第2号 ハイツの休日(後)

「いただきます」

 イノウハイツの住人が全員揃う珍しい時間、それは夕食の時間であった。朝は起きられない雫も、夕食の時間には一番に食卓に着いている。

 別にどこが誰の席、と決まっているわけではなかったのだが、何となく皆いつも同じ席に座る。

 そして、一番端に結衣が座り、その隣が総司の定位置となっていた。それは今日も変わらない。

 しかし、変わったことが一つある。それは、総司のあらゆるアクションに対して結衣が反応を示さないことであった。それどころか、目を合わせようとすらしてくれない。

「そこ、置いといて」

 夢子から順繰り渡された飯茶碗リレーの最後、そう言ったその言葉が、結衣の総司にかけた唯一の言葉であった。

 その夕食は、とても楽しいものとは言えなかった。どちらかというとお通夜のようであったし、ともすればお通夜のあとの宴会の方が盛り上がっているとさえいえた。

 口を開くものはだれ一人いない。正確には、吉澄が何とか場を盛り上げようと最初の三分ほど頑張ったが、すぐにあきらめた。まるで空気の成分に鉛が混ざったかのような沈鬱な重みがそこにはあった。

 事情を知っている夢子、夏月、雫は口を挟むこともできなかったし、吉澄と春臣もすぐに察してそれぞれの目の前の食事をついばむことに集中する。そもそも、結衣の怒りがイメージとして皆の脳裡に直接漏れ伝わって来たので、何かがあったことを理解するのはたやすかった。

 箸がまっすぐにおかずにのび、ご飯を掻き込む。「おかわり」の一言さえ発することがはばかられるせいで、その時間はすぐに終わる。

「ごちそうさま」

 そう言ってまず夏月が立ち上がる。吉澄、春臣が続き、雫はわずかに盛り付けられた料理を残したまま立ち上がる。夢子は片付けにいったん流しの方へ向かったので、総司と結衣の二人だけが食卓に残された。

「あの……昼間は、その……」

 結衣の方を向くことが怖くてはばかられるが、絞り出すようにして、何とか言葉を紡ぐ。

「……」

 結衣は何も言わない。

 その雰囲気に耐えかねて、総司は次の言葉を継ぐことができなかった。

 沈黙に耐えかねて、ぶり大根の最後の一かけらを口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。そして、いよいよ食堂にとどまり続ける口実を失う。

 何か反応があるのではないか、とささやかな期待を心に持ちながら、総司は結衣の方をちら、と見る。彼女はそんなことを少しも気にしていない様子で、静かに最後の一口を終えた。

「ごちそうさま」

 彼女はそう言って立ち上がると、総司をけながら、それでいて元から全くいなかったかのように無視して流しの方へと向かう。

「参ったなあ……」

 総司は小さくそう呟く。そして、よろよろと立ち上がり、流しへと向かう。すれ違う時、彼女の方に目が滑る。

 結衣の視線は少しもぶれることなく、静かに自室へと向かっていく。

 流しにでは、夢子が洗い物をしていた。総司は彼女に重ねた皿を渡す。

「まあ、こういうこともあるからめげちゃだめよ」

 彼女は困ったような笑顔で言う。

「はい……」

 そう返事はしたものの、ここまでこじれてしまうと一体どうしたらいいのか、見当もつかない。

「ま、とにかく今日は部屋に帰んなさい。あんまりしつこいのも逆効果だし、時には引くのも大切なのよ」

 彼女はそう言って、激励するように肩を二度叩いた。結構濡れてしまったな、と総司は思った。

 部屋に戻る。ここ数日で部屋の整理は進み、届いた段ボール箱もすべてばらしてしまっていた。

 机に座り、ぼうっと外を見る。すっかり外は暗くなっており、隙間風が時折吹き込んでくる。

 手持無沙汰になって、総司は机に座り、高校一年生の学習内容を網羅した参考書を開く。

 勉強をしている時間は心地が良い。何も余計なことを考えなくて済む。総司はその没入感が好きだった。

 これから入る××高校は、それなりに有名な進学校で、どうせやるなら今のうちからしっかり勉強をしておいて、遅れをとらないようにするのが良い。

 そんな風に考えながら問題集と格闘していると、気が付けばもう十一時前になっていた。身を入れて勉強をしたのが久しぶりだったので、すっかり体ががちがちになっている。

 彼は椅子から立ち上がると、一つ大きな伸びをする。ぎりぎりと体が伸びるような感覚があった。

 スタンドの電気を消し、ノートを閉じると、彼は小さなベッドの上に体を投げ出す。

 部屋の電気のひもを引っ張り、消す。代わりに静寂の音が響き渡る。総司は目を閉じ、襲い来る後悔の念を何とか消し去ろうとする。

 そういえば、いつもならそろそろ庭で喧嘩が始まるころだけれど、今日はやけに静かだな。そう感じながら静かにまどろみのなかに

堕ちていった。




 翌朝は、すがすがしく、腹が立つほど気持ちの良い晴れ空だった。

 総司は目が覚めると同時に昨日の事を思い出し、ため息を吐く。

「明日になったらさっぱり忘れてるって」

 昨日の雫の言葉が思い出される。きっとそうだ、そう信じてがばとベッドから身を起こす。

 じりりりり、と六時二十分を知らせる時計のアラームが鳴る。だんだんと生活に慣れてきて、アラームよりも先に目覚められるようになってきた。

 寝巻から普段着に着替えると、部屋を出る。ちょうど隣から結衣も同時に部屋を出てきた。

 総司は結衣の方をちらとうかがう。そして、軽く手を挙げ、

「おはよう」

 と挨拶する。

 結衣は総司の方をちら、と見ると、そのまま何も言わずにそっぽを向き、走って食堂の方へ向かっていく。

「ダメか……」

 取り残された彼は一言呟き、立ち尽くす。そして我に返ってゆっくりと食堂へ向かった。

 食堂には、珍しく雫もいて、全員集合となった。

「あ、総司ちゃん。おはよ」

 雫は半分閉じたままの目を総司に向ける。

「おはようございます、珍しいですね」

 総司は定位置に付きながら言う。

「ふふふ、雫ちゃんをなめちゃいけないよー。あたしだって、やるときは、やるのだ!」

 そう言いながらも、総司には彼女がほとんど眠ったままであるように見える。

 夢子は奥から盆を持って出てきて食器を並べる。

 春臣は新聞を読み、夏月は不機嫌そうな顔で腕を組んで座っている。吉澄は春臣に横からちょっかいをかけているが、無視されている。

 雫がいることを除けば、驚くほどにいつも通りの光景だな、と総司は思った。そして、隣でそっぽを向いている結衣が、いつも通りにならなければよいのだけれど、そう思って気持ちが曇る。

 椀が回され、全員が手を合わせる。いただきます、の声とともにそれぞれが自らの食事に手を付ける。

 一番に動いたのは結衣だった。昨夜の食事の時とは打って変わって、いつもと同じように勢いよくご飯を掻き込む。

 一番に食べ終わった彼女は、すぐに食器を下げ、食堂を出ていく。

「あらあら、今日はせっかちねえ」

 夢子は呟きながら、コーヒーを持ってくる。雫も起きてくるときは飲むのだ、と言っており、今日は全員の前にコーヒーマグが置かれている。

「ごちそうさん」

 夏月はコーヒーを一気に飲み込むと、片づけを終え、食堂を出ようとする。

「あ、そういや二階の電気が切れてんのと、それから、なんだったっけ」

「電子レンジの調子が悪いから、ちょっと見てほしいんだけど」

「はいはい。じゃ、昼飯までには終わらせるよ」

 今日の仕事を確認すると、彼は自室へと戻っていった。

 全員がそれぞれ自室に帰り、総司が取り残される。彼も食器を下げ、部屋に戻ろうとすると夢子に呼び止められる。

「あのねえ、お買い物なんだけど、今日は行かなくていいから……」

 伝えづらそうな様子を見て、総司はその理由を察する。

「赤穂さんがが、嫌だって?」

「ああ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」

 夢子は目をそらしながら口ごもる。

「ほら、問題ってのは、時間を置いた方がいいことも色々あるじゃない? とにかく、今日は部屋でゆっくりしていて」

 彼女はそういうと、急ぎ足で管理人室の方へと向かう。あまりこのことを掘り下げても不毛なので、今日は言われた通りおとなしくしよう。総司はそう考えながら部屋に戻った。

 十時を過ぎたごろから、外で色々な足音が聞こえ始めた。しばらく参考書とにらめっこしていた総司も軽く休憩をとるか、と外に出る。

 ふらふらと食堂に向かうと、食卓の上に電子レンジが置かれている。そしてそれを夏月が分解していた。

「あ、あの」

 総司は声を出す。夏月はそれに気が付き、少しだけ顔を上げる。

「なんだてめー、邪魔しに来たのか」

「あ、いや、そういうわけじゃ……の、何か手伝えることとかないかなーって」

 それを聞いた途端、夏月は大きくため息を吐く。

「お前な、素人が何かできるように見えるか? てめーにできることは邪魔しないようにさっさと失せることだけだ。部屋に帰って寝てろよな」

 そう言うと、もはや総司はいないものとでもするように顔を下ろし、電子レンジに向き合う。

 総司は参ったな、と思いながら何か音のする流しの方に向かう。

「おっ、総司ちゃんじゃん」

 こちらに気が付いて泡まみれの片手を上げたのは雫だった。

「どうした? おやつならあげないぞ?」

「あー、いや、そうではなくて、何かお手伝いとかすることないかなーって」

 総司の方を見て雫は少し考える。そして、

「いや、洗い物は一人の方が効率がいいから、大丈夫だよん。総司ちゃんは部屋でゆっくりしてなって」

 またか、と総司は思う。そして、どこかみんながよそよそしいように感じる。

 それも、仕方ないか。そう考える。昨日、夏月が言っていたことを思い出す。

「ハイツに面倒ごとを持ち込むな」

 素性も誤魔化している上に、入居数日で結衣を怒らせて空気を悪くしてしまったことは全くの事実であって、反論のしようがない。

 彼はうつむきながら、すごすごと食堂を後にする。

食堂の扉を開けて長廊下に出たとき、ちょうど前の方から吉澄がやって来た。

「おっ、どうした、そんな浮かない顔をして」

 飄々ひょうひょうとした様子の吉澄を見て総司は、はあ、と小さい溜息をこぼした。

「おいおい、人の顔見てため息吐くこたねえだろ。まあ、大体わかるけどさ、ちょっと着いて来いよ」

 そう言いながら彼は自分の後方を指さし、回れ右をした。

 階段を昇り、二階の居住区へと向かう。203号、そこは吉澄の住んでいる部屋だった。

「ま、あがれよ」

 そう言って彼は戸を開ける。その先には、魔界が広がっていた。

 足の置き場もない、という言葉はまさにこの部屋のためにあるように思われた。そもそも、床の見えている面積が全体の5%ぐらいしかない。

 散らかっているのは脱ぎ捨てられた服や、空になったカップ麺の容器だった。それから、あやしげな人形やアクセサリーのようなもの。

「……吉澄さん。掃除って言葉知ってますか?」

「おう、今週のトイレ掃除は俺の担当だな!」

「道理で今週やたらとトイレが汚かったんですね」

「お前、なかなか手厳しいな……この吉澄様が、暇を持て余して、その上手伝いもさせてもらえないかわいそうな少年に仕事を与えてやろうと思ったというのに!」

 吉澄はそういうとどん、と自慢げに胸を張る。お世辞にもたくましいとは言えない胸を突き出されると、なんだか骸骨のように見える。

「部屋の掃除だったらやりませんけど」

 総司は先手を打つように言う。その瞬間、吉澄は口を大きく開き、顔を引きつらせる。

「お前の異能……もしかして、精神感応テレパス系か! 俺の心を読んだな?」

「いや、違いますけど……」

「大体、お前総司だろうが、掃除ぐらいしてくれたっていいじゃんよ!」

「そのいじり、もう小学校ぐらいで飽きてるんでやめてもらってもいいですか」

「ぐぬぬ……まあ、いいだろう。そんなことより、だ」

 吉澄は突然真面目な顔つきになる。

「で、お前、結衣とどこまでいったんだ。やっぱ無理やり押し倒そうとしてこうなったのか?」

 総司の頭にさっと血が上る。

「吉澄さん、冗談でも言っていいことと悪いことが……!」

「うん、そうだな、じゃあ結衣とどこまで行きたいと思ってるんだ? 隣の部屋だからな、その気になりゃなんだってできるよな」

「何が言いたいんですか」

「ま、要は世の中、聞かれたくないことなんて一杯あるってことだ。俺にだってある」

 そう言うと吉澄は、どこか遠い昔を眺めるように、虚空を見やる。

「そもそも、そろそろ気づいてると思うが、ここには複雑な事情の奴らしか住んでねえんだ。それにな、これは俺が話したってこと絶対に言わないでもらいたいんだがな、結衣はちょっと前まで今ほど能力が安定していなかったんだ。あの頃は、言ってみればそうだな、電源が切れないラジオみたいなもんだな。ずっと他の人間の心の声がひっきりなしに聞こえてくるんだよ。その内、本当の声と心の声が区別できなくなってくる。いろいろ、あったんだよ。いろいろ、な。あいつにとっちゃ、学校なんてのはひどいトラウマの対象でしかないんだ。その言葉さえ聞きたくないレベルのな。それを知らなかったとはいえ、ずけずけと踏み込んでしまったんだから、怒られたってしょうがない」

 総司はそれを聞いて、事が思っていたよりも深刻だったことに気が付き、うつむく。

「あー、これはお前を責めてるわけじゃねえんだ。要は、その、なんだ、これから気を付けろってことで……」

 吉澄は頭を掻きながら明後日の方を向く。ちょっと強く言い過ぎたかな、と考える。結衣があまり問題を起こすタイプでなかったこともあって、この年頃の少年に説教をするのは久しぶりだし、どうにも難しいものだな、と思う。

「俺、どうしたらいいんですかね」

 総司はうつむいたまま、声を絞り出す。

「どう、ねえ。まあ、とにかく謝るしかないだろ。誠意が伝わるまでさ」

「それはわかってるんですけど、口も利いてくれないんで……」

「お前、何言ってんだよ。別に、飯の時だってなんだって、会う機会はあるだろうが。そりゃ、言い訳だよ」

「だって、皆いる前ですし……」

 総司はそう言いながら、上目遣いに吉澄の方を見上げる。それは、まるで何かを懇願するかのようだった。

「それも、言い訳だろ。お前がカッコ悪いとか、恥ずかしいとか、そんなこと気にしてるからだよ。誰の前だろうと、どれだけカッコ悪かろうと、ちゃんと謝れ」

 それを聞くと、総司は顔を上げ、吉澄の方を見る。そして、雷に打たれたかのように呆然と口を開け、固まった。

 それから、心の中で何度か今の言葉を反芻はんすうすると、うん、と頷く。

「ありがとうございます、俺、きちんと謝ります」

「いいね、その調子だ」

 吉澄はにかっと笑うと、親指を上げる。

「ところで、良い事言ってあげたお礼に掃除とかは……?」

「しません、それどころじゃないんで!」

 そう言うと総司は逃げ出すようにばたん、と扉を開き、階下へと駆け下りていった。

「若いっていいなあ」

 吉澄はその後姿を見つめながら、ぼそっと呟いた。

 どたどたと音を鳴らして階段を駆け下りる。廊下の曲がり角に、ちょうど結衣が買い物から帰って来たのが見えた。

 彼女は総司の方をちらりと見ると、すぐに食堂の方に向かう。ずいぶんと買い物袋が重そうなのを見て、総司は駆け寄る。

「ごめんなさい!」

 彼は結衣の前に回り込むと、そのまま頭を下げる。ようやく言い切った。

「……」

 結衣はじっと彼の方を見つめ、何かを思案するように立ち止まる。

 総司はちら、と上目遣いに彼女の方を見やった。

 彼女ははっと思い出したかのように目を総司から外すと、ふん、と声を上げて荷物を持ち上げそのまま食堂へと駆け込んでいった。

 総司はぽかんとする。

「ま、上出来、上出来」

 後ろから吉澄が肩に手を置く。いつの間に、と総司は思う。

「いきなり許せるかどうかってのは、また別の話だからな。今は刺激しないように部屋に戻っときな」

 彼は右手で追いやるようなジェスチュアをする。

 総司は仕方がないな、と自分に言い聞かせながら再び部屋に戻った。

 部屋の戸を閉じると、様々な感情が渦巻くのを感じた。

 人に明確に嫌われるということが、ここまで堪えるなんて、知らなかった。

 そして、周りからの風当たりが強いとここまで心細いなんてことも、知らなかった。

 学校にいる間は、学校にいる時間だけ我慢すればよかったことが、一緒に暮らすとなると、一日中ずっとだ。このよそよそしい空気のまま、一週間、一か月、一年暮らさなくてはならないのだ。

 耐えられない。

 ただ、そう思う。

 総司は机の上に散らばった本やノートを脇にどけ、ノートパソコンを置く。インターネットに接続し、バイト情報サイトにアクセスした。

 高校生とはいえ、本気で働けば一か月で十分なお金を準備することはできるだろう。贅沢を言わなければ母さんだってきっと文句は言わない、そう考える。

 そもそも、いったん実家に戻るのもありかもしれないな、と考える。まだ幸いなことに高校入学まで半月ほどある。真剣に探せば別のアパートが見つかるはずだ。

 それに、実家に戻れば今ほど肩身の狭い思いはしなくて済むだろう。暖かい風呂と、きれいなトイレとがある。残念ながら料理はこっちの方がうまいのだが。

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを総司は感じた。ポケットから携帯電話を取り出す。

 そういえば、せっかく交換した番号、使わなかったんだなあ、とすっかり退居の心づもりをした総司は考える。

 いっそ、もう消してしまおうか、と削除のボタンを押す。

「本当にデータを削除しますか?」

 確認ダイアログが出たのを見て、OKをタップ出来ず、キャンセルする。優柔不断だなあ、と彼はひとり自嘲する。

 そして、そのまま下の方へとスクロールし、「母さん」の欄をタップする。出てきた電話番号にそのままかける。

「……もしもし? どうかしたんね?」

 彼女は比較的素早く電話を取った。

「あ、母さん。あのさ、俺、やっぱりここじゃないところに住もうかと思うんだけど……」

「はあ?」

 母の声は驚きが半分、もう半分が怒号のように感じられ、総司は委縮する。

「何でいきなりそんなことを? そんなに住みづらかったんね?」

「いや、そういうわけじゃないんだけどさ、その……母さんはここのこと知ってたんでしょ?」

「……」

 電話口の向こうで母が何も言わないことに、総司は答えを読み取ろうとする。

「うーん、ぼろアパートとは聞いていたけど……そこまでだった?」

 時間を置いた答えは的を射ないもので、総司はがくっとなる。

「いや、そういうことじゃなくて、さ。住んでる人の話とか」

「んー、実はイノウハイツを選んだの、お父さんなのよねえ。で、他のところは絶対に認めないー、ってさ」

「なんだよ、それ……じゃあ、母さんは別に俺がどこに住んでもかまわなかったわけ?」

「そういうわけじゃないんだけどねえ。ほら、お父さんが言ってることって、大体正しいから」

 彼女はそう言うと、半ば照れるような笑い声をあげる。

「そう言う父さんは、もう三か月ぐらい帰ってきてないわけだけど」

「お仕事でしょ? そう言われちゃこっちも何も言えないじゃない」

「中国で河童を探しに行くのが本当に仕事なのかなあ……」

「まあ、お父さんが言ってるってことはホントなんでしょ。とにかく、お父さんがそこじゃなきゃダメって言ってるから、何が大変なのかはわかんないけど、もうちょっと頑張りんさいな」

 彼女はそう言うと、総司の返事を待ちもせずに電話を切る。がちゃん、という古めかしい音が聞こえてくる。

「はあ……」

 総司はため息を吐く。どうしてここまで周りが敵ばかりなのだ、と嘆きたくなる。

 やはり、自分の力で何とかするしかないのか、と思いながらもいったんパソコンを閉じる。どうせ、むきになったところで考えてみればもうあと半月は中学生の身分なのだ。

 彼はパソコンをしまうと、再び本とノートを開く。始業してすぐにバイトを始める気なら、やはり後れを取らないように今からしっかりと準備をしておかないといけない。


 しばらく没頭していると、不意に空腹で我に返る。時計を見上げると、もうすぐ一時だった。

 イノウハイツでは昼食は出ないので、たいていどこかで何かを買ってきて食べることになる。もしくは、ルール上は自炊をしても良いのだが、みんなわざわざ昼飯のために食材を買っておくほど豆でもなければ料理に情熱を燃やしているわけでもないので、せいぜいレトルト食品を温める程度の事しかしていない。

 今日は何を食べるかな、と総司は考える。やはり、食堂は今若干いづらいのでどこかに食べに行こう、と考える。そういえば最近巣鴨駅の近くに新しいラーメン屋が建っていたな。

 総司は椅子を降りると。上着を羽織り、財布の中身を確認する。三月は色々バタバタするから、と普段より多めに生活費をもらっていたおかげで少々の外食は問題にならない。

 本とノートを閉じ、机の端に重ねたとき、部屋をノックする音が聞こえた。

「はい」

 総司は応えながら戸を開ける。そこには、結衣が立っていた。

「あの……食堂、来てくれる?」

 彼女は上目遣いにそう言う。

 総司は今、自分の身に何が起こっているかを的確に理解することができず、全速力で頭を整理しようとする。

 自分は今許されたのだろうか?

 なぜ突然口を利いてくれるようになったのだろうか?

 ここで迂闊に調子に乗ると、また痛い目に合うぞ。

 上目遣いされてドキッとしない男はいるのか?

 兎に角今は着いていくべきか?

 もう一度謝った方がいいのか?

 エトセトラ、エトセトラ。

「えっと……大丈夫?」

 彼女は半分ショートしかけている総司を見上げる。

 総司はその言葉にはっと我に帰る。そして、

「わかった」

 と比較的冷静な答えを返した。

 廊下を歩く総司の頭はもういっぱいいっぱいだった。そして、ともすればこれから始まるのは詰問と処刑なのではないか、という恐ろしい可能性に行き当たり、戦慄する。

 きい、と軋む食堂の扉は、そうした気分の時には本当の刑場の扉に思われる。


「イノウハイツへようこそ!」

 その垂れ幕は、お世辞にも出来の良いものとは思われなかったが、手書きの文字がどこか暖かさを感じさせる。何度か使われているのか、新品には見えない。

 机の上には様々な料理の皿が置かれている。ローストビーフ、鶏のから揚げ、シーザーサラダにピザ、寿司、何でもありだ。

 その隣では夢子が自慢げな顔で立っている。きっと、腕によりをかけて作ったのだろう。

 総司はそれらの情報を視覚的には処理し終えたが、いまだにそれの意味するものが全く分かっていなかった。

 呆けた顔の彼の前に、クラッカーから飛び出た紙吹雪が舞い散る。

 見れば、吉澄が笑顔でクラッカーを次から次へと鳴らしている。

「おう、どうした、どうした。もっと楽しそうな顔をしろよな! せっかくのパーティーだからよ、楽しまなくっちゃ損ってもんよ!」

「パー……ティー……?」

「なんだよ、そんな異国に流れ着いた記憶喪失の人間みたいな言い方しなくたっていいだろ?」

 吉澄はそう言いながらもう一度クラッカーを、今度は思い切り総司の方に向けて放つ。

「なんだ、もしかしてまだわかってねえのか?」

 吉澄がにやにやとしながら言うのを、横から雫が押し退けた。

「ごめんね、総司ちゃん。何としても食堂から追い出さないと行けなくてさ。その……サプライズパーティーだからさ」

 彼女はそう言ってはにかむ。

「ここイノウハイツではね、新しい人が入ってきたらその週末にサプライズパーティーをするのが慣例になっていてね。ほら、総司君が入って来てから今日が初めての日曜日でしょ?」

 そこまで言われて、ようやく総司はことを徐々に理解してきた。みんながよそよそしかったのは、これを隠すためだったのか、と気が付く。

「あのな、言っとくけどな。俺は、決まりだからやってるんだよ。俺はお前を歓迎してるわけじゃ」

 夏月はそこまで言って、後ろに立つ夢子から漂う殺気を感知し、口を閉じる。

「不安にさせちゃってたら、ごめんね。でも、まさか前日に結衣と総司ちゃんが喧嘩するとは思わなくてさー」

 そう言いながら雫は結衣の方にちら、と目線をやる。

「えっと、じゃあ、さっきのは怒ってたから無視したわけじゃ……」

 総司は結衣の方を恐る恐る見る。

「まあ、怒ってはいたけど……ちゃんと誤ったから、許してあげる」

 結衣の言葉が聞こえた途端、総司は頭の中で何かがはじけ飛んだような音を聞いた、気がした。

 今までの緊張感のようなものがすべて消えていき、安堵に体が倒れそうになる。そしてワンテンポ遅れて、感激が湧き上がってくる。

 気が付くと、総司は結衣に抱き着いていた。

「ありがとう! ……俺、本当にもうダメかなって、許してもらえないのかなって、思ってたから、もう、不安で不安で、その、それで、えっと……」

 ほとんど泣きそうになりながら思考を垂れ流す。その時、結衣が震えていることに総司は気が付く。

「調子に……乗るな!」

 結衣はそう叫ぶとそのまま後ろに体をひねり、縋りつく格好になっていた総司を背負い投げる。

 あっという間に天地がひっくり返り、総司は床にドスン、と音を立てて叩きつけられる。

 夏月はそれを見てゲラゲラと笑いだす。雫もしばらくはこらえていたが、我慢しきれず噴き出す。慌てて駆け寄ったのは春臣だけで、夢子も「あら、あら」と言いながら微笑んで見守るだけだった。

「結衣は格闘技結構好きだからなー」

 吉澄はそう言って笑う。

 春臣に起こされ、総司は体勢を整える。

「あの、みなさん、本当にありがとうございます。色々とこれからもご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」

「ふふ、総司ちゃんがいると色々今までなかったことが起きて、面白いねえ」

 雫はそう言って笑う。

「面倒ごとを起こしてるだけだろうが!」

 夏月はそこに噛みつくが、雫ははん、と鼻で笑って、

「何? 夏月ちゃん、もしかして、総司ちゃんに嫉妬してんの? みんなが総司ちゃんにばっかり構うからって」

 と言って、

「ねー」

 と総司に後ろから抱き着く。

 総司は、実際雫にそんな気は少しもないのだ、と頭では理解していながらも密着する体の感覚にどぎまぎする。

「けっ、みんなそうやってガキの味方かよ!」

 そう言いながら夏月は皿からから揚げをひとつ摘み取り、口に放り込む。

「あ! まだ食べていいって言ってないんだけど!」

 夢子はそれを見とがめる。そして、一つため息を吐く。

「まあ、いきなりドタバタしちゃったけど、とにかくみんなコップを持って乾杯から始めましょうか。さ、春臣さん、何か一言」

 彼女はそう言って、あらかじめ飲み物のなみなみ注がれているグラスを皆に配り始める。

「え、僕ですか……。うーん、こういうのは得意ではないのだけれど……」

 そう言いながらも満更ではないのか、こほん、と一つ咳払いをして、あー、あー、などと無いマイクに向かってテストをする。

「それでは、このイノウハイツの新しい住人となった柳生総司君がこれからうちで楽しくやっていけるように、そしてみんな仲良くなれるように、乾杯!」

「乾杯!」

 皆がグラスを高くつき上げ、ごくっと一気に飲む。

「さ、じゃあみんなで冷めないうちにお料理もいただきましょうか」

 夢子の号令と同時に結衣はすごい速さで料理皿の方へと飛んでいく。

「大人はビールもあるからね」

「フフフ、この時だけ! 人の金でビールが飲める!」

 吉澄はそう言いながらビール缶を取り、開ける。

「子供はジュースだぜー」

 と言いながらもきちんと一本ジュース缶を取ると、総司の方に投げつける。

 缶を開け、ごくごくと音を立てながらジュースを飲んでいると、裾を引っ張られていることに気が付く。

 振り返ると、結衣が皿を片手で二つ器用に持って、総司の裾をつまんでいた。

「えっと、一個、俺の?」

 総司が聞くと、結衣は何も言わずに二回頷く。よく見るとすでにその口にはいっぱいに食べ物が詰まっている。

「ありがとう」

 そう言って総司は一つ受け取る。雑に乗せられた料理はまとまりがなくばらばらで、しかし、どれも一つ一つがおいしい。

「おっ、若者たちいい雰囲気じゃーん」

 二人の間に雫が突然割って入り、肩に手を回す。

「いや、そういうのじゃ……」

「そうですよ、誰がこんなデリカシーがないのと」

「いやいや、そういうこと言ってるんじゃないんだけど?」

 雫はにたあ、と笑う。

「ま、何にせよ仲良きは良きことかな! もう喧嘩しちゃだめよ」

 彼女はそう言うとスキップしながら料理皿の方へと向かう。

「酔ってんのかな」

「雫さん、まだ未成年だからそんなことはないと思うけど……夢子さん、そういうとこは厳しいから」

 それを聞きながら総司は、自分はまだこの人たちのことを少ししか知らないのだなあ、と考える。当たり前の事であるが、少しさびしさもある。

「明日は買い物、俺も行っていいよね?」

 明日から、ゆっくりいろんなことを聞いていこう。そう考える。

「うん。ちゃんとエコバッグ、持ってきてね」

 結衣はそう言って笑う。久しぶりにその笑顔を見たような、そんな気がした。

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イノウハイツ・イチマルサン 七篠 ゴン @y_koga

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