翌日

 ぼんやりした意識の中で、音が耳に届く。唐突に吉丸は目が覚めた。母親が台所で包丁を使っている音だ。

 ……いつの間に、眠ったんだろう。

 のろのろと起き上がる。ぼーっとする。頭が重い。胸のうちは台風が過ぎ去った後のようだった。あるものは破壊され、なぎ倒され、流され。まるでその名残というようにベッドの端にぐちゃぐちゃに脱ぎ散らかった浴衣と帯が広がっている。……そういえば、脱いだまま寝ていた。

 そうやってぼーっと時計の針を見ているうちに、じわじわと昨日の悲しみが全身に染み出してくる。

『あんたは、俺を好きなんじゃない』

 彼の昨日の言葉や表情が脳裏に浮かんでくる。抱きついた時の感触や息づかいも。

 どうせふられるんなら、もっと強く抱きついちゃえばよかった。無理矢理捕まえて、キスでもしとけばよかった。

 一瞬そんな考えが浮かぶ。一度も触れたことがなかった彼の唇。思い描くと、「ちぇっ」と無意識につぶやいていた。無理矢理にでもそうやって、どうにか自分の心をコントロールしようとする。全身に広がる悲しみを打ち消そうとする。それでも一度涙がこぼれると止めることはできなかった。吉丸はまた、泣いた。


 それでも朝ご飯を食べると、いくらか落ち着いてくる。母からは泣き顔の訳を訊かれたので、投げやりに好きな人にふられたことを伝えた。すると「あらまあ」と目を大きくして驚き、何も言わなくなった。

 母が黙って入れてくれたアイスコーヒーを飲み、ひとごこちつく。

 明日からって言ってたっけ、合宿。

 頭に浮かぶのは、ともすれば朱雀のことばかりだ。今日も朝から部活に行っているのだろう。当然ながら、あれから何の連絡もなかった。

 しばらく、浮かんでは消えていく朱雀の色々な記憶を頭の中で噛みしめる。胸がズキズキと痛くなってきて、身体が疼きだす。

 不機嫌な朱雀さん。きょとんとした朱雀さん。くしゃっと笑った顔、「わかんの」と得意気に笑う顔。半眼で睨む顔。どれもこれも、嘘みたいに鮮やかだ。この中のどれでもいいから、目の前に現れてくれたらいいのに。それが叶わないなら、このままこの記憶の中に埋もれて消えてしまいたい。

 バカなことと思っていても、そう思うことを止められなかった。



 消えてしまいたいと思っても、繰り返し朝はやってくる。

 つい数ヶ月前に味わったばかりの失恋。恋をした相手に拒否される、つらいつらい気持ち。

 とはいえ吉丸は、立川の時のように茫然自失になることはなかった。今回は吉丸が勝手に恋をして、勝手にふられただけだ。朱雀も同じ気持ちだと……吉丸のことを好いてくれる……なんて考えなかったわけではない。けれど、叶わない可能性も頭にはあった。

 頭にあっただけ、だけどね。

 今日は塾に行く日だった。いつもより時間をかけてご飯を食べ、準備をして、家を出る。夏休みが始まってから、既に三週間が経っていた。日差しの暑さに辟易しながら、電車に乗り、塾へ向かう。着く頃にはもう汗だくだ。

 とりあえず吉丸はこの一週間、使える頭を全て使って勉強に打ち込んでいた。そうでもしないとすぐに頭の中には朱雀が浮かんできてしまう。わだかまる自分の思いに、全てが引きずられてしまう。悲しい気持ちは消えないが、それに引きずられるのはなんだか腹立たしかった。

 っていうか、告白するの早すぎたかなあ。

 授業中にまた考える。ここは既に学校で聞いた内容だ。わかっていることについて説明を受けると集中を欠いてしまって、吉丸はやっぱりふられたあの日のことを考えてしまうのだった。


 塾の講義が終わり、チャイムがなり終わった途端、胸ポケットの携帯電話が音を響かせて、吉丸はもう少しで取り落としそうになった。

「もしもし」

『もしもーし! 吉丸くん?』

考える間もなく、吉丸は反応した。

「内田くん!」

頭に一瞬だけ浮かんだ顔を打ち消す。

『あっ、わかった? さすがー! 花火大会ぶりだねー、元気してた?』

「うん。あ、あの時はごめんね。抜け出しちゃって」

『いやいや、いやいや、ごめんねとかそんな』

「だ、よ、ね! 俺ら二人でちゃーんと抜け出してやったんだから」

ぶっ、と内田がふき出し、大笑いした。

『吉丸ちゃんさすがぁ! やっぱウケるんだけど』

「どうなったの、朝丘マネとは」

『えーっとねぇ……。まあそれはおいおい報告するとして』

「うわ面白くなっ! ちゃんと言えよ!」

『言うから言うから』

 花火大会のあの日、駅前で出会った内田とは、連絡先を交換していた。お互い待ち合わせ相手を見つけた時の連絡のためと、なんとなくその場で打ち解けたから、というのもあった。軽口のように会話する内田の話し方が、その時緊張気味の吉丸には心地良かったのだ。さらに朱雀の情報が引き出せるかも、という下心もあった。今となっては不要のものだが。

「あっ、ていうか合宿中でしょ? 電話いいの?」

『もう今日は終わったよー。今は夕飯前の自由時間。今俺はどこにいるでしょうー?』

「えー? 合宿所でしょ。自分の部屋」

『ピンポーン! ちなみにねぇ、今目の前で同室の怖い人から睨まれてます!』

「……逃げた方がいいんじゃない」

 容易に連想される彼の顔を思い出し、一転、吉丸は低い声を出した。

『誰かわかる? さすが吉丸ちゃん! よし逃げよう!』

バタバタという音が受話器から聞こえる。

「大丈夫?」

『いやーいきなり電話してごめんね。吉丸ちゃんにお土産何がいいかなって思ってさ』

「お土産?」

『合宿のお土産。花火大会でほら、気ぃ使ってもらったし! お礼お礼』

「え、いいの?」

『うん。つっても合宿所のコンビニしかないけどね』

「内田くん優しい」

『でしょ? 誰かさんとは違って』

「ほんとに何でもいいの?」

『おう。あ、待った。五百円以内ね』

「じゃあ、ビール!」

『……え? いやいや、』

「ビール!」

『いやいやそれは』

「ビール!」

『いやあの、俺学校のジャージだし。それはさすがに無理……』

本当に焦っている内田の声に、笑いがこみ上げる。こらえきれなくなって、吉丸はついに声を立てて笑った。途端に内田の抗議の声がする。

『あー! 吉丸ちゃん俺をからかっただろ今ー! この俺をからかうなんていい度胸だな!』

「だって内田くんほんとに焦ってんだもん。あーウケる」

『一瞬吉丸ちゃんのためにバレない買い方考えようとしたのにっ!』

「ええ? 思いついたの?」

『思いついてもやりません! もう! 結構言うなぁ! 顔の割に!』

「それよく言われる」

 綺麗な顔してひどいことを言う、ずけずけ物を言うなどという皮肉は、今まで色々なところで言われてきた。もはやほめ言葉にしか聞こえない。

『……なんかちょっと、吉丸ちゃんもやけくそっぽい?』

 内田が急に静かな口調でそう訊いてきたものだから、吉丸もとっさに本音が出てしまった。

「……やけくそな気分かな」

『あいつもそうなんだよねぇ』

「朱雀さん?」

『そう』

ずきり、と胸が痛む。けれど頭では先週の混乱を思い出していた。

「…………」

『機嫌悪いし。調子悪いし。事情聞いてもうるせぇしか言わないし。いい加減面倒くさくなってきてさー。持て余してんだよね。あーうぜっ』

「そうなんだ」

『吉丸ちゃんが何か知ってるかなーって思ったりしたんだけど。仲良さそうだし』

「……ちょっとね」

何と言ったらいいのかわからず、かといって何もないと言うのも躊躇われた。とりあえずそう言う。

 大体なんで俺をふった朱雀さんがそんなことに。というかそんなことになった原因は、俺じゃなくて別のとこにあるんじゃないの? 自嘲気味にそう思ってみる。

 どうせ朱雀さんは俺のこと、何とも思っていないんだから。

『ちょっと、朱雀と喧嘩したとか?』

「まあ、そんな感じかな。とりあえず、俺はもう一生顔も見たくないし話もしたくないね」

『…………』

「ああそれと、声も聞きたくない」

嘘半分、本音半分でそう答える。内田はちょっと面食らったようだった。冗談なのか、はかりかねたのだろう。

『……そうなんだ』

「そう」

『それって、朱雀のせい?』

「そう!」

『ああーそりゃダメだ。あいつダメだ。ダメダメの最低ヤローだ』

「そうそう、正にそれ」

間髪入れずにそう答えると、受話器の向こうですっ、と息をつくのが聞こえた。

『……吉丸ちゃん。お土産、奮発するね』

「ありがと」

軽く挨拶をして、電話を切る。吉丸はしばらく、静かになった携帯電話を眺めていた。



「吉丸くん」

 その後帰宅途中、今度は五ノ宮駅を出たところで、吉丸は呼び止められた。同じ塾に通う女子生徒である。たまに席が隣り合ったりした時に話す程度で、確か英語が得意だった気がする。そういえば、最寄り駅は同じだっただろうか。

「あれ、森さん?」

「あの、ちょっと今時間いいかな」

「? うん」

手招きに応じて、駅の出口から少しそれる。自動販売機コーナーの裏、人気がない場所へ出た。傾きかけた日の光が反射して眩しい。

 あ、これって。

 彼女の背中を見て、ピンと来た。こういうことを何度も経験していれば、なんとなくそういう空気がわかるようになっていた。数歩入り込んで、彼女は振り向く。既に顔は真っ赤になっていた。

「ごめんね、こんなところで急に」

自然と、声が優しくなる。

「ううん。別に急いでないし、平気。どうしたの?」

「あ……の、ひとつ、聞いてほしいことがあって」

声が震えている。頭でも撫でて安心させてやりたいところだが、それは吉丸のすべきことではない。うん、とうなずいた。

「前からずっと、吉丸くんのことが好きだったの」


 女子生徒の姿が見えなくなるまで、吉丸は駅前の階段に腰掛けていた。女の子に告白されたのは何回目だろう。ふと思い、数えてみる。両手に余った。

「あーあ。なんかやな感じぃー。好きな子も恋人もいないなら、付き合ってくれたっていいのにねー」

かけられた声にどきっとして顔を上げると、そこには吉丸の母親がいた。自転車を押し、そのかごには大きくふくらんだレジ袋が入っている。

「……ってさっきの子達が言ってたよ」

「何やってんの」

「何って、買い物よ」

「車は?」

「晴れの日は使わないの!」

どうやら女子生徒達のやりとりを聞いて、察したらしい。なんとも言えず、頭を掻く。

「好きよって言われて、断ったんだ?」

「……だって、付き合うって、そういうことじゃないでしょ」

「そうねえ」

どこか楽しそうな表情で、通りを眺める母。吉丸は立ち上がり、二人並んで通りを歩き始めた。

「まあ、仕方ないわよ。あの子達も、ふられた友達は慰めなきゃいけないし」

ちらとそんな母を横目に見て、吉丸は前を向いた。

「恵太はお母さん似だからモテるね」

「おかげさまで」

「惜しかったね、あの子。男だったら恵太の視界に入ったかもしれないのに」

「……どっちにしろ、今は無理」

「あらまあ」

くすくす、と母が笑う。まったく何も頓着しない笑い方だ。それがありがたくも、恨めしくも感じる。

 母は、吉丸が男と恋愛をしていることを知っている。中学生の時に二回、恋人とキスをしているところを目撃されたのだ。けれど、そのこと自体に何か言ったり、質問したり、干渉してくることは一切なく、実際のところどう思っているのかわからない。淡々としている。やめなさい、とも、応援しているわ、とも言わない。それが世間的に良い親子関係と言えるのかどうか。二人とも父には暗黙の了解で、伏せている。

 何かの折に、「人の気持ちは誰かがどうこうできるものじゃない」と言ったことがあった気がする。それが、母の考えなのかもしれない。

「……好きな人にふられて、昨日今日で他の子に目がいくと思う?」

 なんだか黙っているのも居心地が悪くて、ついそう口に出してしまう。

 母との間で吉丸の恋愛の話になったのは、その中学生の時以来だった。秀人の時と比べ、致命的なほど心や身体に衝撃を受けた出来事ではなかったために、少し、吉丸の気持ちも緩んでいる。

 秀人と別れたときは母に何を知られるのも嫌で、一切事情を話さなかったのだ。それを察してか、母も体調のこと以外は吉丸に訊こうとしなかった。

「そうね」

「あの子は今悲しいかもしれないけど、俺だって同じ気持ちだね」

そうぼやいて肩をすくめる。母は気にせず黙っていたが、珍しく、吉丸に質問してきた。

「やっぱり、男はだめだって?」

「え?」

「その好きな人」

「……えーと」

「まあ、大抵の人はそう言うよね。恵太の性質は少数派だから」

「面と向かってそう言われたわけじゃないんだけど」

問われたことを振り返って思い返してみる。母は不思議そうに吉丸を見た。

「ああ、俺がその人を好きっていう気持ちは、本当じゃないって言ったのか」

「はあ」

「俺の気持ちは、本当は別の人にあって、その人を代わりにしてるってさ」

改めてそう口に出すとやっぱり納得がいかない。釈然としない。

「そうなの?」

「そんなわけないじゃん。だったら告白なんてしないよ」

そう言いながら、あの時突き刺さった自分の心の声が蘇る。

 そうなの?

 本当に、そうなの?

「うーん。恵太を信用してないってことね」

「そうみたい。まあ、そう思うのも仕方ないとは思うけど」

自分が先ほど口にした言葉と、心の声の両方を取りなすように、すぐに吉丸はそう付け足した。

「じゃあ、信用出来れば良かったのかしら」

「わかんない。俺と付き合いたくないから方便でそう言ったのかもしれないし」

「そういうこともあるの」

「面と向かってお前と付き合いたくないなんて、あんまり言えないものじゃない?」

「そうねえ……」

「言ったら相手が傷つくって、わかってるしね」

肩をすくめる。すると母はさらに不思議そうに首を傾げた。

「結局、なんでだめだったのかはわからないのね」

「…………」

「やっぱり、男だとだめだってところかしら」

 それから十数分黙ったまま並んで歩き、家にたどり着いた。母が自転車を止める間に、吉丸は玄関に向かう。けれど、そこで鍵を取り出したまま立ち止まってしまった。

「恵太?」

レジ袋を手にした母が気づいて声をかける。

「……俺、それ聞いてない」

「は?」

「朱雀さん自身の気持ち、聞いてない」

「朱雀っていうの、その人」

「……あ、うん」

吉丸の手から鍵を取って、母が玄関を開けた。そのまますたすたと中へ入っていく。その背中を見ながら、吉丸は腕組みをする。

 一番大事なことが頭から抜けていた。

 俺のことをどう思っているか、朱雀さんの気持ちを聞いてなかった。

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