吉丸(2)

「なあ、あれからどうなった?」

「は?」

「あの夢に出てきたって子」

「……何もないってば」

 今日も朝のホームルーム前からうきうきとした様子で東が訪ねてくる。ここ数週間の日課になりつつある、このやりとり。吉丸が夢でキスされたという話をしてからずっと続いている。正直……勘弁してほしいと思う。

「本当かよー」

「本当にないって」

「話もしてねーの?」

「メールも電話も何もしない」

むぅと東が口をへの字に曲げる。童顔の彼がそうするとなんとなしに可愛いらしいけれど、だからと言って満足いく答えなんて言わない。というか、言えない。

 だって吉丸は、映画を観に行った日から、夢に出てきた人……朱雀とは本当に何も連絡を取ってないのだから。

「つーかさ、どっか誘ったりしねーの」

「しない」

「なーんでぇ」

「あのさぁ、毎日毎日そうやって訊くのやめてくれる? 変に意識しちゃうじゃん!」

東に訊かれる度に、朱雀の顔が頭に浮かんでくる。夢で見た情景や会った日のことが思い出される。そうなると、どうしてもどこか動き出そうとする自分の気持ちを感じずにはいられないわけで。

「へー。やっぱり意識してるんだ」

「違う。東のせいで意識しちゃうって言ってんの!」

 ……そりゃ、意識するよ。吉丸は頭を抱える。

 元々吉丸は惚れっぽくて恋愛体質で(だからこそ告白されて付き合い始めても、結構上手くいっていたのだ)。朱雀は全然優しくないのに、どうしてか一緒にいると、……なんというか、不思議と……いいなと思えていて。容姿だって、少しきつめだけど全然かっこいいと思う。

 だから、意識しないようにと思うのだ。

 何しろ立川のことが好きだった人だ。片思いだったとはいえ、少なくとも中学三年間はずっと一途に想い続けていたはずだ。その立川と付き合っていた吉丸が朱雀を好きになるなんて、本末転倒もいいところだ。最悪。

 それに立川と別れてからまだ半年も経っていない。いくらなんでも、彼のことで泣いて、縋りついてしまった相手を好きになるなんて、どれだけ惚れっぽいんだ、とも思う。

 だから朱雀を好きになってはいけない。

 好きにならないように、考えないように考えないようにしているのに……東は毎朝、吉丸にその話を振ってくるのだ。やっぱり東に話すんじゃなかった、とちょっぴり後悔している。

「なんで意識しちゃいけないわけ」

「……だめなんだよ、好きになったら」

頭を抱える。思わず洩れた言葉に、東は勢いよく反応した。

「は、何? その少女漫画みたいなキモイ台詞。その子彼氏持ちとか?」

「そんなんじゃないよ。けど、とにかくだめ」

首を振ってうなだれる吉丸を不思議そうに見つめ、東は言い放つ。

「でもさ、意識しないようにしてるってこと自体、もう意識してる証拠だと思うけど」

「……それ言わないでよ」



 今日は塾の日だった。七時半、塾の講義も全て終え、吉丸は駅までの道を歩いていた。日は既に沈み、辺りをこれ以上ないくらいに照らしていたオレンジ色の光が、少しずつ収束し始めている。暑さが和らぐまではまだ時間がかかりそうだ。額に滲む汗を拭う。

 また、朱雀さんにばったり会うなんてこと、あるかな。

 いつもの道を歩きながら、ふとそう思っている自分に気づく。東のせいだ。以前ふわふわと頭に浮かんでいた立川の顔は、いつの間にか朱雀の顔に変わっている。よく見るあの、ちょっと不機嫌そうな顔。

 初めに再会してから、一ヶ月半。今までのこの道を歩いていて、鉢合わせたことはあれ以来一度もなかった。思えば、まだ数えるほどしか会ったことも話したこともないのだ。なのにどうしてこんなに彼のことが頭を離れないのか……。自分の心のうちに、努めて目を向けないようにしているけれど、悪い気はしない自分がいて、嫌になる。

 けれど吉丸の足は勝手に、朱雀の通う高校へ向かい始める。大通りをそれて、五分ほどだ。

 部活って、この時間までまだ練習しているものなのかな。

 ちょっと、のぞくだけ。

 今もしかして近くにいるのではないかと思うと、なんだか確かめたくなってくる。ため息が洩れた。あの夢を見て以来続けている、吉丸の小さな努力は、未だ大した成果を見せることがなかった。



 ほどなくして、朱雀の通う城洋高校が見えてきた。フェンスに囲まれたグラウンドには、外で練習している部活生がたくさん見える。その中で、ユニフォームを着た野球部はすぐに見つけることが出来た。まだ活動していたのだ。

 淡いオレンジ色に染まる部員たちのユニフォームと、白い野球ボール。これぞ青春、というその雰囲気が、帰宅部の吉丸には少し羨ましい。フェンスの金網越しに目を凝らすとどうしてだろう、朱雀はすぐにわかった。

 ところどころ土で汚れたユニフォーム姿で、他の部員とハイタッチをしていた。何か声を上げているらしいけれど、仲間内に向けて叫んでいるので、ここからでははっきりわからない。ほとんど言葉にならない歓声のようなものだ。

 ただ、その表情に胸が騒いだ。今まで見たことのない、はじけるような朱雀の笑顔。子供のような、うれしいから笑う……そういうなんとも無邪気な笑顔だった。

 う、わ……すっごい笑ってる。楽しそう。

 朱雀さんってクールでいつも不機嫌そうなイメージなのに。部活やってる時はこんな顔するんだ。初めて見るその表情になぜか胸が高鳴る。朱雀のうれしい気分が、こちらまで伝染しそうだ。

 ひとしきり部員と笑いあった後、不意に彼は顔を上げた。その拍子に、こちらと目が合った気がした。この距離ではわからないけれど……一瞬の間の後、声が届く。

「あれ、吉丸! 吉丸じゃん」

 吉丸にも同じ笑顔を向けて、朱雀は叫んだ。とてもうれしそうだ。まるで吉丸を見つけたことがうれしかったのかと勘違いしてしまいそうになる。もう胸が、心臓がドキドキしていた。たぶん、顔も赤くなっているだろう。

 なんでわかったのかな。ってこの制服着てれば当たり前か。

 自分で自分にツッコミを入れる。その間にも朱雀は一度手を上げて、こちらに走り寄ってきた。

「久しぶりだな。塾の帰り?」

「あ、う、うん。あの、ちょっと近くまで来たから」

 およそ三週間ぶりだ。フェンス越しの距離一メートル。ユニフォーム姿の朱雀は、いつもより活動的な印象を受けた。この間会った時より更に焼けたようだ。小麦色の肌に汗が光っていて、土ぼこりの匂いがする。頬を伝う汗をユニフォームで乱暴に拭う、そんな仕草がひどく目について、なんだか妙に落ち着かない。しかしすぐに、彼の表情は引き締まった。

「最近は、大丈夫なのかよ」

「うん……まあ少しずつだけど」

冷たい色の瞳。吉丸がドキドキしながら答えると、朱雀はいつもの不機嫌そうな半眼で吉丸をとらえた。

「あのさ。あんた目が泳ぎすぎ。大丈夫じゃなくたって誰も文句なんか言わねーよ」

「いやそれは、大丈夫は大丈夫だよ」

「あっそ。まあ、無理しなきゃいいんじゃねーの」

 そっけない言葉。けれど吉丸は大きく頷いて答えた。

 妙に浮き立ったふわふわした気分だ。落ち着かない。何か言葉を継ごうと口を開くけれど、朱雀はじゃあ、と手を挙げ、もうこちらに背を向けようとしていた。

 あ。

 慌てた吉丸は、そのふわふわした気分のまま、勢い込んで声をかけてしまった。

「朱雀さん! もう、今日は部活終わり?」

 すると振り返った彼は一瞬きょとんとして、問われるままに答えた。

「うん。あとランニングと、ミーティング終わったら帰るよ」

帰るのか。ごくりと唾を飲み込む。こっそり拳を握りこんで、あくまで何でもない風に吉丸は続けた。

「じゃあ、俺待ってるね」

朱雀は少し驚いたようだった。大きく目を見張ってこちらを見る。

「……あ、うん。いいけど、ちょっと時間かかるよ」

「平気」

ふーん、と少し不思議そうな顔をしたけれど、すぐにわかった、と頷いて朱雀はグラウンドに戻っていった。吉丸は、その背中からなんだか目が離せなかった。


 意識しないようにって自分で決めたくせに。俺ってバカだ。久しぶりに朱雀さんを見て、うれしそうに笑う朱雀さんを見て、変な風に気持ちがざわめいて。もう少し彼と一緒にいたい……なんて、ちっ違う。大げさ過ぎだ。けれど映画を見た日以来だから、話がしたかったんだ。それは知り合いなら当たり前の感情だろう。


 吉丸が校門の方へ移動して、そんなことを考えながら待っていると、しばらくして朱雀がやってきた。制服のスラックスに、練習着(にしているものだろう)のTシャツ、その上から開襟シャツを羽織っている。いかにも部活帰りの高校生だ。

「ごめん、結構待たせた」

「ううん」

 朱雀が先に足を出して、二人は連れ立って歩き始めた。部活はどこも同じ時間に終わるらしく、グラウンドにはもう人気はない。校門付近や二人の前後にちらほらと帰宅する制服の集団が見えるくらいだ。

 朱雀は鞄からスポーツドリンクのロゴが入ったスクイズボトルを取り出して、一気にあおった。ごくごくと鳴る喉を見ていると、こちらまで喉の渇きを覚える。唾を飲み込んだ。

「あーもうぬるいな。飲む?」

朱雀がボトルをよこしてきた。

「えっいいの?」

「あんまし残ってないけど」

大きなボトルを受け取る。一リットルのペットボトルくらいの大きさだ。見た目に反して、手に取った感触は軽かった。見よう見まねで栓を開け、同じようにあおった。ぬるいというより、温度を感じない液体が喉を通る。飲み込んでから、麦茶だとわかった。

 ふと栓を見ると、いくつか傷が入っている。歯型だろうか。

 口にくわえて開けたりしたのかな。練習で疲れて、どうしようもなく喉が渇いた時、手で開けるのがもどかしくて、とか。

 朱雀のそんな姿を容易に想像できて、吉丸は何だかふっと笑いそうになってしまう。

「何にやついてんの? 怖えんだけど」

「あ、いや、別に」

こちらを見やる不審な視線に気づき、吉丸は慌ててボトルを返した。


「初めて見た。部活してるところ」

気を取り直して話しかける。朱雀も気軽に応じた。

「うん? あー、そっか」

「朱雀さんでもあんな風に泥だらけになったりするんだ」

「どういう意味だよそれ。……今日は紅白戦やってたんだ」

「打ったの?」

「タイムリー二本」

「へえ、すごいじゃん」

「タイムリーってわかんの」

「そのぐらいわかるって」

口を尖らせてすかさずそう受けると、朱雀はふーん、とまたしても疑わしそうにこちらを見やった。

「今日は調子良かったんだ。勝ったし」

あのハイタッチやうれしそうな笑顔はそういうことだったのか。吉丸は一人納得する。

「うれしそうだったよね。本当に野球好きなんだ」

何気なくそう口にしたけれど、朱雀は途端に笑顔をこぼして答えた。

「うん、他の球技に比べれば全然。でも、やるのは好きだけどあんまり観たりはしない」

「野球、観ないの?」

それは珍しい。朱雀は唸って首をかしげた。

「自分が参加してないのに、なんであんなに熱入れて応援出来んだろって思うね。まあ、ゲームを観ること自体は楽しいけど」

「へえ、そんなもんかぁ」

 吉丸がそう言うと、一転、朱雀はいつもの表情に戻って、吉丸にすっと視線を向けてきた。少し、窺うような視線。

「あんたは何かあったわけ」

「え?」

「わざわざこっちに寄るなんてさ」

「…………」

 訊かれるはずだとわかっていた問いだけれど、吉丸はその答えを用意していなかった。言い繕うための適当な答えが色々と頭に浮かんだけれど、それを使うのも嫌だった。

「……別に。ただ寄ってみようと思っただけ」

 正直にそう言うと、朱雀は特に興味も見せず、ふーんと視線を戻した。

 やっぱり、いきなりこうやって来られたら、何かあったかと思うよね。

 この間もその前も、朱雀とは必ず立川絡みで会っていたのだから当たり前だ。よく考えれば、朱雀に対して結構酷なことをやっているな、と改めて感じる。

 いつかちゃんと謝って、お礼を言わなきゃ。

「塾って毎日行ってんの?」

 特に頓着することなく、朱雀は話題を変えた。

「いや。火・木の週二回。授業終わって六時から八時まで」

「八時まで? あれ、でもまだ時間早くねえ?」

「うん。火曜は二コマだから」

「うえー……学校で勉強して、終わってからまた勉強かよ。よくやるね」

頭を掻きつつ苦々しい顔で朱雀はぼやく。吉丸はちょっと首をかしげた。

「そう? 勉強ってやりがいあるじゃん。やればやるほど問題解けるようになるし。そしたら成績上がっていくし。成果がわかりやすし、面白いよ」

そう言うと、絶望的な、まるで理解できない珍獣に遭遇したような目を向けられる。

 そんな驚くことかな。

「……沖男はやっぱ世界違う。理解出来ねぇ」

「大げさだよー」

そう言っても彼は首を振る。やってることは同じだろうと思うけれど。

「朱雀さん、勉強嫌いなんだ」

「好きそうに見える?」

その表情を見れば、とてもそうは見えない。

「どのくらい?」

「どのくらいったって……こないだの期末テストなんか五教科平均五十点で、家でも学校でも散々言われたけど。それでも勉強しようと思わないくらいには嫌いだね」

「そ、そっか」

 吉丸が想像するよりもずいぶん低い点数だ。

 赤点絶対あるよね、それじゃ。頭良さそうに見えるのにな。

「何か言いたそうだな」

「な、何もないよ」

 そうだ、と思いつく。

 お礼を言うなら、そのついでに勉強を教えるって言うのはどうだろう。良いアイデアだ。

「まあ、とりあえずはなんとかなってるから、別に気にしてない」

「……次のテストはどうするの?」

「……どうにかする」

 吉丸が意地悪く聞いてやると、取りつく島もなく打ち切られた。どうにかする、で乗り切れるとも思えない。本当にテスト前に声をかけた方がいいだろうか。

 そんな調子で他愛ない話をして、いつかと同じように電車内で別れた。朱雀が駅に降り立ってから、吉丸が窓ガラス越しに手を振ると、彼は驚いたような顔をして、手を上げ応じてくれた。



 一人車内に座って大きくため息をつく。

 だめだ。

 東の言った通りだ。だめだと思うとますます意識してしまう。

 今までの年上の彼氏とも違う。立川とも違う。

 同い年だし口が悪いし優しくもない。辛辣なことも耳が痛いことも容赦なく言ってくる。……それなのに。

 あの噴水広場で付き添ってくれたことをまた思い出す。

 やれやれと面倒くさそうにため息をついたのに、吉丸の肩を抱く手は離さないでくれた。背中をゆっくり撫でてくれた。温かい体温。顔を埋めたシャツの胸元。微かな汗の匂いと、洗いたてのコットンの匂いがした。香水の甘い香りなんて少しもしなかった。

 結局のところ、朱雀さんは、俺を受け止めたのだ。

 優しさとは違う、ただその深い懐に受け止めたのだ。口悪く本音をぶちまけて突きつけてくるから、吉丸も負けじと本音で言い返す。なのに最後には全て受け止めてしまう。今まで会った人達と全然違う。何もかも違うのに。

 だめだよ。ずるいよ。朱雀さん。

 俺、朱雀さんのことを好きになってしまう。

 すっかり暗くなった窓ガラスには、自分の顔が映りこんでいた。困るよ、本当に。なのに頬が緩んでしまうのを止められない。


 どうしよう。

 俺はどうしたらいいのかな、朱雀さん。

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