イノウハイツ・イチマルサン

七篠 ゴン

第1号 イノウハイツへようこそ!

 柳生総司やぎゅうそうじは困惑していた。目の前の事態を合理的に説明することも、理解することもできなかったからだ。

 この世の中には物理法則というものがある。物は高いところから落ちるし、氷を触れば冷たいと感じる。そして総司が知る限り、大男が電撃を放つことも、女性が火の玉を投げつけることも、物理法則に、たぶん、反している。なぜこんなことに、と彼はその優秀な頭脳で今日の事を振り返る。


「山手線の巣鴨駅を出て、大体七分ぐらい歩けばつくからね。古いアパートだから、きっと一目でわかるはず」

 総司は母親の言葉を思い出しながら、巣鴨の町を歩いていた。噂通り老人が多くて、のどかなところだなあ、などと考える。高校進学を機に茨城から出てきた彼にとって東京と言えば、渋谷や新宿の人混みと連想されるものであったので、どこか拍子抜けするようだった。

 もうすっかり寒さはどこかへ去っていったようで、春の陽気ともいえるようなうららかな日和になっていた。とはいえ、七時を過ぎるともうすっかり夜で、風が吹けばまだ肌寒く感じる。

 それにしても、と彼は考える。あたりを見ればそれなりに年季の入った建物が多いのに、それでもなお一目でわかるなどと言われるということは、どれほど古い建物なのだろうか。

 スマホの地図アプリを頼りにしばらく歩いていると、ふと目の前に三階建ての比較的大きな建物が目に入る。そしてそれは、本当に人が住んでいるのか、と一瞬疑問に思う程度には古く、手すりはさび付き、壁はぼろぼろだった。その壁はよく見ると、うっすらと焦げが付いているようにも見える。

「まさか……ね」

 彼はそっとスマホを見下ろす。「目的地周辺に到着したため、案内を終了します」との文字を残して、案内機能は終了している。

「いやいやいやいや。落ち着け、いつ大地震が来るかもわからないこんなご時世にまさか母さんが将来ある息子をこんなぼろの建物に入れるなんてことはありえないよな」

 総司は自分に言い聞かせるようにつぶやくと、そっと玄関の札を見る。

「イノウハイツ」

 その文字列は、彼が家を出る前、母親に聞いていた新しい住居の名前と、完全に一致していた。

「ぼろ家で悪かったね」

 突然声が聞こえる。総司はあわててその声の主を探す。そして、目の前に自分の半分ほどの身長の老女が立っていたことにようやく気付いた。

「あれ、おばあさんはもしかして」

「ここの管理人の佐々木ささき夢子ゆめこです」

 彼女はそう言ってお辞儀をする。この様子だと、自分の事はわかっているのだな、と総司も観念する。

「柳生総司です。母から連絡が行っているかと思います。どうぞ、よろしくお願いします。……えっと、あと、その、すみません、さっきのは聞かなかったことに……」

 どぎまぎする総司とは対照的に夢子は呵々かかと笑う。

「いやね、ここを見たらみんな同じことを言うからね、もう慣れっこなんだよ。間違っちゃいないしね。でも、大丈夫。震度七の地震が来ても、中で核爆発が起きても全然平気な建物だから」

 あまりにあっけらかんと言うので、たぶん、本当の事なんだろうなと一瞬納得して、

「いやいや、核爆発は無理っすよね」

 と慌ててツッコむ。

「さあ、試したことはないからわからないけど」

 夢子はそう言ってまた笑った。

「お母さんから話は聞いてるわ、まあ、とにかくあがってちょうだい。本当はみんなに紹介したかったんだけど、もう食事の時間も終わっちゃってるから、いる人だけね」

 彼女はそそくさと玄関を開ける。ぎい、という音とともにすこしかび臭い、よく言えば和風なにおいが漂ってきた。そしてそれに乗って、スパイスの効いた香りが漂ってくる。すると総司のお腹からぐう、と間抜けな音がした。

「あらあら、ご飯まだなのね。うちの規則では七時以降はご飯を出さないことになってるんだけど……まあ、知らない規則は守りようがないしね。まだ残っているから食べなさい」

 夢子は笑いながら、手際よく脱いだ靴を靴箱に入れると、そのまま廊下をまっすぐ歩いていく。総司も慌てて靴を脱ぎ、そのまま彼女のあとを追いかけた。

 突き当りのドアを開けると、畳張りの部屋に、大きな食卓が一つ置いてあり、少女と男が一人ずつ向かいあって座っていた。

「ほら、結衣ゆいちゃん、春臣はるおみさん、新しい入居者さんよ」

 夢子はそう言いながら奥の方へと消えていく。しばらくガサゴソと言う音が聞こえてくる。

「ああ、君が総司君か。なんでも今日新しい入居者が来るというから楽しみにしていたんだ。よろしくね」

 男は立ち上がり、右手を差し出す。

「あ、そういえば自己紹介してないね。僕は303号室に住んでる稲生春臣いのうはるおみ

 それを聞いて総司は春臣の方を見る。すっきりとした短髪と、でこぼこのない肌は清潔感がある。決してイケメンという程ではないのだが、普通よりやや上の容姿だろうか、などと測る。フレームレスのメガネをかけており、服はよれなどのないきれいなTシャツに青いデニムのジーンズだった。

 そしてそこまでじろじろと見て、慌てて右手を差し出されていることに気づき、荷物を床に置くと、総司も手を出した。

「よろしくお願いします」

 それを待っていたのか、ちょうど言い切ったときに横でカレーを食べ終わった少女が口を開いた。

赤穂あこう結衣ゆい。102号室。よろしくね、柳生君」

 その口ぶりとは裏腹に、さほど歓迎しているわけでもないのか、春臣のように手を出すわけでもなく、興味もなさそうに、食べ終わった食器をまとめると、流しの方へ持っていく。同時にちん、という電子レンジの音が聞こえた。

「はい、お待たせ」

 夢子はカレー皿とスプーンを持って食卓の方へとやってきて、結衣とすれ違う。

「結衣ちゃん、部屋もお隣だし、年も近いんだから、もっとお話したらいいのに」

「別に、いいです」

 結衣はそう言って食器を置くと、足早に部屋を出る。

「ごめんね、結衣ちゃん人見知りだから……。もうしばらくすれば慣れると思うから、それまで我慢してね」

 夢子は申し訳なさそうに言うが、その間総司は呆然と結衣の方を見つめていた。その不必要に機敏な動きの中でなびくミディアムロングの髪は、どこか優雅なもののように彼には思われた。

「じゃあ夢子さん、僕はこれで。明日の準備もありますから」

 そう言って春臣はゆっくりと歩いて部屋を出る。気が付けば総司は夢子と二人、食堂に残る形となっていた。

「春臣さんはね、この建物の一部を使って診療所をやってるのよ。稲生鍼灸院といえば、このあたりじゃ一番の名医って有名でね、私も時々こっそりただで鍼を刺してもらったりしてるのよ」

「へえ、すごい人なんですね。……それがなんでこんな……あ、失礼、この下宿に?」

「あら、名前見たらわかるかと思ってたけど、ここって、イノウハイツなのよ」

 夢子はいたずらっぽく笑う。もう六十は越えているだろうに、まるで少女のような笑い方だな、と総司は思う。

「稲生先生の家だから、イノウハイツってことですか」

「そうそう。私は春臣さんの叔母にあたってね、忙しい彼の代わりに管理人やってるけど、この建物自体は春臣さんのものなのよね」

「なるほど。ところで、他にはどんな人が入ってるんですか?」

 総司は目の前のカレーを頬張りながら質問する。電車での長旅だったため昼食を抜いていたこともあって、極上の馳走のように感じられる。思わず、

「これ、うまいっすね」

 とこぼす。

「こらこら、食べるか、しゃべるか、どっちかにしなさい」

 そう言われて総司は口の中のものを咀嚼する。ジャガイモが大きく切られていて、煮崩れしていないおかげで、しっかりとした歯ごたえがある。そして、ただレトルトのルーを入れただけではなく、そこに一つ、二つと工夫を感じさせる奥行きのある辛味。

「そういえば、他の人だっけ。そうね、いろんな人がいるけど……実際に会ってみるのが一番ね。明日の朝ご飯の時に自己紹介タイムをとりましょう!」

 名案を思いついた、と言わんばかりにぽん、と手を打つと夢子は立ち上がり、流しの方へと歩いて行った。

 総司はあっという間に皿一杯のカレーを平らげると、ふう、とひと息をいてごろんと後ろに転がる。

「そうそう、イノウハイツにはいくつかルールがあってね、覚えておいてほしいんだけど」

 総司の前にいつの間に入れたのか暖かい茶の入った湯呑を置きながら夢子は言い始めた。

「まず朝は六時半、夜は七時にご飯。それに遅れたらもう出しません。それから次に、食べた食器は自分で流しに運ぶこと。十八歳未満の門限は夜十時。無断でそれを超えたら罰としてトイレ掃除一週間。それ以外のトイレ掃除は交代制ね。どうしても門限より遅くなるなら事情を早めに私に説明すること。とりあえずまずはそれぐらいかしら」

 総司は茶を飲みながらそれを聞く。とにかく、朝夕の飯の時間さえ間違えなければ大丈夫だろう、と考える。そして目の前に置いてある空の皿に気が付き、湯呑と一緒に慌てて流しへと持っていく。


 夢子にごちそうさま、と伝えると、そのまま総司は荷物をまとめて自室へと向かった。

 103号は食堂の反対側に三つ連なる部屋の、一番奥だった。先ほど夢子から受け取った鍵を使って、ドアを開ける。食堂とは違ってフローリング張りの床に、小さめのベッドが一つ置いてあった。そして、先に引っ越し業者に運び込んでもらっていた勉強机が窓際に置いてあり、壁際に本棚がある。それだけでもう後は一人、二人が知事困って座る程度のスペース残されておらず、六畳間なんてこんなもんだよな、と思う。そしてやはり、古いことには古いらしく、壁にはひびが入っているし、若干隙間風を感じる。

 運んできたスーツケースを開き、しばらく分の着替えを取り出すと、押し入れにしまい込む。そしてベッドに倒れ込むと、どっと疲れが噴き出してきた。

 確かに、飯はうまいし、稲生先生はきっといい人だ、と考える。しかし、どうしてもこのぼろさは気になる。これから三年間は住むことを思うと安全面も不安だし、何よりも部屋が狭い。今までこの倍ぐらいの広さの部屋に住んでいたせいでもあろうが、随分と窮屈に感じる。

 高校生のアルバイトはどれぐらいできるんだろうか、とふと考える。しばらくは我慢するとしても、今年一年ぐらいでお金を貯めれば、もう少しましなところに引っ越せるのではないだろうか、と冷静に計算を始める。苦労はそれなりにするだろうが、無理というほどではない。

 とりあえず、今日はもうこのまま寝てしまおうかな、とぼんやり思う。その時、扉を二度、軽くノックする音が聞こえた。何か忘れ物でもしてたのを夢子さんが届けてくれたのかな、と考えながらドアを開ける。

「あの、こんばんは」

 そう言ったのは、先ほど足早に部屋を出ていった結衣だった。

 扉に半身を隠しながら、警戒するようにこちらを覗く姿は、まるで小動物のようだな、と総司は思った。

「えっと、さっきは、ごめんなさい。急だったから、ちょっと焦っちゃって」

 しどろもどろに喋る結衣を見ながら、総司は自分の鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じる。暗がりのせいだろうか、と合理化しようとするが、そうした問題でないことを直感的に理解する。

 申し訳なさそうに潤んだ瞳、白くて押せば倒れそうな華奢な体、すらっとした鼻立ち、小さな唇、控えめに評価しても、かわいい、そう感じた。

「えっと、あの、私、知らない人が、その、ちょっと、苦手だから、色々失礼だと、思うけど、その、ごめんなさい、悪気はないんです!」

 彼女はとぎれとぎれ、言葉を絞り出すようにしゃべる。

「あ、いきなりで、その、困るよね……、えっと、おやすみ、また明日!」

「あ、待って」

 そう言い切る前に彼女はばたん、とドアを閉める。そしてすぐに隣の部屋のドアが乱暴に開け閉めされた音が聞こえてくる。

 それきり静かになった部屋に、どくん、どくん、と自分の心臓の音ばかりが聞こえてくることに総司は気が付いた。いやいやいやいや。落ち着け、と小声でつぶやく。

 一目惚れなんて、ありえないでしょ。

 中学三年間は男子校で、女性と触れ合っていないからちょっとかわいい人を見てどぎまぎしてるだけだ、と総司は自分に言い聞かせる。なんだか、一目惚れなんてものは、節操のない人間のやることのようで認めたくない、というのもあった。

 とにかく、と彼は堂々巡りを始めそうな自分の思考をいったん強引に打ち切る。今日のところは、もう寝よう。



 そう思って、眠ったはずだった。眠ったはずだったのだ、と総司は考える。旅の疲れもあってぐっすりと寝ていたはずだったのだが、突然の爆発音は、彼の目を覚ますには十分すぎるほどうるさかった。

 彼は驚いて飛び起きると、窓の外で何かが激しく光っていることに気が付いた。

「ざっけんじゃねえぞ!」

「今日こそ息の根を止めてやる!」

 そう叫ぶ声が聞こえてきて、ただ事ではないな、と思う。もしかして、放火でもされているのではないだろうか? と考えると背筋に緊張が走る。

 しかし、と思い直す。夢子さんも稲生先生もいい人だ。結衣さんともきっと仲良くなれるはず、だったら、最初に気づいた俺が止めるしかないんだ。総司はそう考えると、一つ大きな深呼吸をして、窓を開けた。

 庭では、身長がおよそ190cm近くあろうかという大男が右手を突き上げ、そこには電気がばちばちと音を立ててまとわりついている。

 男がそのまま右手を振り下ろすと、電気は鞭のように伸びて、前方の髪の長い女性の方へと飛んでいく。女性は一歩後ろに下がって間一髪のところでそれをかわすと、右手から火の玉を出し、そのまま男に向かって投げつける。

「この、ゴリラ野郎が! いつもいつも夜中にウホウホうるせえんだよ!」

 男はその火の玉を殴りつけて弾き飛ばす。腕にまたばちばちと電気が走っているところを見ると、その力で火の玉を相殺したようにも見える。

「うるさいぞ、根暗女。俺は毎晩体を鍛えているんだ。男の中の男たるもの、トレーニングは欠かせない!」

 そう言いながら男は一気に女の方へと駆け込む。

「脳筋ゴリラは絶対こう来ると思ったよ!」

 女はそう言って後ろ手にしていた左手から先ほどより大きな火の玉を出すと、前に突き出す。火の玉と言うよりも火柱となったそれを、全速力で前進する男はかわし切れず、真正面から受ける。そして、そのまま後ろに吹き飛ばされた。ごろん、と一回転し、総司の部屋の壁にぶつかる。

 柳生総司は困惑していた。目の前の事態を合理的に説明することも、理解することもできなかったからだ。

 この世の中には物理法則というものがある。物は高いところから落ちるし、氷を触れば冷たいと感じる。そして総司が知る限り、大男が電撃を放つことも、女性が火の玉を投げつけることも、物理法則に、たぶん、反している。

 そして、これは夢なのだ、と気が付く。夢の世界には物理法則なんて関係ない。

「ふん、俺は常に体を鍛えているんだ。この程度、どうということは……」

 すっかり気絶したものと思っていた男は、そう言いながらむくりと立ち上がった。総司の部屋の窓の、そのすぐ下から。

「なんだ、お前は」

 男は総司に気が付くと、そちらを向き直る。あらためて、目の前で立たれるとびっくりするほど大きいな、と総司は思う。

「えっと、俺は」

 言われるがままに答えようとして、はたと気が付く。なんだ、お前は、と言われるべき不審者は、むしろ夜中に人の家の庭で暴れまわっている方ではないのか。それに、これは夢なのだ。そう思うと、なんだか気が大きくなってくる。

「いや、むしろあなたこそ誰なんですか。ここはイノウハイツの庭ですよ」

 そう言った瞬間にごちん、と鈍い音がして、頭の上に星が飛ぶのを総司は感じた。そして後からじわじわと痛みが広がってくる。あれ、これはもしかして。

「夢じゃ、ない……?」

 総司がそう呟いた瞬間、大男ははあ、とあきれたような顔をする。

「いや、どう見ても現実だろうが」

 いや、どう見ても現実とは思えない。総司はそう言いかけて、また殴られても困るので押しとどめた。

「お前、どうせ新入りだろうが。俺はなあ、お前よりずっと前からここに住んでんの。先輩、年も上。ガキが先に名乗るのが礼儀ってもんだろうが」

 大男はそう言ってこちらを睨み付ける。確かにそれはそうかもしれないが、果たして初対面の相手をいきなり殴りつけるのは礼儀なのだろうか、と文句を言いたくなるのを、また抑える。

「俺は柳生総司、今日からイノウハイツでお世話になります。で、あなたは?」

 そう聞くと、

「そうそう、わかればいいんだ。俺は大道だいどう。ここの住人だ」

 と言った。

「ちょっと、夏月なつきちゃん。勝負はまだついてないでしょ」

 後ろから先ほどの女がやってくる。全体的に黒いオーラが漂っているように見えるのは気のせいだろうか。

「あー、あんたが新入りの柳生ちゃんね。あたしは間遠まとうしずく。ここの202に住んでんの。で、こっちの馬鹿が大道……」

 そこまで言って雫は口ごもり、くくく、と笑い始める。

「てめえ、それ以上は」

 大道は焦るように右手をまたしてもばちばちさせる。

大道夏月だいどうなつき、男の中の男、夏月ちゃんだよ」

 そう言うと雫はこらえきれなくなったのか、腹を抱えて笑い出す。

「夏月ちゃんっていうな!」

 夏月はそう怒鳴ると、不機嫌そうに総司の方を睨み付ける。

「で、見ての通り俺は電気纏エレキキノいでこのクソアマ火炎使パイロキノいなんだが、お前は一体、何なんだ?」

 突然色々と聞き慣れない言葉を投げつけられて、総司は混乱する。電気纏エレキキノいに火炎使パイロキノい? 一体、何のことを言っているのだ。

「まあまあ、ちょっと落ち着いてくださいよ、二人とも」

 そう言いながら暗がりから出てきたのは、春臣だった。

「稲生先生……?」

「あら、センセの事はもう知ってるんだ」

「ええ、先ほど食堂で。とにかく、総司君、ちょっとこっちに来てくれないかな。このままじゃ話しづらくて」

 そう言われて総司は初めて、小さな窓に三人が押し合うようにしていることに気が付く。三人が道を開けたので、よい、と窓をまたいで外に降りる。

「で、ガキ。お前の異能は何なんだ、と聞いているんだ」

「イノウ……? 稲生先生の事……?」

 その途端、またごつん、と頭に衝撃を受ける。

「お前、俺たちの事をおちょくってんのか!? 異能っつったら、異能に決まってんだろ、そんなダジャレを聞いてんじゃねえ! 何なら、体に聞いてやろうか?」

 夏月はそういうと右手をばちばちと言わせる。気のせいか、先ほど雫に向けていた時よりも勢いが強いように思われる。冗談じゃない、と総司は思う。こんなものをぶつけられたらひとたまりもない。

「まあまあ」

 そう言って春臣は二人の間に割って入る。

「イノウハイツに入れたということは、総司君もきっと何か人並み外れた異能の力を持っているはずなんです。よければ、私たちにそれがどんなものなのか、教えてもらえませんか?」

「異能の……力?」

 総司には、春臣が何を言っているのかもぱっとは理解できない。それどころか、今の今まで味方だと思っていた春臣も、自分の敵だったのではないか、と言う危惧が頭をかすめる。

「ねえ、センセ、もしかしてこの子、間違ってここに入ったんじゃ……」

 雫は不安そうな顔で春臣に耳打ちする。春臣はまさかそんな、と答える。

「もし総司君が間違いでここに入ったのだとしたら……彼の記憶を消さなくてはならないことに……」

 春臣が呟いた言葉が、総司の耳にも聞き取れた。記憶を、消す?

「おいおい、なんだそりゃ。じゃあ久しぶりにアレやんのか」

 そういうと夏月は両手をあげ、ばちばちを両方に走らせる。拳と拳の間に青い電流が静かに流れるのが見える。

「ええ……。まあ、八割の確率で成功しますし、アレをするしか……」

 二割はどうなるんだ。総司は冷や汗とともにそう考える。やっぱり、これは悪い夢なのではないだろうか。

「あ、すみません。で、どうなんですか? 総司君は何か異能を持っているんですか?」

 春臣は途端に笑顔になって総司に問いかける。同時に総司はそれが、末期の患者に対して医者がとっさに作る笑顔そのものであることを感じ取る。

「あの、つかぬ事を伺いますが、その記憶を消すというのが失敗すると……つまり、二割の確率でどうなるんですか?」

「あ、聞こえちゃってましたか。えっとですね、その、数か月から、下手すると数年の記憶が吹き飛びますね……」

 あと最悪の場合死にますね。そう春臣がほとんど聞こえないような小声で、若干目をそらしつつ言ったのを総司は確かに聞き取った。なぜ俺は今、突然命の危機に瀕しているのだ、と総司は絶望する。そして、脳が全力で回転を始める。

 ここから生き残るには、どうすればいいのか。

 まず、八割にかけるという手がある。八割だ。大方当たる。俺は今日の記憶がなくなるだけで、つまりこのイカレた一日の事を忘れて明日から平凡な日常に戻れる。たぶん、夢子さんや、結衣さんの事も忘れてしまうし、それはとても惜しいことだけれど、死ぬのに比べたら全然ましだ。しかし、八割だ。五回に一回は外れる。さいころで一を出す確率よりは失敗率が低いとはいえ、決して無視できる数ではない。

 この場で走って逃げだす。無理だ。相手は雷男に火女もいる。稲生先生だけなら抜けるかもしれないが、この二人から逃げ切れるとはとても思えない。却下。

 俺に突然その異能とかいうものが芽生える。死ぬリスクもないし、記憶も消えない。それどころか俺だって雷や炎が使えるようになるかもしれない。最高の案だ、実現が絶対にされないことを除けば。却下。

 そして、ぴん、と来る。

 俺に突然その異能とかいうものが芽生えた、ことにする、というのはどうだろう。

 そして次の段階に至る。持っていない異能をどうやって持っているように見せかけられるか。ここからは賭けだ。まず異能と言うものの種類がどんなものかがわからない。まさか今見た二種類だけということはないだろうが、どこまでが異能に含まれるのか。いや、その種類は問題ではない。その異能を隠していることにすればいい。

 言い繕えるか? 自分で自分に問いかける。わからない。でも今まで、ここ一番で困ったときははったりで乗り越えてきたのだ、と自分を叱咤する。これだ、これでいこう。

 一瞬でそこまで考えをやると、総司は息を吸い込む。先ほどの甘い鼓動とはちがって、緊張と恐怖で心臓がばくばくとなりだすのを感じる。ええい、ままよ。

「その、言いづらいんですけど、俺の異能、できるだけ人には見せられないんですよ……」

 なんで見せられないのか、そんなことは知ったことか、と心の中で毒づきながら、総司は夏月の目をじっと見る。夏月は疑わしそうに総司を見返す。ううん、と唸る声が聞こえる。

 次の瞬間、何かに弾かれたかのように夏月の視線が外れた。そして、うん、と頷くと、

「そうか、それじゃ仕方ねえな。まあ、ものによっちゃ確かに、とても人には見せられねえからな」

 と言って踵を返した。

「そっかあ、その内教えてくれると嬉しいな」

 雫もそう言って離れる。

「よかった。あんなこと、もうしたくないですからね……」

 春臣はどこか中空に視線を漂わせながらそう呟き、ポケットからハンカチを取り出して汗をぬぐった。一体過去に何があったのか、怖いから聞かないでおこう、と総司は心に決める。

「ま、とにかく今日はもうそんな感じだし勝負はお預けね」

 雫は勝手口の方へ向かいながら言う。

「仕方ねえ。今度こそ息の根を止めるからな、待ってろよクソアマ

「夏月ちゃん、もうちょっと言葉遣いを綺麗にしないとモテないよぉ」

「てめえには関係ないだろ引きこもり!」

 二人はそう言いながら建物に入り、勝手口を閉じる。もしかして、案外この二人は仲が良いのではないだろうか、と総司は考える。

「それでは総司君、また明日。おやすみなさい」

 そう言って春臣は玄関の方へと向かっていく。よく考えたら、あんたらが外でドンパチしてるから起こされたんだ、と心の中で文句を言う。

 何から何まで、訳が解らない時間だった。とにかく、何とか死なずに済んだ、そう思うと体中の力が抜けて、ぺたん、と地面にへたり込む。そして、壁にもたれかかって、ふう、とため息を吐いた。

 何とか力を込めて、窓から再び部屋に入る。幸い地面が乾いていたおかげで、素足だったとはいえほとんど土が付着していない。

 総司は窓を閉め、明日のうちにカーテンを買って来よう、と心に決めて布団をかぶる。今度こそ、と考える間もなく肉体と精神の疲労が彼を深い眠りにいざなった。


 じりりりり、と実家にいたころから変わらない目覚まし時計の音で総司は目を覚ました。起きてすぐに頭の上に痛みを感じるのでさすってみる。こぶになっているそれは、昨夜の出来事が夢ではなかったことを示している。

「力いっぱい殴りやがって……」

 そう思いながら時計を見る。六時二十七分。あと三分で食堂に向かわないと朝食にありつけない。そのことに気が付いて、慌てて寝巻を脱ぎ散らかし、押し入れから適当に服を取り出してきて着る。床に投げっぱなしのズボンを拾い上げて履くと、鏡を一瞬見る。ひどく寝癖が付いたりはしていないことを確認して、慌ててドアを開け、食堂へと向かう。

 部屋に入ると、食卓には五人が座っていた。一番奥に春臣、その隣に男が一人、さらにその隣には夏月が、そして春臣の向かいには結衣が座っている。そして、一番流し側の席に、夢子がいつでも立てるようにしていた。

「おはようございます」

 総司が挨拶すると、春臣と夢子がおはよう、と返事をする。そして夢子がそこに、と結衣の隣を指さす。総司はじゃあ、と言って静かにそこに座った。

 結衣の隣に座ることで、多少どきり、とはするがそっと横を見ると結衣は気にしたふうもなく、目の前の膳を眺めている。一人で浮かれて、馬鹿らしいな、と総司は思った。

「それじゃ、自己紹介でもしようかね」

 夢子はそう言いながら、近くの櫃からご飯をよそい、総司に手渡す。

「あ、でも、その前に」

 そう言って彼女は両手を合わせる。それを見て全員が手を合わせたので、総司も慌ててまねをする。

「いただきます」

 彼女の声に続いてめいめいが口をそろえて、いただきます、と言う。そして結衣は真っ先に箸に手を伸ばすと、目の前のサケの切り身を口に放り込んだ。

「それじゃ、私から。と言っても、もう知ってると思うけど」

 夢子はそう言って、わざとらしくこほん、と咳払いをする。

「私は佐々木夢子、64歳。このイノウハイツの管理人で、大体食事を作っています。好きな言葉はいただきます、嫌いな言葉はまずい、よ。よろしくね」

 そう言うと、総司の向かいの男が笑顔でぱちぱち、と手を叩くので、総司と春臣が合わせて手を叩く。

「じゃあ、このまま時計回りにしよっか。次は大道君ね」

 そう言われると、夏月は箸を起き、むすっとした顔で総司の方に居直る。

「俺は大道夏月。25歳。電気纏エレキキノいで、大体この家の電気周りは全部俺が整備している。嘘つきと隠し事をする奴が嫌いだ。以上」

 強い語調で言い切ると、味噌汁椀を持ち上げ、ずず、と音を立ててすする。

「じゃあ、次は俺だな」

 そう言うと、真ん中に座っていた男が立ち上がった。

「いやあ、どうも、どうも。俺は石田吉澄いしだよしすみ34歳。一応夢子さん除いたら俺がこの中で一番年長なのよね。ヨッシーって呼んでくれると嬉しいな。で、俺の異能なんだけど……見たい?」

 吉澄はそういうと意味ありげににやり、と笑う。

 総司がぽかん、としているのを見て、

「まあまあ、そう遠慮しなくていいから。ほら、よく見てろよ、1、2の3!」

 そう叫ぶと同時にふっと彼は総司の視界から消えた。

 一体何が起こったのだ、と総司は焦るが、その時とん、とん、と後ろから肩を叩かれる。振り返ると彼の後ろでしゃがみこんだ吉澄がにやにや笑いを続けたまま総司の肩に手を置いている。

「ま、そういうことで」

 そう言いながらまた吉澄はふっと消える。そして慌てて総司が姿勢を戻すと、彼は元いたところに立っていた。

「俺の異能は空間渡テレポータり。……っつーと格好いいし便利そうなんだけど、これが3mしか行けない不良品でよー。実際手品みたいにしか使えないんだよな。ま、そんなわけでよろしくね」

 彼はそう言うと一芸を披露したことに満足したのか、どん、と座り込み、湯呑を持ち上げると茶を一気にのどに流し込んだ。

「それじゃ、私が」

 そう次に言ったのは春臣だった。

「私は稲生春臣。もう夢子さんから聞いてると思いますが、このイノウハイツのオーナーで、裏で診療所やってます。異能は見抜ゴールデンアイ、これ体中のあらゆるツボが見えるので、鍼とか灸とかにすごく便利なんですよね。体調悪くなったら言ってください、ここの住人は特別サービスで、ただで診てあげますから」

 それを聞いて、吉澄は「いよっ、日本一の名医!」などとはやし立てながら拍手をする。

「じゃ、次は結衣ちゃんね」

 吉澄の剽軽ひょうきんさにはきっともうみんな慣れ切っているのか、誰も気にしない様子で次にバトンが回る。

 結衣は総司の方を向き、じっと見る。その距離があまりにも近いので総司はすこしどぎまぎして、視線を逸らす。

「私は、赤穂結衣。16歳です。えっと、普段は部屋で本とか読んでます。異能は、精神感応者テレパスですけど、今はほとんど使えません。えっと、それで、その、是非、お友達に……なってください」

 そこまで言うと、まるで大胆な告白をしてしまったかのように顔を赤らめて、ぷい、とそっぽを向く。もともと肌が白いせいもあって、頬に紅がさすと余計にその鮮やかさが際立ち、つい総司は見とれてしまう。

「おい、ガキ。何ぼうっとしてんだ。お前の番だぞ」

 切り身を齧り切りながら夏月は怒鳴りつける。その時に咀嚼しきれなかったカスが少し飛んできて総司の頬に付着する。汚いな、と思いながら総司は立ち上がった。

「みなさんありがとうございました。俺は柳生総司、15歳です。今日からとりあえず三年ほどここでお世話になろうと思います。えっと、異能は、その、とある事情で秘密なので、よろしくお願いします……」

 ついうっかり他の人の自己紹介に合わせて異能について言及してしまったことをまずったな、と思いながら、昨日咄嗟に口から出まかせで言った設定をこれから守っていかなくてはならないのか、とげんなりする。そしてあまりにも当然に皆が言っているせいで全く気付かなかったが、彼らにとっては異能というものが、例えば名前であるとか、年であるとかと同じくらい、当然のものであるらしい。

「ああ、そうだ。今ここにはいないんだけど、もう一人雫ちゃんって子がいてね。あの子、低血圧だからって、滅多に朝ご飯食べに起きてこないのよね……。ちゃんと三食食べなきゃ元気になれないのに」

 夢子は少し申し訳なさそうに眉をひそめながら言う。

 昨日のことを思い返すに、きっとほぼ昼夜が逆転した感じで生きているんだろうな、と総司は考える。

「いやあ、あの子の異能は普段、ライターぐらいの火が出るから煙草たばこの火をもらうのにちょうどいいんだよねえ」

 そう言いながら吉澄はポケットから煙草の箱を一つ取り出し、一本取る。そしてどこからか取り出したライターで火をつけ、一服する。

「石田さん、食堂は禁煙ですよ」

 夢子が静かにそう言いながらじっと吉澄の方を睨み付ける。吉澄は、

「あ、そだっけ、ごめんね……」

 とたじろぎながら、慌てて煙草の火を消す。それを見て夢子はうんうん、と頷いた。

「まあ、そういうわけで、総司君もこのイノウハイツの一員となったわけだから、みんな、仲良くね」

 夢子はそう言いながら立ち上がる。

「特に大道君。あんまりいじめちゃ、駄目よ」

「おいおい、夢子さん、勘弁してくれよ。それじゃ俺がまるで弱い者いじめとか新人いびりがすきな男みたいじゃないか」

「違うのなら、いいけど」

 そう言ってから、

「コーヒーいる人?」

 と全員を見る。男たちがみんな手を挙げているのを見て、総司も手を挙げる。もう少ししたら高校生になるのだし、コーヒーぐらい飲めた方が格好いいかな、とか、結衣さんは一つ上だったから、少しくらい大人びた格好をしてみたいな、とか色々なことを考える。

 しばらくの間をおいて、夢子が五つのカップに入ったコーヒーを持ってきて、それぞれと自分の前に置く。

 夏月は一気にごくごくと音を立ててそれを飲む。春臣は目を閉じて静かに香りをかぎながら飲む。そして吉澄は一口飲んで、

「うん、うまい、さすが夢子さんの淹れるコーヒーは世界一美味いねえ!」

 などと満面の笑みで言っている。夢子は手を振りながら、

「あらいやだ、お世辞を言っても、禁煙は禁煙ですよ」

 と笑っている。

 そして総司は、生まれて初めてのブラックコーヒーを一口飲み、深い後悔に沈んでいた。

 横から結衣がのぞき込む。

「……大丈夫? 無理しなくていいんだよ?」

 総司は苦味のあまりに涙が出そうになるのを必死にこらえながら、言葉を絞り出す。

「頑張ります……」

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