もう一度(2)

 吉丸の手を引いたまま、朱雀はまた電車に乗り、五ノ宮の町まで戻り、図書館までたどり着いた。中に入り、おとといと同じ奥の席に着く。そこでようやく朱雀は吉丸の手を離し、吉丸は持っていた自分の鞄とファイルケースをテーブルに置いた。

「……ごめん。荷物、放り出してた」

声がかすれる。吉丸は頭を左右に振った。

「そんなのいい。とりあえず、座ろう」

 空調の効いた室内で座ると、少し落ち着いてくる。

「いきなり……ごめん」

「うん。ちょっと…けっこうびっくりした」

 今日も利用客は他にいないようで、フロアは静まり返っていた。蝉の声がぼんやりとガラス越しに届いてくる。朱雀はひとつ、息をついた。思うがまま飛び出していくなんて、一体どうしたことだろう。自分で思い返してもさっきの行動が理解できなかった。立川に告白するにも、今日、あの時間でなければいけない必要はなかった。あまりにも何も見えてなさすぎる。

 それほど強い衝動、思いに突き動かされたことがなくて。それほど伝えたい気持ちを、持ったことがなくて。

 ちらと隣を見ると、吉丸が心配そうな顔でこちらをうかがっていた。さっき離した彼の手が膝の上に置いてあるのが見える。気がつけば手を伸ばし、その手を取っていた。吉丸がぴくりと反応した。

「朱雀さん?」

「……終わらせたくて。立川の、こと」

吉丸は驚いて、けれど手をそのままにこちらを見つめている。

「それであんたに、思っていることをちゃんと伝えたくて」

「思ってること……?」

「昨日、立川に会ってわかった。やっぱり今でも、好きだって気持ちはある…叶わなくても。それを忘れたかった。立川への気持ちで一人振り回されてるのが嫌だった。…でもそれだと、余計にとらわれるばっかりだった。あんたに言われた通り」

 思いは消せない。無理をして消そうとすればそれは自分に嘘をつくことになる。

「だから忘れられなくてもいい、とらわれても仕方ないって思った。それでいいって昨日は思った。けど、」

 顔を上げて吉丸を見る。不安そうな表情。そんな顔をさせたくない、と思った。彼の手を、ぎゅっと握った。

「好きだって、あんたに言いたくて」

「……え」

「過去のこととか理屈とかそんなのごちゃごちゃ言い訳なんてせずに、ただあんたが好きだって、俺の気持ちの本当のところを伝えたかった」

言葉を並べればそれに伴って、自分の気持ちがあふれてくる。心臓の鼓動がどんどん大きくなって、息をつけば胸がしびれてくる。

「あんたが前に、そうしてくれたみたいに」

「朱雀さん」

「今日あんたの顔見て、そうしなきゃだめだって思った。だから、立川のことは終わらせないとって。いきなりだし、無理矢理だし…てか何やってんだって感じだけど。完全に自己完結だけど。すぐにゼロになるわけじゃないけど…」

「……そっか」

吉丸が、つながれた手に目を落とす。今までで一番弱々しい声だった。

「でも、それこそ焦ってない? 俺が言われたから言うわけじゃないけど、無理してるんじゃない?」

 そう言われて揺らぐかと思えた朱雀の表情は、少し考えるように視線を一周させただけだった。

「どうかな。けど…もういい?」

「え」

不意に朱雀がつないだ手を引いて引き寄せ、吉丸を抱きしめた。初めそっと腕を回して、ゆっくりと力を込めて抱く。

「ちょっと!」

「花火大会の時、あんたに好きだって言われた時から……ずっと、こうしたかった」

 あの一瞬身体中を駆け巡った衝動。強く抱いて、息もつかなくさせてしまいたい。頭から爪先まで、この手で触って確かめたい。焦がれるように、そう思ったのだ。

 吉丸に触れた途端に胸がまたしびれてくる。思わず、吐息がもれた。

「そういう意味だったら、ずっと無理してたかも」

「ずるいよ、そうじゃない」

吉丸の声は、今にも消え入りそうだった。

「……言っちゃだめ?」

熱くなった頬をかすめて、耳元で訊く。くすぐったいのか、吉丸は身体を震わせて首を縮めた。

「なに」

「あんたのことが、好きだって」

「だって朱雀さん、俺には色々言っといて、いきなりこんな振り回して……」

「まあ、確かに」

 少し身体を離す。確かに、ちょうどその花火大会で「色々言った」のだ。

「したかったって言うんなら、その時素直にそうしてよ」

「……だね。悪かった」

両手を上げて離れた。それを言われると言い返す言葉がない。

 要は朱雀が意地を張って、自分の気持ちをくすぶらせた結果、こういうことになったのだから。普通に考えれば、自分が断った相手にやっぱり好きだと言うなんて、まったく自分勝手な話だ。

 吉丸への気持ち、立川への気持ち。それらが一体いつどこでひっくり返ったのだろう。今はっきりわかるのは、捨てたつもりで、まったく捨てられなかったということだった。

「あんたにわかってもらえるように、努力するよ」

「…………」

手を下ろし、朱雀は椅子に座り直した。

「……もう……いいよっ!」

 すると今度は吉丸が朱雀を引き寄せる。

「どうせ先に惚れた方が負けでしょ。俺朱雀さんのこと、好きだもん。もういい」

力いっぱい抱きしめてくる。思わず、朱雀は笑ってしまった。

「笑ったね。……ほんっと朱雀さんってずるい」

「悪かったってば」

「悪かったって言うんなら、ちゃんと教えて」

吉丸の手を解いて、顔をのぞき込む。むくれた顔も構わず、朱雀はまっすぐ目を合わせて言った。


「あんたが、好きだ」


思いを口にすると、じん、とまた胸がしびれる。今まで味わったもののどれとも違う苦しさがあった。

「なんかあっさり言うし。秀人の時と全然違うよね」

「……確かに全然違うな」

吉丸の皮肉に、朱雀が真剣な顔で腕組みをする。

「ちょっと、それ自分で言う?」

「全然違う。なんだろう、たぶん、あんたが好きだって何度でも言える」

「なっ……」

ごくりと吉丸が唾を飲み込んだのがわかった。かっと顔が赤くなる。

「朱雀さん、なんかキャラ違わない? おかしいよ」

「俺もそう思う。柄じゃないと思うけど…言わずにおいて、あんたがどっかいっちゃっても困るし」

「俺はずっと朱雀さんが好きだって言ってるじゃん」

吉丸の方がよっぽど恥ずかしそうに言う。不思議だった。

「こないだあんだけ堂々と言ってたのになんで今照れんの」

「朱雀さんのせいでしょ! だからずるいってば」

「……はい」


 しばらくそのまま二人とも黙っていたけれど、フロアの入り口のドアが閉まる音がしてはっとした。足音は、しない。司書のおじいさんが出て行った音だろうか。

「……えっと」

途端に気恥ずかしくなって、朱雀がまた長椅子に座り直した。吉丸も目を泳がせる。

「もう十一時か」

「……うん」

ガラスを通して遠く聞こえる蝉の声が、やけに空々しく響いた。ぎこちない動きで朱雀がテーブルの上のファイルケースを引き寄せる。吉丸も自分の鞄から筆記用具を取り出した。

「……えっと、とりあえず、残り、やっちゃおうか」

「うん」

 朱雀がおとといと同じくプリントと参考書を広げ、ペンを持ち直した。彼の視線の先、問題をのぞき込む。

「今日は数学?」

「うん」

「あれ、一問目から?」

「…………」

そっと朱雀の顔を見上げる。ぱちっと音が鳴るように目が合って、心臓が跳ねた。朱雀が頬杖をついて、問題に目を落とす。彼には珍しく、苦笑いのような表情を浮かべている。

「なんか全然、頭入ってこない」

「……だね」

 これだけ突っ走って、怒濤のように告白をして。「柄じゃない」と本人が言った行動だった。吉丸の頭の中も、心の中も、ふわふわと落ち着かない。

 とにかく、俺は朱雀さんが好きで、朱雀さんも俺のことを好きだって言ってくれて。

 それだけでもう、ちょっと……何というか、何も考えられないっていうか。

 吉丸が朱雀の頬に手を伸ばすと、彼は目を閉じた。そっと撫でてやると、密やかに息をつく。それがたまらなく色っぽい。吉丸はごくりと唾を飲み込んだ。そのままあごに指をかけると、まぶたが開いて、真っ黒な瞳があらわれる。

 その目を見たまま、吉丸は顔を寄せて唇を重ねた。触れるだけですぐ離れる。お互いの顔が、赤く染まった。

「………」

 吉丸が何か言う前に、今度は朱雀が頬杖を解いて顔を近づける。唇を重ねてから、ついばむように口づけた。Tシャツの襟首からのぞく鎖骨に吉丸が両手を這わせると、それを合図にするように朱雀が口づけを深くする。薄く開いた唇を舐めて甘噛みをする。吉丸はぴくりと身体を震わせた。音を立てて吸って、離れる。

 至近距離で見つめ合う。からん、と音がする。ペンが落ちた音。

「……まだ、……言ってなかった」

額を合わせて、吐息混じりに朱雀が言う。その眉根を寄せた苦しげな表情に目が離せない。自分の額が熱くて、触れている彼の額も熱くて、身体がようやく事態を飲み込んだように、今になって心臓の鼓動がどんどん早くなる。

「なに」

「……俺と、付き合って」

返事の代わりに吉丸は、さらに朱雀に口づけた。両手で頬を包み込んで、思うまま朱雀の唇を味わう。あごを押さえて口を開けさせ、舌を差し入れる。

「……ん、ん」

 朱雀の手が吉丸の腰に回った。舌をつつくと、戸惑いながらも同じように舌を絡めてくる。今までずっと彼の前で抑えていた衝動が一気にあふれて、もどかしかった。

 ごくりと朱雀が喉を鳴らす。吉丸はようやく口を離した。視界が微かに潤んで、首まで赤くなっているのが、自分でわかった。大きく息をついて、それでもまだ苦しい。視線を上げると、顔を真っ赤にして呆然としている朱雀と目が合った。

「……あんた、すごいな」

「な、なに……」

「……キス」

驚くほどか細い声だった。それだけ言って、朱雀が顔をそらす。

「えっ!? な……なに、なんかだめだった?」

「いや。……びっくりした」

 こんなに最初から激しくしたことがない、とは言えず、とりあえず朱雀はそう言った。

「どっ、どういうこと」

 すぐに色々頭から吹っ飛んでいきそうで怖い。普段の言動と同じで、見た目とのギャップがあり過ぎる。騒ぐ吉丸の頭を抱き込んで、黙らせた。「ええー!」というくぐもった声が身体に直接響いてくる。吉丸が落ち着くまで、朱雀は手を離さなかった。


「前に、あんたが言ってた言葉」

「え?」

 朱雀が、抱き込んでいた腕を解いた。吉丸が顔をようやく上げる。

「あの日……あんたに会えて、良かったよ。それで、今ここにいてくれることも」

「……俺だって、」

小さく手を挙げて、言いかけた吉丸を制する。

「普通なら愛想尽かすところなのに……バカ言った俺にずっと付き合ってくれて。あんたがいなかったら、俺はずっと心の中でくすぶらせてたし、苦しんでたと思う」

申し訳ない気持ちに、うつむいてしまう。

「本当、あの時素直にあんたを抱きしめればよかった。ごめん」

「…………」

「いつでもあんたは、俺に、正直な気持ちを言ってくれてたのに」

朱雀の頬に、吉丸の手が伸びた。いたわるように、優しく撫でる。

「……俺は朱雀さんのことが好きだから、俺の気持ちを誤解してほしくなかったし、朱雀さんの気持ちの本当のところを知りたかった。それだけだ」

「……吉丸」

「うん?」

「ありがとう」

 そう言った時の朱雀の表情をなんと表現したらいいだろう。今にも泣き出しそうな顔とも、眩しそうな微笑みとも、幼い子供がようやく家の灯りを見つけたような表情とも言える、柔らかい表情。そんな瞳にとらえられて、吉丸は言葉が出なくなってしまった。また朱雀の首に腕を回して抱きしめる。

「秀人を好きになって、まさか朱雀さんに出会えると思ってなかった」

「うん。吉丸のこと好きになるなんて想像もしてなかった」

 二人で目を合わせて笑い合う。

「そういえば秀人、なんか朱雀さんのこと呼び止めなかったっけ」

「落ち着いたらもう一回話してって」

「そっか。まあ、そうだよね。さすがにあれじゃあ話にならない」

「……そうはっきり言わないでくれる?」

くすっと吉丸が笑う。

「テンパってる朱雀さん、かわいかったなあ」

「はあ?」

「顔真っ赤にしてさ、言うだけで精一杯って感じ。歩くのもフラフラで」

「あのさ、俺のことかわいいとか言うのあんただけだよ」

「……みんな言わないだけだよ」

顔をしかめて朱雀が黙る。ついに声を立てて吉丸が笑った。

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