第2号 ハイツの休日(前)
住めば都、であるとか、美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れる、であるとか、とにかく人間の適応力の高さを示すことわざは古今東西さまざまである。
柳生総司は、毎夜繰り広げられる雷光戦にも四日ですっかり慣れてしまい、気にもせず眠れるようになっていた。
実際、喧嘩の内容は毎日くだらないもので、やれ夜隣でうるさいだ、やれ戸棚に置いておいた菓子を勝手に食べただ食べられただ、要するにぶつかり合う口実がほしいだけなのだ、とわかってしまい、気にするのが馬鹿らしくなっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
食堂には大体六時半ぎりぎりに起きてくる総司が一番最後で、他はみんなすでに着席している。もちろん、雫はいつも欠席で、かれこれ四日間、総司は一度も彼女を朝見ていない。夢子に言わせると、大体月に二、三回ぐらいは起きてくる、らしい。
総司にとってこの四日で変わったことと言えば、挨拶をしたときに、結衣が返事をしてくれるようになったことだった。春臣と夢子は最初からだし、吉澄もすぐに挨拶するようになったので、毎朝夏月だけが返事をしないことが総司の気にかかる。
しかし、それよりも毎朝結衣と挨拶を交わせることの方が重大であって、大したこととは思えなかった。
「さて、そろそろ総司君もここに慣れてきたころだと思うし、お仕事の分担をお願いしようかしら」
夢子は皆の椀に飯をよそいながら言う。この四日で気づいたことだが、彼女は朝の様子と普段の様子を見比べて、それぞれにちょうど良い量の飯を的確によそっている。これも一つ何かの異能なのではないだろうか、と総司は少し考える。
「その前に、ね」
彼女はそう言って手を合わせる。皆もそれに合わせる。
「いただきます」
その言葉と同時に、いつも最初に動くのは結衣だった。ものすごい速さで箸を取り、口に放り込む。小さな口なのにどうしてこんな早さで食べられるのだろうか、といつも感心する。そして、何かに似ているな、と思っていたのがリスやハムスターのそれだな、と気が付く。
「あのね、総司君」
夢子が口を開く。
「ここでは、みんなそれぞれ家事の一部を分担してるのよ。大道君は電気周りの整備担当で、雫ちゃんがお掃除ね。春臣さんはオーナーだし、お仕事が忙しいからなし。で、石田さんがもめ事の仲裁役で、結衣ちゃんがお買い物」
「吉澄さん、つまり何もやってないってことじゃ……」
「まあ、普段はね」
そう言いながら夢子はおほほ、と笑う。もしかして夢子さんのあたりがどことなく吉澄さんに対して強いのは、彼が普段から何もしていないからなのではないだろうか、と総司は邪推する。
「で、結衣ちゃんにいつもお買い物お願いしてるんだけど、ほら、この大人数のお買い物じゃない? 女の子一人だと大変そうで、まあいつも大道君とかが助けてあげてるんだけど、どう、お買い物、二人でやってくれない?」
夢子は総司に向かって言う。もちろん、面倒くさいことには面倒くさいのだが、みんなが分担しているというなら当然やるべきだし、なにより結衣と二人で外に行けるというのが魅力的に聞こえた。
「やります!」
考えるよりも先に、言葉が出ていたことに総司は気が付く。
「よかったあ。じゃあ、結衣ちゃんに色々聞いてね」
そう言うと彼女は立ち上がり、いつも通りコーヒーを飲む人を確認する。男衆が手を挙げ、総司も手を挙げる。結局二日目以降、ブラックはきついのでミルクと砂糖を少し足して飲むことになった。大人の階段は段飛ばしには上れないなあ、と思いながら少し甘ったるいコーヒーを飲む。
不愉快そうな顔をしているのは夏月だった。
「てめえ、新入りのくせに買い物の手伝いだ? 楽しやがってよ」
「まあまあ、いいじゃない。まだ右も左もわかんないんだからさ」
そう言いながら吉澄は夏月の肩をぽん、と叩く。夏月はそれを不機嫌に振り払い、少し残ったコーヒーを一気に流し込むと、立ち上がる。そして、膳とコーヒーマグを流しにおいて、「ごちそうさん」と短く言うと、どたどたと足音を響かせながら二階へと向かっていく。
「いやあ、なっちゃんのアレ、照れ隠しだからさ。ほら、ツンデレってやつ? いい奴なんだけどさあ、ちょっと対人能力に問題があるんだよねえ。ま、ここにいる人たちみんな大体そうだけど」
そう言って吉澄は笑う。そしてキッチンの方を見ながら、
「ほら、夢子さん、見てた? 俺ちゃんと仕事してるっしょ?」
と声を上げる。
男のツンデレなんて、少しも嬉しくないんだけどなあ、と考えながら総司は隣を見る。結衣はおかしそうにくすくすと笑っている
最初に食堂で見たときには、よほど取っ付きにくそうな人だと思っていたが、四日で思いのほか打ち解けることができた。この調子でもっと仲良くなれれば、と思っていたところで毎日二人きりの時間ができたというのは、まさに
「じゃ、ごちそうさま。僕は午前の診療の準備があるので失礼しますね」
そう言って春臣は食器を片付ける。吉澄もそれを追いかけるようにそそくさと部屋を出た。どこか動きがこそ泥のようなのを見るに、ちょっとした肩身の狭さのようなものを感じているのだろうか、と思う。
洗い物をしていた夢子はそれを中断し、食卓へとやってくる。
「それじゃ、一息ついたらお夕飯の買い物に行ってくれるかしら。今日は、そうねえ……ぶり大根でも作ろうかしら」
そう言いながら夢子は立ち上がり、電話台に置いてあるメモ用紙を一枚切り取り、ペンと一緒に持ってくる。そして少し考えてからさらさらと必要なものを書き出す。
「それから、お菓子もいくらか適当に買ってきてくれるかしら? 余ったお金で選んでね。なんか昨日、大道君が勝手に食べちゃったからって雫ちゃんがずいぶん怒ってたみたいだから」
そう言って彼女は千円札を二枚手渡す。結衣はそれを受け取ると、パーカーのポケットから大きめのがま口財布を取り出す。
「お釣りとかは全部ここに入れることになってるの」
結衣はそう言いながら、千円札を折りたたみ、がま口に突っ込むと、そのまま再びパーカーのポケットにしまう。
「九時に出発ね」
彼女はそう言うと、食器を片付け、部屋に戻っていく。壁掛け時計を見ると、まだ八時前だった。総司も食器を片付け、部屋に戻った。
「ふふふ、ふふふ」
ベッドに転がりながら、笑いが漏れてくるのを感じる。わざわざ東京まで出てきたかいがあったものだ、と総司は思う。考えてみれば小学校以来、女性なんて母親と先生ぐらいしか見ていなかったのに、気が付けば二人で買い物だ、まるで夫婦のようではないか。
「何だテメー、浮かれちまって、気持ち悪いな」
突然声が聞こえてびくっとなる。体を起こす。部屋には誰もいない。
よく見れば、窓の外から夏月がのぞきこんでいることに気が付いた。
「ちょっ、プライバシー、プライバシー!」
朝起きたときにカーテンと窓を半開にして、そのままだったことを思い出し、慌てて閉めようとする。
それよりも機敏な動きで夏月は窓をがっと掴む。力で勝負するととてもかなわず、そのまま窓は全開にされる。
「お前、結衣に手を出そうとでもしてんのかぁ?」
夏月は窓から首を突っ込み、大声でにやにやとしながら言う。
「馬鹿、大道さん、そんな大声で、隣に聞こえる……」
「おおっ、図星かよ?」
そう言いながら、
「それはそれとして」
と
「年上に馬鹿なんて言うやつがあるか」
「突然だったんだから、仕方ないじゃないですか」
総司はそう言いながら一歩距離を取り、頭をさする。本当はもっと離れてしまいたかったが、そうすると彼はそのまま窓を乗り越えて部屋に入ってきそうな空気さえあった。
「まあ、いいや。俺が言いたいのはな、ただでさえ自分の異能をさらさないお前のことを、みんな不審がってるのによ、これ以上面倒くさいことをハイツで起こしたら、ただじゃおかねえってことだ。」
夏月は、総司を見下ろしながら睨み付ける。
「とにかく、結衣は優しいから相手してくれてるけどよ、お前のこと迷惑がってんだよ。
呆然とする総司を後目に、言いたい放題を言って機嫌をよくした夏月は、
「じゃあな、あんま調子乗んなよ」
と言って庭で体操を始める。
そうか、やっぱりみんなあれだけオープンにしてるのに、自分一人だけ隠している、というかそもそも異能なんて持っていないのは、迷惑なのか、と少ししょぼくれる。
やはり、どうにかして転居した方がいいのだろうか、と考え始める。ちょうどよいことに、朝夕食はタダだし、昼食分はある程度仕送りがあるのだから、そこまで高給取りにならなくても、普通のバイトを普通にやっているだけでお金はある程度ためられるだろう。
引っ越しを決めてから母さんには事情を伝えよう、そう考える。
持ってきたパソコンをコンセントにつなぎ、立ち上げる。そう言えば、この建物にインターネットは通っているのだろうか、と気になる。
総司はパソコンを立ち上げたまま、部屋を出て、食堂の隣の管理人室の戸を軽く叩く。
「はい、はい」
中でくつろいでいたと思われる夢子が出てくる。
「あの、この建物ってインターネット通ってますか?」
そう言うと夢子は不思議な言葉を聞いたかのような顔をして、
「インターネット?」
と聞き返す。
よもや、この時代にいくら年を取っているからと言ってインターネットの事を知らない人がいるなんて、と総司は絶望する。これでは、バイト探しだって簡単にはできない。
「なんて、冗談よ。さすがにインターネットぐらい知ってるわ」
しょげ込んだ総司を見て、夢子は笑いだす。相変わらずいたずらが好きだな、と総司は呆れる。
「私はよくわからないから、そう言ったことは全部大道君に任せてるのよ。たぶんこの時間は庭で体操とかしてるんじゃない? 聞いてみるといいわ」
そういうと彼女はまた奥に引っ込んでいく。どうやら、朝の連続ドラマを見ていたらしい。悪いことをしたな、と思う。
そして、同時に夏月に頼みごとをするのか、と気分が重たくなる。どうにも彼は総司を嫌っているように思われて仕方がない。果たして、頼んだところでやってくれるのだろうか、と思うと、声をかけるのもためらわれる。とはいえ、彼しかわからないというのならあきらめて頼むしかない。そう決心して、総司は玄関へ向かい、靴を履くと、庭へ出た。
「おう、なんだ。喧嘩でも売りに来たか? 相手してやるぞ」
夏月は視界に総司を認めた途端、ファイティングポーズをとり、体中をばちばちさせる。
気を抜けば今すぐにでも飛びかかってきそうな彼を見て、総司は慌てて両手を振る。
「いや、そうじゃなくて、ちょっとお願いが……」
「お願いィ? お前が、この、俺にか? なんで俺がお前の頼みなんか聞いてやらなきゃならんのだ」
夏月はばちばちを解きながらもやれやれ、といった様子で肩を上げ、手をひらひらさせる。
「インターネット、使わせてほしいんですけど……」
「あぁん? インターネットなんて、何に使うんだよ。あ、アレか、エロ動画か! 年頃だもんな、ハハハ。結衣の事は諦めて右手で我慢しようってか!」
彼はわざとらしく大声で言いながら下卑た笑い声を立てる。
「いや、そういうのじゃなくて、あと声が大きい……」
「で、なんで俺がお前に協力しなきゃいけないんだよ」
突然夏月は真顔になる。結局、ここまで頼んでもダメなのか、という失望感に総司はがっくりと肩を落とす。
「まあまあ、なっちゃん。そんなに意地悪してやるなよ」
夏月の後ろにいつの間にか吉澄が現れて、肩に手を置く。もう慣れっこなのか、夏月はその手を静かに振り落とす。
「なっちゃんって呼ぶな。それに意地悪じゃねえ。何の用途で使うのかもわからないのに共用Wi-Fiのパスコードは渡せないだろうが」
いかにも今取って付けたかのような理由をでっち上げて、その出来に満足したのか、ふんぞり返って自慢げに言う。
ふうむ、と吉澄は考え込む。
「で、ちなみに総司君は何するのにネット使うの?」
どちらかというと吉澄に興味が出てきた様子で彼は総司の方をのぞき込む。
「えっと……その、バイトとか探そうかなって」
「バイト?」
「ええ、その、ちょっとお金を貯めたくて……」
しどろもどろに答える総司の方を吉澄はじっと見る。そして少し間をおいて、
「なんで、お金を貯めたいの?」
と聞く。
総司はぱっと答えられずに、口ごもる。
「ねえ、なっちゃん。君さ、総司君に何か意地悪とかしたり、してない……?」
吉澄はおもむろに夏月の方を向き直り、じっとその目を見つめる。それを見て夏月はたじろぐ。
「そんなこと……男の中の男がするわけがないだろう」
そう言いながら彼の目はだんだんと吉澄を離れ、横へと向いていく。
吉澄はふうん、と声を漏らし、再び総司の方に目を向ける。彼も何となく目を合わせづらく感じ、視線を地面に落とす。
「これは、ちょっと夢子さんにお話ししないといけないやつかなあ」
その途端、夏月が動いた。
「すまん、俺が悪かった、だから、な、夢子さんには、黙っておいてくれないか……」
彼は吉澄に懇願するように頭を下げる。見れば、体が小刻みに震えている。
「いやいや、謝る相手が違うでしょー」
吉澄は呆れた顔で無造作に伸びた髪をぼりぼりとかく。
「あー、その、なんだ、後で俺の部屋に来い、キーを書いた紙をやるから」
夏月は総司の目を見ずに言う。吉澄が後ろでため息を吐く。
「なっちゃーん」
「うるさい!」
そう叫ぶと彼は小走りで家に入っていく。
「あーあ、行っちゃった。ごめんねえ、総司君。なっちゃん、あんなだからさ。いじめられたら俺に教えてくれよな」
吉澄は総司の肩を二度ほど軽く叩くと、すっと消える。見れば、いつの間にか廊下を歩いている。
総司も玄関に戻り、靴を脱ぐ。そう言えば、初めて来たときには投げっぱなしにしていたな、と思い出しながら靴をそろえ、靴箱に入れた。
夏月の部屋は201、二階の最東端にあった。ちょうど食堂のある場所の上にあたる部分が稲生鍼灸院の診療所になっているため、部屋の広さは一階と変わらない。
「失礼します」
総司はノックとともにドアを開ける。
その部屋は若い男性の者としては相当きれいで、というよりも、部屋用の小型トレーニングマシン以外にはほとんど何もない殺風景なものだった。
申し訳程度においてある小さな机の上のパソコンの画面を夏月は見ていた。
「ああ、柳生か。ほれ、このキーを入力したらいい。Wi-Fiの使い方ぐらいわかるよな?」
ぶっきらぼうにそう言いながら渡された手書きのメモは、予想外にきれいな字だった。
「はい、ありがとうございます」
「用が済んだなら帰れ」
夏月はそう言いながらしっし、と手を振って総司を追いやる。彼は吉澄に心の中で小さく礼を述べ、部屋を後にする。
ちょうど総司が夏月の部屋を出たとき、隣の部屋のドアが開いた。
「あ、総司ちゃんじゃーん、おはよー」
中から出てきたのは、目がまだ半開きの雫だった。
「おはようございます」
総司は軽く会釈する。
「どしたの、夏月ちゃんの部屋にいたってことは……やっぱり、そういう関係なの!? ほら、喧嘩するほど……みたいな?」
彼女はにやにやとしながら距離を詰める。女性耐性のあまりない総司はその距離感に一瞬ぎょっとする。
「へへへ、なんて冗談。あたし、実は小説家なんだよねぇ。で、普段から男同士の、ほら、そういうのばっかり書いてるからさ、ついそっちに考えが行っちゃって」
そう言いながら雫ははにかむような笑いを見せる。
「じゃ、少年、あたしはご飯買ってくるけど、是非面白い展開、期待してるぞ」
彼女は総司の胸のあたりを指でつつく。少しどきっとしている間に雫は踵を返し、下に降りていく。
総司はしばらく固まったように呆然としていた。そしてはたと我に返り、あわててスマホを取り出す。時刻は九時二分を示していた。
「まずい!」
思わずそう叫ぶと、階段をどたどたと駆け下りて、自分の部屋の戸を開ける。夏月から受け取ったメモ用紙を机の上に放り投げるように置くと、上着を押し入れから引っ張り出し、玄関に駆け込む。
「……遅い」
結衣はジト目で総司を睨み付ける。
彼女は薄い青色のパーカーに、クリーム色のふんわりとしたスカートをはいている。
そういえば、結衣が外出するところを初めて見るな、と総司は思った。
「ごめん、ちょっと立て込んでて」
総司は目を空に泳がせながら、何とはなしに頭を掻く。
「ふぅん」
結衣はどうでもよさそうに相槌を打つ。
「まあ、いいけど。行こ」
そう言ってドアを開けると、彼女は外へと向かう。総司は雛鳥のように後ろに続く。
巣鴨駅まで歩くと、その隣のスーパーに入る。
「あ、そうだ」
結衣はふと思いついた、という様子で口を開いた。
「携帯」
彼女はそう言ってスマホを取り出す。
「?」
総司は言っていることの意味が理解できず、止まったままだったが、それを見て結衣がため息を吐き、
「番号教えて。スーパーの中ではぐれるかもだから」
そこまで聞いてようやく彼は、結衣が電話番号を交換したいと言っているのだ、と理解する。
そして、危うくその場で飛び上がりそうになる。そして冷静を装いながらそれをこらえる。
「あー、えっと、赤外線とかでいいかな?」
「……古くない? まあ、あるからいいけど」
そういうと彼女はスマホを総司の方に向ける。総司も慌ててポケットからスマホを取り出すと、受信口を向ける。
なかなかうまくいかず、三分ほどの格闘の末にようやくお互いの電話番号が記録される。
「よし、これで完璧だね」
結衣はそう言うと、もうすっかり慣れてしまっているのか、迷うこともなく目的のものの売り場へと最適化された動きで素早く移動し、その中から一つを取ると、総司に持たせた買い物かごに放り込む。
やはり、小動物のようだ、後ろから必死に追いつきながらも総司はそう思う。そして、番号を好感しておいてよかった、と思う。ちょっと気を抜くとすぐに見失ってしまいそうだった。
「赤穂さんは、いつからイノウハイツに?」
番号を交換してから、ずうっと黙ったままで静かに自らの仕事を遂行しようとする結衣に対し、ふと思ったことを総司は聞いてみる。
「赤穂さんは、いつからイノウハイツに?」
ずうっと黙ったままで静かに自らの仕事を遂行しようとする結衣に対し、ふと思ったことを総司は聞いてみる。
「私? 三年前からだけど」
彼女はぶりの品定めをしながら答える。
「じゃあ、中学生のときかあ。いったいなんでそんな頃から下宿暮らしを?」
総司がそう言った瞬間、パックを持ち上げる結衣の手が固まるように止まった。
「まあ、色々あるのよ」
「へえ、そんなもんかあ」
総司は結衣の声が少し震えていることに気づかない。
「あ、そういえば高校ってどこに行ってるの? 俺は××高校に入るためにこっちに来たんだけど」
結衣は二つ見定めたパックをかごに入れると、
「さて、全部そろったからあとは帰るだけね」
そう言いながらレジの方へと向かう。何もはぐらかすことはないのに、と思いながら総司はずいぶんと重たくなったかごを持って小走りの結衣を追いかける。
「レジ袋はご入用ですか?」
バイトと思われる高校生ぐらいの男性店員が総司の方を見ながらやる気もなさそうに聞く。
「エコバッグ、持ってきたよね?」
結衣が聞くと、総司はそれに全く考えが及ばなかったことに気が付く。
彼が手を横にひらひらさせながら持っていないことを示すと、結衣は一つ小さなため息を吐く。
「お願いします」
彼女はそう言う。少しハスキーなその声にはっとしたのか、それともふと顔を上げたときに結衣の顔が目に入ったのか、そのバイト君がおっ、と言わんばかりに口をすぼめたのを総司は見る。
きっと、高校でもこっそりモテてたりするんだろうなあ、と思うと、彼女が普段どうして過ごしているのか、余計に気になる。
もしかして、もうすでに彼氏がいたりするんじゃないだろうか、そんな考えも脳裡をちらとよぎる。
実のところ、見てくれは良いわけだし、その小動物のような動きといい、意外と大食いだったりするところといい、かわいらしさを凝縮したようなところが、彼女にはたくさんある。それでいて、自分からはあまりしゃべらない人見知りで、どことなくミステリアスなのが、また、男の探求心をくすぐるのだ。彼はそう分析する。
そして、別に俺には関係のないことだ、と自分の中に湧き上がる雑念を振り払おうとする。
気が付けば、もう会計も終わっていて、何をぼうっとしているのだというように結衣が睨み付けていた。後ろに並んでいた中年の女性も迷惑そうに総司を睨み付けている。
彼は慌てて買い物かごをひったくるように持ち上げると、レジから持ち出す。
かごからレジ袋に荷物を移しながら、結衣はもう一つため息を吐いた。
「もうちょっと、しっかりしてくれると助かるんだけど」
「ごめんなさい……」
彼は三つになったレジ袋を両手で持ち上げると、揚々とスーパーを出ようとする。
「一つぐらい持つけど」
「いいよ、俺、荷物持ちぐらいしかできないから」
「……じゃあ、お願いしようかな」
結衣はそう言って彼の前を歩き出す。少し歩けば駅前というよりも、田舎といった方が近い雰囲気になる。
「さっき結局答え聞きそびれたけどさ」
総司はふと思い出して口を開く。
「結局どこの高校なの?」
その途端、結衣は立ち止まり、後ろを歩いていた総司は思わず結衣にぶつかりかける。
危ないぞ、そう言いかけたときに結衣が先んじて口を開く。
「高校には、……行っていないの」
「えっと……どうして?」
総司が聞くと、結衣は彼の方を向き直り、睨み付ける。
「そういうこと、普通聞く? デリカシーなさすぎ」
彼女はそう言うと、回れ右をして彼に背を向ける。
そしていつもの小動物的機敏さですっと歩き出すと、見る間に総司との距離が離れる。
総司は慌てて彼女を追いかける。レジ袋が重たいのが憎らしい。
「あの、ごめん、そういうつもりじゃなくてさ……」
ぴた、と彼女の足が止まる。
「ふうん、じゃあ、どういうつもりだったの?」
彼は頭を必死に動かして最適な言い訳を探す。
「えっと、ほら、どうして立ち止まったのか気になっちゃって……さ、ほら」
うん、最悪の出来だ。総司は一瞬で後悔した。自分でも笑いが出るほどひどい言い訳だし、もしも世界ひどい言い訳ランキングがあるならトップテンぐらいは堅いな、と思う。
次の瞬間、何かに弾かれたかのように結衣の目がはっと見開かれる。
そして、少し息を呑んで、総司を睨み付けた。
「何それ、もうちょっとましな言い訳、無かったの?」
そして当てつけのように大きなため息を吐く。
「大道さんも言ってたけど、私も嘘つきは嫌い」
静かに言い捨てると、再び歩き出す。それはだんだんと早くなり、すぐに走り出した。
もともと体力のある方でもない上に重荷を持ったままの総司は必死に追いかけようとするが、すぐに突き放される。彼女の足は思いのほか速かった。
取り残された総司の頭の上に、「嫌い」の二文字がどん、とのしかかり、彼は膝からがっくりと
ハイツの玄関を開けると夢子が出てきた。
「あらあら、結衣ちゃんだけ帰って来たから何かと思ったんだけどちゃんとお買い物できたのね、お疲れさま、ありがとう」
そう言ってすっとレジ袋三つを彼から引き取ると、そのまま流しの方へと向かっていく。
もしかして、彼女は自分よりも体力があるのではないか、と総司は自分自身に呆れかえる。
結衣が食堂にいるのではないだろうかという一抹の希望をもとに総司は夢子のあとを追いかける。
食堂に結衣がいたら、もうくだらない言い訳はやめよう、そう思う。もうすでに遅いのかもしれないけれど、土下座をしてでも謝ろう。
そんな決意とは裏腹に、食堂には誰もいなかった。
前のめりになっていた分、総司の気持ちは少しつんのめったように行き場を失い、はあ、とため息に変えて、そのまま座り込んだ。
「はい、お茶が入りましたよ」
そう言いながら月子はいつの間に準備していたのか、湯呑に茶を入れて運んでくる。
「ありがとうございます」
総司はそう言って一口すする。口の中にほのかな塩味と旨味が広がっていくのを感じる。何かと思ってみてみれば、底に細かく刻まれた昆布がゆらめいている。
「ちょうど飲もうかと思っていたところだったんだけど、なんだかお疲れだったみたいだから」
そう言って彼女は笑う。
「すみません、俺なんかがもらっちゃって」
「いいの、いいの。別にたくさんあるんだからまた淹れればいいだけ。人生、一息吐きながらゆっくりやるくらいがちょうどいいのよ」
総司はそれを聞いて、今の今まで焦りすぎて、それゆえよりひどく空回りしていた自分に気が付く。
「ありがとうございます」
総司はもう一度礼を言うと、昆布茶を飲み干し、流しに運ぶ。
「そう言えば、赤穂さんは先に帰ってたと思うんですけど、どうしました?」
「ああ、結衣ちゃんなら何かさっさと部屋に帰っていったけど、もしかして……喧嘩でもしたの?」
夢子に図星をつかれ、はは、と声が漏れる。
「そうなんです。喧嘩っていうか、全部俺が悪いんですけど」
「あらあら、困ったわねえ」
夢子は自分の分の昆布茶を淹れながら、ううん、と唸る。
「おっ、うまそうなにおいがすると思ったら、夢子さんいいもの飲んでるじゃん、俺のもある?」
そう言いながら入って来たのは夏月だった。
「大道君は雫ちゃんのお菓子勝手に食べちゃうから、だめよ」
夢子が言うと、夏月はがっくりと肩を落とす。
「なんて、冗談だけど。もう、喧嘩しちゃだめよ」
夢子はそう言って笑うと、流しの方へと向かっていく。
夏月は総司の向かいにどん、と音を立てて乱暴に座った。
「なあ、さっきちらっと聞こえたんだけど、お前、結衣と喧嘩したのか?」
夏月がどことなく嬉しそうな顔をしているのを見て総司はげんなりする。
「まあ、はい」
「そうか、そうか。だから言っただろうが、あいつはお前の事迷惑がってるんだよ。ほら、とっとと身を退けよな」
「別にそういうのじゃ……!」
総司が反論しかけたとき、夏月はふと横から何かの気配を感じる。
そちらの方を向いてみると、夢子が笑顔で立っていた。座っている夏月と、立っている夢子ではさほど差がないとはいえ、さすがに夢子の方が上から見下ろす形になる。
「大道君、総司君をいじめちゃダメだって、言ったよね? 喧嘩をするなって言ったよね?」
「あー、いや、夢子さん、これはじゃれてるだけでね……?」
「嘘つきは嫌いじゃなかったの?」
夢子は的確に夏月を刺す。ともすれば、夢子が夏月をいじめているようにも見える。
「あ、あの、夢子さん。本当に大道さんと僕はじゃれてただけなので、あんまりいじめないであげてください」
そう言ったとき、なぜ自分が夏月に助け舟を出しているのか、総司は自分で理解できなかった。
夢子は一瞬ぽかん、とした後でふっと我に返ったような顔をする。
「あら、そう。じゃあいいんだけど。疑ってごめんなさいね」
そう言いながら彼女は流しの方へと戻っていく。
「恩でも売ったつもりか?」
夏月はさっきより少し小声で総司に言う。
「いや、そんなわけじゃないですけど……。どうせなら、仲良くできる方がいいじゃないですか」
「けっ、気持ち悪い」
夏月はそう言ってそっぽを向く。
なかなかうまくはいかないなあ、と総司は頭を掻いた。
「おっ、どしたのどしたの。なんだか倦怠期の夫婦みたいにしてさー」
食堂の入り口から声が聞こえる。二人がそちらを見ると、雫が軽く手を挙げる。
彼女は戸棚の方をちらと見て、そこに総司の買ってきたクッキーが入っていることに気が付く。
「夢子さん、これあたしの?」
「そうよ、総司君にこの間の分買ってきてもらったの」
「あ、そうなんだ。ありがと、総司ちゃん」
彼女はそう言って戸棚から袋を取り出すと、中から二枚クッキーを抜き取り、一枚を総司の方に投げる。
「おい、俺のはないのかよ」
それを見て文句を言ったのは夏月だった。
「夏月ちゃんは勝手に食べたからだめ」
「ちくしょう、みんなそう言いやがる!」
「人のもの勝手に食べるのが悪いんでしょ。それにそもそも総司ちゃんにあげたのは、お駄賃代わりだから」
そう言いながら彼女はクッキーを頬張る。
「えっと……いります?」
総司は何となくいたたまれなくなって夏月の方にクッキーを差し出す。
「いらねえ、お前からの施しなんか絶対に受けてたまるか!」
彼はそう叫ぶと、憤慨した様子で立ち上がると、食堂を後にする。
「あーあ、怒っちゃった。自分が悪いのに。ねー?」
雫は総司の方に微笑みかける。
「あら、行っちゃった。せっかく昆布茶入れてあげたのに。……雫ちゃん、飲む?」
夢子が流しからやって来る。
「お、いいっすねー! 甘いものには昆布茶が合いますもんね」
彼女はそう言って奪い取るように湯呑を手にすると、ずずっとをすする。そして、ぷはー、と声に出して息を吐いた。
「ところで総司ちゃん、さっき結衣とメッセージ飛ばしてたんだけどさ、喧嘩したんだってねー? 結衣、怒ってたよ」
雫は半ばからかうように言う。総司はそれを聞いてやはり、という気持ちになる。雫やはり、に愚痴を漏らす程度には、憤慨しているのか。
「ほら、あの子もさ、結構頑固だから一回怒り出すとあんまり話聞いてくれないし、まあ今日のところは嵐が来たと思って諦めた方がいいよ。大丈夫、そのくせ鳥頭だから明日になったらさっぱり忘れてるって」
そう言って雫はからっと笑う。
腰まで伸びて手入れもされていないぼさぼさの髪と、大きなクマ、それからいつも黒系のワンピースを着ているせいで、外から見ただけだとどこかじめっとした雰囲気が漂っている雫だったが、しゃべることはどちらかというとからりと乾いた感じだな、と総司は思った。
「頑張れ少年、こういったことに障害はつきものだ、めげるんじゃないぞ!」
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