静かに動き出す



次の日。朝からいい天気だった。太陽は出ているのに、風があるおかげでそこまで暑く感じない。雨も降らないという。


午前中、タワシとユトリは昨日別れた商人を探して市場を散策していた。どうも話を聞くとあの商人はここに店を持っているのではなく、物を売りにきただけのようだったが、もしかしたらという思いがあったからだ。商人の名前も、扱っている商品の名前さえわからなかったので結局見つけることはできなかったが、思う存分ショッピングができてユトリは満足そうだった。


買い物をする傍らでタワシは朱雀や、ほかの後継者のことを聞いて回っていたが、大した収穫は得られなかった。朱雀と玄武の後継者のことはしっているが、ほかはわからないという。「後継者様をグッツにできるなら、血眼になってでも探すんだけどな」と言う商人もいたが、そんなことしたらバチが当たると非難轟々だろう。


「そういや、玄武様の後継者様は、どっか行っちまったって話だがな」


そんな話も出てきて、タワシは少し驚いてしまった。そのあとはおきまりのにタワシが後継者なんじゃないかという疑問が飛んだが、タワシはのらりくらりとそれを躱す。ついでに背中の甲羅のことも躱していた。あまりに慣れたその振る舞いに。


「どうしてそんなスラスラ言葉がでてくるのか、私はわからないわ」


とユトリは感心半分嫉妬半分で言う。そのときもタワシは「特徴的な外見ですからね。目が行くのはわかってます。わかっているからこそ質問が想定できるわけです。あとはなんて答えればいいかと予めシュミレートすればいいだけですから」とのこと。


ユトリが大いに満足した午前は終わり、午後、再びレタと再会した。



レタは昨日と同じ服装だった。ただ、首にゴーグルをぶら下げている。水中に潜るものとは違う、それよりもゴツいものだ。ファッションにしては似つかないそれを見て、ユトリはどうしたのかと聞いてしまう。


「ああ、これは風除けです。裸眼で高速で飛ぶドラゴンの背中に乗れないですからね」


あー、とタワシは納得したように首を振る。目を開けていられなかったのはよくわかる。


「では、案内しますよ。今日はタワシさんに見せたものよりももうちょっと奥に行けますから」







郵便局を後にすると、もう外は日が暮れていた。会ったのが午後ということを考慮しても、ざっと3時間近く中にいたことになる。その間、ほとんど立っていたせいもあって、足が少し重かった。不思議なものだ。中にいたときはほとんど疲れを感じなかったのに。


「久しぶりに長くしゃべりました。少し喉が痛いです」


そういって喉のあたりを軽く触るレタ。それもそのはずだろう。説明をほとんど1人で行っていなのだから。しかもその間、水をほとんど口にしていない。郵便局内にあるものが紙が多いため、水の持ち込みが制限されているからだ。もちろん中には休憩所が設けられており、そこでは飲食自由となっているのだが、もちろんそう多くない。


「大丈夫? 明日声ガラガラで仕事になるんじゃないの?」


ユトリが聞く。レタは笑って答えた。


「もしそうなっても問題ないですよ。配達に言っても『郵便です』とかほとんど一言で終わりますから。しかも、数はそう多くありませんし。あちこち長距離を飛ぶので1番長く話しかける相手って、ドラゴンたちなんですよね」


会話ではなく、話しかける。レタが一方的にしゃべるだけなのだろう。ドラゴンは言葉を理解するが話すことはできない。それに飛行中だ。風を切る音で会話どころではないだろうし、ドラゴンにしたって飛行の最中にそっちに気を向けていられない。となれば、独り言が多くなるだけだ。


「お母さんも、体調が良ければ話せますが、最近は寝てる方が多くて」


「病気……なんだっけ?」


ゆっくりゆっくり歩を進める。方向はレタの家に向かってだった。


「そんなに重い病気なの?」


レタは一度首を傾げて、それから頷いた。


「手術さえできれば、治るそうです」


「もしかして、お金が?」


「いえ」とレタは力なく笑う。「医者が、いないんです」


ああ、と2人は諦めたように頷いた。レタのようにドラゴン乗りは稀だ。それで長距離の飛行ができるとなれば、郵便局も彼に相応の給料を出しているはずだ。だから、お金はあるはずなのだ。


お金だけは、あるのだ。


「正確に言えば執刀医ですか。その先生がみつからないんです。この街にも医者はいますが、だめです。ほかの街から来てくれればいいんですが、どこも手一杯で」


今、この世界は終わりに向かって準備を始めている。技術者は年々減る一方だ。


当たり前だ。今更技術をつけたところでどうなるものでもない。それが習得に時間がかかるとなればなおさらだ。


医者もどんどん廃業している。自分の余生をゆっくり過ごしたいのに、他人を見ている暇はない、というわけだ。暇があるのに暇がない、とはおかしは話だが、実際そうなのである。この中でも人を救いたいという医者はどこも引っ張りだこで、もう世界の終わりギリギリまで予約が入っていることだろう。


キャンセル待ちなんてありえない。となると、どこか医者のいる街に引っ越して、ということも難しい。


「すいません。こんな話をしてしまって」


ぺこりと頭を下げる。そんな、とユトリは否定するが、空気が重くなってしまったことは事実だ。さて、今日の夕飯はと急に元気に振舞うレタの背中を見ながら、ユトリは肘でタワシの頭を突いた


「なんですか?」


「あんた、どうにかしなさい」


「え!?」


急に大声を出すのでレタが振り返った。


「どうしました?」


「なんでもないです」


「はあ」とまた前を向くレタ。


タワシは小声で言った。


「無茶言わないでください! ぼくは守ることはできても治療は無理ですよ!」


「だから、その病気から母親を守りなさいっていってるの!」


「無茶ですよー!」


「あのー……」とまたレタが声をかける。「大丈夫ですか?」


「大丈夫大丈夫。まったく問題ないわ」


「そうですか。あ、それと、このあとどうします? 一緒に夕飯を食べますか?」


「あー、嬉しい提案だけど、いいわ。ホテルで食べる」


「そうですか」とレタが肩を落とす。ほんとなら一緒に食べたかったのだが、夕飯におじゃまするのは気が引けたし、連れ出すのも悪い。


「わかりました。では、おれはここで失礼しますね」


「うん。今日はありがと。本当に楽しかった」


「おれも、久々に楽しかったです。じゃ」


手を振り、駆け足でその場を離れる。それを見て、ユトリは微笑んだ。


「じゃ、だって。最後はようやく砕けた感じになってくれたわね」


「ぼくと一緒のときはあんな感じですよ?」


「あら、そうなの? なんだ、私のときも敬語なんて使わなくていいのに」


「慣れてるんでしょうね。仕事場では当然そっちの口調でしょうし」


「そっか。友達とか、いないのかな」


「いたけれど……じゃないですか。あの年だと当然学校に友達はいたでしょうが、遠くにいってしまったとか。……レタさんのお母さんがいつから病気になってしまったかわかりませんが、あの調子だと、放課後は遊ぶことなくずっとお母さんのそばにいたのかもしれません」


「そっか……」


レタが走り去ったあとを見る。そこにはもうレタの姿がなかった











「ただいま」とレタがドアを開ける。大きな声で言ったのだが、返事はなかった。それももう慣れてしまったので、自分の部屋にいき、荷物を置く。制服を脱いで部屋着に着替えると、母親の部屋に行った。


「ねえ、今日はなに食べ……」


「よう」


と、悪戯っぽい声がした。間延びした、酷く人を見下すような、そんな声。


「久しぶりだな」


「お前は、昨日ぶつかった……」


「おー、よく覚えてんなー。感心感心」


母親の部屋は簡素なものだ。あるのは最低限のものしかない。その青年は部屋の中央にあるベットにいた。片膝を立て、ニヤニヤと笑っている。


「そこでなにしてる」


「なにもー。いや、まだなにもしてない、かな」


「お前、誰だ」


「俺かい? 俺は、そうだな……悪魔かな」


黒。その青年を一言で表すのはそれだ。それが一層濃くなったように思える。


「悪魔……?」


自分の自己紹介にそんな単語を使う人はいない。こんなときだからこそ、ありえない。悪魔と名乗った青年はニヤリと笑う。真っ赤な口があった。


「まー、信じなくてもいいけどな。神みたいに、信じる奴にだけ恩恵を与えるなんて、そんな不平等なことはしないし、俺」


「……悪魔が、おれになんの用だ」


「あん?」


「なんのために、ここにきた?」


「なんのために、ね。それより先に、もっと気にすべきことがあんじゃないのか?」


「え?」とレタが訊くと、悪魔はちょいちょいと人差し指をベットの枕元へ。


そうだ。悪魔のことでいっぱいだったが、そこはお母さんのベットだ。


なのに、さっきから何も入ってこない。入ってきたのに何も言わない。こんな奴が乗っているのに、何も言わない。


「お母さん……?」


枕元に立つ。震える指先で頬に触れる。そのとき、悪魔が囁いた。


甘い甘い甘美な言葉だった。


「なあ、もういいだろう? お前はよく頑張ったよ」と。











清々しい一日だった。それだけでなにもかも上手くいきそうな、晴れやかな日だった。タワシは太陽の下で思い切り伸びをし、深呼吸で体に酸素を取り込む。ひんやりとした空気が肺にはいり、気持ちがしゃきりとした。


「おまたせ」


後ろのホテルからユトリが出てくる。チェックアウトを済ませたのだ。もう大方の情報は手に入った。残念ながら青龍と白狐の後継者のことはわからなかったが、朱雀の後継者の居場所が再確認できただけでも十分すぎる結果だ。


早ければ午前、遅くとも今日中にはこの街を出発しようと決めていたので必要なものはすでに買い揃えていたが、できればあと一つ、しておきたいことがあった。


レタのことである。


この数日、良くしてくれた恩人だ。最後に一言言っておきたい。ささやかながらお菓子も買って2人はレタの家へと向かっていた。


「医者不足って、世界が終わる前から騒がれていたことだったけど、こうなってくるとちょっと深刻ね」


「でも、ぼくらにできることはなにもありませんよ」


冷たい言葉。けれど、それは真実であることをユトリは重々承知している。例え、この先で医者に巡り合ったとしても、レタのお母さんを助けてくれと言えないのだ。言ったところでどうにもならない。


「朱雀様の後継者って、治癒能力は使えないのかな?」


「どうでしょう。後継者が四獣に力が似るとは言い切れないので」


「もしできたら頼んでみようか」


「……おまかせします」


タワシは目を伏せ、そう言った。すこし呆れているような態度に、ユトリは口を尖らせる。


「私は悪魔を殺して、4年後も未来を続けようとしてるのよ? だったら、レタのお母さんも生きていて欲しいって思うのは当然じゃない」


「ユトリさんの言うことは正しいです。それは間違いありません」


「じゃあ……」


「正しいんですよ。でも、正しいだけで、それが良いとは限らないんです」


「正義が良いものとは限らないように?」


「それとも少し違うんですけどね」


タワシは困ったように笑う。なんて言っていいのかわからないと言った顔だった。けれど、きっと彼の中では言葉はあるのだろうと、ユトリは思う。それを口にできないだけなのだ。


当然、ユトリを思ってのことである。


「……ま、いいわ。さっさと行きましょう」


「はい」


タワシが駆け足でユトリに近寄り、いつも通りの子どもらしい笑顔を向けたそのときだった。


2、3人の若者が、タワシたちの横を駆け抜けたのだ。ただそれだけならば気にすることはないが、近くを通り過ぎたときに会話が漏れてきたのだ。


『ドラゴン』『死んだ』


明確に聞き取れたのはその単語のみだったので、どんな内容なのかはわからない。けれど、その二つの単語が2人にとって重大なものであることに違いなかった。


「ユトリさん」


「聞こえた。行きましょう」




一昨日、レタがドラゴンを見せてくれた場所は、すでに人だがりができていた。


脇に止まっているのはパトカーという車だと、それが見えたときにユトリが教えてくれる。あれは警察が乗るものだと、そしてなにか事件があったのだと。


「なにがあったんでしょうか」


「わからない」


人垣が厚く、背伸びをしてみてもその先にあるものはわからない。ユトリよりもっと背の低いタワシは背伸びすらせず、ユトリに状況を聞いていた。


「駄目、見えない」


「では、脇に回りましょう」


しかし、考えることは誰も同じようで、どこをみても人の厚さは変わらない。けれどそれでわかったのは、人だがりはどうやら円形になっており、その中心になにかある、ということだった。


「さっきから聞こえてくる単語も、よくわからないですね。情報が錯綜しすぎて」


「…………。あ、警官が出てきた」


どこですか? とタワシが聞く前に、ユトリは駆け出していた。なにがあったのかと詰め寄る野次馬を払いながら、パトカーに向かおうとする制服が一人。おそらく男性だろう。手で払いながらパトカーに乗りこむと、そのままドアを閉めてしまった。これ以上は無駄だと判断したのだろう。野次馬が離れていく。ユトリはその隙間をぬって、窓を叩いた


「すいません、なにがあったんですか?」


警官は一度目をあげるが、ユトリを見てまた目を伏せる。どうやら無線を操作しようとしているらしかった。


「……そう」


ユトリは笑いながら、ポケットに手を入れる。そして取り出したのは手帳だ。それを軽く開き、またノックする。


「すいません。なにがあったんですか?」


警官はまた目をあけ、そしてその手帳を見て顎を引いた。


警察手帳。ユトリが見せたのはそれだった。


「……ユトリさん、確か辞めたって言ってませんでしたっけ?」


「辞めたわよ?」


「じゃあ、どうしてそれを持ってるんです?」


「ちょっと返し忘れちゃってね。あまりに便利すぎて、ずっとポケットに入れっぱなしだったから」


口笛を吹きそっぽを向く。しかしここでとやかく言うつもりもない。ユトリはすぐ手帳をしまい、警官が降りるのをまった。


警官は車から降りると、敬礼をした。それから訝しむようにユトリと、その下にいるタワシを見る。どうみても怪しんでいる顔であったが、手帳を本物か疑わないあたり少しは信用しているのだろう。


「私たち、旅の途中なの」


ユトリが言うと、警官はなにか納得したように首を振った。商人と同じく、2人の旅人がユーキョクに来たことを知っているからだろう。タワシは特徴的な外見をしているため、すぐわかったかもしれない。


「本当ならこの街のことはあなたたちに任せるものだと思うのだけれど、そこは警官の性ね、首を突っ込みたくなる。なにがあったのか教えてくれない?」


「……名前は?」


「私の? そうね、『クルイを捕まえた女性警官』って言えば、わかる?」


その瞬間、さっきまで細かった警官の目が大きく見開いた。そして再度改めて敬礼し直すと、「失礼しました。こちらへ」と現場まで案内してくれる。


「……ユトリさんって、有名人だったんですね」


「警察官限定よ」


人混みで少しの隙間もないような場所も、警官が通れば誰もが道をあけてくれる。といってももともとギチギチに詰まっていたので狭い通路に違いなかったが、それでも歩けるスペースはあった。


そして、見た。


円の中心にあったのは、ドラゴンの屍体。レタが飛行に使っていた3頭がみんな、殺されていた。





ドラゴンの鱗はダイヤより硬く、いかなる銃弾も跳ね返し、刀はその鱗の前に歯が立たないと言われている。今、そのドラゴンの首が、切り落とされていた。


首だけではない。足も尾も腕も。なにかで切り落とされている。色が違わなければ3頭だと判断できなかっただろう。怨みを晴らすかのように、細かく分断されている。


「……これ、誰が」


ユトリがつぶやくと、警官は首を振って答える。わからない、ということなのだろう。ドラゴンを、しかも3頭相手にできる人間はそうそういないはずだ。心当たりがあれはすぐにでも動くはずである。


「レタ。レタくんは、このこと知ってるの?」


問い詰めるように警官に訊くと、答えにくそうに警官は「まだ」と言った。


「じゃあ、早く連絡を」


「連絡がつかないんです」


「え?」


「今日、出勤していない、と郵便局から連絡がありました。それに家の方にもおらず……」


「そんな……」


「それに」と一度、警官が口をつぐむ。ユトリが続きを促して、ようやく続きを言った。「レタのお母さんも殺害されていたらしいんです」


ユトリとタワシは無言で顔を見合わせる。そして示し合わせたように駆け出した。


「あ、どこへ」


「決まってるでしょ、レタくんを探すのよ」








ユーキョクは広いが、かと言ってかけ回れば一日で探索できるのほどには、狭い。途中、レタの家にもよってみたが、パトカーがとまっていたので中に入ることはできなかった。おそらくさっき聞いた通りなのだろう。


「レタくん、なにか事件に巻き込まれたのかな」


「かもしれませんね。にしても、屍体さえないのは気になりますが」


不謹慎なことを言ったからだろう、ユトリに睨まれる。けれど本心だったのでタワシは謝りもしなかった。


屍体が無ければ生きている。その姿がなければ、犯人に連れかられたかと疑うのは当然だ。


「にしてもドラゴンを切り刻むなんて聞いたことないわ。一体どんなやつよ、本当に人間」


「案外、悪魔なんじゃないですか」


「……かもね」


そのとき、遠くから悲鳴が聞こえた。女性の声だった。


「どっち?」


「……向こう! 東の方角です」


タワシが指差す方にはビルとビルの隙間にできた小さな道があった。本来なら道と呼べない隙間だが、つっきるには十分だ。


「ユトリさん、先に行っててください」


「え? あんたはどうすんのよ」


「向こうから迂回していきます。すぐに追いつきますから」


「なんでわざわざ」


「ぼくは甲羅が邪魔でその隙間を通り抜けられないんですよ」


タワシは甲羅のせいで、正面のほうが幅が薄いほうだ。ユトリなら半身になれば隙間をぬけられすが、タワシは半身のほうが余計抜けられない。かといって正面からでは幅は足りないことは明確だった。


「あんた、それ脱げないの」


「甲羅が着脱式の亀なんて聞いたことないですよ。ヤドカリじゃないんだから」


言うが早く、タワシは駆け出していた。亀にしては俊敏だと叫びたくなったが、そんな余裕もない。ユトリは先にビルの隙間をぬけ、悲鳴のしたほうへ向かっていく。


悲鳴はもう聞こえなくなっていたが、この先のことは昨日みたパンフレットでなんとなくわかる。この先はオフィス街で、車が何台も通れるような太い道路があったはずだ。


隙間をぬけて、さらにもう一つ奥へ進む。太い道路が遠くに見えたとき、スーツの群れが一目散に流れて行く様子が見てそれた。通勤のため、というわけではなさそうだ。何かから逃げている、そんな印象。


あそこになにかいるのは間違いなさそうだ。ユトリは一度止まり、呼吸を整える。そしてゆっくりビルの陰から流れと逆の方をみた。


「……わからない、か」


このまま出ていけば流れに押されてしまうだろう。このまま待つしかない。ユトリは念のため右手をピストルの形を作り、人が切れるのをまった。


最初にあった悲鳴から5分ほど経つが、それからもう悲鳴らしい音は聞こえてこない。パニックのようすはわかるが、なににそんなに驚いているのかわからなかった。爆発音さえしない。


「なにが、そんなに怖いの」


足音まばらになってから、ようやくユトリはもう一度顔をだした。もうそろそろ流れに飲まれることはなさそうだ。ユトリは手の形を崩さぬまま、慎重に足を進める。すれ違う人はもう、周りが見えていないようで、ユトリになにも言ってこなかった。この先にあるものが聞けないことは残念だが、慌てている人に聞いたところで大した情報は得られない。確実なのはこの目で見ることだ。


「誰かいる?」


川の流れのように一定方向を向いてる中で、ひとつ、背中が見えた。その後ろ姿になんとなく見覚えがある。


「レタくん!」


ユトリが呼び止めると、彼は止まった。振り返る。


ユトリは安堵の表情を浮かべたが一変、彼がこちらをむいたときは小さく悲鳴うぃあげてしまった。


全身が、血で汚れていた。


白かったシャツは赤くそまり、肌にぴっちりと張り付いている、チェックのズボンも、もう柄がわからないほどだ。顔にかかった血は軽く乾いており、ひび割れ、パラパラと剥がれおちる、目のあたりにはこすったあとがあり、そこだけうっすらと肌の色が見えていた。


「レタ……くん、どうしたの。それ」


「ユトリさん、おはようございます」


穏やかな表情だった。この世のすべての憂いを消し去ったような極楽にいるかと見間違える顔。


「どうしたんですか、そんなに慌てて」


「どうしたって、こっちが聞きたいくらいよ。ねえ、それはどうしたの、なんでそんなに血まみれなの、怪我してるの?」


「怪我?」とレタは自分の手をまじまじと見る。やっぱり血に濡れた手。ぬるぬるとした感触を楽しむように指を擦り合わせると、くすくすと笑った。


「おれはどこも怪我してないですよ、これは、ドラゴンの血です」


「ドラゴン……?」


「ええ、みんなみーんな、死にました」


ああ、とユトリは同情ににた顔をする。手のピストルをほどき、レタに歩みよった。


抱きしめようとしていた。


きっと混乱しているのだと、思っていた。


ドラゴンが死に、屍体に触れたのだろう。だからこんなに血まみれで。しかも母親まで死んだのだ。混乱するのは当たり前。今は、落ち着かせなくてはいけない。


ユトリは手を広げる。無抵抗を示すように。


「ユトリさん?」


「大丈夫、大丈夫だから」


一歩、また一歩と近づく。怖くないと言いながら、大丈夫だと言いながら。


レタは不思議そうに眺め、ユトリが来るのを待っていた。レタは動かなかった。


「レタくん、大丈夫だよ、ほら、私の手を掴んで」


差し伸べるように手をだした。そのとき、


《守って!!》


どこからか聞こえた声。その瞬間、吹き飛ばされた。


なにかに弾かれたように、ドンと押される。なにが起こったのかわからず、ユトリは受け身すら取れず背中から地面に叩きつけられた。


「ゴホッ……なに」


詰まった呼吸を整えながら体を起こすと、レタの向こうに、タワシの姿が見えた。


さっきの《守って》はタワシ『キーワード』だ。だとしたら、弾いたのはタワシということになる。


「あんた、なにやって」


「ユトリさん、注意してください。この人、なにか違います」


「違う?」


「ええ、なにか、ヤバイ感じがーー……ッ!!」


横に飛び跳ねる。その瞬間、地面に亀裂がはいった。なにか巨大な刃物がえぐったような跡。タワシが避けていなければ、2つになっていたはずだ。


「レタ……くん?」


「避けられた」


ポツリ、と言う。そして、今度はユトリの方をむいた。


「ユトリさん、逃げて!」


タワシが叫ぶ、そのときにはもう、ユトリは立ち上がっていた。


《斬る》


『キーワード』が聞こえる。それがレタのものだろう。ユトリは振り向きざまに撃った。


《バン》《バン》《バン》


3発の閃光。それをレタの頭めがけて撃つ。


「…………ん」


当たるとは、はなから思っていなかった。だからレタは避けなかった。その予想は当たっており、閃光はレタの頭の脇をぬけて、空へと消えていく。目的は、目くらましだったようだ。光で視界が奪われる、その間に、もうユトリの姿は見えなくなっていた。きっとさっきの攻撃も見当違いの方向へ行ってしまったことだろう。振り向くと、タワシの姿もない。


「逃げられた」


またポツリという。ふらふらと歩き出す。


















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