夏合宿(1)
苦しい。
寝返りを打つ。それでも、苦しい。繰り返し脳裏に浮かぶ細い姿に手を伸ばしては、何をやっているんだとため息をつく。朱雀は、むくりと起き上がった。
合宿所の一室。二段ベッドが二台、部屋の両隣に置かれ、朱雀はそのひとつを使っていた。他の部員はみんないびきをかいて眠っている。それぞれベッドの白い布団がわずかに視界に浮かび上がって見えるだけで、あとは真っ暗だ。
そっとベッドから下り、テーブルに置いていたペットボトルのお茶をひとくち飲む。朱雀はそのままごろりとフローリングに横になった。ひんやりとして、心地いい。
合宿中、現在、すこぶる調子が悪かった。ちゃんと集中しているつもりなのに、打てない。捕れない。確実さが一番である朱雀のそんなプレーに、顧問の田口先生も、他の部員も驚いていた。
内田をのぞいては。
「お前さ、昨日花火大会で何かあったろ」
合宿初日、合宿所へ向かうバスで隣に座ってきた内田は、開口一番そう言ってきた。元々良くなかった朱雀の機嫌は、その一言でさらに急降下した。イライラを隠さず睨みつけ、黙らせた。
あの日、花火が終わった後、朱雀は内田と朝丘の二人に再び鉢合わせていた。何を話したのかは覚えていない。たぶん吉丸のことを訊かれ、先に帰ったと答えた気がする。その時のただならぬ朱雀の様子を見てしまったからだろう、内田も朝丘も時折朱雀の様子を気にしているようだった。
吉丸に告白された。
まったく予想していないタイミングで好きだと言われ、朱雀はその時考えていたことをそのまま口にした。……その結果が、今。
むしゃくしゃした気分と苦しい気持ちが、朱雀にずっしりと乗っかっていて重い。うざったい。何が悪いってんだ。本当にそう、考えたから言っただけだろ。言った俺自身が苦しいなんてバカらしい。
『朱雀さん、俺はどうしたらいい?』
一瞬、ひとつの激しい衝動が身体中を駆け巡った後。
こいつは、一体何を、どこまで、どう思っているんだろう。
軽い口調とは裏腹に、震える指。頼りなく浮かび上がる浴衣の縞模様。
淋しいなら、つらいなら、悲しいなら、俺に寄りかかればいい。ただそれだけだろう。二人の、関係……と呼べるかどうかもわからない拙いつながりに、何かを当てはめる必要はないだろう。
言葉で言い表せる何かを、それをはっきりと見ないうちに、こいつが求めているような気がして。
お前が立川をまだ好きでも構わない。傍にいて欲しければ、何だって付き合ってやる。
そう、言いたかっただけなのに。
「……最低、か」
ただ、吉丸自身は立川のことまで考えが及んでいるように見えなかった。ひどく、驚いた顔をしていたから。
図星だったんじゃねーかな。
朱雀の頭の醒めた部分はそう考える。そういうことにうすうす気づいていながら、考えていなくて、朱雀に言われてはっきり頭に入ってきたというような。
それに。
……だって。
顔を思いきりしかめて頭の中に別の考えをひねり出す。
俺だって、吉丸のこと、まっさらな目で見られるわけじゃない。吉丸は、吉丸だけど、秀人の元恋人なんだから。秀人が恋をして、恋人として過ごした男。
そう強引に考えると、胸をちくちく刺すような衝動は落ち着いてくる。目を閉じると、ようやく眠気のようなものがおりてくる。それでほっとして眠りにつく……つこうとすると、またあの時の細い身体の感触がよみがえってくる。するとまた胸がちくちく痛む。合宿四日目になっても、朱雀はこうして眠れない夜が続いていた。
頭の中で考えることと、頭の中で色彩として浮かび上がってくるものと、ちくちく痛む胸、重くてだるい自分の身体。何一つ思い通りにならない。だいたい、思い通りといっても、何をどうすればよかったのかすらわからない。
「朱雀! お前いい加減にしろっ!」
次の日、また守備でエラーを出した朱雀は、とうとう田口先生にグローブで叩かれ、罰として一人合宿所の敷地内を走らされることとなった。夏のこの時期、四月に入部してきた一年生ですらキャッチボールから練習に加わっているところに、朱雀はグローブも持たずに炎天下のグラウンドから押し出された。
「朱雀くん!」
田口先生の仕打ちにも、ひどく機嫌が悪いながらも無言でそれに従う朱雀にも、誰一人口を挟めず、部長の板橋ですら固まっている。そんな中で朝丘はグラウンドを横切って朱雀にお茶を渡した。
「走る前に少し飲まなきゃ。この暑さじゃ倒れるよ」
「……俺だけじゃないでしょ」
「みんなはあと十五分で休憩でしょ! このタイミングでランニングって言われて十五分で終わると思ってんの」
「思ってない」
「朱雀くんがいつもと違うのは初日からわかってる。とりあえず、今は倒れない限り走ってた方がいいよ」
「朝丘、それどういう意味?」
「……お茶いらないの?」
「いります。すいません。ありがとうございます」
水に濡れた朝丘の指は冷たかった。少し、気分も落ち着く。一気に飲み干して、走り出す。焼けつくような日差しは慣れても、暑いのは変わらない。火傷しそうなほど熱くなった帽子をもう一度かぶり直した。
昨日は、内田が電話で話をしていた。……吉丸と。会話のやり取りからするに、彼も朱雀のことに気づいたようだった。余計なことしやがって。いつの間に、何話したんだ。
身体中が熱せられて、ぼうっとする。考えなくても手足は動く。曖昧な思考回路でまた考えを巡らせる。
だから、俺は、考えてたことを言っただけなんだって。吉丸が嫌いでもなければ、遠ざけようと思ってもいない。むしろ、その逆だ。だけど今のあいつに付き合ってほしいって言われて……。……言われて、うなずけるかよ。傍にいるっていうのはイコール恋愛関係になることなの? 違うでしょ。だから、別に、何っていう関係性がなくっても、いてほしい時には傍にいてやるって。そのことに色々理屈くっつけて、きれいに並べ替えて整えなくたって。思った通りにつながればいいじゃん。
結局、朱雀は一時間ほど走らされ、その日の練習は終わった。軽いミーティングと、明日の練習内容を確認し、解散となる。沈む直前の夕日が真横から眩しく差し込むが、その温度はやや弱まり始めている。朱雀は合宿所に戻る部員達の流れから外れ、屋外に設置されている手洗い場に向かった。蛇口を捻って頭から水をかぶる。冷たい水が、心地いい。そのまま髪に絡んだ砂埃を洗い流した。
「大丈夫か?」
隣に気配を感じ顔を上げると、いつの間にいたのか、板橋がそう声をかけてきた。
「うん」
顔にしたたる水を拭いながら、短く答える。おそらく心配しているだろう、その表情を見たくなくて、朱雀は目を合わせず傍のタオルを取った。頭を拭く。
「ま、誰だって調子悪いこともあるから気にすんなよ」
「うん」
「たぐちゃんもさ、今日機嫌悪そうだったしさ」
「うん」
「お前がいなかったらたぶん俺が走らされてたと思う」
「うん」
「…………」
「……なに?」
何やら強い視線を感じて顔を上げると、がしっと両肩を掴まれた。手加減なしのその力に、よろめく。
「すざくぅ!」
「わ、ちょっと、なに」
「もうちょっと何か言ってくれよ! お前マジ怒ってんのかよ!」
「はあ?」
「だって今日めちゃめちゃ怖かったぞ! お前本気でたぐちゃん睨むし! 空気が怖すぎて俺口挟めなかったんだからな!」
「何それ」
「俺らも、後輩も、それからビビりまくってミス連発しちゃって……」
「…ああ」
それは走りながら横目に見ていた。グラウンドに立つ部員の動きがどこか固く、打つのも捕るのもおぼつかない。ミスも目立った。一方で良いプレーが出ても、誰も声を上げない。声かけ自体がなく、不思議に思っていた。
「頼むから怒らないでくれ、朱雀」
「は? 俺のせいかよ」
「だってみんなびびっちまってんだもん」
「俺先生に怒られて罰ランしただけだけど」
「機嫌直せ! そうだ、アイス食おう」
「……意味わからん」
肩に腕を回され、連行された。
その後、部員達がちらほら集まる夕食前の食堂で「どれでも好きなやつ選べ」と言われたので、ここぞとばかりに一番高いアイスをおごらせた。同じものを並んで二人で食べる。これで万事解決とばかりににこにこしている板橋。あきれる。毒気を抜かれてしまった。
すると当然「板橋、俺もおごってー!」とすぐにその場にいた内田が飛んでくる。いいぞいいぞと板橋はそれにもうなずくと、その歓声につられて他の部員も寄ってきた。次々に部長、俺も、俺もという声に板橋は満面の笑みでうなずく。終いには「アサちゃんも呼んでこよ!」という内田の声に、「いいのかよ?」と朱雀が心配してしまったほどだ。まったく意味がわからない。アホだ。
それからは少し、練習にも集中出来るようになった。
まあ、心のうちは何にも変わらないのだけれど。部内の悪かった(らしい、板橋によれば)空気が元に戻ったくらいだ。
合宿全十日間が終わった。最終日は紅白戦も行ったが、やっぱり負けた。ミスはなくなったけれど、打つ方はさっぱりだ。気持ちの乱れが、姿勢や呼吸の乱れにつながっていることも一因だろう。わかってはいるが、気持ちの調整なんてうまくいくはずがなくて。
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