第3話 一途

 目が覚めるとそこは素っ気ないコンクリートで出来た白い天井ではなく、純日本家屋独特の土壁で出来た天井が広がっていた。八神英二はハッとした。夢か、現実か、少しの間呆然とその天井を眺めていた。小鳥のさえずりが聞こえてくる。ここはどこなんだろう。そう思った。

 確か…、ある男に会い、ここに案内され、とても美味しい食事をして、横になった。以後の記憶がなく、そして今、目が覚めた。ハッと勢いよく身体を起こした。この部屋の景色、そこは刑務所ではなく、旅館の一室だった。ふと、部屋の隅へと移動させられたテーブルに目をやる。そこには一枚の名刺。英二は名刺を手に取り、あらためてこれが現実なんだと実感した。

「メディカルフロンティア・上谷高志…、現実なんだ」

 浴衣から服へと着替えた。入所時から持参していた服があったため2、3日分の着替えはあった。着替えた浴衣と昨日の服をたたみながら洗濯をしなければいけないな、と思った。とっさにコインランドリーでも探しに町に出ようと思った。もしや旅館でもそんなサービスをやっているかもしれないが、下宿でもあるまいし、それに有料であれば、上谷に迷惑をかける。これ以上は申し訳ないと思った。たたんだ服を持ってきたバックに入れ、部屋を出ようとした。とその瞬間、お腹が鳴った。英二は立ち止りひとりでニコっと笑った。刑務所にいるときにお腹が鳴ったことなんて一度もなかった。身体は自分が思っている以上に正直だな。この世界に出て来られたことを祝福しているように感じた。

 朝食は旅館の大宴会場に用意されていた。白い米に味噌汁、サケの塩焼き、普通であればいつもと同じありふれた景色であろうが、英二にとってはこのいたって素朴な朝食がとても懐かしく、嬉しかった。しばし、朝食の御膳を眺めていた。仲居が横を通り、「何かございましたでしょうか?」と声をかける。英二は軽く会釈をして、「いえ、ありがとう」と答えた。そして、箸を手に取り一口、一口、味を噛みしめながら食事をした。

 腹が減っていたのか、食事はすぐに終わってしまった。だが、とても満足な気分であった。英二が一息ついていると、仲居が英二の湯呑にお茶を注いで、御膳を引き上げていった。

「ごちそうさまでした」

 仲居が丁寧に頭を下げた。

 そして、仲居は「朝食にご用意しております旬の食材を使用したお漬物などは、売店でも販売しておりますので、よろしければご利用下さい」と続けた。仲居は英二の満足気な表情を見て、本日の朝食を気に入ってくれたのだと感じた。

「ありがとう」

 英二は自分の感じた想いと、仲居が感じた想いが必ずしも同じではなさそうだと思いながらも、今がただただ嬉しかった。ここに居られることが。


 お茶を飲み終え、大宴会場を後にした。一度、部屋に戻り、洗濯物を袋にまとめた。ちょっと量があり、袋が大きくなってしまった。そんな大きな袋を抱えて、ロビーにカギを預けた。そこでロビーの男性スタッフにコインライドリーの場所を聞いた。案の定、「部屋に置いておいて頂ければこちらで洗濯致しますが」と言われた。「サービスですか?」と聞こうかと思ったが、ひとつひとつ、自分の身の回りのことを自分でやれるようにしなければ、とも思う。当たり前だがゴミの日にはゴミを出す、週に2回は洗濯をする、社会人への復帰、第一歩だ。そう思い、サービスであったとしても利用することはやめた。

 ロビーの男性スタッフは手を大きく前に出し、右に振った。

「玄関を出て右手に進んで下さい。すると港が見えてきます。その少し手前にコインランドリーがあると思います。6機くらいしかない小さなランドリーです。港まで出てしまったら行きすぎです」

 英二はスタッフの身振り手振りを見ながら玄関先を見ていた。ま、道一本なら何とかなるかな、そう思ったとたん、男性スタッフは紙に書いた地図を手渡してくれた。

「この辺です」

「あ、」

 英二は男性スタッフを見た。男性スタッフはニコッと笑いながら、「この辺の道は入り組んでおりますからお気を付け下さい」と言った。

「ありがとう」

「いってらっしゃいませ」

 男性スタッフはゆっくりと頭を下げた。英二は大きな袋を担ぎ、旅館の玄関を出た。右に曲がり、ロビーを見た。男性スタッフが英二を見ていた。何を言っているかよくわからないが、口の動きで「いってらっしゃいませ」と言っているように感じた。八神英二はサービスの行き届いた旅館だと改めて感じた。

 この三国町、東尋坊などの観光地として有名で、ホテル・旅館だけでも38をこえる施設がある。民宿などを含めれば50はゆうに越えるであろう。

 そんな中、多和旅館は「ぜひ泊まりたい旅館ベスト10」に入るほど、人気のある旅館として観光ガイドにも紹介されている。その理由がこの行き届いたサービスなのかもしれない。また来たいと思える、そんな旅館だ。


 八神英二は海を目指して歩き出した。海まで出てしまっては行き過ぎだ。その手前にコインランドリーがある。ふと、旅館の男性スタッフの顔を思いだし、ニヤリとしてしまった。少し進むと魚屋があり、威勢の良い声が店の中から外へ響き渡っていた。

「いらっしゃい、今朝捕れた魚だよ」

 おじさんが英二に向かって言った。英二は足を止めた。海水であろうか、ホースから水が潤沢に溢れ、白い発泡スチロールの中をいっぱいに満たしている。その中にはサザエが入れられていた。貝から身が少し出ているサザエがある。まだ生きている証拠だ。おじさんが英二に近づく。

「いらっしゃい。観光ですか?」

「えぇ、まぁ」

「うちは旅館にも卸していますし、毎日船を出していますから、鮮度はお墨付きですよ。地方配達も可能だから、よかったら言って下さいね」

 おじさんはそう言うと他の客の接客にまわった。英二は魚が活き活きと泳ぎ回る光景だけではなく、人が生き生きと働く、そんな光景にも新鮮さを感じていた。働くこと、それは生きること。生きることそれはつらいこと。いや、違う。働くこと、それは生きがい。生きがいだからやりがいがある。やりがいがあるから、働ける。仕事って何だ、社会人1年生に問いかけるような言葉を英二は自分自身に問いかける。

「ん?」

 まだ答えは見つからなかった。

 英二は魚屋を後にした。ひとまず洗濯をしなくては、今日は天気が良いが突然、雨でも降ってきたら、せっかく乾いた洗濯物も台無しになってしまう。通りを見渡しながら港までの一本道を歩き出す。いろいろな店が軒を連ねている。中にはシャッターが閉まっている場所もあるが、ほとんどが開店しており、活気があった。そんな通りを進むと、左手にお土産物屋とは少し異なる雰囲気の空間が現れた。コインランドリーだった。多分、昔は何かの店だったのだろう。そのスペースにランドリーを設置したと言ったそんな雰囲気だった。

 コインランドリーに入ると真っ先に洗濯物をドラム式の洗濯機に入れた。小銭を入れると勢いよくドラムが回転を始めた。持ってきた袋をそのドラム式洗濯機の丸い窓についた取っ手に引っかけた。後は30分待つだけだ。

 英二はふと辺りを見渡した。コインランドリーにお客はいないようだ。ただ、動いている洗濯機や乾燥機がある。きっと洗濯物を放り込んでそのまま終わるまでどこかで暇を潰している人がいるのだろう。コインランドリーの一角には椅子があり、そこで座って待っていようと思ったが、無人のまま動き続ける洗濯機や乾燥機を見て、少しこの場を離れても大丈夫かな、と感じた。洗濯物が盗まれることを気にしていたが、これも人と人の信頼関係。他の人が大丈夫だから自分も大丈夫と言う訳ではないが、不思議と安心感が勝っていた。

 英二は自分の洗濯機の残り時間を確認して、コインランドリーを後にした。外へ出て左手に向かえば海に出る。海はもうすぐそこだ、磯の香りがここまできていた。少し歩くとまだ荷揚げを行っている船が見えた。興味本位で近づいてみた。たくさんの甘えびが網の中からいけすに移されていた。船に乗っていた漁師は3人、うち1人は岸で甘えびを受け取っていた。英二は何の躊躇もなく、岸にいる漁師に話しかけた。

「すごいですね。大漁ですね」

 漁師はせわしく手を動かしながらも英二の話に耳を傾けた。

「そうだね。だけど、まぁこんなもんだよ。甘えびだからね。これ位ないと儲けにならん」

 そう言って漁師は笑った。

 英二は邪魔にならない程度に少し離れた。そして、漁師たちの働きぶりに見入った。無駄のない作業。プロの仕事だ。

 以前、病院で医師をしていたときのことをふと思いだした。無駄のない手術。看護師からメスを受け取り、手際よく、悪性の腫瘍を取り除く。人が3時間かかる手術を2時間で終える。早ければ良いと言うものではない。だが、患者への負担は格段に減る。質が下がらなければそれは神業だ。それこそ、八神英二が神の手を持つ医者と呼ばれた由来だ。

 その時だった。車の急ブレーキ音が英二の耳に飛び込んだ。音がする方を振り向くと、港へ繋がる交差点の真ん中で車がとまっていた。一目で交通事故だと思った英二はとっさに走った。小さな港のすぐそこまでが異様に遠く感じた。走っても、走っても近づかない。車からドライバーが降りてきた。

「触らないで。骨折してる可能性があるから」

 英二は大声を張り上げた。ドライバーはそれに気づき、英二の方を見る。息を切らしながら、ドライバーの元に駆け寄る英二。

「ふ~ふ~」

 ドライバーは青ざめた顔をしていた。

「ドライバーさんはこちらへ。すぐに119番して下さい」

「警察の方ですか?」

 ドライバーの問いに英二はとっさに答えてしまった。

「医師です」

 車の右タイヤに踏まれるように自転車が倒れ、その自転車に足を挟まれる形で女子高生が倒れていた。英二は脈を確認する。どうやら意識を失っているだけのようだ。だが、挟まれた右足からは出血が見られ、道路を赤く染めていた。その光景だけでドライバーはパニックになっていた。

「脈はあるから大丈夫。ドライバーさん、落ち着いて。ひとまず119番を」

「あ、はい」

 ドライバーは携帯を取り出した。

 大丈夫とは言ったものの、女子高生はぐったりとしている。このまま出血が続けば命に関わる危険性がある。ひとまず出血を止めなければ。左手で足首を持ち、出血している場所を確認する。膝のあたりで違和感があった。どうやら膝をひねり骨折しているようだ。出血は車と接触した際に擦りむいた傷からで、色から見ると動脈は外れている。最悪のシナリオは回避されてそうだ。

 英二は出血を止めるために自分のもっていたハンカチを膝の上に強くまいた。これで病院まではもつだろう。ひと安心だ。

「119番しました」

「この子、意識を失っているだけだから。救急車が来たら、救急隊員にそう伝えて。それから骨折は膝。出血はひどいけど、動脈は外れていると思う」

「あの~」

 ドライバーの問いかけに答えることなく続ける英二。

「救出時は隊員の指示に従って。今はこのままにしておくように。命に別状はないから大丈夫」

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。英二は「ヤバイ」と思った。ドライバーが救急車のサイレンに気を取られている内に英二はその場から静かに立ち去ることにした。次第に大きくなるサイレン音。救急車が到着して、隊員が降りてきた。ドライバーは英二に言われたように状況を説明し、「こちらの方が…」と続けた。

 だが、すでにそこに英二の姿はなかった。

 状況確認を行った隊員とは別の隊員が女子高生に寄り添っていた。救命士のようだ。英二とほぼ同じような手つきで状況確認を行っていた。そして、ドライバーに話を聞いていた隊員に「的確だな」と言った。その言葉にドライバーが返す。

「医師だとか言ってましたが…」

「そうですか。ひとまず命に別状はありません。だた、骨折と出血がありますから、三国病院の方に搬送致します」

 そう言うと隊員は迅速に車を動かし、自転車をどけて、女子高生を担架に乗せ、救急車へと運んだ。そうしているうちに警察が到着し、ドライバーから聴取を行った。救急車は再びサイレンを鳴らし、病院へと向かった。

 一時、港は騒然としたが、英二の迅速な対応でドライバーもパニックすることなく、事態は収束した。

1時間も過ぎればまた活気づいた港の風景が戻っていた。


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