二百円

 ピリリリリ……。ピリリリリ……。

 枕元で携帯電話が盛んに音を立てる。耳に突き刺さりそうだ。さすがに、目が覚める。

 あーうるせえ。

「………もしもし」

『もしもし、朱雀さん?』

取った途端、けたたましい着信音とは正反対の、のんびりとした声が耳に届いた。

「…………」

『もしもし?』

「…………」

『あれ? もしもーし』

「……ああ、吉丸か」

 聞き覚えのある声だと思ったら。この間学校帰りに会ってから、一週間ぶりだろうか。

『今思い出したの? ひどいな。番号、登録してくれなかったんだ』

さほど悲しそうな声色でもなくそう言ってくる。

「いや、してるよ。今表示見てなかった」

『もしかして、寝てた?』

「うん」

『へえ、結構こんな時間まで寝てたりするんだ』

反射的に朱雀は部屋の時計を見た。十一時半。少し寝すぎたか。

「……当たり前じゃん。部活ねーんだし」

『え、あ、そっか! 部活、休みなの?』

どうやら朱雀が部活をしていたことを忘れていたらしい。途惑いながら、訊いてきた。

「うん」

『じゃあ、今日暇?』

「うん……何かあんの?」

 そう訊くと、ふっと笑った声が聞こえてきた。

『二百円。お金、入ってきたから』



 駅前の通りは休日ということもあり、正午の今は人も車も多く行き交っている。天気は良く、ところどころにわた雲が浮かんでいて、そよ風が髪を揺らし、爽やかな空気だった。

 朱雀は駅ビルのテナントの中でも一際目立つ、ファストフード店へ向かった。待ち合わせの場所は吉丸が指定してきた。なんと東山門まで来ているらしい。わざわざ大変なことだ。

 ガラス越しに見ても賑やかそうな店内に、彼は一人ぽつんと座っていた。中に入り、とりあえず飲み物だけ買って席に向かう。

「おはよ」

「朱雀さん」

 ボタンダウンシャツに細身のジーンズ。長めの栗色の髪と、白い肌、大きな目。意外にも笑顔で吉丸は朱雀を迎えた。この間見た表情と全く印象が違っていて、思わずまじまじと見てしまう。

「朱雀さん?」

「あ、いや。待たせたな」

トレーをテーブルに置き、向かいに腰掛ける。

「ううん。急に呼び出したの俺だし。休みの日っていつも部活なんでしょ?」

朱雀は自分のコーラを一口飲む。

「うん。よっぽどのことがない限り」

そう言うと、吉丸は途端にうれしそうな表情を見せた。

「じゃあ俺タイミング良かったんだ。すごい確率だよね、これ」

「まあ、確かに。今日は区内の草野球チームが大会やるからってグラウンドも用具も貸し出されててさ。使えないから、休み」

大会前の最後の休息だ、と言った顧問の先生の声を思い出す。

「そっか。朱雀さん、野球部だっけ。ポジションどこ?」

「ショート」

「ショート……」

ぽかんとした顔。あまりぴんと来ていないようだ。こいつ野球全然知らねえな。すかさず訊いてやる。

「どこ守ってるかわかんの」

「わ、わかるよ。サードとセカンドの間でしょ?」

予想通りの焦った反応が、少しおかしい。

「だいたいはね」

 吉丸が紙カップに口を付けると、コーヒーの独特の香りがこちらにも広がる。

「この前は、ちゃんと帰れたのかよ?」

「うん。あれから目が覚めたし」

そう言いながら、吉丸は財布を取り出し、二百円をテーブルの上に置いた。

「はい、これ。ありがとうございました」

余裕のある笑みを見せる。立川のことは、少し落ち着いたのだろうか、と思った。

「……二百円くらい、別にいいってのに」

電話口でも言ったことをまたくり返す。吉丸はじれったそうによくないよ、ともらした。

「借りたんだから、返すのは当たり前でしょ」

「まあ、そうだけど」

仕方なく二百円を財布にしまう。あ、そうだ。思いついて朱雀は席を立つ。

「腹減った。飯食っていい?」

「うん。あ、俺も食べる」

軽い足取りで吉丸は追いかけてきた。



 腹ごしらえが済むと、途端にあくびが出てきた。我ながら現金な身体だ。

「昨日は遅かったの? 寝るの」

そんな朱雀を見て上目遣いに吉丸が尋ねる。

「いや別に。部活から帰ってソッコー寝たよ。最近は何か寝ても寝ても寝たりねーの」

「ふーん」

「大会も来週だし、身体がくたくたなんだよ」

「えっうそ」

「うん」

「来週って……よかったの、今日」

「だから部活は休みだって。身体休ませる日なの」

「そ、そうなんだ」

ぎくしゃくとぎこちなくうなずく。よくわからないながらも納得したようだ。

「あんたは何してたんだよ」

ふと思いつき、訊いてみる。

「え?」

「今日。ずっとここに居たんじゃねーだろ」

「……ずっと居た」

「は?」

「最初に電話したでしょ? あれが十一時半で……九時半くらいからかな。ずっと」

「はあ。何やってたんだよ」

「別に。ぼーっとしてた」

「わざわざここまで来て……暇だね」

「うるさい」

 そうからかい口調で言ってから、朱雀は気づいた。東山門は朱雀の家の最寄り駅でもあるけれど、中学で同じ学区だった立川の家の最寄り駅でもあるのだ。吉丸が一人でここにいた二時間、どんな時間だったのだろうか。

 吉丸はそっと息をついて、またコーヒーに口を付けた。一気にあおる。そうして、また目を伏せた。長いまつげが生え揃っているのが日の光にはっきりと見えて、その途端、この間会った時と同じ、憂いのような色が戻った気がした。なんとなく、朱雀は手にしていたコーラの紙カップをトレーに置く。

 すると吉丸はちらと一瞬だけ朱雀を見上げて、一度ためらい、言いにくそうに口を開いた。

「朱雀さん」

「ん?」

「あのさ、お願いがあるんだけど」

「なに」

「映画は、好き?」

質問の意図がわからず、とりあえず朱雀はうなずいて答えた。

「映画観たいのか?」

目を伏せたままこくりとうなずく。そんな吉丸を見て、ぴんと来た。

「立川と観るつもりだったやつか」

一瞬躊躇したが、面倒だった。言ってしまう。

「ちがっ」

吉丸は顔を上げる。けれど、またすぐテーブルの上の自分の手に目を落とす。

「……いや、そうだけど……俺の方が観たくて秀人を誘ってたやつなんだ」

「ふーん」

「秀人とはそういう映画の好み、合わなかったけど。俺が行きたいって言ったら、付き合ってくれたんだ」

 んなことは聞いてねえ。

「だから、俺が、観たいんだよ。付き合ってもらえないかな」

朱雀は頬杖をついて目の前の吉丸を見やる。彼は居心地悪そうに目を伏せている。

 不思議に思った。どうして俺にそんなことを頼むんだろう。知り合いと言っても会うのはまだ三度目なのに。

 友達とかと行きゃ気が楽じゃねーの。こんな申し訳なさそうに頭下げてまで。

 まあ、別に嫌じゃないけど。

「……どの映画?」

携帯電話を取り出し、インターネットでシネマガイドを呼び出す。結構映画を観るのは好きだ。

「! 行ってくれるの?」

「ホラー映画じゃなきゃ付き合う」

朱雀がすかさずそう言うと、吉丸は初めて声を立てて笑った。



 二人が観たのは、ハリウッド作品のサスペンスアクション映画だった。すでに現役を引退した元FBI捜査官と、頭がよくなく能天気だが身のこなしは軽い若者が、ひょんなことから犯罪組織の陰謀に巻き込まれていくというストーリーだ。

 吉丸は映画館に向かう途中も、ホールでの待ち時間もずっと、この映画のどこが面白いのか、注目すべき点なのか、自分がどれだけ心待ちにしていたかをこんこんと語った。それを聞く限り、自分が観たかったのは嘘ではないようだった。

 「若者の方の俳優は、スタントなしで撮影しようとして結構あちこち怪我したみたい。大きな怪我はなかったらしいけど。やっぱりそういう気合がいいよね」などとうれしそうに語るので、朱雀も少し期待してしまったくらいだ。

 にこにことうれしそうな吉丸の顔。元々整っていることもあって、笑うとさらに人好きのする顔になる。誰からも放っておかれないような綺麗な顔だ。朱雀は、別に自分が男に恋をする性質ではないと思っているけれど(立川は特殊だ)、彼に恋をする男がいてもちっとも不思議じゃないな、と思う。そして、立川は彼に恋をしたのだ。

 頭の中の小さな箱、しまいこんだはずのものをまたわざわざ探りだそうとしている。朱雀は小さく息をつき、頭を振ってやり過ごした。

 映画は、少なくとも朱雀にとっては良い意味でも悪い意味でも期待通りで、まあこんなもんかな、という感じで終わった。観る機会があって良かったという程度だった。

 対して吉丸はホールを出た瞬間から「面白かったー」と声を上げていた。表情を見るに、とても満足したようだった。

「朱雀さんはどうだった?」

「うんまあ。面白かった」

「……よかった」

 吉丸がこっちを向いたまま話すせいで、横から出てきた人にぶつかる。よろける身体を、朱雀は思わず支える。

「っごめん」

「ん」

柔らかな髪が首元をくすぐる。空調のせいか、支えた腕に感じる体温は冷たかった。

「朱雀さんって体温高いね」

今まさに考えていたことと同じことを言われる。

「あんたが低いんだよ」

「朱雀さん、運動してるから」

「まあね」

言いながら、朱雀は思ったより簡単に支えることができたことに驚いていた。



「……よかったのかよ」

「何が」

 映画館を出た後、二人は隣接するショッピングモールを横目に見ながら通り過ぎ、噴水のある広場の敷石に腰掛けていた。日光はギラギラと照りつけているけれど、日陰はそれなりに涼しい。時折、風の向きで細かな噴水の水が足先に降りかかってくる。

「映画、俺と観てさ。普通に友達と観に行った方がよかったんじゃねーの?」

 何をするでもなく二人で座って十数分。朱雀は数時間前疑問に思ったことを聞いてみた。気になっていることを一人で悶々と考えるのはあまり性に合わない。

「迷惑だった?」

こちらを向いて聞き返してくる。ちげーよ。

「だったら断ってるよ。そうじゃなくて……俺と行ったら、絶対思い出すでしょ、立川のこと」

吉丸はどこかぼうっとした表情で噴水を眺めていた。倣って朱雀も目をやる。水しぶきの後ろに見える木々の緑はとても瑞々しい。しばらくして吉丸は我に返ったように口を開いた。

「……別に平気」

 その横顔は、明らかに感情を押し殺しているのが見て取れる。

「ていうか秀人と別れた日より、こないだ朱雀さんと会った日の方が、ハプニング続きだったし」

「は?」

「変なおじさんに声かけられるわ、電車賃足りないわ、うどん屋さんで色々言われるわ……」

「おい」

「秀人と別れた日の方が、シンプルだった」

「………」

そう言われ、朱雀はなんて返すべきか、言葉が見つからなかった。こちらが反応に困ることをあっさり言うなんて。意外だった。目をやると彼は下を向いていて、表情はわからない。

 ふっと力ない笑い声が耳に届く。

「でも……本当は甘えたかったんだよ」

「なに」

「朱雀さんは、俺と秀人のこと知ってるから。ちょっと付き合ってもらおうと思ってさ。例えば映画を観る前にぼろぼろ泣いちゃったりしたらさ、友達には絶対言い訳きかないじゃん。……ふっきらなきゃとは思ってるけど上手くいかないから、ついつい、ね」

 口を開いている時に保っていた笑みは閉じると同時に消えていた。敷石に置かれた手は固く握り締められている。

 なんでこいつ。唐突に思った。

 なんでこいつ、そんなこと言ってるくせになんで今……こんなに気ぃ張ってんだろう。

「甘えりゃいいじゃん」

ふと、朱雀はそう言っていた。

「え?」

吉丸がはじかれたようにこちらを見たのがわかった。噴水を見たまま、続ける。

「大学受験とか、就職試験とか、そんなのを相手にしてるわけじゃねーんだ。甘えたいなら、そうすれば」

隣を見ると、彼は大きな目をさらに大きくしてこちらを見ていた。その目が、次第に潤んでいく。

「……だって、朱雀さんが言ったんじゃないか。俺は『悲しめるだけまだマシだ』って」

震える声。朱雀は頭を抱えた。

 俺のせいかよ。つーか俺の言ったこと覚えてたのか。大きなため息が洩れる。

「あー、そりゃ俺のただの八つ当たり。本気で聞くな」

「…………」

「でも、正しい」

ついに、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 吉丸の涙は、止まる様子もなくぼろぼろこぼれ落ちる。それを見ても、朱雀は不思議とこの間のようにいらだつ気持ちにはならなかった。この間のことで懲りた、ということもある。元々朱雀の立川への想いだって、もうぼろぼろで干からびている枯れた植物のようなものなのだ。それよりも目の前の彼を何とかしないと、という思いに駆られていた。

 こいつもこいつなりに気ぃ張って、意地張って、今ここに立ってるんだってことを知ってしまったからかもしれない。

「正しいかどうかじゃねーよ。いいから俺の言ったことは忘れろ。泣きたいなら泣け、甘えたいなら甘えろ」

 頭をポンと叩いてやる。

 ったく何やってんのこいつ。……いや、俺のせいか。ため息が洩れる。

 すると吉丸は朱雀の肩に顔を寄せてきた。嗚咽が聞こえ、本格的に泣き始めた。激しく震える肩を朱雀は軽く撫でてやる。

「悪かったよ」



 十分程、吉丸が落ち着くまで朱雀はそのままの体勢でいた。広場にいる色々な人が不思議そうな、中には揶揄するような目で見ていく人もいて、恥ずかしいどころの話ではなかった。

 吉丸がようやく身じろぎして顔を上げる。瞳にはまだ涙が張りつめていて、頬には濡れた筋がいくつも通っている。彼がまばたきをした拍子に雫が頬にこぼれた。

「大丈夫?」

 雫を指でぬぐってやる。ハンカチなんて持っていないし、目についたので思わずそうしてしまったのだけれど、途端に吉丸が赤かった顔を更に赤くさせたものだから、朱雀は慌てて手を離した。

「うん……ごめん」

顔をうつむかせて、ぼそっと吉丸が言う。それから乱暴に目をぬぐった。

「ん」

朱雀はようやく息をつき、肩に置いていた手を離した。吉丸は真っ直ぐ座り直し、大きく息を吸ったり吐いたりを繰り返す。身体の中の空気を入れ替えているようにも見えた。

「はあ……疲れた」

さっきよりは憂いの色がなくなっていた。ただぼうっとした顔があるだけだ。自然と朱雀の口から言葉が出る。

「あんた、いきなり過ぎ」

「え?」

「そこ通る人通る人に俺じろじろ見られた。悪いことしたみたいじゃん」

ちらと見やると彼もこちらを見ていた。表情は動かさず、唇を尖らせる。

「泣かせたのは朱雀さんだろ」

「はあ?」

「泣いていいって言ったじゃん」

「ちぇっ、悪かったよ」

仕方なくそう言ってやる。吉丸はかすかに微笑んだ。

 吉丸の呼吸が落ち着くのを待って、時計を見ると四時前になっていた。今日の朱雀の役目はこれで終わりだろう。そんな気がした。立ち上がる。

「帰る?」

「うん」

 大通りに出た朱雀を、吉丸が追いかけてくる。正面を向いて迎えると、彼の顔は何とも言えない表情になる。

 照れくさそうな、しょげているような、そんな表情。

 目が合うと、うなずく。朱雀は歩き出した。傾きかけた日の光がビルの隙間から溢れんばかりに降り注いでいる。人通りは少なくなっていた。吉丸が追いついてこないな、と横を見やると栗色の頭が見えた。

「……やっぱり、朱雀さんって……」

「あ?」

「ううん、なんでもない」

 吉丸がふふっと足元を見て笑う。

「なに」

「別に」

「なんだよ」

首を振る。

「あんたさ、そうやって言いかけてやめるの、やめてよ」

「なんでもないよ」

 今度はこちらを向いて笑う。なんとなくそれ以上聞いても答えてくれない気がしたので、朱雀は重ねて訊くのをやめた。

「朱雀さん」

「うん?」

「付き合ってくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

 そう答えた朱雀の目には、微笑む吉丸の顔だけが映っていた。

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