グッドアフタヌーン
道半駒子
帰り道(1)
七月初旬。早々に梅雨明けとなった今年の夏は、始まった途端に暑さがピークを向かえ、それが弱まることなく何日も続いていく。夏になった途端、七月も八月も一緒くたにかき混ぜられたようだった。
学校から駅までの道のり。日が落ちて暗くなった街も、数週間前まではいくらか涼しかったのに、今は空気の質量が感じられるくらい湿っていて暑い。
「あー……疲れた」
携帯電話がシャツの胸ポケットの中で音を立てた。電話だろうかと思い、取り出して耳に当てたけれど、すぐに切れた。
「あれ」
着信履歴を確認する。知らない電話番号だ。
誰……?
首をひねったその瞬間、正面から歩いてきた人物とぶつかった。
「あっ、すみません」
「……スマセン」
携帯電話の画面を見たまま謝る。そのまま朱雀がその人物を避けようとすると、またぶつかった。
なんだよ。
ようやく顔を上げると、見慣れない制服が目に入った。この辺りではめったに見られない、沖男子高校の制服。なんでも偏差値は朱雀の祖父の年と同じらしい。長めの髪に細いシルエット。出で立ちに何か予感めいたものが頭を駆け巡る。目が合った瞬間、思い出した。
『俺のトモダチ。これでもすっげえ頭良いんだよ』
いつかの声が、耳に蘇る。
「あんた、立川の……」
思わず声が出ていた。その名に目の前の彼はぴくりと反応し、朱雀を穴が開くほど見つめてくる。
「あんた、吉丸……?」
「朱雀さん?」
「吉丸でしょ」
確認するように朱雀がもう一度訊くと、彼はこくんと素直に頷いた。吉丸…
「こんなところで何してんの? あんたらの高校とはすっげ離れてっけど」
「……塾が、この辺にあって」
小さな声が答える。朱雀の影に覆われて、表情がよく見えない。
「ふーん」
とはいえ今は七時半だ。
塾ならもう始まってるもんじゃないの? よくわかんないけど。
「もう七時半じゃん。急いだ方がいいんじゃないの」
「うん……いや、今日は行かないつもりだから」
「あっそ。俺急いでっから。じゃーね」
携帯電話を持ったまま、朱雀はさっさと歩き出した。
こいつといるのは苦痛以外の何物でもない。大体、なんで今更俺の前に現れる。立川とだって連絡を絶って半年だ。もう、あんな不快な思いに駆られたくない。
奥歯を噛みしめ、足を踏みしめる。すっかり暗くなった街中にぱらぱらと光るネオンを睨む。
「ねえキミ、ちょっと」
背後で声がした。後ろを見やると、二、三メートル先にくたびれたスーツを着た太った男が、細い影に声をかけていた。
「キミさぁ、すごく綺麗な顔してるね。学校帰りでしょ。お腹空いてない? よかったらご飯食べに行こうよ」
男が声をかけている相手……よく見なくてもわかった。吉丸だ。思わず足が止まる。
「いや、俺は……」
「遠慮しないで。元気ないぢゃん。美味しいもの奢るからさ」
男の手が吉丸の頼りない肩に回され、もう一方が白い手に伸びる。
──何やってんだよ、バカっ。
朱雀は急いで駆け寄り、吉丸の腕を引っ張った。
「吉丸っ」
「何するんだっ」
引き剥がされて、男がよろめいて叫ぶ。朱雀は引き寄せた吉丸の身体にもう一方の腕を回した。
「朱雀さん」
「悪いけど、こいつの約束、俺だから」
冷ややかにそう言ってやると、男は不快そうな表情を浮かべ、すぐに人通りに紛れて消えていった。
ったく……。
すぐに手を離す。ついでにいら立ちを込めてその肩を突いた。
「何やってんだよあんた。ぼけてると連れてかれんぞ」
「うん……ごめん」
口ではそう言って謝るものの、吉丸はよろめいた格好のまま石のように動かない。その視線はどこかこの世の果てを見ているようにぼんやりと焦点を結んでいて、顔色は白く、唇はかさついている。かろうじて瞬きをしているといった風だった。
「…………」
「おい、大丈夫かよ」
また軽く肩を叩いてやると、「え、ああっ」と声を洩らして首を振った。かといって、正気を取り戻したとも言えなかった。
「……朱雀さんは、帰り電車?」
魂が抜けたような表情のまま、目は朱雀に合わせて吉丸は訊いた。ぬるく湿った風が吹きつけてくるのに、彼の周りだけは雪が降るかのように寒々しい。
「そうだけど」
朱雀は
中学の同級生。三年間ずっと何をするにも立川と一緒にいて、こちらに笑いかける彼の顔を間近で見ながら、どうしたら自分のものになってくれるかと悶々と考えていた。けれど朱雀も立川も男同士。想いを叶えるなんて夢のまた夢で……結局諦めた。卒業後は幸か不幸か別々の高校に合格した。部活に打ち込んで、女の子とも付き合って、中学の集まりには最低限だけ参加して……苦しいながらも徐々に立川のことは思い出に変わりつつあった時だった。
半年前、偶然再会した。駅ビルのエントランスホールで「久しぶり」と声をかけられた時は、信じられない思いと、戸惑いと、苦しさと、ちょっとだけのうれしさに朱雀は恐怖し、身震いした。
「お前また高校でも野球やってんだろ? 俺もまた竹田とバンドやってる。あ、そう、こいつ、俺の……トモダチ。吉丸って言うんだけど。こう見えてすっげえ頭良いんだよ。教えるのも上手いし。試験前二千円で貸しちゃる。だからさ、また連絡くれよ。お前休みの日部活ばっかだろ。最近遊んでないしさ」
立川は少し不満そうに唇を尖らせて、次にはいつものようにえくぼを見せながら笑ってそう言った。珍しく試験の話をしてきたのは、朱雀が彼からの休日の誘いを、部活だからとことごとく断り続けたからだったろう。実際それは本当だったのだけれど。
暇になったらな、と答えながら、立川を見た時……確信したのだ。
立川の目が……吉丸に向けられるその目が、彼……友達に向けられるものと明らかに違うことを。
立川、トモダチじゃなくて、そいつ恋人じゃねーの。
そう口にすることは出来ず、適当に返事をして別れた。何とも言えない、暗く黒い、身体が内側から腐るような最悪な気分だった。吉丸とかいう男へ嫉妬の気持ちがわき上がるのと同時に、もうこれ以上俺をかき乱すのはやめてくれ、と思ったのだ。
その後は変に思われないように一度だけメールをして、どうでもいい話をした。
そして、それから半年。
胸のうちできっちりと蓋をして封じ込めていたところを、この吉丸はガタガタ揺らしてきやがる。
結局、二人共向かう先が同じだったので、駅へと連れだって歩いた。いらだっている朱雀と、魂が抜けたような吉丸。こんな二人組で楽しい会話が生まれるはずもない。人通りや街並みに目をやりながら歩くだけだ。一緒に歩いているというより、ただ隣に誰かがいるという、その程度だった。
しかしややして沈黙にも飽きて、何でもない風を装って朱雀は訊いた。小さく息をつく。
「……立川は? 最近どうしてんの?」
「え」
びくりとはじかれたように顔を上げる吉丸。けれど。
ぐうぅぅ〜……。
間抜けた音が響く。何それ。朱雀は思わずため息が洩らした。すると触発されたように、自分の腹も鳴る。
「………」
「………」
何これ。何これ。なんで俺がこんなやつと一緒に腹鳴らしてんの。動揺する。
「……そこ、行く?」
とっさに目の前のうどん店を指で示した。朱雀の内心の動揺にも気づかず、吉丸はやや恥ずかしそうにうなずいた。
「………うん」
なんでこんなことになってんだか。よりによってこいつと肩並べてうどん食うなんてさ。
うどん店のカウンター席。混み合う店内で、二人は空いていた中央へ並んで掛け、揃ってうどんをすすっていた。朱雀はかき揚げうどん、吉丸はきつね。注文して五分と待たずに運ばれてきた。
「で、話の続きは」
「え?」
口の中のものを飲み込んで訊き返す吉丸。
「立川」
訊きたいわけではないけれど、一度話を振ってしまった以上、別の話をするのも変な気がして訊いた。……他に話題もない。
「ああ。……わかんない。最近会ってないし」
「……別れたのかよ」
「え」
「知ってるよ。付き合ってたんでしょ」
「!」
こちらを見たまま固まった吉丸を尻目に、朱雀はお冷を一口飲む。喉に心地良い。
「……ど、どうして」
「見りゃわかる」
あんな甘ったるいアイコンタクトしてりゃすぐわかる。
「そっか。……えっと、あの……、そう、別れたんだ、先月。秀人に他に好きな人が出来たからって」
「へえ」
そりゃご愁傷様。気のない返事が何を促したのか、吉丸は更に口を開いた。
「アドレス消して、番号消して……って別れた実感わいて来たら、なんか全部どうでもよくなって」
「……で? ぼーっとしてたわけ」
非難めいた視線を向けると、すぐに吉丸は反応を見せた。
「……気をつけるよ」
「助けられた後に言うんじゃねえよ」
そしてまた、沈黙が下りる。ありがたいことに、店内の騒がしさに紛れてそれはあまり気にならない。
このまま黙ってうどんを食い終えて、さっさと駅で別れりゃいい。こいつの、よりによって立川との事情なんか知るか。
朱雀がきつねの半分を飲み下したところで、隣からまた吉丸の声がした。
「なんでだろ……。俺何が駄目だったんだろう……っく」
うつむいて涙をこぼしながら苦しそうにそう言う。ため息がもれた。
あーあ、泣いちゃったよ。
きっと何の関係もないただの知り合いだったら、慰めの言葉くらい口にしたかもしれない。けれど吉丸のその声は、ますます朱雀をいらだたせるものでしかなかった。とりあえず、彼の髪がうどんに入りそうだったのでどんぶりをずらしてやる。
「好きだったのに…」
ヒック、と喉を詰まらせる。
泣きたいのはこっちだっての。忘れかけてた時になって現れやがって。
湿っぽい声にいよいよ我慢ができなくなってきた。
「……あんたはさ、悲しめるだけまだマシじゃん」
「え……?」
口が滑った。吉丸がはっと顔を上げてこちらを見る。泣き顔でも彼の整った顔は歪まない。
まあいいや。どうにでもなれ。泣いているからって慰めてもらえると思うなよ。
「悲しめるだけ、まだマシだって」
「…それ、どういう意味?」
吉丸は眉間に皺を寄せて、真っ赤な目で探るような視線を向けてくる。朱雀は頭を素早く回転させて、声を出した。
「立川、女子にもモテてたんでしょ? 失恋したやつだってたくさんいたはずだ。付き合えた分、あんたは悲しめる。だからマシじゃんってこと」
朱雀はそれ以前の問題だ。立川との甘い思い出を惜しんで泣くことすらできない。想いを伝えることすらしていないのだから。……それは自分自身のせいだとよくわかっていたけれど、無視した。
「────………」
吉丸は絶句した。当然だろう。わかっていて、言ったのだ。
「……すざくさんは……さ、」
声が震えている。椅子を引く音がしたのではっと顔を上げると、吉丸は立ち上がっていた。
無表情で、黙ったまま朱雀をひたと睨みつけてくる。その顔はさっきの泣き顔とは違い、顔立ちが整っているからこそ恐ろしい表情だった。能面のようでいて、刃物を突きつけてくるような激しさがあった。
「んだよ」
朱雀は朱雀で、包み隠すことなく敵意を持って吉丸を睨みつけた。イライラをありったけ目に込めて。
カチャン。
吉丸は答えないまま、カウンターにお金を静かに置くと、店を出て行った。
「……はぁ……」
意識の外にあった店内のざわめきが、耳に戻ってくる。目が重く痛んだ。指で眉間をつまんでほぐしながら、ようやく朱雀はひと息ついた。
あんだけキレイな顔が、よくもあんな怖い顔になるもんだ。
重く沈んだ気を晴らそうと、鼻で笑ってやる。
少し言いすぎたかもしれないと思ったけれど、今更訂正できないし、する気もなかった。
心底悲しそうにしやがって。
自分だけが辛いと思うなよ。
『…すざくさんは……さ、』
吉丸の言葉が耳に残っている。何を言いたかったのか少し気になったけれど、もう二度と会うことはない。さっさと忘れようと思った。
これで、もう立川のことでいらだつこともないだろう。
やがてどんぶりは空になり、朱雀は店を出た。
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