奇跡を待つには長すぎる



「あれ、なに」


タワシと合流したユトリは開口一番、そう訊いた。八つ当たりになってしまうそうな勢いだが、タワシは冷静に「わかりません」とだけ告げる。


「あれがレタさんの『キーワード』なんでしょうね。けれど、以前聞いたものとはだいぶ違う印象を受けました。現実にあの『キーワード』を使い、扉を開いている以上あれが正解なのでしょうが。まあ、有り体にいえば嘘をつかれた、ということなのでしょうけれど……」


「なぜそんなことをするかわからない?」


ユトリが先に言い、タワシは頷いた。


「『キーワード』を偽る理由は特にありません。嘘をついても、『じゃあ見せて』という会話の流れになることも予想できる」


「私にみたいに『キーワード』が2つある、ってことは?」


「それもありえますが……その場合は似たりよったりの扉が開くはず。それに、レタさんはそんなこと一言も言ってませんでした」


『キーワード』が多数あることは、それだけ神に愛されたということ。自慢できることではあるにせよ、隠す理由はない。注目を嫌うと言った理由もあることもあるが、レタは人目を嫌っているようには見えなかった。


「今まで使えなかったものが、今日使えるようになった、っていうのは?」


「…………例えば」


「今日で覚醒したとか」


ほとんど思いつきでしゃべっているに近かったが、悩んで話していたのでは遅すぎる。しかし、それでも『覚醒』は言いすぎたようだった。タワシは鼻から息を吐く。


「覚醒という単語がどうもぼくには馴染みませんが、その可能性もないとはいいきれません。『キーワード』に気が付くのは、いつだってタイミング次第なんですから」


「もともとあった才能が今開花した、ってことかな」


『キーワード』は誰かに教わるものではない。親から遺伝するものでも、欲しいと思って手に入るものでもない。生まれたときに授かったものなのだ。けれど、それに気が付くかは、完全に運である。


たまたま発した発言が『キーワード』だった。それはよくあることだ。自分の才能に気が付くもっともポピュラーなものかもしれない。だとすると、昨日、タワシたちと別れたあとにレタが自分の新たな才能に気が付いた、ということだって十分に考えられることだ。


「その可能性もありますね。だったらぼくたちが知らないことも説明がつきますが、扉の関連性が見えません。あとはいくつか思い浮かぶものがありますが。まあ、それはおいておきましょう。問題は、レタさんの『キーワード』《斬る》の正体ですね。あれがわからないと、対処のしようがない」


『キーワード』が《斬る》。それから連想すれば、なにかを切断する能力であると判断できるが、問題はどうやって、のほうだ。


「単純に、相手を斬る能力でしょ」


「でも、その刃が見えなかった」


タワシがあの斬撃を避けられたのはただの運だ。なんとなく嫌な予感がしたからで、それ以外に理由はない。


「あったのは斬った跡だけです。だから、なにで斬ったのか判断できないんです。ただ大きな鉄の塊が通っただけならいいんですが、もしカマイタチのように真空派を飛ばしていたり、空気を固めて上から叩き落としたものだとしたら防御の仕方から変わってきます」


ふう、と息を吐くようにユトリは顎に手を当てる。誰もいないとはいえ、場所はまだレタがいた場所からそう離れていない。直線が並ぶこのあたりで立っていることは危険なのだが。


「……ユトリさん」


「なに?」


「逃げましょう」


歩み寄る。これは提案ではないつもりだった。手を引っ張ってでもこの場から離れたい。


このままレタとやりあうことに意味は見いだせないし、それ以上に危険だ。昨日までのレタとは明らかに違うが、それについて考えている暇はない。あとは専門の人に任せて、逃げるべき。タワシはそう判断した。


「だめ」


「ユトリさん!」


「危険なのはわかってるけど、あのまま彼を放置したほうがもっと危険よ。なにをするかわからない」


「それは……」


「さっき、名前をよんだら振り返ったの。だから、まだ話は通じるはず。だがら、今のうちに説得しなきゃ…………」


説得。その単語が、クルイの言葉に重なる。ナイフを持った相手に手ぶらで近寄れば、殺されるのは当然。


それも、さっき経験したことだ。


「説得って、なにするんですか」


「……落ち着かせる」


「レタさん、十分落ち着いているように思えましたが」


ユトリは言葉を失った。その通りだと、思う。それでも素直にそう頷けないのだ。わかっているのに、否定したい。そんな矛盾が心にある。


そして、その矛盾は、レタの心にもあるのだと。本当は叫びたいはずなのだ。けれど、それを抑えてしまっている。あの態度はそれだ。なにを叫びたいのかわからない。母親の死か、ドラゴンの死か、その両方か。それをなぜか、破壊衝動へと向けてしまっている。


「……ねえ、レタくんの『キーワード』って、ドラゴンを殺せるほどかな」


「ぼくも同じことを考えていましたが、可能性は半々といったところでしょうね」


口ではそういったタワシであったが、内心はほぼそうであると確信していた。


ドラゴンは惨殺されていた。そしてレタの『キーワード』もそっち方面に特化している。それに殺され方が妙なのだ。3頭が一度に殺されている。それを考えると、犯人はドラゴンを3頭、まず呼ばなくてはいけない。そして一撃で殺す必要がある。それを考えると、見ず知らずの人がいきなりドラゴンを呼ぶということが、まずありえない。角笛で呼んだにしても、上空からレタがどうか確認できるはずだし、レタ以外に人がいたとしたら当然警戒するはずだ。遅れをとることはないだろう。


だが、だとしたら『なぜ』という疑問にぶち当たる。


「レタくんのお母さんが殺された。それを見つけたレタくんの気が狂い、ドラゴンを殺害。そしてそのまま今に至る?」


「ストーリー的には悪くないですが、やや強引ですね。ドラゴンを殺す理由がつながりません」


「じゃあ……」


「その議論は今必要ですか?」


焦る気持ちを抑えつつタワシ。その足はすでに動き出したいようにうずうずしている。


「正直、ぼくは怖いです。今すぐに逃げたいぐらい。でも、ぼくはユトリさんを守るという使命がある」


タワシの目はまっすぐだった。ユトリの目も、同じくまっすぐだ。


「簡単に言いましょうか。ぼくの『キーワード』《守って》は、確かに壁を出現させますが、それは脆いです」


『キーワード』により、タワシの前に壁が表れる。やはり、薄い。向こうが透けて見えるぐらいだ。


「厚さは、せいぜいプレパラートぐらいでしょうか。指で押せば割れるぐらいです」


「……まあ、でしょうね」


「気が付いてましたか?」


「最初に出したものが薄かったから、そうかな、とは思った。けど、強度はもう少しあるもんだと思ってた」


「言わなくてごめんなさい」


言葉だけで謝る。「でも」とタワシは続けた。「ボディーガードの役目は果たします。なにも守る方法は、ひとつじゃないですから」


「そうね、それに期待してる」


「ぼくの壁の特徴は、2つ。どこまでも水平に壁を拡大できること。そして壁を薄くできること、です」


生まれたときの壁は一定だが、それを自分の意思である程度操作できる。プレパラート並みの厚さから、ミクロ単位まで厚さを調整できる。そしてその厚さを均一に保ったまま、拡大と縮小を行うことができる。完全なる水平のまま、という条件なので、例えば紐のような形にして伸ばしたところで、ロープの役割を果たすものではない。それに強度だって、薄くすればそれだけ脆くなる。


「……守るにしては、頼りないわね」


「壁の通りに使えば、ですよ。そこは頭を使います」


タワシが手を握る。壁は音もなく消え去ってしまった。


「ユトリさん。とりあえず移動しましょう。ここは危険です。いつくるかわからない」


「……そうね。でも、ごめん。もう遅いかな」


ユトリが顔を上げている。冷や汗なのか、頬を汗が伝っていた。


振り向きたくない。でも、そうしなきゃ守れない。


一度大きく深呼吸をし、一気に振り返る。


レタがいた。


服からポタポタと血を垂らし、こっちに向かって歩いてくる。


駆け出す様子はない。ただ、ぼんやりをこちらを見ている。その表情は2人を見つけで喜ぶというよりは、見つけてしまったことをめんどくさがっているようにも見えた。


「……逃げて、くれなかったんですね」


「……逃げて欲しかったっていうことかしら?」


はい、とレタは頷いた。


「だって、そうでしょう?」


ゆっくりとした動作で腕をあげる。


「知り合いは、殺しにくい」


3本。見えたのはそれだけだった。直線が3つ、2人に向かって伸びてくる。小声で『キーワード』を言ったらしく、何回言ったのは判断できなかったが、短い『キーワード』だ。連続で3回いうことくらいわけないだろう。


3本の直線はそれほど幅を持ってはいなかった。それに密集していた。タワシは右、ユトリは左に跳ねてそれを回避。二手に分かれてしまったが、逆にそれが良かった。一緒にいると狙われやすくなる。


本当はレタを挟んで180度のなるように動ければ一番いいのだが、ユトリの『キーワード』の特性上、それは危険だ。タワシが完全防御の体勢でもとれれば別だが、どうもそうはいかないらしい。彼の防御は物理的なものではなく、頭脳的なものだ。


「それがレタさんの『キーワード』ですか、便利ですね。料理に使えば包丁いらず。洗い物の手間も省けるでしょう」


軽口を叩くと途端に『キーワード』が飛んできた。今度は一本。また直線。数の自由差は不明だが、直線しかできないらしい。そして、それは縦にしか飛ばせない、ということだった。もし横に飛んできたら、地面に軌跡すら残さなかったら、見えない刃に真っ二つだったことだろう。


「レタさん、その『キーワード』どうしました? どうもこの前訊いたものとは違いような気がするんですが?」


この前? とレタが首をかしげる。そしてすぐに思い出したようだった。


「あれは、嘘をついたんです」


「違いますよね。あなたは、そんなことするような人じゃない」


「…………」


2本、飛んできた。タワシはそれを避ける。見慣れてしまえば、軌跡が見える分避けやすかった。それに、そこまで速くない。ユトリと直線に並ばないように、位置を選ぶ。


「……そんなことするような人じゃない、ですか。それは大きな誤解ですよ。おれだって嘘はつく。人を騙す。ただそれを気づかなかっただけだ」


「レタさん。昨日、帰ってからなにがありました?」


「なにも。といって、信じてはくれないでしょうね」


タワシのほうに大きく意識を向ける。そのタイミングでユトリが構えると、途端にレタの『キーワード』が飛んできた。後ろでも打てると牽制のつもりらしい。


「悪魔に会ったんですよ」


顔をあげるユトリと、黙るタワシ。


「帰ったら、お母さんの寝室に悪魔がいました。そのときお母さんはすでに死んでいて、悪魔がおれにささやいたんです。『キーワード』をやるから暴れろって」


「……悪魔が、いた?」


「そうですよ、ユトリさん。今もどこかで見てるんじゃないですか」


「悪魔が『キーワード』を渡した?」


「ええ。すごいですよね、さすがですよね。人間とは違う。さすが神様だ。……ねえ、ユトリさん。今ね、なんかすごく気分が楽なんです」


「それは、違うでしょう……?」


「違う?」


「あなたは今、混乱してるだけ。お母さんが殺されてわけがわからんくなってるだけ。そうでしょう?」


「違いますよ」


それと同時に。


「ええ、違います」


タワシも言った。


「違いますよね、レタさん。あなたはまた、嘘をついた」


「嘘?」


レタが問う。


「レタさん、あなた、お母さんを殺しましたね?」






「タワシ……キミ、何言ってるの?」


「ユトリさん。悪魔っていうのは、直線手をくださないんですよ。『キーワード』は授けますが、殺しはしない。ただ囁いて、唆して、実行させるんです」


『キーワード』が増えることで思い浮かぶものは、誰かに『キーワード』を授かるということ。けれど、それができるのは今、悪魔しかいない。


「悪魔に会ったことは本当でしょう。じゃないと、『キーワード』が増えた理由にならない。けれど、そのとき、お母さんはまだ生きていた。そこで、悪魔に唆されて、殺してしまった。そしてさらに唆されて、今、こうして暴れている」


もし悪魔に殺されたら、その殺意の矛先は悪魔に向かうはずだ。だが、今は人間に向かっている。


「レタさん。悪魔になに言われたんですか?」


「…………」


「レタさん?」


「……たくさん、言われました」


唆されて、母親の首に手をかけ、息が止まるまで、止まってからも、ずっと言葉をかけてくれた。


「言われたい言葉を山のようにくれました」


「…………」「…………」


「よく頑張った疲れただろう大変だっただろう我慢したな苦労したな投げ出さなくて偉いな凄いよ立派だよ」


抱きしめ、心をくすぐるように、同情するように、優しく、聖母のように。


「とても真似できない誰にも言わず耐えて耐えて泣き言も言わず弱音も吐かず優しくそれでいて健気で見捨てず怒らず辛抱強くただただひたすらに願って祈って演技して偽ってそれが人の為と言いながらそれでも気付いて欲しくてでもできなくてなにも信じられなくなってそれでも本心は隠し通して」


悪魔は最後の言ったのだ。


もういいだろう。


「辛かったんですよ」


吐き出すようにレタは言った


「学校から帰るとすぐに夕飯の支度とかしなくちゃいけないし、遊ぶ時間だってない。働かないと生活ができないから、学校も辞めなくちゃいけなかったし、そうなると友達ともどんどん疎遠になるし、お母さんの病気を治すとなるといくらかかるかわからないから、自由に使えるお金も限られてくるし」


でも、それでも母親を見捨てることはできなかった。病気は母親のせいではなかったし、レタも母親のことを愛していた。病気が治ればいいと本気で願っていたし、それを治すためなら多少の貧困は受け入れる覚悟はあった。


それは紛れもなく本心だ。


でも。


辛かったのだ。


独りのときはどうしようもなく不安だった。なんで自分だけこうなのだろうと運命を呪ったこともあった。これも試練だと自分を納得させる日々。助けを願ったこともある。でも、それを表にだすことが、どうしてもできなかった。


「タワシさん、さっき言いましたよね。『あなたはそんな人じゃない』って。でも、おれはこんな人なんですよ。本当は、もっと遊びたい。こんな街なんか出て、いろんな場所にいきたい。馬鹿なこといろいろして、お酒だって呑んで、車だって運転して、騒いぎたい。でも、それもできない」


「やれば、良かったのに」


そう言ったのはユトリだった。


「素直にそう言えば良かったのに。我慢しないで、たまにはわがまま言えば良かったのに。きっと許してくれた。なのに、なんで」


レタは笑う。そして、


「なんででしょうね」


堪えきれずに、泣いた。


「なんでできなかったんでしょうね。それは、おれもよくわからないんですよ」


プライドだろうか。強く見せたかったのだろうか。一人でできるとアピールしたかったのだろうか。弱音の吐き方を知らなかった。弱味の見せ方を知らなかった。助けの求め方をしらなかった。


そんなものはないということに、レタは気付けなかった


愚痴を吐くことすら、彼はできずに溜め込み続けた。


レッテルなのだろう。レタは母親を甲斐甲斐しく世話をする心優しい少年。そのイメージがある以上、それに逆らう行為ができなかった。街中の人が全員監視員のような気分になり、家に帰れば母親が彼の行動を見る。自由になれる場所は自分の部屋のみ。けれど、そこにいられる時間も限られてくる。


だから、人を、そして自分を恨んだ。


全員殺したくなるほどに。


「もう、いいんですよ」と、レタは言った。


「疲れました。だから、もういいんです。なんとなく、すっきりしました。……最初から、こうすれば良かったのかな」


涙を拭うことすらせず、上を向く。


「なーんも考えず、一度暴れれば良かったのかな。そうすれば、すっきりしたのかな」


でも、もう遅いか。レタは大きく息を吐く。


「タワシ、最後ひとつ、どうしても訊きたかったこと、訊いていい?」


「……なんでしょう」


「その甲羅なに?」


あまりの質問に、タワシは思わず吹き出してしまう。この程度の質問すら、相手を気にしてできなかったのだ。気分を害するかもしれない。そんなことないのに、それが気になって、なにもできなくなってしまった。


「ああ、これですか。なにと言われても見たままですが、亀の甲羅です。カッコ良いでしょう? あげませんよ」


「要らねえよ、そんなもん」


きっと、これがレタの本当の姿なのだろう。どこにでもいる、少年。当たり前の、普通の。


「『もう飽きた……」


ざわりと、タワシの心をなにかがな撫でた。


「駄目だ! レタさん! それはーー」


「……もうどうにでもなっちまえ』」



「あいよ」



声が、降り立った。






最初、それがどこから現れたのかわからなかった。


気が付いたときには、レタの背後にいた。


黒。全身を黒に包んだ、全員から黒を発する青年。


「言ったな、それを。ということはもう十分ってことかなぁー? んー、でもまだ一人も殺してないようだけど、それでももういいってことだよな、そうだよな」


青年がレタを後ろから抱きしめる。レタはそれを目を閉じて受け入れた。


「なに、あれ」


「ユトリさん! こっちへ! あいつはマズイ」


「え?」


「『NGワード』です! もうレタさんは人間じゃない! 悪魔だ」


『キーワード』は神との約束。人の限界を越え、神に近づく鍵。


『NGワード』は、神を否定する言葉だ。No Good。そこから敬意を払う『御』を取り、No God。


ユトリはタワシのほうへ移動する。まだわけがわからなかったが、タワシの後ろへと隠れた。


そのとき、見えた。


青年が、レタに入っていく。染み込んでいく、というのだろうか。黒色が溶け込むように、レタに入っていく。悪魔に食われていくのだと、直感で理解した



「《守って》《守って》《守って》《守って》《守って》」


5枚の壁を、前に配置。円形になるようにしたが、薄さからいってあまり意味ないだろう。ないよりかはマシ程度に違いない。その5枚が出来上がるころには、もう、青年はレタを食い尽くしていた。


「んー? なかなか、なかなか。おー、これは背が低いっていうのは、こういう視線なわけだなー」


レタの声で、レタの姿で、そいつは言った。


「悪くねえ、悪くねえ。いいなあ、こいつは」


「レタ……くん?」


「違いますよ、ユトリさん」


ソイツがこちらを向く。


「あいつは、悪魔です」


その瞬間、5枚の壁が一斉に砕けちった。






「!?」


タワシの体が思わず硬直する。なには起こったのかわからない。レタがーー悪魔がニヤリと笑い、次のモーションに移った。口が動く。それが声になる前に。


タワシの体がぐいと引っ張られた。甲羅と首の間を掴まれたのだ。続いて聞こえる。《バン》。光線は悪魔の顔の横み向かって飛び、またもや目くらましの役割を果たした。


悪魔の舌打ちが聞こえる。


「その弾は無限か? 姉ちゃん」


「ええ……便利でしょう」


尻餅をついていたタワシが立ち上がる。壁を、と思ったが、下手に出し過ぎると危険だ。薄さの方に特性を持つタワシの破片は、鋭利な刃物に早変わりする。割れやすいから攻撃が読みやすくもあるのだが、あまり離れた場所においても意味がない。



「ふーん。そんで、その亀さんの能力は薄い……ガラスか?」


「ガラスよりももっと繊細ですよ、ぼくの壁は」


悪魔が笑う。壁、という単語が似つかわしくないからだろう。ガラス、というほうがよく表現できているほうだ。


「《いい風だ》」


悪魔が言う。『キーワード』だ。悪魔の周りに風が巻き起こる。弱い竜巻の中心のいるようだった。


「あれは、レタくんの『キーワード』?」


「でしょうね。……となると、もう完全に喰われたということでしょう」


「……それって?」


「もう、レタさんは死にました。あれは完全に別人です」


「…………」


「殺しましょう」


ユトリは黙って前を向く。頷きはしなかった。


「先ほど、壁が壊れたのは、おそらく風を吹き当てたんじゃないかと思います。風の塊くらいは作れるでしょうが、おそらく殺傷できるほどの威力はないはず。となると、あの悪魔からもらったというもうひとつの『キーワード』《斬る》のほうが心配です」


「……あの悪魔はほかの『キーワード』は使えないの?」


「わかりません」


即答した。


「でも、できるなら、それを知る前に殺したい」


能力を知るということは、それだけ見なければならない。逆を言えば、それだけ生きなくてはならないということだ。そこにメリットはなく、ただ疲労するだけだ。見なくてもいい。知らなくてもいい。あったかな? でいい。


「助からないの?」


「助けられません。絶対に」


「助けようともいないの!」


「ユトリさん」


静かに、それでいて強く。


「甘い考えは捨ててください」


「…………」


「奇跡、なんて都合よく起こればいいですが、それに期待して死んだらどうしようもないでしょう。それに大抵、奇跡なんてものは物語の終盤に起こるものです。正直いいましょう。ぼくは、悪魔のあの攻撃を何回も避けきる自信がない」


タワシは自分のことを低く見積もるつもりはない。高く評価するつもりもない。現状、それが最も正しいことを言ってるだけだ。


「おーい、もういいか?」


悪魔だった。


「さっきから仲間割れか? それでも一向に俺は構わないが。だったら、どうだい? 俺の仲間になるか?」


「悪魔にですか? 冗談じゃありません」


「じゃあ。そっちの姉ちゃんは?」


「……いや」


ユトリは顔を上げた。


「絶対に、いや」


「……そうかよ」


風が強くなる。『キーワード』を口にした様子はない。となれば、あの風はある程度強さを操れるということだ。


「ふーん、悪くねえが、攻撃には使えないみたいだな。せいぜい防御か。まったく、じゃあ、こっちを使うしかねえよな」


《斬る》


また、線が生まれる。


もう見慣れた攻撃だ。避けるのも容易い。


「チッ、何回も使いすぎなんだよ、あいつ」





「本当に。なんなんでしょうね、あれ」


「わかれば、なんとかなる?」


「いえ、なりません。アスファルトを削る力があれば、ぼくの壁も粉砕できます」


「ふーん。じゃあ、なんでさっき使わなかったんだろうね」


「……え?」


「5枚出したとき」


「……そうですね」


そうだ。あのときは、風をぶつけた。ただの気まぐれ? いや、そんなはずはない。


あのときと違うのは……。


「ユトリさん」


「なに?」


「少し、悪魔から距離をとってください」


「え?」


「いいから」


言われた通り、ユトリが悪魔から離れる。タワシも離れる。


「お、逃げんのか?」


「いえ、距離を取るだけです」


「そうかい」


悪魔は歩き出す。その瞬間、風が消えた。


「なるほど。さっきから動かなかったのは。風の鎧を纏ってからなんですね。あれは発生する場所は選べても、運びはできない、と」


「……それがなんか役に立つの?」


「おおいに」


タワシは笑った。


「これで勝つ方法は見つかりましたが、あとは単純に距離を詰めないことには……。ユトリさん。この距離から撃ち殺せませんか?」


「……相手が動かないなら可能だけど。私の『キーワード』は直線だし、早くもない。それに遠くなればそれだけ威力が落ちる」


「じゃあ、やっぱり近づかないとだめですね」


悪魔が止まる。そして、また風を纏った。


「……だいたい、これが悪魔の攻撃範囲ですか。半径10mといったところですか?」


だが、悪魔はすぐに『キーワード』を使ってこなかった。こちらの出方を伺っているようだ。


「距離、詰める?」


「いえ、離れましょう」


下手に動きたくない、とまた離れる。すると、悪魔が叫んだ。


「おいおい、また逃げんのか?」


「まだ作戦が纏まってないんでね」


「作戦? そんなもん、俺の『キーワード』の正体がわからなきゃ意味ないだろ」


「…………」


「そうね」


答えないタワシに変わって、ユトリが言った。


「ねえ、教えてくれない。なによ、それ」


「ばーか。誰が教えてやるか。知りたきゃ、身をもって知ればいいさ」


「いやよ、死んじゃうじゃない」


「ユトリさん」


「なに?」


「逃げても仕方ありません。攻めましょう」


「……はあ? だって、さっきは」


「さっきはさっき。今は今。です」


タワシが悪魔と向き合う。悪魔が「お?」と声を出した。


「ようやくやりあう気になったか?」


「ええ。さっさと殺します」


「殺す? こいつ、お前らの知り合いだろ? 殺していいのかよ」


「白々しいですよ。悪魔に喰われた以上、救う可能性はあるはずないじゃないですか」


「わっかんねえよ」


「いえ、ありえませんよ」


「……言い切るねえ」


「だって、この子、玄武様の後継者ですもの」


割って入ってきたのはユトリだった。


「悪魔に詳しいのは当然でしょう」


「へえ」


ニヤリ、と笑われる。「そうなんだ、お前」


「そうです。……意外でしょう?」


「ああ、お前も大変だな」


「そっちも、ですね」


「そっかそっか。玄武の後継者。そんで、その後継者が、こいつを殺すのか? 救うんじゃなくて」


「救えませんから」


「神様だろ?」


「いえ、ぼくは神様じゃありませんよ。だから、守れる範囲には限りがあります。そして、レタさんを守ることは、できなかった」


「ひどいなあ。こいつはただ、苦しかっただけなんだぜ?」


ニヤニヤと笑う。


「誰にも理解されない。それだけなんだぜ?」


「ええ。それは理解できます」


「ほー」


「ぼくも理解されませんでしたたからね。でも、あったのが玄武さんだったから、良かった。もし悪魔にあっていたら、きっとレタさんみたくなってたでしょうから」


「それは幸運だな」


「本当に」


言いながら、タワシはにじり寄る。いつ打ってくるかわからない『キーワード』。それを警戒してうまく近寄れない。


離れれば避けやすくなるのは、足元に軌跡ができるから。近づけばそれだけ見えるのが早くなり、避け難くなる。


「……ん?」


と足を止める。そういえば、そうだ。さっきも疑問に思ったが、なぜわざわざ軌跡を残すのだろう。そんなことをすれば当然避けやすくなるのはわかているはずなのに。それに、遠く離れると攻撃ができなくなり、縦にしか斬れない。ほかに、なにかないか。


「直線」


レタのときもそうだった。全て直線であり、さらに、その始点はレタ、悪魔からだった。となれば……。


「そうか……ユトリさん」


「え?」


「離れましょう。あいつの能力がわかりました!」


タワシが背を向けて走り出す。その背中めがけて直線が伸びたが、ギリギリのところで当たらなかった。


「チッ」と舌打ちが聞こえる。


それ以上、もう直線は伸びてこない。





「ねえ、わかったって本当に」


悪魔から距離をとりながらユトリがいう。


「ええ、あいつの能力は巨大な振り子です」


「……振り子?」


「ええ。おそらくあいつの頭の上に支店があって、『キーワード』をいえば大きく振れるんでしょう。地面に軌跡が残るのはそのため。ある程度高さも変えられるんでしょうが、地面を軌跡に残さず振り子を振るには、ぼくたちの身長は低すぎた」


おそらく密着でもしてれば話は別だが、レタのときにせよ悪魔のときにせよ、ある程度の距離があった。


「じゃあ、離れれば」


「《斬る》のほうは大丈夫でしょうが、こちらも攻撃する手段がない」


「さっき、勝つ方法があるって言ってなかった?」


「ありますよ。でも、あの風がやっかいです」


「風?」


後ろから追ってくる悪魔を見る。


「今はないけど」


「動くと消えるんでしょう。でも、近づくとまた出されます。おそらくぼくの壁対策なんでしょうね。上空で割られると破片の雨になりますから、それを避けるためでしょう。それに、ああしておけば、壁を四方でかこまれて動けなく、なんてことも防げます」


「考えてんだ」


「あまり喜ばしくない状況ですがね」


「なあ、いつまでこうしてんだ?」


悪魔が叫ぶ。


「とっとと向かってこいよ、もうわかったんだろ。これが、振り子だって」


「……ええ。ようやくわかりましたよ」


答えを言ってくれるとはありがたい。が、それは知られたところでどうしようもないからだろう。近寄れないことに変わりはない。


「あの風さえなくなれば、いいんですけど」


「動いて消えるなら、私の『キーワード』で無理やり動かせばいいなじゃい?」


確かに、それも考えた。


「でも、それだけじゃだめなんです。風が消えても、ぼくが近寄らなきゃ。ぼくがそばにいたときに、風が消えれば一番いいんですが」


「……そうすれば、勝てるの?」


タワシはうなづきもしなかった。否定もしなかった。


「なにをもって勝つとするか、怪しいですね」


レタと救うことが勝つなら、もう勝つことはできない。殺すことしか、もう手がない。


「……なら、私いくわ」


「え?」


「最初から、私が悪魔を殺す役目なんだもん。だったら、私が飛び込まなきゃね」


ウインクするユトリ。


「ですが、飛び込むことには変わりありません。振り子の形はわかりませんが、おそらく悪魔を中心として360度動かせるはずです」


「しかも、連写可能か」


実際3回、打ったことがあった。『キーワード』を授かって間もないレタで3回なのだから、もともとの保持者であった悪魔なら何回打てるのか、想像もできない。


「戻るときに斬れないのか、一方通行なのかわかりませんが、『キーワード』が合図をなって、振り子を押しているイメージなんでしょうね」


「その振り子が見えればいいのに」


頭の上を見ても、なにも見えない。空気がゆがんでいる様子もない。きっと現実に存在しているようなものではないのだろう。だから、いくら悪魔の頭上を打ち抜いたところで、振り子を破壊することはできない。


「それはすこし望みすぎですね。だったら、ユトリさんの『キーワード』も拳銃がなきゃおかしいってことになりますよ」


「私のは光を撃つから、っていうのはダメ?」


「ダメです」といって、ピンときた。「そうか!」


タワシが顔を上げる。


「いけるかもしれませんよ、ユトリさん!」



























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