回想邂逅




「それで? 結局、あんたは郵便局を見て回ったってわけね」


帰りの途中で買ってきた、よく効くという胃薬を2錠、口に放り込む。タワシが水を渡すと、奪うようにしてそれを飲み干した。夕方、日も暮れかかってから戻ってくると、ようやく体を起こせるまでに回復したユトリがいたのだ。しかしまだ全快とはいかないようで、ベットから降りようとはしない。


レタの部屋に主はいなかった。郵便局から帰る間際、仕事仲間に呼び止められたのだ。すぐ終わるからと最初は言っていたが、どうやら明日の打ち合わせも同時にしたいということらしく、先に帰ってくれということ。もうホテルも抑えてあるのでこのまま移動しても良かったのだが、ユトリの体と、もう一度お礼を言いたいということでまだ部屋にお邪魔させてもらっている。


「ずるいわー」


「といっても、別にお菓子をもらったわけじゃありませんし、ジェットコースターみたいなものに乗ったわけでもないですよ。単純に連れてかれるがまま、中を一周しただけで」


「それがずるいって言ってるの。郵便局の中は関係者以外立ち入り禁止。扱うものが扱うものだから、普通は入れてくださいって言って入れてくれるもんじゃないのよ」


郵便局は個人情報を始めとする多くの機密を扱うところだ。親に近況を報告する息子のはがきがあれば、日常の他愛もない話を書き連ねる恋人たちの手紙もある。だが時として、一刻を争う情報を扱うことだってあるのだ。『急いで戻れ』。たった一言、その言葉を伝えたいがために追加料金を払っても即日配達を希望する人がいる。その一言が届かなかったがために、一生後悔する人がいる。


例えば親の危篤を知らせる電報が届かなかったとして、その理由が無くしたからと言われれば納得できたものじゃないだろう。


そのための完全守秘義務。そこに働く人は、配達人だけでもなく、出入りする人全てに同等の責任を負わされていると言っても言い過ぎではない。


「じゃあ、なんでぼくは入れて貰えたんでしょうか? この甲羅の加護ですかね」


「そのレタって子の人徳でしょうね」


見せようとした甲羅から目を逸らし、ユトリが言う。


「ドラゴンを3頭操るところもそうだし、遠方専門ってところも信用されてるって証拠ね。距離が遠くなればなるほど、急ぎの用は重要なものになってくるし、それを時間通りに配達できるとなれば信頼の域まで達ししてもいいくらいだわ。その子はあんたを信用できますって言えば、多少の無理くらいなら通るんじゃない?」


大事な用ほど、人は自分で言いたくなるものだ。確実に言ったという安心が持てるし、届いたかどうかと時計をみならがソワソワすることもない。それができないほど遠く、または辺鄙は場所にあるからそこ、専門の人に頼むわけだ。


「で、その中はどんな感じだったの?」


「そうですね。かなり大きな棚が何十と並んでいましたよ。その棚の中に今日届ける予定の荷物が入ってて、そこから配達人が担当している地域の荷物を持っていく、という感じです。もっと機械化が進んで、仕分けも機械が行っているのかと思ったら以外とローテクでした。仕分けも全て手作業でしたね」


「それも人を雇うための策なのかもしれないわね。機械にすれば確かに楽だろうけど、整備にお金も時間もかかるし、そこに専門のエンジニアをつけないといけない。簡単な部品の付け替えくらいなら教えたら素人にもできるかもしれないけど、さらに詳しくなると勉強した人じゃないとわからないだろうから」


中を想像してるのか、ユトリの顔が宙を向く。また明日、今度はユトリも一緒に中に入れることを知っているのに、である。


タワシはユトリの意識を戻すために大きく咳払いをし、「それと、朱雀様の後継者のことですが」と切り出す。ユトリの顔が真顔に戻った。


「レタさんに軽く訊いてみたのですが、アサンという場所にいるそうです。朱雀様がいた場所と言っていましたが」


「そうね。その場所は知ってる。それに、ユーキョクのあとに行こうとしてた場所もそこよ」


「ということは、本当に本当なんですね。朱雀様の後継者がいるって」


「その本人が嘘をついていなきゃね」


なにか目印のようなものでもあればいいのだが、四獣にさえ刻印のようなものもなかったのだ。後継者にあると思うのが間違いだろう。


「あんた、玄武様からなにか聞いてないの? それか、後継者同士で顔合わせなんてものもなかったの?」


「ぼくはあの場所に引きこもっていましたからね、玄武さんに連れられて誰かに会うということはほとんどなかったです」


「じゃあ、実際にタワシが会いに行っても、すんなりいくとは限らないか。話がわかる相手だったらいいんだけど」


そもそも、とタワシはため息のような重い息を吐いた


「協力してくれるのかどうかすら、怪しいですよ。四獣は絶対の象徴でしたからね。後継者ともなれば、その力の大きさは目の当たりにしているでしょう。だったら、それを超える難しさもわかっているはずです」


「いいんじゃない。超えなくて」


さらりと、そんなこと興味すらないような口調で言ってのける。唖然とするタワシを尻目に、水を一口。飲み終えるころには、微笑があった。


「超える必要ないんじゃない? むしろ、そっちに力を入れるより、もっと別のほうを頑張るべきだと思うの。朱雀様ができなかったことをするんだもん。朱雀様と同じベクトルの力を伸ばすんじゃなくて、その人の個性を伸ばすほうが重要だと私は思ってる。確かに四獣を超えられるならそれに越したことはないけど、それにはやっぱり時間がかかるでしょうね。あと4年。最大で4年ということを考えると、足りない」


親指を折り畳んだ手のひらを見つめる。もう片手で数えられるぐらいでしか残っていない。それでも『まだ』と言えるぐらい残っている。


中途半端なのだ。世界の終わりまで生活するとなるとそれなりに計画を立てる必要がある。自由してばかりもいられない。けれど今からなにかを始めると、世界の終わりが来てしまう。


まだ畳めない4本は、希望であるようだが、見る人から見れば、それはため息を引き出すものでしかない。


「……ひとつ、訊いていいですか?」


なに、とユトリがタワシを見る。口にはまだ微笑があった。


「どうしてそんな確信的に、四獣の後継者が悪魔を倒せると信じていられるんですか? もう、諦めたというのに」


四獣が殺されてから、この世界は崩壊を受け入れた。四獣以上の力の持ち主はいない。それが勝てなかったのだ。もうこの世の誰が挑もうとも、勝てるわけがない。だったら抵抗するのではなく受け入れよう。そうすれば、穏やかに終わることができる。


そう決まったはずなのに、なぜ争うのだろう。抗うのだろう。もちろんその気持ちは、タワシにもわかる。だが、こうも信じきって行動できる理由が知りたかった。


ユトリは言った。


「四獣じゃ、悪魔に勝つことはできなかった」


「……はい」


「良くて引き分けだった」


「それは」


「違う?」


まるでタワシが答えを知っているような問い。そしてタワシは、その答えを知っていた。他ならぬ、玄武がそう言っていたからだった。玄武の面影がユトリに重なる。性別からなにから違っているはずなのに、と思っていると、唐突に気がついた。雰囲気が似ていたのだ。



『勝てない』そう言ったときも、玄武は笑っていた。穏やかな顔だった。今までにないほど、晴れやかな顔をしていた。



「クルイがね、言ってたの」


「え?」


「一度、あったことはあるんだって、あの4人に。そして少し会話して、わかったみたい。『ああ、あいつらじゃ悪魔に勝てないな』って。面会のときに聞いたわ」


それは、クルイが捕まってからのことだった。二人きりではなく、ほかに数人同行していたが、クルイは彼らを気にする様子はなかった。透明なしきり板を挟んでの面会。それがなにでできているのか知らないが、いくらユトリが『キーワード』を使ったところで破れるものではないのだろう。


今クルイと対峙しているこの部屋も、きっとそれなりの造りであるに違いない。


変わらないね、から始まる会話。捕まる後も前も、かつての恋人にまるで変化はない。背景を自宅にすれば、そのまま違和感なく溶け込めてしまいそうな緊張感のなさだった。


だから、さらりと言われたそのセリフもうっかり聞き逃してしまいそうになった。


ユトリ以外にも人はいるのに、堂々とそう宣言したクルイ。そのとき、面会室にいた全員が席を立ってクルイを睨んでいた。まだ、クルイが殺したと信じている人はいる。きっと、そのときに殺したと瞬間的に思い立ったのだろう。


ユトリも少しクルイを疑ったこともあるが、すぐにそれは消え去った。クルイは、力の誇示のために殺しはしない。あくまで興味のために殺す。そしてクルイは、人間に興味を抱いていたが、四獣になど全く関心がなかった。例え自分から殺してくれと言っても、クルイは舌を出して断っただろう。演技ではないと断言できる自信がある。それほど、クルイを見続けていたのだから。


勝てないって、どういうこと?


ユトリが問うと、クルイは頬杖をつきながら、気怠そうに笑った。


「あいつらが、というよりこの世界が望んでいたのは和解だ。悪役がごめんなちゃいして手を取り合って、朝日に向かって拳を突き上げる。漫画や小説でありがちなバトルものの綺麗な終わりを望んでた。対して、悪魔はどうだ? そんなことを望んでると思うのか? だったらわかるだろう。刃物持ってる相手に手ぶらで近づいて、殺されねえわけねえんだよ。説得なんてバカなことしだそうとしたときに刺される。それぐらいわかんだろ?」


……でも、四獣は四人いたし、一人やられたぐらいで。


「四獣の能力はどれも破壊にむかねえ」


…………。


「玄武は防御、朱雀は治癒、青龍は知恵。白虎の野郎は辛うじて戦闘向きだったが、あれは防衛のほうが力を発揮できるだろうな。それに対する、悪魔の力は破壊だ。和解チームがいくら頑張ろうと、できることは言葉による説得と防御だけだろ。悪魔は最初から殺しにかかるだろうから、結果は目に見えてる。奇跡に奇跡が重なったとして、最高の結果は引き分けだった。けれど、そんなことは起きるはずもなく。結果はこれだ」


…………。


「勝つには卑怯卑劣で勝負しかなかっただろうな。不意打ち、闇討ち、罠を使ってエトセトラ。悪魔に向かって狡猾勝負は部が悪いが、正々堂々は一番やっちゃいけないな。フェア、なんて言葉が通じんのは、相手がそれに応じた場合だけだ」


相手が狡猾なら、こちらもそうならなきゃいけないってこと?


「それに固執する必要はないがな。もちろん、四獣が悪魔に勝つ可能性はあったと思うぜ。奴らが説得なんて可能性を捨てて、抵抗の暇なんて与えず、縛って首を切り落とせばいい」


四獣は、みんな破壊に向かないんじゃなかったの?


「破壊と殺害は違うだろ? 似てんのは響きだけだ。小さな石で壁は壊せなくても、頭蓋骨に穴を開けることはできるんだぜ? どんなに切れない刀でも力を入れて振り抜けば細い首くらい簡単に切り落とせる。白虎の野郎だったら、手刀でも十分だろうな。切れなくとも、首の骨くらい折れる」


……それ、知ってたの?


「『それ』? 『それ』って一体何を指してんだ?」


四獣が悪魔に勝てないってこと。 もっと言えば、殺されるってこと。


「何言ってんだ。当たり前だろ」


…………。


「勝てないことはもちろん、その場で殺されることも、ちゃーんとあいつらは理解してたさ。わかってなかったのは人間だけだよ」


騙したの?


「だましたあ? お前は少し見ない間に随分おバカになっちまったなあ。さっき言った通りだよ。手ぶらで刃物持ってる奴に近づけば刺されるだけだ。それを『なんで刺された!』って訊くほうがバカだ。騙されたんじゃねえ。お前らが想像できなかっただけだ」


……言わなかったの?


「なにを?」


四獣は、それを。


「勝てません。殺されます。ってか? もちろん言っただろうさ。でも、だからなんだって言うんだ?」


…………。


「正義は勝ちます。神は悪魔に負けません。お前らはその言葉にどれだけ期待を寄せてきた?」


…………。


「信じなかっただろうさ。その根拠のない自信でな。夢は必ず叶いますぐらいの妄言だ。正義が悪に勝つのは、正義が悪より強かった場合だけだ。ジャンケンじゃねえぞ? そんな会った拍子に勝ち負けが決まるような、日光と吸血鬼の関係じゃないんだ。目の前の現れたからって灰になったりしないだろうさ。もしそうなら説得なんてできやしないしな」


…………。


「いいことを教えてやる。いいか、耳をかっぽじってよく聞けよ。悪魔の対極のいるのは神じゃない、天使だ」


…………。


「そんでもう一つ。悪魔だって神なんだぜ?」


……それは……。


「あいつらも可哀想だよなあ、なんにもわかってない奴らからこうも期待されて。断ることもできない。だって、神だから。期待されれば、応えないわけにいかないから。そうだろ?」


…………。


「最初から期待するほうがバカなんだよ。悪魔を殺せるのはこのクルイちゃんか、それか四獣よりももっと人らしい奴らじゃねえの?」


どういう意味よ、それ。


「神なんてふざけたもんが、人のために本気で戦うわけねえだろ。アリが生活してるところにアリクイがやってきました。さて、キミは助けますか? 助けねえよ。黙ってみてるか、その場を通りすぎるだけだ。人の世界を守りたきゃ、人が動かなきゃダメだろ。なんでそんなこともわからんかね、チミたちは」


あんたなら、殺せんの?


「さてね。悪魔が殺意を抱かせるような相手だったら、かな。まあ、上の人間どもは、このクルイちゃんに期待してるようだけどな。だからさっさと死刑にしないんだろ? まだ利用価値があるからな」


ユトリ以外の人に話を振るが、当然誰もなにも言わない。けれど、いざとなれば本当に、クルイに悪魔退治を依頼することになるだろう。今は諦めている人類だが、いつ死にたくないと世論がかわるかわからない。変わればクルイに依頼し、変わらなければそのまま。そうなることくらい、ユトリもわかっている。


「さて、そろそろ時間だろ? で、わざわざ会いにきた理由はなんだ?」


……あんた、私に殺されたい?


「あん?」


答えてよ。


「殺されてえよ?」


クルイは平然と、なにを今更というように言った。なにをそんなわかりきったことを、と。


それを聞くとユトリは席を立った。クルイを見下ろしながら、言う。


「じゃあ、殺してあげる。だから処刑日まで待ってて。私はそれまでやることがあるから、もう会えないと思う」


「なんだよ、どっか行くのかよ」


「当然、悪魔を殺してくるのよ」


一瞬の間。


「ほー」


「あんたを悪魔なんかに殺させない。だって、私が殺すんだもの。だから、ちょっと悪魔を殺してこようかと思って」


「殺す殺す物騒だね。それで、なんかアテがあるのか? それとも勇者さまはお一人で鬼退治に向かいますか?」


「まさか。私ひとりじゃむりだから、そうね……手当たり次第に声をかけてみようかしら。下手な鉄砲数打ちゃあたる。誰かしら協力してくれるでしょ」


「じゃあ、後継者をあたれ」


「後継者?」


「玄武、朱雀、青龍、白虎。あいつらそれぞれに後継者がいると聞いたことがある。そいつらはまだ人だろ。だったら、悪魔殺しも十分役立つはずだ。まあ、このクルイちゃんの足元にも及ばないような、ヘタレ共だろうけどな」


「なるほど……後継者ね。わかった、探してみる」


「おー。それじゃあ、最愛の彼女さまよ、この私を殺してくれるまで死んでくれるなよ」


「……なにそれ。クルイが自分のこと『私』だなんて、初めて聞いたわ。ちょっと驚き」


「……あー、やだやだ、ノリ悪いねえ、ほんと」




「別にクルイに言われたからじゃない。そのあと自分でも考えて、それでキミにも会いにいったし、これから朱雀の後継者に会いに行こうと思ってる。やっぱり、神様に頼ってばかりじゃだめなんだ。自分で動かないと」


「……玄武さんも」


ぶらぶらと足を揺らしながらタワシが口を開く。顔は俯き、声はどこか懐かしむようなものだった。


「玄武さんも言ってました。勝てないと。殺されるだろう、とも言ってました。そのときは半信半疑だったんですけどね、でも、こうなっちゃいました」


「それじゃあ、キミは、どうする?」


「ぼくは、今の所、悪魔に殺意はありません。殺せと言われても戸惑ってしまうでしょう。ぼくは弱いですから」


「でも、逃げない?」


「ぼくはユトリさんのボディーガードですからね」


顔をあげると笑みがあった。でも、力がなかった。タワシの言葉は、逃げの言葉だった。


「そう」


ユトリはそれだけ言って、ベットに倒れこむ。寝る、とだけ言って、会話は途切れた。


「おやすみなさい」


返事はなかった。








「悪かった、こんな時間まで引き止めちまって」


「いえ。ではお先に失礼します」



レタが打ち合わせから終わって郵便局を出ると、もうすっかり日が落ちてしまっていた。いつもならこの時間に帰っても母親しかいないのでなにも言われないが、今日は人がいる。それともすでに帰っているだろうか。


「えっと、帰ったら夕飯の支度と、それから……」


小走りになりながらこの後の予定を立てていく。冷蔵庫になにがあっただとか、明日あの二人をどこに連れていくかなどいろいろ上の空だったのだろう。前から人がくるのに気づかなかった。


「イテっ」


「あっ」


肩がぶつかる。こちらが早足だったせいもあるだろう。相手の体が大きくよろけた。


「ご、ごめんなさい。ちょっとよそ見をしていて。あの、大丈夫ですか?」


ぶつかったといっても、レタの体躯はまだ子どものそれだ。相手は2、3歩前にふらふらと歩き、そして止まった。


「んー、大丈夫だ。悪いな、ちょっとこっちも考えごとしてたんだ」


黒。レタが相手に思った第一印象はそれだった。


暗くなりだし、まだ街頭もついてないない時間帯。建物の陰に入ると、その人の姿はもう溶けてしまいそうだ。


スラリとした体型。ぶつかったときから今まで、ずっとポケットから手を出そうとしない。歳はレタより上だということは外見でわかる。ちょうど20歳かそれより下だろう。学生には見えない。柔和な顔つきだが、それでいて抜き身のナイフを思わせる鋭さがある。優しい顔で近づいてきて、グサリ。初対面でありながらその場面が用意に想像できてしまう。


なんとなく、一歩下がってしまった。


「いやー、悪い癖だね。ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる」


「そう……なんですか」


「ああ。もっと顔を上げて生きていかなきゃ駄目だね」


青年は笑っているが、目は笑っていない。それが突然、スッと細まったかと思うと、ようやく、目が笑った。


「じゃないと、こんな出会いも見逃しちまう」


「ーーッ」


反射的に身構える。なにもしてない。なにもしていないのに、なぜだか悪寒が走った。怖い。それだけが体に溜まっていく。


「おや、なんだか怖がらせちゃったね。悪い悪い。そうだよな、いきなり年上にこんなこと言われたら、怖いよな」


また、顔は笑顔を作る。目の笑いが取れただけで、急に呼吸が楽になった。


「あ、あの、本当にすいませんでした。それじゃ」


くるりと反転し、それまで以上の早足でその場を立ち去る。今にも後ろから呼び止められそうで、肩を掴まれそうで気が気でなかったが、幸いにも追いかけたりはしてこなかった。


青年は、その場にいた。


レタが見えなくなるまで見続け、それから動き出す。


それはレタが歩いていった方角と、同じ方向であった。







バタン、という乱暴な音がしたかと思ったら、レタが後手にドアを閉めているところだった。


荒い呼吸をしながら、開かないように背中でドアを抑えている。何事かとタワシが言葉を失っていると、タワシの後ろで毛布を退ける音がした。


「おかえり。……どうかした?」


「あ、いえ、大丈夫ですよ、ユトリさん。それより、もう体のほうはいいんですか?」


2人を見て安心したのだろう。ほう、と息を吐くレタ。走ったせいかそれとも脂汗なのか、じっとりと濡れた額を袖で拭くと、ゆっくりとベットに向かってきた。


「うん。私はもう平気。それより、ありがとうね。わざわざベットまで貸してくれて。最後に一度お礼がいいたくてさ」


ユトリが頭を下げる。それに続いて、タワシも頭を下げた。


「困ったときはお互い様です」


そのセリフも、なんとなく様になっていた。


「このあとすぐ夕飯にしますが、お二人はどうされます?」


「ご馳走になるのも悪いから、ホテルに戻るわ」


「そうですか。なら、明日」


明日はレタが郵便局を案内してくれることになっている。


「でも、お仕事はいいんですか? さっき打ち合わせをするとか言ってましたけど」


「大丈夫です。それも午前には終わりますから。そのあとでよかったら、案内しますよ」


「私は全然OK。タワシは?」


「ぼくも、問題ありません。よろしくお願いします」


それで決まり、というようにユトリが手を打つ。そのあと、夕飯手伝おうかと聞いてきたが、レタは首を横に振った。


キッチンに二人入れないということもあったし、ご馳走できないのに手伝わせるのに抵抗があったからだ。ユトリもそれを察したのか、それ以上言って来ず、ただもう一度お礼を言った。


「それじゃあ、私たちホテルに戻るわ」


「はい。ではまた明日。変な人に合わないように、気をつけてくださいね」


おちゃらけていうと、ユトリは大丈夫と言ってタワシを指差した。


「そのときは、このボディーガード様が私を守ってくれるわ」


えへん、と胸を張るタワシ。あまり頼りにならなそうと胸のうちに思うレタだったが、きっとそういう『キーワード』なのだろうと納得する。背中の甲羅も、他人を守るには小さすぎる。


ひらひらと手を振る2人を見送ると、一気に部屋が静かになってしまった。静寂が耳に痛い。ベットに転がると、人の温かさがまだ残っていた。


……寂しい。


ふと浮かんだ感情。友達が家に来たこともほとんどない。この静けさに慣れてしまったが、それが普通だと思ってしまったが、たったあれだけですっかり戻ってしまった。


「だめだめ、さっさと夕飯の支度をしないと」


自分に言い聞かせ、部屋を出る。階段をおりると、もう2人の姿はなかった。ドアにチェーンをかけ、キッチンへ行く。いつも通り。いつも通りのはずなのに、家が少し、静かだった。







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