夏合宿(2)

 見慣れた東山門の駅にようやく着いて、朱雀は大きく息をついた。日が落ちるまではまだ時間があり、改札を抜けるともう汗が吹き出してくる。駅の出口からあふれる日の光に顔を背け、とりあえず、朱雀は隅の待合スペースの椅子に荷物を下ろした。大きく伸びをして、一息つく。これからお盆の間は部活も休みだ。今夜は久しぶりに時間を気にせず眠れることだろう。

 と、そこへ。

「……お疲れさま」

「え?」

朱雀が鞄を置いた二つ隣の椅子。そこには、私服姿の吉丸が座っていた。携帯電話の画面を見たまま、つまらなさそうな声で挨拶をする。

「あんた」

「別に朱雀さんに会いに来たわけじゃないから。後つけるつもりとかないから安心して」

驚いて思わずかけた朱雀の声にかぶせるようにして、吉丸は続ける。背もたれに身体を預けたまま、足を組みかえる。吉丸の細い足がそうすると、ひどく大人っぽく見えた。

「……そうかよ」

質問を先回りして答えられ、返す言葉を失くした朱雀は、ため息まじりにそれだけを言った。鞄からお茶を取り出し、一気に飲む。そのまま隣の席に座った。すぐに吉丸が何か言いたげな視線をよこす。気にせずタオルを取り出して汗を拭いた。改札口の奥からたくさんの足音が聞こえてきたかと思ったら、すぐに人が構内にあふれ出した。この夏休みの時期で、学生の制服姿はほとんど見当たらない。朱雀はそれにまぎれるようにして立ち上がり、荷物を持って歩き出した。

「……じゃあ」

何も言わずに去るのも変な気がしてそれだけを言うと、目の端に吉丸がはっと顔を上げたのが見えた。確かめたかったけれど、そのまま歩く。

 確かめたかったって、なに。

この状態で吉丸に何を求めてるんだか。自分の気持ちの動きが情けなくて、ダサい。

 ため息混じりに持ちなおした荷物の中からカサカサという音が聞こえ、ふと内田の声を思い出した。

『朱雀、まだ入る? ちょっとこれも入れといてよ』

『あ? 何だよこれ』

 ――吉丸ちゃんへのお土産。

「あ」

途端に胸ポケットの携帯電話が音を立てた。着信表示は内田拓真。まるでテレパシーだ。

「もしもし」

『朱雀、おい! お前人の荷物持って帰ってんじゃねーよ!』

「身に覚えがない」

『ふっざけんな!』

「お前が勝手に入れたんだろ」

 荷造りの時、内田から荷物が入りきらないからバスに乗る間だけ入れてほしいと、コンビニの袋を預かっていたのだった。お互いバスの中で爆睡していて、すっかり忘れていた。

『あ、てか、もう家かよ』

「東山門着いた」

『うーわ、最悪。明日絶対持ってこいよ!』

「あー、うん。や、てか」

振り向くと、吉丸はまだ待合スペースに座っている。声が聞こえたのか、こちらを見上げた。

『なんだよ』

目が合う。吉丸は一瞬目を伏せたが、またこちらを見た。

「吉丸、そこにいるし。ついでに渡しとくよ」

数メートル先の彼はぴく、と小動物のようにこちらに向き直った。

『嘘! なんで吉丸ちゃんがいるわけ』

「知らねーよ。いたんだよ」

朱雀が肩をすくめ、耳に当てた携帯電話に目をやると、吉丸は何事かを察してこちらに歩いてきた。

『んなわけねーだろ! 吉丸ちゃんお前のこと大嫌いって、二度と顔見たくないって言ってたのに!』

「は」

『とりあえずお前吉丸ちゃんの視界から消えろ! お土産置いて今すぐ帰れ! 俺が今からそっち行くから!』

ぎゃあぎゃあと内田が喚く。その間に吉丸はもう目の前に来ていた。怪訝そうな顔でこちらを見ていたが、携帯電話からもれ聞こえる声で相手がわかったらしい。内田くん? と口だけ動かして訊く。

「そう」

「……お土産のこと?」

うなずく。内田の声がうるさい。構わず朱雀は携帯電話に続ける。

「なんかよくわかんねーけど。とりあえず話はできそうだから、お前からって渡しとくわ」

やめろだの、ふざけんなだの、内田の叫びは収まらない。面倒なのでそのまま電話を切った。荷物を下ろし、コンビニの袋を取り出した。

「……内田くん、何て?」

「あんたにお土産渡すつもりだったんでしょ。荷物入りきらないから入れてくれって頼まれてて。帰りに返すの忘れてた」

ほら、と差し出す。見た目より結構重たいそれを、吉丸はおずおずと受け取った。結び目をほどいて中身を開け、はは、ともらす。

「なに」

「レッドブル五本も入ってる」

「ふーん」

「内田くん、優しいや」

しみじみとそれを眺めて吉丸がつぶやく。表情が和らいでいた。

「……じゃ、ちゃんともらったって言っといて」

朱雀は荷物を持ち上げる。ぎゃあぎゃあ言う前に内田がもらした言葉が妙に頭に残っていた。

 ――大嫌いだって、顔も見たくないって。

 そりゃ、そうだろう。

 面と向かっては、最低、と言われている。それ以来で、こうして顔を合わせて、変わらず言葉を交わし合っていること自体が不思議な気がした。

「あ、別に言ったわけじゃないからね」

吉丸の声に振り向く。

「こないだのこと、言ったわけじゃない。喧嘩したって言ってるだけ」

「喧嘩?」

「内田くんが、朱雀さんと何かあった? って……何もないって言うのも変だし」

「……確かに」

「原因とか、訊かれたら困るけど。他に言いようもなくて」

「それで、顔も見たくないって言ったわけ」

そう言うと、はっと吉丸が表情を強張らせる。

「内田くんが言ったの?」

「うん」

「……まあ、別に弁解はしないけど」

「だろうね」

「…………」

「…………」

「……帰るよ」

 その通りなら、朱雀がするべきことは、一刻も早く「吉丸の視界から消えること」だ。内田が喚いた通り。

「……うん。じゃあね」

はたして、吉丸もそれだけを返した。

 駅の出口へ向かう。あふれんばかりの外の光が眩しい。出た途端、熱された風が朱雀の身体中を撫でて通り過ぎていった。また汗がふきだしてくる。目の前の信号が青になり、そのまま家への道のりを歩く。途中一度だけ振り返って駅の構内を見たけれど、人通りにまぎれて待合スペースはもう見えなくなっていた。

 あいつ、何しにここに来たんだろう。

 そうしてふと、もしかしたらもう、吉丸に会うことはないのかもしれないと思った。いつか感じたのと同じ、胸がちくりとしたが、朱雀にはどうしようもない。


 どんっ。

 突然背中に何かがぶつかってきて、驚いた朱雀は肩に掛けていた荷物を取り落とした。見ると、先ほど別れたはずの吉丸が、朱雀のTシャツを掴み顔を埋めるようにしてそこにいた。

「おい……っ」

驚きと、背中に触れた細い指を感じて、一気に心臓が高鳴った。

「……忘れてた、東山門に来た用事」

くぐもった声。

「は?」

「……俺、朱雀さんの気持ち、聞いてない」

「気持ち?」

 どきりとした。

 吉丸がゆっくりと顔を上げる。走って来たのだろう、頬が赤く息が荒い。Tシャツを離し大きく息をつく。

「朱雀さんは……俺をどう思ってるのかっていうこと」

ひたと見つめられる。真剣な瞳。

「な……」

言葉が出てこない朱雀に構わず、吉丸は一気に話し出した。

「たぶんさ、こないだで俺、ふられたんだよね? でもなんか納得いかない。気持ちの切り替えが出来ないのは当然だけど、なんかもやもやする。考えたんだよ。そしたら、俺は朱雀さんの気持ちを聞いてない。朱雀さんが俺の気持ち否定して、それで俺が会話をやめただけで。朱雀さんが俺のことどう思ってるのか、聞いてない」

「ちょっと待って、俺はあんたの気持ちを否定したつもりは、」

「それ以外にどう取れって言うんだよ! あの言葉!」

慌てた朱雀の言葉に、吉丸は噛みついた。

「俺が色々考えた末に勇気出して言った言葉を、あっさり一言で否定しておいて、なのに自分の気持ちのひとつも言わないなんてフェアじゃない。俺の気持ちはいいとして、朱雀さんは俺のことどう思ってるわけ? 確認するけど、俺と恋愛したいと思わないからあんなこと言ったんだよね?」

「ちょっ、声でかいってば」

少し住宅地に入って来たとはいえ、人通りは多い。吉丸の大声に何事かと通る人が視線をよこしている。けれど、吉丸はちらとそちらを見ただけで向き直った。

「……これ以上大きな声を出さなくていいように答えてくれないかな」

 低く押さえられた声に、たじろぐ。合宿中に田口先生にしごかれた時でさえ、全く動揺しなかったのに。

 肩を掴まれ、顔をのぞき込まれる。瞳の中を読み取られているのではないかと思ってしまうほど、じっと見つめられた。

「……俺は……俺は、あんたのことが嫌いなわけじゃない」

「そんなこと知ってる。言っとくけどね、朱雀さんに嫌われてるって思ってたの、映画観に行った日までだから」

にべもなく返される。朱雀は、ぐっと詰まった。

 自分の気持ち。自分の気持ち。吉丸をどう、思っているか。

 嫌いではない。惹かれているのは自覚していた。だからあの時捨てようと思っていた。捨てた。

 ……バカみたいだと、思ったから。

「……一緒に帰ろうが、飯食おうが、あんたがそれを望むんなら何だって付き合うって言ったでしょ」

吉丸が目の前でうなずく。

「あんたには、あんたが望むことをしてやりたいと思った。俺ができること、何でも」

「…………」

「あんたがそれで楽しいなら、俺も楽しいと思えるから」

話している自分の声が驚くほど弱々しくて、自分自身で戸惑う。合宿所で夜ごと朱雀を襲った、嵐のような感情とは一切切り離された気持ちだった。

 吉丸の目が大きく見開いて、伏せられた。

「……なに、それ」

「…………」

そのまま顔をそらして、うつむく。掴まれた肩に力がこもった。

「言えないなら、俺が代わりに言ってあげる。朱雀さんの気持ち」

「え」

「俺のことは嫌いじゃない。だから俺の告白に戸惑ったけど、気持ち悪い、とまでは思ってない。でも俺の気持ちは信じられない。秀人がいるから。そうじゃなければ、信じたくないのかな? 秀人がいるから」

 耳元で話す言葉。軽い口調で、バカにしたように話す。その声が朱雀の脳内に響いて、こだました。突然、頭の中で音が跳ねてエコーを繰り返す。

「もしくは大前提で、秀人以外の男には恋愛感情なんてわかない。拒否反応が出るほどじゃないけど、付き合うなんて無理」

吉丸の言葉がわんわんこだまする。

「ましてや、少し前まで秀人と恋人だった男なんて」

「おい」

重い。頭が重い。

「……そんな男と付き合うなんて、バカみたいじゃないか、って」

「ちょっと待て、吉丸! お前…」

思わず肩を掴み、こちらを向かせる。吉丸は、目元を真っ赤にして唇を噛み締めていた。大きく息をついて、歪んだ笑顔を見せた。


「……朱雀さんの心の中は、今も秀人でいっぱいなんだね」


 吉丸の言葉が、そのまま朱雀の胸に突き刺さった。あっという間に、意識がどこかへ放り投げられた感覚がする。

 代わりに普段はどこにしまい込んでいるかもわからないものが現れて、きつく蓋をしていたのに、あっさりと中のものが胸のうちにあふれ出してくる。ドロドロして、どす黒い、古びた、けれど厄介な感情。飲み込まれたくない。かき乱されたくない。思わず、朱雀は目をぎゅっとつぶった。声をなんとか絞り出す。

「そんなこと、」

「わかってたけど、朱雀さん自身から聞きたかったんだ。朱雀さんは、俺が秀人のこと忘れられないって思ってるみたいだけど、朱雀さんの方がよっぽど秀人のこと引きずってるよ」

「違う。やめろ」

「俺に秀人のこと考えたって構わない、代わりでもいいって言ったけど、俺はもうそんなこと考えてない。そりゃ信じられないかもしれないけど。今はそれどころか、朱雀さんの心の中をいっぱいにしてる秀人に妬けちゃうくらいだ」

 全身いっぱいにドロドロとした感情が広がっていく。吉丸の言葉に、さらに混乱する。

「なん……で」

「仕方ないからもう一回言ってあげる。俺は、朱雀さんが好き」

「……俺は」

「秀人のことなんて忘れてよって言いたいけど、怒られそうだからやめとく」

「…………」

 違う。俺は、秀人なんか。

 昔の話なんだ。もう、気持ちなんかこれっぽっちも残っていやしない。

 やめろ。考えたくない。この気持ちに取り込まれたくない。

 どんなに望んでも、手に入らないものに焦がれる気持ちなんて。

「…………」

「……朱雀さん?」

 うつむいて黙り込んだ朱雀に、吉丸が声をかける。ゆるゆると首を振ることしかできなかった。吉丸は手を離した。自分の肩に置かれている朱雀の手をそっと外し、両手に取る。感触を確かめるようにしてひと撫でする。朱雀が混乱した頭のまま思わず見ると、吉丸は弱々しく微笑んだ。

「……家まで、送るよ」

「…………いいよべつに」

なんとか出した声は、かすれていた。随分小さい。

「こんな状態の朱雀さんを置いて帰れない」

「……どうも、してない」

「朱雀さん、人に色々言っといて、自分も結構意地っ張りだよね」

荷物を持ち上げようとした吉丸の手を押しとどめ、自分で持った。するとその手を一瞬きゅっ、と握られる。文句も反応もできず、朱雀はうつむく。そのまま、二人で家路に着いた。

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