帰り道(2)

 大通りに降り立つと、生ぬるい風が髪の毛を舞い上げる。さっきよりは人通りがまばらになった中をぼんやりと歩いていき、駅にたどり着いた。結構人が混み合っている。ざわついた構内で、朱雀は定期券を取り出し改札口へ向かう。

 そこで見覚えのある影を、一瞬見た。

「……よしまる……?」

 つるりとした白い柱にもたれて、なんだか不安そうな顔をして人通りを眺めている。

 ……何やってんの?

 そのまま横目に見ながら通り過ぎる。誰かと待ち合わせているのか。よくわからない。あんなあからさまに不安そうな顔でキョロキョロしていたら、また変態男に捕まるのではないだろうか、と嫌な気分になる。

 まあ、でももう関係ない。

 忠告はしてやった。さっきも楽しく話してたわけじゃないし。

『好きだったのに……』

 吉丸の言葉が甦ってくる。

 ふと、足が止まった。後ろにいた人が朱雀にぶつかって、うざったそうに舌打ちする。

 だからなんだよ。男のくせにめそめそしやがって。腹が立つんだ。悲しいのは、辛いのはあんただけじゃない。

 俺だって───。

 朱雀はまた一歩、一歩、歩き出した。たくさんの人が彼を追い抜いていく。たくさんの声が飛び交って、朱雀の脳内にこだまする。ぬるい風が、鼻先を通った。定期を改札に通して一歩出る。また誰かと肩がぶつかった。

「…いって」

聞こえるようにそう洩らしたけれど、相手は知らない振りで歩いていく。

 その時。


 朱雀さん。


 声がした。つぶやくような、声。朱雀は思わず振り向いた。

 その先にはやはり、吉丸がいた。改札機の一歩手前で、突っ立っている。

「……よしまる」

呼んだ本人が驚いた顔をしていた。

「聞こえたんだ……」

「…………」

二人は改札を隔てて立っていた。

「何だよ」

ざわざわと人が多くて、吉丸の姿が見え隠れする。朱雀は少し声を張り上げた。

「え?」

「なに? 今呼んだでしょ」

「あ、えっと……つっ」

後ろから来た人物がぶつかって、吉丸がよろける。彼は朱雀と目が合うと、迷惑そうに逸らした。

「あのさ、ちょっとあっち、回って来いよ」

朱雀は手振りでそう示した。

 改札を通った後のフロアとそれ以外を隔てる低い柵へと移動すると、吉丸は急いだ様子で駆け寄ってきた。走ってきたせいか、前髪が乱れて額に張り付いている。

「なんだよ? あんた帰ったんじゃなかったの」

「…………」

すかさず朱雀がそう言うと、吉丸はうっ、と顔をしかめる。

「別にあんたの勝手だからいいけど。で、なに? こんなとこで」

「……あの、」

コンコンと咳をして、言う。

「電車代……貸してくれない? あと二百円足りないんだ」

「…………」

「お金、結構使っちゃってて。今日、回数券もなくて」

 ……ああ、うどんのせいか。

 朱雀は黙って財布を取り出し、二百円を吉丸の手に持たせた。

「あ、ありがとう……」

 必ず返すからと言って頭を下げ、吉丸は切符売り場へと駆けていった。朱雀は何となく、その姿が消えるまで見届けた。

「気が抜ける……」

 危なっかしいやつ。俺が見つからなかったら、どうするつもりだったんだろう。

 うどん店での吉丸の表情を思い出す。そうだ。強い瞳を見せたのはあの一瞬だけで、それまではずっと魂が抜けたみたいになっていたのだ。大して面識のない朱雀の前で泣いてしまうくらい。

 弱いものいじめ、という言葉が浮かぶ。

 八つ当たりの相手を、間違えたか。

「…はぁー…」

鞄を下ろして柵にもたれかかる。なんで俺がこんな風に考えを回さなきゃいけないわけ……。

 顔を上げると、改札から出てくる吉丸が見えた。一瞬、こちらを見て、朱雀を見つけると近付いてくる。なんとも言えないしょんぼりとした顔をしていた。

「……帰る?」

 低い声で吉丸は訊いた。朱雀は黙って頷いた。

 階段を上がって、ホームに出る。ぬるい風がまた吹いてきた。吉丸は前を歩いて、既に列ができている集団に並ぶ。コンコン、とまた咳き込んだ。乱れていた前髪を整え、切符を少し眺めて、ポケットにしまう。朱雀は隣に立った。

『まもなく、三番乗り場に普通列車、到着いたします』

 アナウンスが流れた。プアアアン、と音が聞こえる。

「吉丸」

「……うん?」

「ちょっとさ……今日俺調子悪かったんだよね」

「………」

「イライラしてたわけ」

「………」

「だから……」

 電車が来た。人々の髪や服が舞い上げられていく。吉丸は、不思議そうな顔をしてこちらを見上げている。

「ちょっと言い過ぎた。悪かったな」

 そう言ったものの、正直なところ、朱雀が悪いと思っているのは半分くらいだ。弱ってるやつに八つ当たりをするのはみっともない。もう半分はその思いだった。確かに朱雀だって辛い。けれど現在進行形で一番悲しいのは吉丸の方だし、立川と付き合っていた彼には、人一倍悲しむ権利があるような気もした。

 電車のドアが開く。人々が次々と乗り込んでいく。吉丸は驚いた顔をしたけれど、やがて口だけ動かし「ううん」と言った。

「いいんだ。……わかってるから」

「あ?」

問い返すと彼は、気だるげな笑顔を見せた。



「わかってるって……何が?」

 ガタンガタンと揺れ続ける電車の中。混み合う車内で、朱雀は吉丸が答えなかった問いをもう一度訊いた。鞄を手に持っていると、前に立つ乗客に鞄が触れるか触れないか、際どい間隔が空いているくらいだ。吉丸は朱雀の隣に立っていて、時折触れるその肩は朱雀の二の腕の真ん中あたりまでしかない。

「……好きだったんでしょ」

周りをはばかって、伸び上がり朱雀の耳元に口を寄せる吉丸。

「は?」

「秀人のこと」

「! なっ……」

驚いた。反射的に頬が熱くなる。

「わかるよ」

「なんで」

「『見りゃわかる』」

「あの時か」

吉丸は頷いた。

「あの……初めて会った時、すぐにわかったよ。だからかな……さっき、あんなとこでフラフラしてたの」

大通りで出くわした時とは裏腹に、彼は余裕のある口調で話し出す。

「は?」

「朱雀さんに会いたかったのかもしれない」

「俺?」

思わず朱雀は傍らを見下ろすけれど、吉丸はゆるく笑ったままで答えない。そのまま電車は駅を三つほど通過した。乗客は乗った時の半分くらいに減り、空いた座席に二人は腰掛ける。

「……秀人に、恋する仲間」

「その言い方マジ止めて。なんかかゆい」

「でも、そうでしょ?」

「…………」

「だから、塾サボって歩いてて……朱雀さんを見つけた途端……何か話したくなって。ぶちまけたくなって。俺と秀人が付き合ってたことも気付いてたって言うし」

「迷惑な話だな」

「本当だよね」

肩をすくめて、吉丸が言う。

「だから、俺の方こそごめん。会っていきなり……色々言っちゃって」

「……いや」

言い過ぎたのは朱雀の方だ。そう言うしかない。

 ふぅーと長く息をついて、吉丸はぐったりと座席にもたれた。

「ちょっとすっきりした。今まで誰にも言えなかったし、秀人にもぶちまけられなかったし。朱雀さんには悪いけど……少しだけ楽になった」

「はあ。どーいたしまして」

吐く息混じりに朱雀は答えた。隣で、ふっと笑う気配がした。

 吉丸は……自分が納得できないまま、自分の気持ちにケリをつけなくてはいけなくて。それがどれくらい大変なことか……自分で勝手に自分の気持ちに蓋をした朱雀が想像するに、それはとてもきついことで。その上男同士。誰にも言えない、誰にも気付かれてはいけない。自分一人で抱えて消化するには大きすぎる想い。いや、一人でなんかいたら、消化どころか想いは増殖する一方に違いない。それで……朱雀に出会った時、立ち止まらずにはいられなかったのだろう。

 ……そうするとますます、俺は悪者以外の何者でもないじゃないか。

 車窓から見える景色は真っ暗で、街灯やネオンの明かりが、近くのものは速く、遠くのものはゆったりと流れていく。車内はもうどこまでも静かだった。

 コトン、と右肩に重みがかかる。目をやらなくても、向かいの窓ガラスに映っていてあきれる。吉丸が朱雀の肩を枕に寝ているのだ。耳を澄ませば、スースーと規則正しい寝息が聞こえてくる。

「……子供かよ」

 すっきりして、そのまま眠くなったのだろう。本当、子供だ。きっと立川と別れてからずっと眠れない夜を過ごしてきたのだろう。ちらと隣を見る。青白かった頬にも、少し赤みが戻ってきている。安らかな寝顔だった。

「……お疲れ」

 あんたも、俺も。

 ドロドロとした感情にはまたしっかり蓋がなされた。



 自分の降りる駅の近くになって朱雀は気付いた。

「ちょっと、吉丸、起きろ」

傍らの頭を揺さぶる。前髪が乱れたけれど、当の本人は目を覚ました。

「ん……あ、ごめ」

口が上手く動いていない、目をこする吉丸に勢い込んで訊く。

「あんた、降りる駅は」

「次どこ?」

「東山門。俺次で降りるぞ」

「だいじょうぶ。俺、五ノ宮だから」

五ノ宮……東山門の二つ後の駅だ。

「もう寝んなよ」

「大丈夫だって」

駅への到着を告げるアナウンスが流れ始める。不意に吉丸が口を開いた。

「朱雀さん」

「あ?」

「番号」

「番号?」

「ケータイの。二百円、返すから」

「……いいって」

「よくない。これは、絶対返す」

 今日会ったばかりの時とは百八十度違う、きかん気の強そうな光を見せる瞳に、朱雀も折れた。

「わかったよ」

番号を告げる。すぐに吉丸は携帯電話にそれを打ち込む。彼が朱雀の携帯電話へ一度発信したところで、東山門に着いた。

 立ち上がり、『着信あり』と表示が出ている携帯電話を胸ポケットにしまう。吉丸を振り返った。

「じゃあな」

「うん。ちゃんと返すから」

「別にいらねーよ」

「いや、返す」

「わかったよ。気をつけて帰れよ」

 自動ドアをくぐると、声が届いた。

「ありがとう」

はっとして振り向くと、ドアが閉まった。ゆっくりと電車が動き出す。何となく、朱雀は立ち止まってそれが見えなくなるまで見送った。

「訳わかんねぇ」

 ありがとうなんて、言われる筋合いはない。八つ当たりしたのは、俺だし。

 頭の中でさっき蓋がなされたものが、どんどん奥へとしまい込まれて小さくなっていくのを感じながら、朱雀はホームの階段を下りていった。

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