吉丸(1)
初めての、同い年の恋人だった。そして、初めて俺から想いを告げた人。
秀人のことが、好きで仕方なかった。
大好きだった恋人に別れを告げられてから、三ヶ月。少し前では考えられないくらい、吉丸恵太は普通に日々を過ごしていた。
『他に、好きな人ができたんだ。別れて欲しい』
突然、告げられた別れ。驚きで声も出なくなった吉丸に、立川秀人は辛そうな、本当に辛そうな……苦しげな声で、急にこんな風に別れを告げて悪いと思っていること、どうしてそうなったのか全て説明すること、決して吉丸のことが嫌いになった訳ではないことを伝えてきた。
『恵、ごめん。本当にごめん。悪いのは俺だ。謝ったって許してもらえるとは思ってないけど、ごめん……』
真っ白になった頭では何も考えられなかった。何がどうなって、何が起きているのか。突然足元にあった地面が消えてしまったような感覚だ。ただ、目の前の立川の顔がとても、とても苦しそうだった。
秀人が、苦しんでいる。
俺のせいで、俺の存在が秀人を苦しめている。
秀人には苦しんでほしくない。苦しみを和らげなきゃ。
『わかった………』
そう言って、立川の苦しみが和らぐなら。吉丸はそう思った。俺のせいで苦しんで、終いに秀人が俺のことを嫌いになったら、それは何よりも嫌だから。
お互いの携帯電話に登録されている連絡先を消して、そのまま別れた。
たったそれだけで、吉丸と立川の関係は、終わった。
一週間、真っ白だった。自分が何をしたのかもよく覚えていなかった。
それからの一週間は途方もない悲しみと後悔に押しつぶされたまま日々を過ごした。
その後の一週間は全てのことがどうでもよくなった。
悲しくなったり、真っ白になったり、やけくそになったり。今日はどの気分になるのか、最悪の……ルーレットのようだった。
二人は同じ学校に通っているのだから、姿を見かけることもあるかもしれないと思ったけれど、不思議と彼と校内で会うことは一度もなかった。その時に気づいた。吉丸と彼は、恋人というたった一つの接点だけでつながっていたことを。
何もかもどうでもいい。ただ勝手に身体は朝目覚め、制服を着るから学校へ行く。いつ鞄に入れたのか、教科書とペンがあるから授業中に机に座っている。友達からはしきりに色々聞かれたが、答えるわけにもいかない。休み時間はただ寝た。けれど別れた日からどうしても上手く眠ることができない。夜も、昼もそうだった。
家に帰って、なぜか宿題をこなし、布団に入る。夜が長かった。立川のことを考えては頭をかきむしりたくなる悲しみと後悔に襲われる。頭がおかしくなりそうだった。
朱雀周平と再会したのは、そんな時だった。
吉丸は、初めて立川に紹介された時から朱雀の気持ちには気づいていたから、再会したあの時にはとっさに反応できなかった。塾をサボってあの辺をうろついていたのは、本当に朱雀のことも頭にはあったけれど、ちらと思っていた程度だったから。
『あっそ。俺は急いでっから。じゃあな』
最初から彼が吉丸と関わりたくないのもよくわかっていた。けれどそんな態度を見せながらも、彼は次に吉丸を助けたのだ。思わず、吉丸は自分の境遇を吐露してしまった。当然、清々しい程の嫌味で返される。傷ついて、吉丸は彼に腹を立てた。
けれど、今思えばその時……立川と別れて以来、初めて吉丸は外部に対して感情を持ったのだった。当事者の立川には『ごめん』と言われ、友達は誰も事情など知らない。それまで吉丸は自分の感情を自分に吐き出して、またそれを飲み込むようなことを繰り返していたのだ。好きな人にごめんと言われてもなおその人を責めるなんてできなかったし、何も知らない友達に事情を説明したところで、簡単に受け止めてもらえるとも思えなかった。
『ちょっと言い過ぎた。悪かったな』
朱雀が謝るその言葉を聞いて、初めて彼の思いについて何の配慮もしていなかったことに気づいた。それでようやく吉丸は、落ち着いて話をしたり、思考を巡らせたりすることができるようになったと思う。
誰にも言えなかった吉丸の思いを、朱雀はばっさり嫌味で切り落とした。そのお陰で、結果的に、吉丸は最悪な思考回路から抜け出せたのだ。いや、そんな思考回路を破壊された、と言うべきかもしれない。自分でも不思議に思う。
あれから数週間。今は、もっと不思議な思いがある。
空は快晴。雲ひとつない青い空は、見ているだけで胸のうちまで沁み渡ってくるようだ。ギラギラとした日の光も、冷房が効いた教室内で浴びる分にはとても心地良い。
吉丸が弁当のミートボールを口に入れたところで、目の前にひらひらと振る手が現れた。こちらをのぞき込む顔が続く。
「ん?」
「吉、大丈夫?」
「うん」
今日は月曜日。学校は昼休み。目の前で首をかしげているのはクラスメイトの東健二だ。二年になって同じクラスになってから仲良くなった。クラス内で唯一、吉丸が身長で張り合える相手でもある。
「なんか今日は機嫌良さそうだな。最近ずっと抜け殻みたいになってたのに」
「え、そう?」
「うん。まあ一時期よりはマシな方だったけど。前は目の前で手振っても気づかなかったもんな」
焼きそばパンをかじりながら、真面目くさった口調で言う。吉丸は思わずふき出した。
「はあ? んな訳ないじゃん」
「いや、マジだから。マジだから俺も突っ込めなくて今まで秘密にしてた」
「嘘だー」
「マジだっつってんじゃん。だからだいぶ回復したなって。何かいいことあったのかよ」
小首をかしげて言ってくる。まるで小動物のようだ。……俺が思うのもなんだけど。
「いいこと……」
途端に今朝見た夢の情景がありありと脳裏によみがえる。
まずいなあ。
頭を抱える。知らないうちに大きなため息がもれた。東は身を乗り出して問いを重ねる。
「なんだよにやにやして! 教えろよっ」
「にやついてる? 俺」
「うん。やらしい」
「だよねー」
「だからなんだよ」
今朝、吉丸は夢を見た。立川と別れてから長いこと眠りが浅くて睡眠不足だったのが、昨日は一転、布団に入った途端ぐっすり眠れたのだ。そのせいか、アラームをかけた時間よりも一時間も早く目が覚めてしまった。とりあえずもう一度寝ようと思って目を閉じてからだった。
湿った空気を感じたと思ったら、そこは昨日行った噴水広場で。吉丸は、誰かの腕の中にいた。優しい手つきで、けれど強い力で抱きしめられている。
これって。
『甘えたいなら、甘えろよ』
朱雀の声。記憶にある声よりもずっと色っぽく、甘ったるく聞こえて、背中がゾクゾクする。
次に、腕はそのまま身体が少し離れる。見上げるとやっぱり彼の顔が目の前にあった。吉丸の顔をのぞき込んでくる。よく見る、不機嫌そうな顔で。そして唐突に、躊躇いもなく目元に口付けてきた。
朱雀さん?
ドキドキ、なんてものではなかった。心臓が飛び出しそうなほど驚いた。一方で、ふと、ああ俺が泣いているから涙を拭ってくれたのかと納得している自分がいる。
いや、ちょっとちょっと待って。
納得した方の吉丸は、朱雀が次にキスをしてくるだろうことを知っていた。その目を意識してもっと健気に、辛そうに見えるように涙をこぼし始める。
ちがっ。何やってんだってば!
目を伏せていた朱雀は、テレビドラマのワンシーンみたいにゆっくりと一回まばたきをして、吉丸に目を合わせる。涙を受け取って、濡れた唇が動いて──
――そこで目が覚めた。
起き上がった途端にその情景はゆっくりと頭から消えていった。思い出せるのは、今の大まかな内容だけだ。
その大まかな内容でも、吉丸が動揺するには十分だったけれど。
ちょっ……俺、何考えてんの……?
しばらく、吉丸はぼーっと天井を眺めていた。
「何だよー。言えよ、つまんねーな」
せがむように東が訊いてくる。吉丸はぼそっとつぶやいた。
「……キスされた」
「は?」
驚いた顔で反応する。吉丸はすかさず言ってやった。
「夢で」
「なんだ夢か。誰と?」
「知り合い」
「誰?」
「東は知らないやつ」
「どこの学校?」
「どこかの学校」
「……」
「はあ。で、何? キスされてうれしいってか?」
「いや、うーん……」
「好きなのかよ、その子のこと」
「やっぱそうなっちゃうよねぇ……」
「はあ? なんなんだって」
問いには答えず、食事を再開する。東はちぇーと唇を尖らせ、パンをかじり出す。
「吉って本当その辺の話しねえよな」
「その辺ってどのへん」
「恋愛話とか下ネタとか」
「東が俺の分まで喋っているようなもんじゃん」
彼には同い年の彼女がいるのだ。恋愛話といえば二人の間では主に東が話し、吉丸が聞き役という場合が常だ。
「俺は吉の話が聞きてえのー。いっつも俺ばっかり話してさー、つまんねーよ」
恨めしそうに吉丸を見る。本当に不満気な顔をしているのを見ると、なんだかおかしくなってくる。
「……しょうがないな。教えてあげる」
「えっ」
「東が彼女と別れたら」
「えぇーー! じゃあ一生聞けないじゃん! 吉の意地悪ー!」
「……あのさ、真顔でそれ言わないでよ」
吉丸が自分の恋愛遍歴を思うに、それは誰かにわざわざ聞かせるほどすごいものでもなければ、また経験も特に多いということもない、という気がする。周りと比べて違うのは、今まで付き合ったのは全て男性だということくらいだ。大抵二、三歳年上で、向こうから好かれて告白されることが多かった。
相手が年上ばかりだったのは、吉丸の好みのタイプが大人っぽくて優しい紳士的な男性だからかもしれない。実際彼自身そういう人に受けが良いように外見を整えていたところもある。恋人同士になってからは、包容力のある彼らに優しくされると、吉丸はついつい健気で一生懸命彼氏に追いつこうとする良い子になってしまう。
優しい彼氏と健気な吉丸。そんな穏やかで柔らかな関係がとても幸せだった。
だから、同い年の男はどうもそんな対象にはならなかった。自分と立っている位置が同じだからか、恋愛感情を向ける相手として見ることはなかった。一緒に過ごす分にはもちろん楽しいのだけれど。
その、唯一の例外が立川だった。
好きだと気づいた次の日に告白して、一週間猛アタックして恋人にしてもらった。回りくどいことなんて出来なかったから。
空になった弁当箱に蓋をする。
……そんな立川とも別れてしまって。
『甘えたいなら、甘えろよ』
よみがえる言葉。
本当、まずい。
何だろう。自分でもわからないけれど、昨日から朱雀のことが頭から離れない。あの時……吉丸自身は立川のことで泣いていたのに。
朱雀さんって、不思議だ。
単にこないだ俺にひどいことをしたと思っていて、その反動でああした態度を取ったのかな。
朱雀にとっては辛いだろう立川のことでまたすがりつくこと。断られても仕方ないと思っていたのに……あの時には吉丸を許すような言葉すらかけたのだ。不意打ちで抱きしめられるような気分だった。実際には、肩を抱いてくれたのだけれど。
どうして、なのかな。
そう考え出すと止まらない。まして大好きな恋人と別れて、どうしようもなく悲しくて淋しい時に、あんな風に優しく肩を撫でられたりしたら。
「うわ、またにやついてる」
「……困ったなぁ」
「キモイ。つか全然困ってねえだろ、その顔」
なおもしつこく、東が指摘した。
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