もう一度(1)
翌朝。今日も朝からよく晴れていた。いつもよりずいぶん早く目が覚めて、朱雀は軽く困惑した。時計は八時。昨夜何時に寝たか覚えていないけれど、おそらく九時前後だったと思われる。
十時間以上寝てやんの。
苦笑して着替え、顔を洗い、朝食を食べる。吉丸との待ち合わせまで、時間を持て余すほどだった。気分はすっきりしていて、落ち着いている。数週間前から比べれば、調子はすこぶる良かった。そういうわけで、五ノ宮駅にも先に着いた。
「早かったね」
携帯電話から顔を上げると、目の前に吉丸がいた。目を合わせて、優しく笑う。強い日差しの中で見る白い肌が眩しい。額に汗をにじませている。
「…八時に目が覚めてさ」
「へえ、珍しい」
「数えてみたら十時間以上寝てた」
「そうなの? それ逆に頭働かないよ」
くすくす笑う。彼は次にこちらを少し伺うような視線をよこしてきた。
目を伏せ、少し首を傾げる。駅前のざわめきにまぎれるように言う。
「昨日は……大丈夫だった?」
朱雀はその瞬間、はっとした。吉丸から目が離せない。
あ………
心臓がどくん、どくんと脈打つのが聞こえ始める。
そういえば、つまらなくなったら電話すればいいと言われていたことを今更ながらに思い出した。
「……大丈夫だったって訊くのも変だけど。その、色々、平気だったかなって」
「……」
心のうちに色々なことが浮かんでくる。訳がわからない焦りが全身に広がっていく。
口が乾いて言葉が出ない。そんな様子の朱雀に気づかず、吉丸は続けた。
「電話なかったから、大丈夫だったんだろうなって思ったけど。まあ、俺に電話したところでどうにもならないって言われればそうだけどね」
肩をすくめて苦笑する。その表情。
「でも、今の顔見てちょっと安心した。もっと……なんかボロボロになってるかもって思ったから」
そうしてまた優しく笑う。
後頭部をバットで殴られたような気がした。
『仕方ないからもう一回言ってあげる。俺は、朱雀さんが好き』
不意によみがえってくる言葉。
だめだ。
これじゃ、だめだ。
「吉丸」
両手で吉丸の肩を掴む。手に持っていたファイルケースが落ちて、中身が地面に広がった。驚いて見上げる彼に告げる。
「ごめん。立川に…言ってくる。本当のこと、ちゃんと言う」
「え?」
「待ってて」
そのまま駅に向かって駆け出した。「朱雀さん!?」と背中で吉丸の声がする。
だめなんだ。
これじゃ、だめなんだ。
唐突に、強く思った。身体中に、強く衝撃が走った。
立川のことは叶わない。叶わないけど、惹かれる。それは仕方ない。
けれどそれで、「そういうこと」だと、お終いにできない。
だって……吉丸がいるから。
吉丸のために、立川のことを終わらせなければいけない。
なんで吉丸?
『仕方ないからもう一回言ってあげる。俺は、朱雀さんが好き』
俺は……俺は、あの言葉にこたえたい。
まっすぐ自分の気持ちをきちんと伝えてきた吉丸に、同じように自分の思いを伝えたい。理屈とか、意地とか、過去とかそういうことは置いて。心のうちをちゃんとのぞいた時にある気持ち。
―――吉丸のことが好きだって、言いたい。
改札を通って、電車に飛び乗る。東山門駅に着いてから急いで電話をかけた。三コール目で、立川の間延びした声が聞こえた。
『もしもし』
「立川っ、ちょっと今いいか」
駅の出口へ向かう階段を駆け下りながら話す。どうしても声が上ずってしまう。
『え、どしたの。てかなんか鼻息荒くない?』
「うるせー! 話がある。まだ家?」
『そうだけど。なに、マジで何かあったの?』
「いや、とりあえず、あと三分で着く。家の前に出てて」
『えっ、ちょっ』
返事を待たず電話を切り、改札を抜け、走り出す。
ああ、そうか。
不意に実感した。
昨日立川に会って、半ば開き直って自分で受け止めた自分の気持ち。
それは吉丸がいるから、受け止められたのか。
吉丸はとりあえずバラバラに散らばった参考書やプリントを拾い集め、ファイルケースにしまった。顔を上げるけれど、朱雀の姿はもう見えない。
驚いた。
会って三分も経たないうちに、朱雀が飛び出して行ってしまった。
『ごめん。立川に……言ってくる。本当のこと、ちゃんと言う』
意味深な言葉を残して。
昨日、やっぱり何かあったんだ。
そう思い至ると同時に、気分は沈んだ。どのような形であっても、おそらく吉丸にとってはいいものではない。本当のことをちゃんと言うということは、きっと、想いを告げるという意味でしかなくて。
昨日意外にイイ感じになって、やっぱりまだ好きだってわかって、昔出来なかった告白に踏み切ろうってことなのかな。
ごめんと言われた。吉丸に対してごめんと言うのは、気持ちに応えられないという意味なのか、今このタイミングでごめんということなのか。そして待ってて、とも言われた。だったらきっと戻ってくるつもりなのだろう。
ファイルケースを抱える。力を込めて握りしめた手が白くなってくる。
昨日は、本当にきつかった。
朱雀のことを考え、立川のことを考え、今までの自分の行動を振り返って全部検証しなおして、悶々と過ごした。無理矢理東や他の友達と連絡をつけて遊びに行こうかとも思ったが、それもできず。一体どこに行ったのか、どんなノリで遊んだのか、二人きりになったりしたのか……考え出すときりがないと思いながらも、止められなかった。
でもきっと何かあるっていっても朱雀さんの心の中だけ、なはず。
朱雀の気持ちは元々一方通行だし、まさか今さら相思相愛になるかもなんて無駄な心配は吉丸だってしない。けれど、不安は消えない。
俺の存在が朱雀さんの中で消えていっちゃったらどうしよう。
そのことがひたすら気になって仕方なかった。昼過ぎになって朱雀に電話しようかとすら考えたほどだ。かけていいよ、とこちらが言った手前、さすがにそれは我慢したけれど。
「……きっと、東山門だよね」
休日の昼前だ。立川もまだ自宅にいるだろう。我慢できない。吉丸は後を追って東山門までの切符を買い、電車に乗った。
駅から走って、三分半。
ちょうど昨日言い合いをした道を抜けて、立川の姿を見送った角を曲がり、数百メートル進んでようやく立川の家が見えてきた。もう門の前に本人が出て来ているのが見えた。手を振って声をかけてくる。
「朱雀ー!」
「……おう」
朱雀が歩調を緩めると、駆け寄ってくる。
「おい、どうしたんだよ。何かあったか?」
何事かと思ったのだろう。本気でこちらを心配している表情に、少し申し訳ない気持ちになる。
「いや……個人的な話」
「個人的?」
うなずく。息を整えようと、膝に手をついた。
「お前に、言いたい、ことがあって」
「大丈夫かよ? 何だよ、言えよ」
身体を起こすと軽くめまいがした。日差しが目に刺さって眩しい。目の前の立川はおろおろとこちらを見守るばかりだ。
「……俺は、」
苦しい。深呼吸しろ。
けれど立川の顔を見るにつけ、自分が言おうとしている話の下らなさや恥ずかしさに「やっぱやめた」と言いそうになる。冷静になって考えてみると、昨日の今日で朝から電話で呼び出して言おうとしていることがこれって、どうなんだ、と思える。
唐突過ぎる話で、まったく意味がわからないだろうし、リアクションのしようもない。
あ。
つーか、言っちゃったら、もう戻れないよな。当たり前の話。
立川はきっと気持ち悪いと感じるだろうし、もう近づきたくないと思うはずだ。友達としても、朱雀のことは付き合いたくない相手になるだろう。嫌悪の対象だ。
いやでもこいつ、憎たらしくも吉丸と付き合ってたんだし、ちょっとは気持ちわかってくれないかな。ああでも吉丸みたいな女子っぽい男ならいいかもしれないけど、俺普通の男だし。でかいし。やっぱ拒否反応出ちゃうかもしれない。
…………。
「……朱雀?」
「……えっと、」
言え。言え!
唾をごくりと飲み下した。
「……おれ、……」
次第に顔が赤くなっていくのが自分でわかる。心配そうにこちらの顔をのぞき込む立川の顔が見れない。
つーかここ、自分ちの近所の道端だし! その角からお隣さん出て来てもおかしくないじゃん! 早く、早く言わないと……。
「おい?」
赤くなった顔を見られたくない。手の甲で頬を押さえた。熱い。もう一度息を吸い込んだところで、立川の視線がそれた。ぽろりと言葉がもれる。
「……あ、れ……けいた……?」
振り返ると、数メートル先に吉丸の姿があった。朱雀を追いかけて来たのだろう、ファイルケースを胸に抱いて、今にも泣きそうに顔を歪ませてこちらを見ている。
あいつ。
……言わないと。
大きく深呼吸をする。
「立川」
「あっ、ああ」
呼ばれて立川が朱雀に目を戻す。
「……俺、ずっと…立川のことが好きだった」
「へ?」
怪訝そうな顔で聞き返してくる。
「お前のことが好きだった」
「え、あ、うん。……え?」
「お前の…恋人になりたかった」
「こいっ……? ええ!? どういうこと!?」
目を大きく見開いて驚いている。無理もない。
「おまえに、ほれてた」
声が震える。恥ずかしくて、頬に当てた手が外せない。立川には、ひどくくぐもった、情けない声が聞こえているはずだった。
「俺に?」
戸惑った表情のまま、立川が訊く。朱雀はこくりとうなずいた。もう、立川の顔が見れない。
「……マジか」
さらにうなずく。
「俺と、付き合いたいって」
「そう」
「俺、男だけど」
「わかってる」
「……だよな」
立川が大きく息をついた。困惑した顔で、頭をかく。
「……そっ……か。えっと、あの、ありがとう。けど、」
「ああ、返事は……わかってるからいい」
「え」
「とりあえずお前に言いたかっただけだから。いきなり来てこんなこと言ってごめん」
「あ、いや……」
「色々限界だから、もう帰る」
「だ、大丈夫?」
「本当ごめん」
「……いや、いいって……」
ようやく頬から手を外す。立川を見ると、目が合った。なんとも言えない、切ない表情をしていた。小さくうなずいて、背を向け歩き出した。
「やっぱ待って、朱雀」
肩を掴まれる。ドキッとした。
「なに」
「……あの、お前とは、えっと付き合えないけど。……落ち着いてから、もっかい話して」
うなずくだけで精一杯だ。
「俺も……頭いっぱいいっぱいだし。恵太、お前追っかけて来たんじゃないの?」
「……たぶんそう」
肩で息をしながら歩き出す。顔が熱くて、頭が重くて、フラフラする。吉丸がいる角までの距離が長かった。
「……朱雀さん」
吉丸は眉根を寄せて、口をへの字に曲げてこちらを見上げていた。何も言わず、目に入った彼の左手を引っ張って歩く。吉丸がよろけながらついてくる。
「朱雀さん」
「……待っててって言ったのに」
数歩歩いて、吉丸がつぶやくように言う。
「……待てないよ」
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