第2話 再起

 出所の朝はいつも以上に早く目が覚めた。期待と不安、2つの想いが交錯して眠れなかったと言うのが実際の所。布団をたたみ、身の回りの整理をする。今日一日のスケジュールは事前に聞かされていた。いろいろな手続きがあり、出所は午後と言われていた。迎えが必要であれば事前に連絡を認めると言われたが、とくに連絡する相手もおらず、断った。

 妻・久美子から連絡先をもらっていたが、電話をする勇気はなく、落ち着いたら手紙を書こうと思っていた。

 お礼の手紙になるのだろう。

 看守が朝6時に迎えに来た。独房の扉がとてもゆっくりと開くようなそんな感覚を覚えた。扉はギギギと言う音を立て、全開した。英二は管理番号を告げられ、「はい」と答えた。看守に頭を下げ、独房の外に出る。振り返り、独房に礼をした。「4年間、お世話になりました」そんな想いだった。

 英二は看守に付き添われ、看守長のいる部屋へ案内された。そこで出所までの一連の手続きが行われる。手続きはそれから昼までかかった。書類の手続きは前半の数時間程で再犯を犯さぬように人としての心得を説く時間が大半であった。八神英二はその話を親身に聞いた。

 元医師だが、ここではそんな過去は何の意味も持たない。

 時間はすっかり昼をまわっていた。看守長が手元の本を閉じた。そして、常に見せる強張った表情から一変、優しい表情になった。

「おつかれさま、八神英二さん」

 看守長がそう言うと部屋の扉が開いた。名前で呼ばれたのは入所するときに一度、それ以降ではこれが初めてだった。

「お世話をおかけしました」

 看守が部屋へと入って来る。

「塀の外まで案内します。八神さん」

「あ、はい」

 看守長は席を立ち、ニコリと笑った。

 八神英二は看守と共に部屋を出て、そのまま外へと出た。天気の良い日だった。外では田畑を耕す他の受刑者の姿があった。刑務所の入口となる門には別の看守がおり、看守同士敬礼をした。

「管理番号○○○○…、八神英二、本日出所致しますので、開門願います」

「了解致しました」

 門の看守が合図を送った。すると重苦しい門がゆっくりと開いた。門は人ひとり通れる程度開けられた。通用門もあったが看守は、その門を開けなかった。理由は定かでない。看守は英二を見て小さくうなずいた。英二はそれを見て深く礼をした。

「お世話になりました」

「次会うときは、塀の外です。ここへは2度と戻ってきてはなりません」

「はい。ありがとうございました」

 塀の外で深く頭を下げている英二。門がゆっくりと閉まる音がした。そしてガタンと言う音と共に門は全閉した。

頭を上げた英二の目の前に看守の姿はなかった。大きく深呼吸をする英二。自分の背中には4年前まではそれが当たり前だと思っていた現実社会が広がっている。今となってはその現実社会に再び適応できるのか、不安であった。振り向くだけの勇気がすぐには出なかった。

 そんなとき、ふと背後に人の気配を感じた。だが、英二は怖くて振り返ることが出来なかった。

「お待ちしてました。八神英二さん」

 男の声だった。それも温かく優しい。なぜか安心した英二は静かに振り返った。そこには見たことがあるような、ないようなそんな男性の姿があった。

「あなたは?」

「お久しぶりです。上谷高志と申します。覚えていらっしゃらなくて当然だとは思います。ん~、なんと申し上げれば思い出して頂けるか…名古屋市立大学病院で…」

 英二は目を見開いた。上谷高志…名古屋市大病院…。

「夢野先生の…」

 上谷は両手を前に出して嬉しそうに、「そ、そうです」言った。

「…確か婚約者でしたよね?」

 英二の記憶が少しずつ鮮明になっていく。まだ、名古屋市立大学病院の医師であった頃、夢野 彩という若くて優秀な医師が助手についたことがあった。その夢野医師の婚約者が上谷高志だった。そうだ、そして、この人から、あるひとりの女性の血液を入手したのだった。思い出せそうで思い出せなかったのは、そんな過去の忌まわしい記憶のせいだ。

「思い出しましたよ。上谷さん。夢野さん…あ、いや、彼女は元気ですか?」

「実は婚約は解消しました。その後、何度か良い縁談があったようですけど。今でも姓は夢野のままです。仕事上では旧姓を使用しているのかもしれませんが…」

 そう言って笑った。

「今は愛知県常滑市にある若葉台総合病院・救命救急センターのセンター長をやっていますよ」

「そうですか、救命救急センターの…」

 英二は医師時代、彩にもそうだが、助手についた医師には常に現場に立てと言い続けていた。命の現場に立つことこそ、医師としての使命。それは手術室かもしれない、はたまた病室かもしれない。ときに災害現場でもあるだろう。

 救急救命センター、それはまさに命の現場そのものだ。英二には彩がそんな教えを今でも受け継いでくれているように感じた。

「…まして、センター長とは大したもんだ。彼女の意志で?」

 今や夢野 彩の婚約者でも何でもない赤の他人となる上谷に対して、彩の身の上話を聞くこと自体がおかしな話だが、今の英二にそんな配慮をする余裕はなかった。

「実は私、今こういう仕事をさせてもらっているんです」

 上谷は上着の内ポケットにあった名刺入れから、名刺を一枚取り出した。

「株式会社・メディカルフロンティア?」

 英二は名刺をゆっくり読み終え、顔を上げた。

 上谷と目があった。

「医師の平準化。つまり、過疎地に医師を派遣し、過密地との平準化を図ったり。優秀な医師を欲しがっている病院と医師との交渉を行ったり、ときに厚生労働省と病院の仲介役をしたり、そう言った仕事をさせてもらってます。実は彩さんに若葉台総合病院の救急救命センターを紹介したのは私なんです」

「そうでしたか。それで」

 英二はずいぶんと時間が流れたのだなと改めて感じた。自分が医師をしていた頃は所属する部署長の了承がなければ病院を代わることなどありえなかった。また逆に派閥抗争などで病院を転々とさせられる人もいた。そういう時代だった。

 高志が少しうつむいた。

 英二との再会、それは会社方針だった。この話を上司から聞いたとき、やはり過去からは逃げられないのだと痛感した。人生は皆に平等だ。逃げれば後ろから追いかけてくる。そういう意味だ。

「私はあの日以来、自責の念がぬぐえず、医者を辞めました。そして彩さんに婚約解消を申し出ました」

 高志は英二の顔色が変わるのが分った。過去を鮮明に思い出した英二には「あの日」というその一言で十分だった。

「それは申し訳ないことをした。夢野さんにも」

 頭を下げた英二だが、すぐに高志の両手が英二の肩を捉えた。

「やめて下さい。頭を上げて下さい。あれは私自身の意志で行ったこと。八神先生には関係なのないことです」

 英二はそのまま頭を下げたままだ。高志が続ける。

「こんな言い方はあの女性の家族や恋人に申し訳ないが、自分への戒めと、少しでも過去を清算できればという思いもあり、今日はお迎えにあがりました」

「お互いに苦しんだ4年だったのですね。あたなも」


 4年前、松川総合研究所・セクトAに実在したクローンはセピアシステムと呼ばれていた坂井慶一の物とは別にもうひとり、女性のクローンが存在していた。この事実はあの現場にいた八神英二を含め、数人しか知らない事実だ。英二の裁判においてもこのセクトAにまつわる証拠は多数提出されたがどれも確証を得るものではなく、状況証拠の域を逸するものではなかった。クローンの存在も英二の自白である坂井慶一のみで、女性のクローンが実在したかどうか、状況証拠だけでは分りえないことだった。重要な証拠は全て抹消あるいは移動されていたからだ。

 その女性のクローンこそ、血液一滴から創り出された正真正銘のクローンであり、その血液を提供した人物こそ、当時の名古屋市立大学病院の医師であった上谷高志、その人だった。

 あの一件で高志への直接的な影響はなかった。だが、裁判が進むにつれ、自責の念が強くなったのだった。自分が提供した血液が人ひとりの人生を狂わせてしまった。報道番組でテレビ画面に映る英二の顔を見るたびにいつもそう思った。


「あっ」

 高志は何かを思いだすかのように声を発した。英二はその声に反応して顔を上げる。高志の目はうっすらと潤んでいた。きょろきょろ辺りを伺いながら高志は刑務所の前に通じる道の先を指差した。

「こんな所で立ち話もなんですよね。あそこに喫茶店があります。いかがですか?」

 高志は精一杯、明るく振る舞った。前に進むためにここへ来た。

 八神英二も再起。だが上谷高志もある意味での再起だった。

「そうですね。ただ、私は入所時に持っていた5千円余りしかありません」

「大丈夫です。コーヒーくらいはごちそうします。それにお昼ごはんもまだでしょう。ご一緒させて下さい。あと、今夜の宿も準備させて頂いております。民宿ですけどね」

「そこまでして頂いては…、申し訳ない」

「いいんです、いいんです。会社の予算、下りちゃってますから。それにうちの社運を賭けた一大プロジェクトなんです。八神先生を医師に復帰させることが」

「復帰?」

 高志が英二を案内しながら道を歩き出した。

「さあさあ、こっちですよ。昼食食べましょう」

 英二はそれ以上何も語ることはなかった。2人は無言で歩き、喫茶店へと入っていった。


 喫茶店はこの時間のわりには空いていた。高志はゆっくりと話が出来そうな店の奥側の席を指差し、ウエイトレスに確認をした。ウエイトレスは「どうぞ、お好きな席に」と言って、水を取りにキッチンへと戻って行った。「どうぞこちらへ」高志の案内で奥に通される英二。高志は英二の向かいの席に座った。すぐに先ほどのウエイトレスがおしぼりと水を持ってきた。

「どうなさいますか?」

 高志はウエイトレスに「ランチ、2つで」と答えた。英二にメニューを見せたところで、この現状で決まるとは思えない。そう言った判断からだ。一応、ウエイトレスは英二の顔を伺った。英二はコクリとうなずいた。

「かしこまりました」

 ウエイトレスはそう言うと再びキッチンへと消えた。

 高志は出された水を口に含んだ。冷たくおいしい水だった。おしぼりで手を拭きながら、核心へと話を進めた。

「唐突なことを言ってすいませんでした。事の経緯をお話ししなければなりませんね」

 英二は何も言わず、静かに水を口に含んだ。カランと氷が揺れた。

「ちょうど1年くらい前の話です。夢野さんを若葉台総合病院に紹介した頃の話です。その件は順調に話が進んでいきました。そんな折、愛知県南知多の南に位置する日間賀島の診療所を民間に委託する話が出て、若葉台総合病院はその公募に申し込みました。まぁ、今のご時世よくある話でその時点では私も特に気にしていませんでした。その日、会社に戻ってから、公募の話を同僚としていたときです、突然上司に呼ばれて今回の一件を告げられました。若葉台総合病院から日間賀島診療所の医師として八神さんに打診が出ているとのことでした。その瞬間、身の毛がよだつ思いがしました。正直、最初は断ることで一生懸命でした。彼は刑務所の中ですよ、とか言って。ですが、医師免許なら再申請が出来ますし、それに日間賀島診療所の置かれている現状を聞いているうちに、やらなければとならないと思うようになりました。すいません、少し話が脱線してしまいましたが、八神先生さえよければ、これからの人生を再び医師として生きて頂きたい。そのために今日は福井までやって参りました」


 ちょうど高志の話がひと段落ついたときだった。ウエイトレスが2人分のランチを運んできた。

 英二は驚いた表情をしながらも冷静に高志の話を聞いていた。「どうぞ」と高志に促されながら英二はランチに箸をつけた。今日のランチはどこでもよくある唐揚げ定食だった。ご当地メニューではないが、塀の外に出て初めての食事、英二にとっては普通の白いご飯が何よりも美味かった。

「うまい」

 英二のその一言で高志はニコリとした。

「ホントにおかえりなさい、の一言ですよ。余談になりますが、若葉台総合病院の院長、波多野剛志が八神先生、あなたを指名されていまして。素性は全て存じているとのことで。若葉台総合病院とうちの会社は良いビジネスパートナーでして、相談を持ちかけられたそうです。何でも波多野院長はあの理論を発表した場にも出席されていたそうで、強く感銘を受けたそうですよ」

 食事をしながら高志は若葉台総合病院の話を続けた。手ぶらで帰る訳にはいかない、と言う会社の事情もあるが、多分すぐには返事がもらえない。営業の勘だった。ならば少しでも若葉台総合病院の情報を英二に伝え、前向きに検討してもらいたいとの思いだった。

 英二も高志の話を真剣な眼差しで聞いていた。ありがたい話ではあるが、さすがに人様の前に医者として立つことに戸惑いがあった。その戸惑いが消えない限り、一歩は踏み出せないと感じていた。話を聞けば聞くほど、若葉台総合病院に魅力を感じるが、逆の見方をすれば、安い給料で定年間近のじいさんを雇って、ひとまず診療所を任せる。そうすれば経費を安くおさえられるし、何より腕は確かな八神英二だ。言うことはない、とも受け止められる。だが、そんな見方が出来る程、今の八神英二に選択肢の余地はない。1本の蜘蛛の糸すら目の前に垂れているかどうか、それが現状だ。

 2人は食事を終えた。すると絶妙なタイミングでウエイトレスがコーヒーを運んできた。英二はコーヒーに口を付けた。改めて、生きているんだと感じた。コーヒーは大の好物だった。ふと高志を見るとなにやら書類を鞄から出して内容の確認をしているようだった。契約書だろうか。そんな高志に英二は「今日は回答ができない」と告げた。

 高志の予想通りだった。高志は「お気になさらず、ゆっくり考えて下さい」と言い、「もし決心して頂けましたら、先程の名刺に連絡先がありますので電話下さい」と続けた。そして、先程の契約書らしき紙を英二の前に出した。

 多和旅館と書かれている。英二は書類を見て、顔を上げ、高志を見た。高志は右手の指四本で手の甲を下にして、書類を指し「こちら、本日お泊り下さい。多和旅館と言いまして、ここから少し北に行った三国町にあります。ネットで調べてなんか良さそうでしたので。ちょっと距離ありますけど、ゆっくりできると思います」そう言ってコーヒーを飲み干した。

 高志が出した紙は契約書ではなく。旅館案内が掲載されたインターネットのホームページを印刷したものであった。

 多和旅館…多種多彩な天然魚介が水揚げされる三国港ならではのおすすめプラン…そう書かれていた。英二は深々と頭を下げ、礼を言った。

 少ししてから2人は喫茶店を後にし、旅館へと向かった。高志は愛知県から車で来ていた。近くのコインパーキングから車を出し、英二を乗せた。ここから車を走らせれば1時間ちょっと、チェックインの時間にはちょうど良かった。車中、流れる景色を見ながら2人は世間話をした。いつしか、2人の間の距離は近づいていた。笑顔や笑い声が自然に出て、車内はなごんだ雰囲気に包まれた。市道を走ること小1時間、車は旅館の駐車場に着き、2人は車を降りた。駐車場から旅館の玄関はすぐだった。高志がチェックインの手続きのためフロントへ向かう。宿は今日から2週間の予定で取っていた。

「ひとまず2週間で…延長が必要であれば言って下さい。別の旅館でもここでも手筈致しますから」高志はそう言って旅館のフロントからもらった部屋のカギを英二に渡した。

 正直、2週間も…と感じた英二だった。だが、冷静に考えると今日、明日なんてすぐに過ぎる。そして1週間が経ち、2週間なんてあっと言う間。高志、つまりはメディカルフロンティアの配慮に甘えるのは本望ではないが、2週間はありがたく頂こうと思った。それ以上は自分で何とかする、そのつもりだった。この地で仕事を探すのか、メディカルフロンティアにお世話になるのか、2週間で決めよう、そう誓った。

「ありがとう」

 カギを受け取ると八神英二は深く上谷高志に頭を下げた。高志も英二に敬意を称して頭を下げた。

「それではご連絡お待ちしております。失礼致します」

 高志はそのまま一歩後ろへ退いた。

「どのような結論であれ、まずは連絡致します」

「はい、お待ちしております。」

 英二は旅館の仲居に奥の方へ案内された。多和旅館は平屋の旅館でフロントから少し奥に進むとそれは美しい中庭がある。中庭が見える辺りまで進むとフロント、旅館の玄関が見えなくなる。その手前で英二は改めて振り返り、高志に頭を下げた。

 同じく仲居も足を止めた。すると偶然にも中庭にある大きな池の鯉がピシャリと跳ねた。仲居はあえて英二の方を向くことなく、その跳ねた鯉を見た。

 頭を上げた英二、立ち止っていた仲居に気付き、「あ、すいません」と言った。仲居は「今、鯉が跳ねたんですよ」と笑顔で返し、再び歩き出した。

 高志は英二の背中が見えなくなるまでフロントに立っていた。見えなくなる直前に英二が礼をしたので、高志も礼を返した。お待ちしてます、心の中でそう言った。自分の営業成績のためじゃない。うまく表現出来ないが…ご恩返し、今までにいろいろな人から頂いた御恩を次の人にお返しする、それが今なんだ。

 心からそう思っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る