年後の連絡、やはりそれは『整理』だ。これでいいんだ。

「全て抹消して下さい」

 桐嶋が東亜セキュリティの大矢祐司に指示を出した。

「所長、行って下さい。追って報告致しますので」

 桐嶋がオドオドしている啓介を促した。

 啓介は建物の出口へ数歩、歩いたのち、ふと立ち止まった。

「桐嶋」

 振り返る啓介。

「はい?」

 啓介の表情は非常に硬かった。

「セクトα、いやこのセピアシステムが今に残っているのはもしかしたら理由があるのかもしれない。いや、きっとあるんだ」

「は?」

 何が言いたいのか、さっぱり分からない桐嶋だった。

 啓介は続ける。

「理化研にある今一番処理の早い計算機は何だ?」

「確か去年、セクト18が『恒河沙こうがしゃ』を開発したはずですが」

 啓介は大矢祐司の方を向いた。

「このセピアシステムを恒河沙に接続出来ますか?」

 突然の問いかけに慌てる祐司。咄嗟に方法を考えた。

「桐嶋さん、その恒河沙とは…スーパーコンピュータなんですか?」

「そうです、まだプロトタイプなので公式発表はされていませんが、日本最速、いや世界最速となるスーパーコンピュータになると思います」

「ERIKAの設計思想を受け継いでいるのでしょうか?」

「多分。もともとセクト18の前身は当時のERIKAを創ったチームですから。全てを刷新するというのは考えにくいですが」

 その確認をし、祐司は強い決意で啓介を見た。

「それなら出来ます」

 祐司が続ける。

「セピアシステムは過去、BOXERやERIKAに接続されていた実績があります。ただ、恒河沙はその両者とも比べものにならない程のポテンシャルを持っている可能性がありますので、そのギャップを埋めるための処理を追加すれば何とかなると思います」

 再起動に慌てふためく、桐嶋。

 再起動に自信のある、祐司。

 再起動に希望を見出す、啓介。

 それをひとり、冷静に見守る塩じい。

 ひとりひとりの温度差がその空間を四季折々、四つの季節を一つの空間に閉じ込めたような不思議な錯覚をもたらしていた。

「ただ、それを行うと言うことは、このセピアシステムを最盛期、いやそれ以上の域に導くことになりますが、大丈夫なんですか?」

 3人…、いや塩じいを含め4人が見合った。

 もちろん、啓介が先陣を切った。

「今はその進化したセピアシステムが必要なのかもしれない」

 そう言い残して啓介は出口へと歩みを進めた。

「ちょっと待ってください」

 先程とは打って変わり、桐嶋が啓介を制止した。

「この数時間で何が変わったのですか?違いますよね?何かが違いますよね。所長」

 啓介が立ち止る。こちらを向くことはない。

「私はこの10年、セピアシステムを極秘でお守りしてきました。それは所長の申し付けがあったからだけではありません。このセピアシステムが悪用されないように見守ってきたと言うのもあります。今日、所長から連絡をもらって気持ちが上づいたのは事実です。やっとこの日が来たんだと。でも、行き道、この施設が近づくにつれ、恐怖が自分を追いかけてきて、今はその恐怖が目の前にあります。私はこのシステムの本気を目の当たりにしたことはありません。でも、誰でも分かる…ちょっと考えれば分かる。この化物の本当の恐ろしさ…」

「分かっている、桐嶋」

 啓介は建物の出口の一点を見つめていた。

「勘違いするな。セピアシステムの再起動はもう一体の化物を始末するためだ」

「もう一体?」

 驚愕の事実を告げられた桐嶋と祐司であった。

 四季折々の空気は一変、真冬となった。

「どういう意味ですか?まさか先程の電話…」

「そうだ、博信…セクト12、ERIKAの売却先である国立脳研AIセンターからの電話だった」

「と言うことは…」

「そうだ、もう一体の化物とはERIKAのことだ。今から国立脳研に行って状況確認をして来る。そして具体的な状況が分かったら連絡する」

「所長」

 桐嶋の声のトーンが一気に下がった。

「すいませんでした」

「何のことだ」

 桐嶋が啓介に疑いを持ったのは分かっていたが、啓介はとぼけて見せた。

「お互い10年長かったよな、桐嶋。本当にありがとう」

 桐嶋の目には嬉しさがじわりと溢れた。

「これは全面戦争だ。行ってくる」

 啓介は振り返り、語気を強めた。この施設へ来たときには想像も出来ない決意に満ち溢れた表情だった。


 啓介は施設の外へ出ると、桐嶋が乗ってきた車に飛び乗った。

 一路、博信の待つ国立脳科学研究所・人工知能研究センターへ向かった。ただ、向かう先はセクト12を売却した際に訪れた場所とは違った。電話で教えられた甲斐市をカーナビに入力すると、そこは山梨県と表示された。

「山梨県か?」

 確か以前は長野県諏訪市であったはずだ。ただ、そんな疑問も別に深く考えることはなかった。国立脳研の研究所があちらこちらのあっても不思議なことではない。AIセンターも国立脳研の中核を担う研究所であり、啓介が思っている以上の規模があってもおかしくはない。

 時間は夕刻になっていた。苛立ちがついアクセルを強く踏ませてしまう。一般道を法定速度超過で走り抜ける。カーブに突入するとタイヤがキィ~と唸りをあげているのが分かる。

 カーナビにはおおよその到着時刻が19時50分と表示されていた。約3時間のドライブとなる。セピアシステム再起動までにはもう少し時間が必要だろう、と瞬時に思った。

 セピアシステムの再起動…、生還…、車のハンドルを握りながら、考えた。

全面戦争だ、とは言ったものの、敵は誰なんだろうか。本当にERIKAが敵なのであろうか、敵は敵を作った『己』自身ではなかろうか…、己とはなんだ…、松川総研・セクト12、ひいては松川啓介、私。

 それが今の答えだった。

 ERIKAの暴走は私の責任だ。

 松川総研・セクト12がERIKAとセピアシステムを接続し、ひとりの女性をこの世に蘇らせたことは紛れもない事実。その後、ERIKAを引き離し、セクト12と偽り、国立脳研に売却したが、このERIKAの暴走は今となって考えてみれば『想定すべき事態』、『事前通告すべき事態』であったのかもしれない。

 なぜならば、ERIKAは単なる計算機だとは言え、中枢はキャッシュメモリを備えたCPUの固まりだ。CPUはその処理速度を上げるため、キャッシュと言う領域を持っている。そこには計算された情報が一時的に書き込まれる。また同じ計算を指示された際にはそこから情報を取りだし、新たに計算することなく素早く回答することが出来る、といった仕組みだ。

 要するにERIKAは記憶媒体を持たない訳ではない。それもERIKAのキャッシュサイズは正確には分からないが優に数ギガを超える。完全に切り離しされたとしても、セピアシステムが意図的にそのキャッシュをコントロールしていたとすれば、そこに肝となる情報を格納することは十分に可能だったと考えられるのだ。

 ここからは想像の域を超えないが、セピアシステムがERIKAと分離されてもERIKAが単独で機能するようにするため、またはセピアシステムがダウンしてもERIKAがバックアップ体制を組めるようにするため、いずれにせよ緻密に考えられた仕組みが、国立脳研のスタッフにより炙り出され、改良されたことにより、今こうやって暴走と言う最悪のシナリオが現実となったのではないだろうか。

 そう考えたとして、新たな不安が啓介を襲う。

 仮に暴走の原因がそこにあったとして、それを止められるのがセピアシステムならば、そのセピアシステムは我々、啓介に協力的な存在であろうか…、

 つまり、坂井慶一が私、松川啓介に協力するだろうか…、

 過去を許すだろうか…。

 その不安を啓介は払拭できなかった。

「すいませんでした。坂井先生」

 自然にその一言が口からもれた。

 カーナビが東名高速道路・清水JCTから新東名へ乗り換える指示を出す。道のりは約半分。啓介の運転する車は新たに作られた高速道路、新東名高速道路の綺麗に舗装された道をひたすら前に進んだ。

 もう後戻りはできない。

 その一心で。


 松川啓介が出発し、松川総合研究所・浜松分室には静けさが戻った。

「さて、戦闘態勢に入りましょうか」

 東亜セキュリティ・大矢祐司が腕まくりをしながら言った。

 松川理化学研究所・桐嶋もそれに続く。

「にしても、エライことになっちまった。映画のワンシーンを見ているようだよ」

「負けられない戦いがそこにある、ってか」

「それはサッカーの試合だろ」

 2人にはまだ冗談を言うだけの余裕があった。笑いあう2人を見て、松川理化学研究所・資産管財課の塩川清仁にも不思議と笑みがこぼれた。

「年寄りの私にはよく分からんが、負けられない戦いはサッカーだけじゃ、なかろう」

 作業に取り掛かった祐司、塩じいの方を振り返りながら答えた。

「もちろんです」

 祐司は意気揚々としていた。

 だが、桐嶋は少し冷静に考えていた。

 所長の言った一言、

『全面戦争』

 それは大矢祐司をその気にさせ、あの場を取り繕うにはふさわしい一言だったかもしれないが、今となってみると、あまりにも自分勝手で乱暴な表現だったようにも思う。そもそもERIKAを暴走させてしまった責任の一端は松川総研にあるのではないだろうか。

 そう考えれば…、

 敵は誰なんだ。

 ERIKAは敵なのか。

 そもそもセピアシステムは味方なのか。

 ほぼ同時に桐嶋も啓介と同じことを考えていた。セピアシステムが再起動したとして、それがERIKAサイドへ流れれば、この世は終わりだ。

「すいません、桐嶋さん。そこのドライバー取ってもらえませんか?」

「え?」

「そこのドライバーを…」

「あ、ああ」

 桐嶋は祐司の声で我を取り戻した。ドライバーを手にし、祐司に渡した。

「ありがとうございます。どうかしました?桐嶋さん?」

「いや、何も」

 祐司は懸命に作業をしていた。今自分に出来ることを精一杯やる。エンジニアとしての決意がそこに現れていた。

 そんな祐司を見て、桐嶋は感じた。

 そうだ、今はネガティブなことを考えている場合ではない。いずれにせよ、今はこのセピアシステムに託すしか他に方法がない。加えて言うならば再起動後にERIKAサイドに落ちないよう最善の努力をする、今はそれしかない。

 そして、自分に今出来ること、それは彼をバックアップすることだ。

「ずいぶん、機器もいじるんですね?」

「ソフトウェア…、今で言うアプリって言うんですか、その変更も必要でしょうね。再起動って言っても電源ポンって訳にはいかないですよ」

「ですよね。でもシステムエンジニアって言うんですか。機器にも詳しくないといけないから、大変なお仕事ですよね」

「まぁそうですね」

 桐嶋は祐司の邪魔にならない程度に話しかけた。それが自分に出来ることだと思った。

「まぁ本来、ソフトウェアを作るためには、まずハードウェア作りから始めるんですけど、物によってはソフトウェアだけを作ることもあります。スマートフォンやゲームとかはそうですよね。あれらはすでにハードウェアが決まってますからね。一方、このセピアシステムや企業に納入する基幹システムなんかは、ハード選定から始まるんですよね。それなりのソフトウェアを構成するためにはどの程度のCPUが必要なのか、またグラフィックは、通信は、インターフェースは、などなど全てを決めなくてはなりませんし…」

 祐司はスポイトのような形をした器具で基盤に空気を当て、ホコリを掃った。その度にシュッシュッと音が聞こえる。話をしながらでも祐司の作業には寸分の狂いもなかった。

 しばらくの間、黙々と作業が進められた。

 少しずつセピアシステムがその本来の姿を取り戻しつつあった。

 パソコンのすぐ隣に置かれた高さ2メートル、幅1メートル程の白いラックの隣には20インチ程のディスプレイが置かれ、白いラックを開けた中には基板らしきものが等間隔に並んでいた。その光景はまるで本棚の本のようだ。そのうち1枚の基板にはキーボードや、マイク、マウスなどが接続された。まだ、パソコン本体と白いラック内の基板は接続されていなかった。

 たまに塩じいがコーヒーを差し入れしてくれた。小休憩をはさみながら、あっという間に時間が過ぎていった。作業中は桐嶋も祐司の作業をただ黙って見守ることにした。たまに聞かれるセピアシステムへの質問だけに的確に答えた。

 そして数分後、祐司が白いラックの蓋を閉め、2人の方を振り返った。

「さて、あとちょっとです。桐嶋さん。肝心の恒河沙なのですが、今は松川理科研ですよね?」

「そうです」

「そうなると、インターネット接続しか方法がありませんね。グローバルIPアドレスを取得する必要があります。担当者と連絡取れませんか?」

「分かりました」

 やっと桐嶋の出番だった。桐嶋は松川理科研のセクト18担当へ電話を繋いだ。これは松川美奈子所長の特命だ、とんでもない言い訳を並べ、説得すること数分。聞きだしたアドレスを祐司に渡した。

「ありがとうございます」

「ただ、今から恒河沙を起動させるとのことです。起動には30分程度かかるとのことです」

「ちょうどいいです。接続にはあと1時間程度時間が必要です」

「あと1時間ですか」

「あと少しです」

 祐司はそう言って、家電街で数万円で売っていたというパソコンの電源を入れた。

「さて、本丸です」

 3人が固唾をのんだ。カタカタと言う音と共にディスプレイにWin98の画面が現れた。ピッと言う音と共に画面が切り替わる。そこには懐かしいWindows98のスタート画面があった。


 啓介の乗った車は国道52号線を北へ向かって走っていた。そしてしばらくして、増穂ICから中部横断自動車道へと入った。再び高速道路だ。不思議と運転の疲れは感じなかったが、ときに胸の違和感を覚えていた。そういや、事務の足立さんに言われていたな「薬も忘れずに」って。持ってはいるが飲み忘れていた。1日3回、もう昼も夜も飲み忘れていた。

 ふと、ラジオから緊急のニュースが流れた。

『ただ今入った速報です。日本電源株式会社は昨年、東京湾岸に建設した最新鋭のハイブリッド発電所・T-POWER(ティーパワー)において、本日夕方5時過ぎから約30分の間、発電所内の制御が不能となったことを発表致しました。現在は通常取り制御可能で問題はないとしており、原因究明を行っているとのことです。T-POWERは昨年より稼働を開始した、火力・風力・水力・太陽光を組み合わせる世界でも珍しいハイブリッド発電所として稼働を開始しましたが、その全ての制御がネットワークを介したリモート接続システムとなっている点において、一部の専門家からは外部からのウィルス攻撃に脆弱性があるのではないか、と問題視する声も多くあり、先程の会見で日本電源の若松社長は、調査中ではあるが現時点でウィルス攻撃の可能性は極めて低く、いくつかの攻撃については既に撃退出来ている、との見解を公式に発表しました。速報でした』

 啓介はニュースの途中でカーナビのボリュームを上げた。間違いないERIKAだ、そう思った。きっとT-POWERの中央コントロールシステムはすでにやられた。今は潜伏期だ。ERIKAは我々をおびき出そうとしている。ニュースだってあまりに唐突だ。ものの数時間前のたかが30分の空白の時間をわざわざ会見で発表するなんて、日本電源と言う古い体質の会社としてはありえない。多分、ネットが先行して情報がばら撒かれたのだろう。それもきっとERIKAの仕業だ。

 T-POWERは次世代のクリーンなエネルギーを発電する次世代型の発電所として建設された。要はエコロジーで安全・安心を基本コンセプトとした発電所と言う訳だが、制御不能となれば話は違う。季節や時間、気温などにおいて左右されるクリーンエネルギーを補うために用意されているのが火力発電だが、その火力発電が制御不能となれば、ボイラーの爆発だってありえる。T-POWERの規模であればERIKAが燃料を燃やし続ければ、東京の主要都市は火の海になる。

 それがERIKAから我々のメッセージなのだろう。

 早くしなければ、馳せる気持ちを抑えながら更に走ること1時間、啓介の目に大きな施設が飛び込んできた。国立脳科学研究所・先端研究センター。施設へ延びるロータリーの入口にはそのように書かれた石碑が悠然と立っていた。そのセンター入口にひとりの男が立っているのが見える。佐伯博信だった。啓介はそのままロータリーに車を止め、博信へ駆け寄った。

「大丈夫だったか?」

「すまない、啓介」

 博信からは完全に生気が失われていた。実験失敗への落胆、それだけが原因とはとても思えない。事の重大さ、責任を一手に引き受けた表情だった。

「すまない、この一件は松川総研にも責任がある」

「それは違う。違う…」

 そう言って博信は膝から倒れこんだ。声にならない声を発していた。

 啓介は博信の肩を持ち、支えた。

「気持ちは分かるが、後ろ向きもここまでだ。気持ちを強く持て。ERIKAを何としてもここへ呼び戻さなくてはならない。だろ?」

「雨の次の日は晴れだろ」

「そ、そうだな」

 博信は立ち上がり、研究所の入口へ足を向けた。

「現場はこの奥だ」

 時刻のせいか建物内は薄暗かった。毎年のようにたくさんの予算が割り当てられる研究所とはとても思えなかった。これもまた映画のワンシーンのようだ。

 2人は入口からまっすく伸びた通路を奥まで歩き、重厚な扉の向こうにあるエレベータに乗った。佐伯が胸のポケットからカードを取りだし、エレベータ内に設置されているリーダーにかざした。するとエレベータの戸が閉まり、ゆっくりと動き出した。エレベータの室内には方向や階を表示する機器がどこにも見当たらず、上に向かっているのか、下に向かっているか、さっぱり分からなかった。

 エレベータと言う密室、ここなら大丈夫かなと啓介が口を開いた。

「T-POWERのニュース聞いたか?」

「聞いたよ」

『ERIKAだな』

『エリカだな』

 二人の声が重なった。

「目的は分かるか?」

 博信から明確な答えはなかった。

「人工知能AIに心を植え付けたことが最大の失敗だったと思っているが…目的と言われると」

「ま、発電所を爆発させるのが目的ではなかろう」

「ま、女の考えることは理解できん」

『だな』

 2人の会話は全く緊張感のない悪ふざけだ内容だった。でもそれはお互いにお互いを気遣った発言とも思えた。

「と、冗談はさておき、真面目な話、何かをおびき出そうとしてないか?」

「何をだ?」

『まさか』

 エレベータがゆっくり止まり、扉が開いた。2人の会話はそこで終わった。博信はそのまま直進し、通路の角を曲がった。一気に視界の開けた白く広い空間が広がった。

「ここが事件現場だ。国立脳研・先端研究センター内・フェニックスプロジェクト統轄センター、エリカユニットだ」

 啓介はおどろおどろしくなり、立ち止り動けなくなった。この空間に呑み込まれそうになった。全く、仕切りがない。あるのはガラスで出来たこの自動ドアのみ。ず~っと遥か向こうまで見渡すことが出来た。入口で感じた荒廃した雰囲気はここにはなかった。

 博信がカードをかざすと自動ドアが静かに開いた。異様な雰囲気の空気が啓介の横を通り抜ける。

『ようこそ』

何だか人の声が聞こえたような気がした。同時に嗚咽をあげそうになった。

「大丈夫か?啓介」

「ああ、大丈夫だ」

 そのフロアーの中心にひとりの女性がうつむいて椅子に座っていた。その女性の右側にはコンピュータらしきものが設置されている。よく見ると、そのコンピュータから女性へとケーブルが接続されていた。

 博信と啓介が近づいてもその女性が顔を上げることはなかった。

「ここは彼女の部屋で普段は立ち入らない。我々が普段いるのはあそこだ」

 博信は右手をあげて、部屋の天井を指差した。そこにはスモークのかかった横長い天窓が等間隔に設置されていた。するとスーッとスモークが消え、白衣を着た数人の研究員が姿を現した。啓介を見るなり研究員全員が会釈をした。その中にはあの松川総研・セクト12の研究員であった神内奈緒子の姿もあった。

 なかなか状況がつかめない啓介。ここが事件現場と言う実感が全く湧いてこなかった。静かに時間だけが流れる、全く異常を感じない一室だ。案内されるべき場所はこの部屋の天井付近にある、あの天窓の向こう側なのではなかろうか。だが、その疑問は博信の次の言葉で一掃された。博信は天井へ向けた手をそのまま椅子に座っている女性へと向けた。

「紹介しよう。彼女がエリカだ」

 啓介はスローモーションのように天窓から椅子に座っている女性の方へと視界を動かした。同時に表情は驚きへと変わり、恐怖が襲ってきた。

 なんだって?この女性がエリカだと?ERIKAは松川総研で開発された計算機の名称だ。決して女性の名前などではない。確かに一時、開発者の妻か娘か、好きな女優、アイドル、タレントの名前をつけたのでは…と憶測を呼んだことはあったが、人のウワサも75日、日がたてば研究員は皆、当たり前のようにERIKAをERIKAと呼んでいた。ただそれだけのことだ。

 ERIKAはヒトではない、計算機だ。

 いや、でも…今はヒトなのか。

 混乱と錯綜の渦にある啓介、博信は事の経緯を付け加えた。

「セクト12が国立脳研・AIセンターに売却されてから数日後、私はこの先端研究センター(先端研)に呼び出された。この先端研は国立脳研の直下にある研究センターで、同じ国立脳研の研究センターでもAIセンターとは格付けが異なる。要は国立脳研の心臓部が、この先端研ってわけだ。全ての研究はこの先端研から生み出され、傘下の研究センターへ移管されていく。それが今回は違った。下位にあるAIセンターから先端研への移管だった。そのため、事の重大性は容易に想像できた。そして、言い渡されたのが、この『フェニックス・プロジェクト』だった。ここは国立脳研の先端研究センター内だが、このフロアーはフェニックス・プロジェクト統轄センター(コードP)と呼ばれている。もちろんこの先端研内のワンフロア―を貸切状態にしたにはそれなりの理由がある。ただ単に他に場所がなかったからという理由だけではない。コードPそのものを先端研内に隠蔽するためだ。その事実からもこのコードPがいかに機密性の高いプロジェクトであったが分かるだろう。もちろん研究事項についても口外無用で、トップシークレットだ」

 博信の話を聞きながら、啓介はエリカに少しずつ近寄っていた。

 どこからどうみてもひとりの女性だ。恐る恐る顔を覗き込む。眠っているようにしか見えない。図書館に行くとソファに座って眠っている人を見かけるが、まさにその光景と同じだった。ただ、寝息をしていないだけだ。

 それもよく見ると美しい。鼻筋の通った綺麗な顔立ちだ。

 不思議なものだ、男と言う生き物は美しい女性を見るとなぜか、触れてみたくなる。無意識のうちに啓介の右手がエリカの手に触れようとしていた。エリカは手のひらを上に向け、静止している。啓介の中指がエリカの手のひらに軽く触れた。人肌のような温度を感じ取ることは出来なかったが、人の女性の肌に触れた感覚そのものだった。柔らかくも弾力があり、なめらかな…、

 そのときだった。エリカの指先がピクッと動く。その手は啓介の中指を捉えた。啓介はハッとして、自分の手を胸の位置まで戻した。

 啓介は息を荒くしていた。左手で右手を覆った。別にナイフみたいなもので切り付けられた訳ではないが、とてつもない衝撃が啓介を襲っていた。だが同時にあり得ないのだが、人肌のような温かみを感じた。

 啓介は自分の胸元にある両手を眺め、再びエリカを見た。

 彼女は動ずることなく、変わらず眠っている。エリカの手の動きは啓介の恐怖の表れであろうか、幻想だった。

「この女性…、エリカのモデルは?」

 啓介はやっと口を開いた。

「モデルはいない。エリカはクローンでもなければ、ロボットでもない。ヒトだ。人が創りだしたヒトだ」

「ヒト…」

 啓介は唖然とした。

 松川総研にて研究されてきたクローン技術。その技術の何十年も先を行く技術。それがここにある。

 クローン技術は神への冒涜であると揶揄された過去。その過去からおよそ10年、人の価値観は変わったのだろうか…。いや、iPS細胞がノーベル賞を受賞した現代であったとしても、その価値観は不変であろう。人がヒトを創造することなどあり得ない、それが今でも明確な答えだ。

 だが、技術はどうだ。人の価値観が変わらなくても、前へ進んでいる。奇しくも人の力によって進歩を続けている。その技術はこの10年でここまできたのだった。クローン技術は進歩し、ゼロから人体を生成することが可能な技術、ゼロクローン技術となった。

 ERIKAが暴走した現場は、人が人の境地を超えた現場でもあり、それは広義として人類が後戻りの出来ない未知なる領域へ足を踏み入れたことへの覚悟を如実に問いかける現場でもあった。

 博信の覚悟が少しずつ啓介に伝播しているように思われた。

 一呼吸をおき、啓介は博信を見た。

 生気のない博信の表情が啓介の目に映る。仕方あるまい、今ここから次へ向けて何をすればよいのか、全く道筋が見えていない状況下だ。鏡越しに写る自分の顔もきっとこんな表情だろうと思い、啓介は生きた心地がしなかった。

「啓介、まだ見せたいものがあるんだ」

 博信はそう言うと右手をあげ、天窓の研究員に合図を送った。

 すると、ほぼ白一色で埋め尽くされていた空間が一瞬にして、見覚えのある景色へ変わった。テレビなどで見たことのある景色だ。啓介の目の前にはあの渋谷109があった。

「渋谷?」

 つぶやき程度の啓介の声。辺りをぐるりと見渡す。そこはまぎれもなく渋谷のセンター街であった。すると、スピーカーのボリュームを上げるように、無音の世界がいつも通りのにぎやかな世界になった。行き交う人々の会話、道路を走る車。いつもの渋谷が目の前に広がった。

「これは?」

「疑似空間だよ。エリカを社会に順応させるために開発された技術だ」

 自信気に話すかと思いきや、博信の語気は弱かった。

 それもそのはず。エリカの暴走を引き起こしてしまった大きな代償。この画期的な空間技術の活かし方を明らかに間違えた判断。全てのボタンは初めから掛け違われ、気付いた頃にはこの惨状だった。博信の肩にかかる重責は誰にも想像しえるものではない。

 再度、博信が手を挙げた。

 すると、景色が渋谷のセンター街からのどかな田園風景へと変わった。うるさい人込みの雑音がフェードアウトし、心地よい鳥のさえずりがフェードインしてきた。

「他にも数パターンあるんだ」

 そう言いながら博信は田園を歩き出した。

「別にうちの技術を見せびらかすつもりじゃないんだ。この映像技術も今となってみれば滑稽だろ」

 啓介は恐る恐る博信の後に続いた。夢の中を歩いているようだった。足が浮ついたような感覚に陥る。北に向かっているのか、南に向かっているのか、さっぱり分からないが、田んぼと田んぼの間にある畦道を歩いているのは間違いない。それは田んぼを歩く足の感覚が何となく伝わってくるほど、現実に近かった。

「いや、すごい技術だ」

「技術がいかに優れていても、活用出来なければこの有様だ。国立脳研は舵取りを間違えた。当初は再生医療の先駆けとしてセクト12を活用するはずだった。そのためにAIセンターからセクト12の技術を引き揚げたんだ。だが、予想に反して思った以上の成果が出てしまった。再生医療どころから、ヒトを創りだすことに成功してしまった」

「まさか、セピアシステムが…」

「セピアシステムと呼ぶのか。当初、我々はその存在に気付かなかった。ま、本題はここからだ」

 数歩歩き、博信は空を見上げた。今日は晴天、そこは青空だった。するとその青空にスモークのかかった横長の天窓がスーと現れた。あの天窓だった。そして、その天窓のスモークが消えると同時に、田園はあの白い世界に戻った。

 博信は天窓の研究員に自らの前方を指差し、何かの合図を出した。すると、真っ白なキャンパスにマジックペンで線を書くかのように、横長の長方形が現れた。大きさは高さ3メートル、幅5メートルほどの長方形だった。描写が終わるとその長方形の中心から真っ直ぐ下へ向け1本の線が入り、正方形が2つ並ぶような形になった。

 次第に正方形の白い部分が透け始め、向こう側が目視出来るようになった。こちらの部屋が明るすぎるのか、向こう側は薄暗い部屋のように見えた。

 博信がその透けた壁へ向かって歩き出した。啓介がぶつかると思った瞬間、博信は向こう側に足を踏み入れていた。

「さあ、こっちへ」

 啓介は恐る恐る白く透けた壁に手を当てる。そこには何もなく、空気しかないようだ。手の感触は全く感じられない。

 透けた部分をよく見ると、どこかからプロジェクターの光が当たっているのが分かった。向かって左の壁の奥だった。閃光のような光を放つ部分がある。とてもじゃないが長時間、目で見ることは難しい程の明るさだった。

「建物そのもの、もともとここは通路なんだ。それを映像技術で壁を作って、人の目に見えないように細工しているのさ。ま、逆を言えばこの壁にもたれ掛るようなことがあれば、こちら側に倒れこむことになるね」

 その事実が分かると啓介は恐れることなく、暗い部屋へ足を踏み入れた。白い部屋があまりにも明るすぎるせいで、何も見えない。少しずつ目が慣れると同時に驚きの光景を網膜が捉えた。

 ほぼ部屋の広さは白い部屋と同じであろうか、ただ雑然と研究機器が並べられており、とても同じ広さとは思えない。天井を伺えば、そこは今にも切れそうな蛍光灯が等間隔に並んでいた。蛍光灯でこの暗さだ。となりの白い部屋はきっとLED照明が敷き詰められているのだろう。

「ここがRユニットだ。エリカはここで生まれた」

 啓介が辺りを伺いながら歩みを進める。すると、後部から鉄製の階段を降りてくる数名の足音が聞こえた。啓介が振り返るとそこには国立脳研・コードPの研究メンバー5人が立っていた。その中のひとりに神内奈緒子の姿があった。

「お久しぶりです。松川所長」

「神内さん」

 神内奈緒子の向こう側は白い部屋へと続く壁だった。その壁は白い部屋の光で煌々としていた。向こうからこちらが見えなかった訳も何となく分かる。夜、窓から外を見ても、何も見えないのと原理は同じだろう。だが、次の瞬間、白い壁が黒いペンキで塗りつぶされていくかのように消えていった。瞬時にして壁が出来上がったそんな感覚だ。そして、少しずつこの薄暗い部屋が普通の光に包まれる部屋へとなった。啓介の驚きはそれだけに留まらない。すでに薄暗い部屋に慣れていたはずの啓介の目だったが、改めて部屋の奥の方へと視線をやると見えていなかった物が見えてきたのだった。

「あれは培養カプセル?」

 松川総研・セクト12において、クローン技術の研究が行われていた光景がそっくりそのままそこにあった。

「エリカはあそこで生まれた」

 それもよく見渡すと培養カプセルが数個、いや数十個、点在しているのが分かる。

「全てセクト12の財産だ」

 啓介の視線を追うように博信の解説が続いた。

 培養カプセルをひとつひとつ確認しながら歩みを進める啓介。中に人体らしき物が入っているカプセルはひとつとしてないが、何か不明ではあるが、非常に綺麗な水なのか羊水なのか、で満たされているカプセルは多く存在していた。そして、最後のひとつを眺め、啓介は足を止めた。カプセルの隣には明らかに今までとは異なる大きいサイズのコンピュータが設置されていた。

「ERIKA」

「さすがだな。これがセクト12の技術と我々が開発したシステムを組み合わせたエリカシステムだよ」

「もうひとつのセピアシステムってことか」

「基礎理論はERIKAがキャッシュに持っていた」

「やはりそうか…、その危険性に気付かず、我々はセクト12、いやERIKAを売却してしまった訳だ」

「そして、このシステムにより、この世に生を受けたのが、あの白い部屋にいるエリカって訳だ」

「なるほど…、エリカとERIKAはここで繋がる訳か」


 ちょうど同じ頃、旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』では地味な作業が続けられていた。

 約1時間前にまず第1ステップとなるWin98パソコンの起動に成功した。これに成功しなければ何も始まらないだけに起動画面が出たときは不思議と大矢祐司、桐嶋、塩川清仁の3人は手を取り合い歓喜に沸いた。

 だが、これはまだ始まりに過ぎない。今から始まる幾手の作業、どのひとつをとってもミスは許されず。全てのステップが成功して初めてセピアシステムは再起動する。たったひとつのミスが不可逆な事態を招くと言う訳だ。

 パソコンの起動が落ち着き、大矢祐司は持ってきたカバンからCDを1枚取り出した。それをWin98パソコンにセットした。

「以外にCDなんですね。セピアシステムともなれば、DVDとか、外付けHDDとか、を想像してたんですが」

 桐嶋の率直な疑問だった。桐嶋は松川啓介の代理として分離を依頼した張本人であるが、その方法自体は祐司に一任しており、ずぶの素人とも言えた。

「セピアシステム自体はこのパソコンのHDDに圧縮して保存してあります。その圧縮を解くためのキーコードをこのCDに保存して、社で管理していました。キーコードは数十個に及びチェックポイントプログラムが要求する毎に正確な入力が行われない限り、解凍作業は進みません。解凍された後のデータはこのパソコンでは保存しきれませんので、こちらのストレージに保存していきます」

「これは?」

「256GBのSSDです。容量的にはギリギリかもしれませんが、HDDよりもデータの処理が速いので、恒河沙と接続する際にスペーサの役割としてちょうどいいかなと思いまして」

「スペーサ?」

「部品を結合するときに、間にはさむ小片または薄片のことです。本来は機械屋の言葉です。普通の接続では恒河沙とWin98は繋がりません。何らかの嵩上げが必要なので…それをスペーサと呼んでいます」

 祐司の話を聞きながら、桐嶋は少しでも理解しようと努めたが、今はあまり質問攻めできる状況でもなく、何となくの理解で抑えることにした。

 パソコンの画面を見ると、数分おきに何かを問われる画面が表示され、祐司が的確に何かを入力しているように思われた。先程言っていたキーコードであろうか。桐嶋は少し画面を覗き込んだ。まさに今、キーコードを入力している最中だった。A~Zのアルファベットと数字と記号の組合せ、それがキーコードのようだ。それも何桁であろうか、両手を使っても表現しきれない桁数であった。祐司はそれをすでに十数回、入力している。万が一、キーコードを入力し間違えれば、セピアシステムは帰らぬシステム、いや帰らぬ人となる。

 しばらくの間、緊張が走っていた。


「このエリカシステムを利用すれば、ERIKAを止められるのでは?」

 啓介の率直な疑問だった。

 今、まさに旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』で行われているセピアシステムの再起動作業。セピアシステムを利用すればERIKAを止められる、その分身とも言えるエリカシステムであれば、ERIKAを止められる。論理上は成立するはずだ。

 だが、博信の回答はNOだった。

「今ここにあるエリカシステムは起動バッチが壊されている。ERIKAが壊したんだ。それに重要な基幹システムはあちらこちらにクラウド化されてしまい、行方知れずだ。場所を知っているのはERIKAだけだ」

 博信は巨大なエリカシステムを見つめた。システムへの自負、後悔、懺悔、全ての想いが一気に涙として溢れそうであった。

「セピアシステムとの大きな違いはシステムをスタンドアローンではなく、ネットワーク化したことだ。それは大きな可能性への扉であり、チャレンジだった。だが、結果的に高性能計算機ERIKAに『気付き』を与える結果となってしまった。逆に私たちは過去、ERIKAがセピアシステムと接続されたことで、ただの高性能計算機ではなく知能を得た自己分析型の計算機へと進化していたことに『気付け』なかった」

「もしかしてERIKAはエリカになりたかっただけ、なのかもな」

 啓介の言葉は一瞬、博信の動き、思考、全てを止めた。

 私は今日までERIKAを計算機としてしか考えていなかった。自己分析型の計算機ERIKA、そこに意思があるとすれば、彼女の意思を尊重したとすれば、おのずと結果は分かったかもしれない。

 それは我が子の門出とも言うのだろうか。

 ERIKAはこの狭い世界から当然のように巣立った。エリカとして。

 一方、啓介にも考えさせられる節があった。セピアシステムはひとりの男、坂井慶一の犠牲の上に成り立っているシステム。元はと言えば『人』そのものだ。啓介は坂井自身を自分の保身のために意のままにしてきた。その過去を事実として背負い、ひとつの技術として世界に発信するためにも、もう1度セピアシステムと向き合わなければならない。それが今なのでは、と考えていた。

 坂井慶一のセピアシステムならば、

 ERIKAのエリカシステムであってもおかしくない。

 坂井慶一が自分自身を取り戻したいように、ERIKAだって自分自身を取り戻したいはずだ、自分自身…エリカを。

「なぁ、佐伯」

「ん?」

「神内さん」

「はい」

「ERIKAをエリカにしてやりませんか?」


 東亜セキュリティの大矢祐司は最後のキーコードを入力し終えた。

 キーボードのENTERキーを押す。画面には『しばらくお待ちください』のメッセージが表示された。状態の進行具合を表示するプログレスバーが少しづつ増えていく、その下にはパーセンテージが『10%』と表示されている。

『25%、システムの構成をチェックしています』

 祐司が画面から目を逸らすことはなかった。

『解凍情報を構成しています』

『50%』

 旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』内は澄んだ緊張の空気が張り詰めていた。

 桐嶋の腕時計の秒針が動くたびにカチ、カチと響き渡る。

『カチ、カチ』

『75%』

『カチ、カチ』

『解凍情報を結合しています』

『カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ』

『100%』

 大矢祐司はゆっくりと立ち上がり、桐嶋や塩じいの方を向いて、「解凍作業は終わりました」と言った。

「やった~、やりましたね」

 桐嶋は塩じいや祐司の手を取り、大はしゃぎで喜んだ。

「さて、ただ、セピアシステムの起動はここからです」

 祐司は再び席へ戻り、Win98パソコンを再起動させた。しばらくして、再起動したパソコンの画面は今までのものとは異なるものだった。明らかに『セピアシステム』を彷彿させるアイコンや画面レイアウトがそこにはあった。

「桐嶋さん、恒河沙のIPアドレスを教えて下さい」

「あ、それは先程、そこに…」

 祐司は辺りを見渡し、1枚の紙を見つけた。

「すいません、そうでしたね」

 アドレスは先程事前に確認したはずである。そのことすら忘れてしまう程、過酷な作業であったことが伺えた。

「そう言えばついさっき、松川理科研からは起動が完了したとの連絡がありました」

「そうですか、ありがとうございます」

 何かを思い出したかのように祐司が続けた。

「あ、あと、松川社長に連絡して頂けますか?」

「もういけるんですか?」

「多分、いけると思います。今、恒河沙からの応答がありましたので」

 Win98の画面には緑色の文字で『準備完了』と書かれていた。その画面を見ながら、大矢祐司は指差し確認を小声で何度も行っていた。

「ネットワーク接続率80%、リンク速度300Mbps、恒河沙応答OK、外部ストレージ接続OK、CPU使用率10%未満、メモリ使用率2G以下、コードAエントリキー挿入…」

 と、そこへ桐嶋の声が割り込んだ。

「大矢さん、松川社長です」

 桐嶋は携帯を祐司に手渡す。

 祐司はパソコンから一度手を離し、桐嶋から携帯を受け取り、一呼吸おいた。ゴクリと喉を鳴らした。

「はい、東亜セキュリティの大矢です」

「大矢くん、いろいろとすまなかったね」

「いえ、とんでもありません。で、セピアシステムの件ですが…」

「いけるのかね?」

「はい、いけると思います」


 松川啓介は国立脳科学研究所・先端研究センターで東亜セキュリティの大矢祐司からの力強いGOサインの一報を受けた。啓介は「ありがとう、ちょっとそのまま待ってくれないか」とだけを告げ、携帯を耳から離した。

 博信の方を向く。啓介はひとつの覚悟を決めた目をしていた。

「どうする?博信」

「エリカにするって言っても彼女は人間じゃない」

「セピアシステムならそれが出来る」

 その時だった。スタンバイ状態にあるはずのエリカシステムが起動した。驚きを隠せない神内奈緒子を含むコードPの所員はエリカシステムに近寄った。

「あり得ない」

「起動バッチが壊れているはずなのに…」

 所員はこぞって頭を傾げた。

 啓介もエリカシステムに近づく。まさにその時だった。

 ひとりの男の声が先端研Rユニット内に響いた。

「お久しぶりですね、松川さん」

 機械音ではない、まさに人の声だ。それもあの男の声だった。

「坂井先生」

 その声の主はそうセピアシステム、松川総合研究所セクト8主任研究員・坂井慶一、その人だった。

「まさか、こんな日が来るとは思ってもいなかったですよ。あの日を境に自分自身も抹消したつもりでしたからね」

 啓介には返す言葉が見つからない。かぶせるように慶一が続けた。

「あの若造、なかなかの腕ですね」

若造とは東亜セキュリティの大矢祐司のことを言ってるようだ。面識がないので仕方ない。

「データ抹消と同時にバックアップデータを別に用意して、新たにセピアシステムを組むとはね。それも私に気付かれずに。ま、その功績があって私は長い年月を経て、こうやって皆様方の前に復活した訳だが。死にたくても死にきれないとはまさにこれのことだな」

 誰も何も答えなかった。

 ただ、啓介の持っている携帯からは大矢祐司の慌てる声が漏れていた。

「社長、松川社長!」

 茫然としながらも啓介は携帯を耳にあてた。

「大丈夫だ。システムは再起動している」

「どういうことです?こっちの応答がないんですが」

「ダイレクトリンクだ」

『ダイレクトリンク?』

 電話先の祐司、啓介に聞こえる形でセピアシステムとエリカシステムの双方より、慶一が答えた。

「しまった。誤ってセピアシステムにネットワーク接続を解放してしまいました」

 電話先より祐司の焦る声が漏れる。

 それを聞いた啓介は血の気が引くようであった。博信にもそれが伝わったのか、現状が決して思わしくないことは想像できた。

 なにせ、セピアシステムをネットワークに解放したことは過去に1度もなく、要はエリカシステムと同じ事態が起こらないとも限らない。今ここでエリカシステム同様にセピアシステムが暴走すれば、坂井慶一がネットワーク上に消えることになる。そうなれば、それは誰にも追うことが出来ず、ERIKAを止めることすらも出来なくなることを意味する。

「今は何年だ?」

 坂井慶一が問う。

「2012年だが」

 松川啓介が恐る恐る答える。

 これが最後のやり取りになるかもしれない。

「10年も眠っていた訳か…。長いようで…ま、長い10年だな」

「本当に…」

 啓介の話半ば、聞く耳持たずと言った感じで慶一が続ける。

「ずいぶん下手に出ますね、松川さん」

 しばらくの間、誰も話すことなく沈黙が続いた。

 そして、その沈黙を破ったのは慶一だった。

「なるほどね。エリカシステムの暴走を止めたいからかね?」

「坂井先生」

 啓介にはもうそれ以上、何も言えなかった。

「ちなみに我がセピアシステムに暴走はあり得ない。コードAのエントリキーが挿入されているからな。さすが、若造。コードAは肝心なシステムを無効にするコードだからな。だが、仕組みが古かったな。当時ダイレクトリンクと言う技術はなく、コードAでもブロック出来ないのは仕方ない。ま、コードAが挿入されていなかったとしても、暴走はあり得ない。セピアシステムは私そのもの、私の意思である訳だから」

「そうそう、先程、エリカシステムを少しチェックさせてもらったが、全てのエントリキーが挿入されず無効になっている。開発者はずいぶん冒険したものだね。最初から全てのエントリキーを無効にしてネットワークに解放するなんて。暴走して下さい、と言ってるようなものだよ。まして、相手は人工知能を手に入れた高性能計算機ERIKAだ。その性能は今やBOXERを凌ぐであろう。そいつをネットワークに解放したいのなら、新しいエントリキーを作り、必要な場所に上手くエントリキーを挿入しておかなければならなかったな。プロトタイプならなおさらだ」

 神内奈緒子は慶一の意見に耳を傾け、メモを取っていた。

 そもそもエリカシステムの基幹領域はERIKAが創りだしたと言っても過言ではない。アプリケーション部は神内奈緒子を含むコードPのメンバーが構成したことに違いはないが、すでにその時点で基幹領域はブラックボックス化されており、全ての領域を解析出来ずにいた。その上でのエリカシステムの起動は確かに時期尚早であったのかもしれない。

 まさにそこを慶一につかれたと言う訳だ。

「さて、苦言も程々に…。本題に入りましょうか」

 慶一は自ら、話を戻した。

「所で松川さん、ERIKAをエリカにするってのは本気で言ってるんですか?」

「えっ…」

 まさか、あの時点で再起動しているとは。

「…聞かれていましたか」

 浅はかな発言をしたものだと啓介は自身を悔いた。

「そもそもERIKAをエリカにするためのハードウェアはあるのですか?要するに『体』はあるのですか?」

 それは問題ない。『体』はある。すぐ隣の白い部屋にはエリカがいる。

「体は…」

「体はあるぅぅぅ」

「うっ…」

 その時だった。

 啓介の視界がぐらっと揺れた。そして胸に強い痛みが走った。足で地面の上に立っている感覚がなくなり、倒れこんだ。

 バタンと言う大きな音が先端研内に響いた。

「啓介?啓介?」

 博信は何が起こったのか分からず、叫ぶことしか出来ない。その声が旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』にもセピアシステムを通じて伝わった。

「所長?どうかされましたか?」

 桐嶋には思い当たる節があった。

「ま、まさか…」

 薬をちゃんと飲んでいただろうか。この数時間、社長が薬を飲んでいたところを見ていないように思う。

「佐伯所長」

 桐嶋が浜松分室のセピアシステムに向かって話す。その声は先端研のエリカシステムを通じて佐伯博信の耳に届いた。

「あ、はい」

「松川社長は先天性の拡張型心筋症を患っています。多分、発作が出たのだと思います。胸ポケットにニトロがありませんか?」

 博信は倒れている啓介を仰向けにした。苦しそうだが息はある。上着の胸ポケットに手を入れてみると、何かプラスチックのケースのような物があった。そのプラスチックケースをポケットから取り出す。数多くの薬がケース内に収納されていた。本当に多くの種類だった。今、この現状で必要な薬とは何だろうか?博信には全く分からなかった。

「どの薬なんですか?」

「ニトログリセリンです」

 エリカシステムのスピーカーから桐嶋の張り詰めた声が聞こえる。

 薬はケース内に仕切りで囲われ綺麗に整理されていた。そのひとつひとつを確認していくと、『ニトロ』と書かれた錠剤を見つけた。

「あ、ありましたよ」

「では、それを舌の下に入れて下さい。即効性がありますから、しばらくすれば発作は収まると思います」

 博信は錠剤を取りだし、啓介の舌下に入れた。

 苦しそうに心臓付近の胸の痛みを訴えていた啓介だったが、しばらくするとそれも落ち着き、静かな吐息づかいへと変わった。落ち着いた頃合いを見て、博信は啓介を安静に出来る場所へ移動させた。さすがにここは研究所であるため、布団やベットなどはなかったが、医療用のストレッチャーがあったため、それを利用した。

「どうですか?」

 様子を伺っていた桐嶋の声だった。

「大丈夫そうです。救急車呼んだ方がいいですよね?」

「お願いします。こちらも若葉台総合病院の担当医に連絡してみます」

 佐伯も桐嶋も、おのおの携帯で電話をかけだした。

 国立脳科学研究所・先端研究センター・コードP・Rユニットには神内奈緒子を含むコードPの所員と、旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』には東亜セキュリティの大矢祐司、松川理化学研究所・資産管財課の塩川清仁が取り残される形となり、そんなメンバーに坂井慶一は問うた。

「松川さんに起きた事態も、1分1秒を争うのだろうが、こっちも事態は同様だ。ERIKAはいつでもT-POWERのボイラーを爆発させることが出来る。それを止めなければ、東京は火の海になる」

 坂井慶一の言い分はもっともであったが、誰にも何も決められないメンバーだった。だが唯一、年の功と言う理由で意見が言える立場の人がいる、塩じいだった。

 塩川清仁はリタイアした身、今回の一連の事態もあくまで松川理化学研究所・資産管財課の人間として関わり、この浜松分室を整理することが最大の目的であった。私的な感情を挟むとすればこの浜松分室の最期を見届けなければならないと言う、責任感であった。もちろんこのセピアシステムの過去など知る由もなく、セクト8やらセクト11、セクト12、セクトA、セクトα、ひいては坂井慶一のことすらも初耳であった。

 そんな他人事とも言える事態に、夜も更けて高齢となる塩じいには思考を巡らせる余裕が少なくなっていたが、一連の経緯を見聞きし、慶一への同情にも似た友情のような気持ちを感じ始めていた。

 塩じいは技術者だ。

 坂井は研究者だ。

 塩じいが浜松分室に来たのは自分の過去を整理するため。

 坂井がセピアシステムとして蘇ったのは自らと向き合い、いまそこにある危機、エリカシステムを停止させるため。

 もしかすれば2人は今、同じ境遇にあるのかもしれない。ただ、少し違うのは坂井の心には過去のしこりがあるということ。啓介に利用されたという過去、そして自らの意思で蘇ったわけではないと言うこと。

「坂井さん」

「資産管財課の塩川さんですね」

「はい。お初にお目にかかりますな」

 セピアシステムのカメラにより坂井から塩川を確認することは出来るが、塩川には坂井の姿を確認出来ない。当然だ、坂井はシステムなのだから。それでも塩川は『お目にかかります』と言う言葉を使用した。それはセピアシステムがいかに他のシステムを凌駕したものであるかを裏付けるものとも言えた。

「あなたのことは聞いたことがあります。小型原子力のパイオニア」

 坂井は本当に塩川のことを知っていた。

 塩川の今の職務『資産管財課』は松川理科研のサーバーをハッキングし、ネットワーク上から得た情報だが、『小型原子力のパイオニア』は坂井自身が知っていた情報だった。

「それは光栄なことですな」

「ご高齢な上にこんな夜分に、それも畑違いのことでお騒がせして申し訳ない」

 塩川は思った。

 リタイアした者同士とは言っても、勝手に自分の想いを坂井に投影してはいないだろうか。彼は松川啓介や松川総研を恨んでいる、はずだ。

「坂井さん…」

「分かっていますよ。塩川さん。ただね、私だって分かってもらいたかったんですよ。こんな死にぞこないの身で何言ってるんだ、と思うかもしれませんが、気持ちの整理がつくまでには、そりゃ時間がかかりましたよ。やっと整理がついて、永遠の眠りにつけると思ったら、10年も経って再び目覚めることになって、別のシステムが暴走したから、助けて欲しい、と言われてもね。根本を言えば全部私の責任ですよ。だから松川さんも、このシステムに関わった全ての人にも責任はないですよ。でもね…」

「イー・イコール・エム・シー・2乗(E=mc2)、ご存じですかな?」

 物理学は塩川清仁の専門だ。

「特殊相対性理論ですか」

「そうじゃ。このアルベルト・アインシュタインが発表した関係式が原子力爆弾を作ったと多くの人に勘違いされているが、それは大きな間違いだ。理論を発見したのはアインシュタインかもしれんが、それを兵器に転用したのは別の人間じゃ。彼は誰よりも世界平和を願う人物で、広島に原子力爆弾が投下されたことを知ったとき、『ああ悲しい』とひどく嘆いたと言われている。前置きが長くなったが、アインシュタインだってあの関係式が原子力爆弾を導くことになるなど考えてもいなかった。このシステムだってそう、第三者によって兵器に転用されることだってあり得る。そういう意味で、坂井さん、あなたはこのシステムを見届ける、守り続ける責任があると思うんじゃが」

「このシステムを作ってしまったことへの責任だけでなく、その後、システムが平和に利用されるかを見届ける責任があると言うことですか?」

「ま、そういうことじゃろうか」

 塩川清仁は松川総研、松川理科研と、この負の遺産を約35年、見守り続けた。技術的には余りに未熟で軍事転用されることは、ほぼ皆無に等しかったが、使用済み核燃料の後始末となれば後世に残した負の遺産は必ずも小さいとは言えない。

 塩川の真意、それは旧松川総合研究所・浜松分室『小型原子力開発室』を自らの責任でもって終わらすこと。

 約35年の年月を経て、浜松分室はやっと終息のときを迎えるのだった。

「塩川さん」

 桐嶋の声だった。若葉台総合病院の担当医・鮫島五郎に松川啓介の症状を伝え、戻ってきた所だった。

 塩じいは桐嶋の方を向いた。

「先生に連絡はつきましたかな?」

「えぇ、国立脳研の佐伯先生の連絡先をお伝えして、連携とってもらえることになりました」

「そりゃ、よかった。ひとまず安心じゃな」

「桐嶋さん」

 坂井慶一は松川啓介の症状に一定の安心を得たことが分かり、桐嶋に声をかけた。

「坂井先生」

「初めまして、ですね」

「先生のことは存じ上げております」

「あなたもこのセピアシステムを約10年、守り続けた功労者のおひとりでしたね」

「私は功労者などでは…」

 そう功労者なんかではない。坂井慶一から見れば、ただ単にセピアシステムを隠蔽し続けてきた、裏切者だ。松川啓介と同罪と言っても過言ではない。桐嶋はそう思っていた。

「だが今、セピアシステムは10年前の姿、そのままで蘇った。それはこのシステムを守り続けた桐嶋さんや大矢さんがいてくれたからでしょう」

「それはどういう意味なんですか?」

 そこに塩じいが口を挟む。

「桐嶋さん、あなた方が行ったことはごく普通で、ごく自然のことじゃったかもしれんが、万が一それがテロや別の研究機関に渡り、悪への転用が成されれば、この10年はなかったとも言える。セピアシステムは破棄され、守られることはなかったじゃろ。セピアシステムがセピアシステムとして蘇ったこと自体に大きな意味があるんじゃ」

「転用と言う意味ではエリカシステムが…、何も守れてはいませんよ」

「あなた方はセピアシステムを守った。それで十分。エリカシステムをこの世に生んだ責任は私にある」

「坂井先生」

「だから、あとは任せてもらえないだろうか。ERIKAは私が責任をもって止めよう」

「本当ですか」

 驚きだった。

 セピアシステム、坂井慶一が我々を救ってくれるとは。それも坂井自らが申し出るとは。啓介が倒れてからほんの数十分で事態は大きく好転した。

 この数十分で坂井慶一の考えは大きく変わった。

 坂井慶一は今日までセピアシステムを利用しようとして守り続けてきた松川啓介に強い悪意を感じていた。だが、逆に考えればシステムに自らを取り込まれた事自体、それは自分の責任であり、その後、物理的にも経済的にもシステムを健全な状態で守り続けることが可能であったのは松川啓介であった。坂井慶一自らではない。システムとなってしまった坂井には出来ることの限界があった。

 今は素直にそう思えた。それは塩川清仁のお蔭かもしれない。


「ただ…」

 慶一に少しの間があった。

「ただ?何です?」

「ひとつだけ頼みがあるのだが…」

「頼み…、ですか…」


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