立川とのこと(1)
中学の時、朱雀は立川秀人に一度だけ告白しようと思ったことがある。立川を好きだと自覚してから一年ほど経った頃だ。
中学三年の六月。連日のように大雨が続いていて、衣替えをしたばかりの半袖シャツでは、まだ少し肌寒かったことを覚えている。
その日も、天気は日が沈むまで持ちこたえられず、ほんの一時間のうちに分厚い雨雲が空を覆い始めたかと思うと、どしゃ降りになった。練習でグラウンドにいた朱雀たちも、さすがに雷まで鳴り始めると続ける訳にはいかず、顧問の先生の指示で練習を切り上げた。
急いで部室に避難する他の生徒を尻目に、朱雀は校舎へと向かった。こうなると絶対に部室が混み合うとわかっていたので、荷物を教室に置いていたのだ。
遅くまで残って練習していたのは野球部だけだったので、誰もいないと思って戻ったのだけれど……教室には人がいた。
立川が。
「あれ」
立川は入って後方の列の真ん中、朱雀の席に突っ伏して眠っていた。能天気に緩んだ顔をこちらに向けて。窓の外の天気とはまるで正反対のその顔に、あきれてしまう。
「立川?」
机の上に置いていたはずの朱雀の鞄は、前の席の椅子に転げ落ちていた。とりあえずタオルを取り出し、びしょびしょの頭を拭く。
「たちかわ、」
声をかけても起きる気配は全くない。ゆすり起こそうとも思ったけれど、あまりにものん気に眠っている姿に、少し躊躇う。
「……とりあえず、着替えるか」
タオルで濡れた身体を拭けるだけ拭いて、制服を着る。またどしゃ降りの中を帰ることはわかっていたけれど、仕方がない。これしか着るものがなかった。お茶を飲むと、ひと心地ついた。鞄をどかせて、立川が眠る前の席に座る。
「…………」
立川はまだ眠ったままだった。柔らかでのん気な寝顔。めったに見ることができないその姿に、朱雀は目を離せなかった。
すっきりと細い顎に、薄い唇。少し上を向いている鼻。いつもの丸目はまぶたの裏だ。立川は特別綺麗な顔というわけではない。どちらかといえば地味な方だ。けれど笑うと、たちまち人を惹きつける表情になるのだった。
椅子に横向きに腰掛けて、朱雀は立川を見つめた。窓の外から届く雨音。その激しい音はここの静けさをより際立たせる。
恐る恐る手を出し、立川の顔にはねている水滴を拭った。かさついている感触がする。それは朱雀の指の感触なのか、秀人の頬の感触なのかわからない。確かめるために、彼の頬を手で包んだ。
立川。
心の中で呼びかける。途端に抑えていた感情がじわじわと胸のうちに広がってきた。その心地は、例えるならソーダ水の炭酸の泡がふつふつと上がってはじけていくのに似ていた。
頬を撫でても、立川は目を覚まさない。誰かがそう仕組んだかのように動かなかった。
ああ……
どうしてこんな気持ちになるのかわからない。どうすればこの気持ちが満足するのかもわからない。あの時、隣にいなかったら。そもそも立川に関わらなければよかったのか。
頭で何を思おうと、心は勝手に気持ちをわき上がらせていく。
お前に惚れて、好きで……
そんなことを考えていたのかもわからない。もう朱雀は、立川の頬に顔を寄せていた。口づけるというより、どうしようもないほどあふれた感情に押されて、自分でも何をしようとしているのかはっきり頭で考えていなかった。
かすかに、唇が肌に触れたか触れないかくらい。
大きな音が、辺りに響き渡った。
ガラガラガラガラ……!
驚く、どころの話ではなかった。全身の毛が逆立って、朱雀は飛び上がった。動揺して椅子からガタガタと立ち上がり、踵を踏んでいた上履きをすっ飛ばしてしまう。
雷の音だった。
その音か、朱雀のたてた音のせいか、立川はやっと目を覚ました。気だるげに上半身を起こし、目をこする。遠慮なく大口を開けて欠伸をした後、上履きを履きなおした朱雀に気づいた。
「朱雀」
「た、立川」
「あれ、なんか暗くね?」
「……っ、な、何時だと思ってんだよ。俺もう帰るぞ。大体なんで俺の席に座ってるわけ」
「いや、別に……ちょうどよかったから。つーかもう七時半かよ」
はーとため息をつき、頭をガリガリと掻く。癖のない髪が乱れた。
「居残り?」
「いや。……眠くてさ」
「は? 家で寝ろよ」
「やだよ。お前の席で寝とけば、お前が部活終わったら起こしてもらえるだろ」
「意味わからん。起こしてもらいてーんならなおさら家で寝ろって」
あきれた朱雀の声にも、頓着する様子はない。
「やっぱり。お前来ると思った」
ニッと笑ってそう言われて、ドキッとする。
その笑顔が眩しかった。明るくて、屈託のない、いつも自然体の立川らしい、邪気のない笑顔。かたっぽだけのえくぼ。
「帰ろーぜっ」
薄っぺらい鞄を肩に引っ掛けて、立川は朱雀を追い越してドアに向かおうとする。
「……っ」
胸が痛んで、目がくらんだ。
「すざ……」
ガラガラガラガラ………
その音に背を押されるようにして、朱雀は目の前の後ろ姿に抱きついた。
たちかわ。
心の中で呼びかけたつもりが、それは声になっていた。
「朱雀?」
答えず、学ランの肩に顔を埋める。初めて両手で抱きしめた立川の身体は、何も特別な感触を伝えなかった。ただ、朱雀の思いが、身体に触れた所に特別な何かを感じさせる。それだけがこの胸の痛みを和らげ、錯覚をさらに歪めていく。そんな身体の変化に、朱雀は涙ぐみそうになりながら思う。
こいつが好きだ。
この気持ちを、どうすればいい。どうすることもできない。
立川の……そばにいる、それだけじゃなくて、こうして身体で感じたい。
苦しい。苦しい。わからない。好きだ……
「立川、俺……」
聞き慣れた携帯電話の着信音が聞こえ、朱雀は目を上げた。風呂から上がってベッドに転がっていたのだ。……ぼーっとしていた。
「もしもし」
『もしもし、朱雀さん?』
最近聞き慣れた声が耳に届く。一瞬、数日前一緒に帰った時に見た、夕日の眩しい光を思い出し、目がくらむような感覚がした。
「……吉丸」
『こんばんは』
「あ、うん。こんばんは」
『今日も部活だったの?』
「うん。俺んとこ今日が終業式だったから、弁当食って昼からずーっと外。干からびそうだった」
『えー、きつそう。休みなしじゃないよね?』
「まさか。二時間ごとにな。日陰にみんなで駆け込む」
『うわ、そっかぁ。それ、ちゃんと水分とか取ってる?』
なんだ急に。「え? うん。毎日二リットル空けてるよ」
『ならいいけど。あんまり日に当たり過ぎるのもよくないって言うじゃん。熱射病とかさ。倒れて本当に死んじゃう人もいるってテレビでも言ってるし。もしそんな風に朱雀さんが……』
「えっ?」
だんだん必死になっていく吉丸の口調。そこへ不意に自分の名前が聞こえて、思わず声が出た。え?
はっと息がもれ、吉丸の声が止まる。
「…………」
『…………』
もしそんな風に朱雀さんが……
その言葉を意識した途端、かっと頬が熱くなるのを感じた。脳が勝手に働いて、頭の中に切羽詰まった切なげな表情をした吉丸を描き出そうとする。
朱雀さんが……
俺が、何だって?
変なとこで止めんなよ。んで黙んなよ。無駄に、なんか、恥ずかしいじゃん!
お互い黙った一瞬の後、吉丸が消え入りそうな声で言う。
『……なんでもない』
朱雀も、この時ばかりは「言いかけてやめんなよ」とは言えなかった。取って付けたようにぼそぼそと答えるだけだ。
「まあ、きついよ。けど、毎日やってることだし。大丈夫だよ」
『……うん』
「あんたこそ夏休みも塾だろ。夏バテしないように気をつけなきゃいけないんじゃん」
『うん』
すっかり声が引っ込んでしまった。朱雀の顔もすっかり熱くなっている。努めて気にしないようにして、声を出す。
「で、どうしたわけ? あんたも明日から夏休みだっけ?」
『あ、うん。そう。それで、ちょっと、話があって』
吉丸の声のトーンもやや戻ってくる。心のうちでほっと息をついた。
『こないだ、言わなかった続き』
「こないだ?」
妙に低い声に、不意打ちを食らった気分になる。
『うどん食べに行った日』
「……ああ」
思い出した。なんだか頬を赤くしてぎこちなく笑い、窺うようにこちらを見ていた吉丸の顔。一瞬で何か予感めいたものが胸をかすめ、どきりとする。
『あの……』
「うん」
鼓動が、早まる。思わず唾を飲み込んだ。
『あの、花火大会、行かない?』
「え」
『その、こないだ見たポスターにあった、朱雀さんの学校の近くであるやつ。俺行ったことないしさ、朱雀さんも部活でしょ? 夕方、ちょうどいいんじゃないかってさ』
「あ、まあ、確かに部活だけど」
花火大会は来週の土曜日。朝から日が沈むまでグラウンドに出ているだろう。慌てたように吉丸が付け足す。
『あっ、や、もし他に行く人がいるなら全然いいんだけど! それに花火とか興味ないなら断ってくれていいし!』
「何焦ってんの、あんた」といつもなら言っているところだけれど、それも言えなかったのは、朱雀自身も動揺していたからだ。早鐘を打つ心臓を落ち着けようと努める。けれど何かが胸に満ちあふれてくるのは止められなくて。甘いそれを噛みしめる。
俺ってバカだ。
「な、なんで……つーかいいわけ? 普通花火っていったら女子とか誘うもんじゃねーの」
『朱雀さん、』
はーと吉丸がため息をつく。『わかってると思うけど、俺は秀人と付き合ってたんだよ? 女の子と行って何が楽しいのさ』
「あ、そうなのか」
それはそうだ。吉丸は男と恋愛していたのだから。と思ってハッとする。
それって。
またどきりとする。
……いやいやいや。慌てて首を振る。吉丸は女子と行かない理由を言っただけだ。
朱雀と同じ考えに辿り着いたのだろう、受話器越しにヒュッと息を吸い込む音がした。
『……っあの! だから、へ、変な意味じゃなくて! 女の子は誘ったりしないってこと!』
「う、うん」
『…………』
だからそこで黙るなってば。なんか変な勘違いするじゃん!
「……じゃあ、その日あんたも塾あんの」
ようやく絞り出した朱雀の言葉に飛びつくように、吉丸が答える。
『いや、ないよ。だからいつでも大丈夫』
「そっか」
『……どうかな』
「行くよ」
『本当?』
「嘘言ってどうすんの」
『絶対断られると思ってたのに』
「別に、いいよ」
『やった』
すっかり上機嫌だ。
それから簡単に待ち合わせ時間と場所を打ち合わせて、軽く話をして電話を切った。ベッドに倒れ込む。意識も感覚もふわふわとして落ち着かない心地がする。
「花火大会か……」
吉丸はきっとはしゃいで夜店を回るだろう。大輪の花火を観て目を輝かせるだろう。昔の記憶がよみがえる。あの時と同じ、何とも言えない感情が炭酸ソーダのように身体の中にふつふつとあふれてくる。
俺は、バカだ。
吉丸が朱雀を誘う理由。それをわかりきっているのに。
なのに俺は、あいつが楽しそうに俺に笑顔を見せてくれることを想像している。そして、喜んでいる。
本当に、バカ。
吉丸は、俺を立川の代わりと見ているだけだ。一緒に待ち合わせて帰ったり、ご飯を食べたり。それで花火大会なんて。
たまたま朱雀が、立川と友達で、付き合っていたことにも気づいていて、心のうちをぶちまけることができたのだ。それで朱雀といるのが気安くなって……立川のいない淋しさを消化しようと、一時的に寄りかかっているだけなのだ。それを吉丸自身が自覚しているのかどうかはわからないけれど。
あいつが俺のこと見てるかも、なんてバカなことを考えてしまうのは、俺があいつのことを見ているからだ。
最悪だ。片思いだった好きなやつの、元恋人だろ? しかも想いが断ち切れないって泣きついてこられたばかりだ。しかも男。不毛すぎる。
好きになるべきじゃない。一番好きになっちゃいけない相手だ。
断るべきだったんだ。行ったところでさらにバカを見ることになるのはわかりきっているんだから。
なのに頭の中は既に吉丸が花火にはしゃぐ姿や、夜店を無邪気に喜ぶ姿を描き出そうとしている。急いで頭を振り、振り払おうとするけれど、一度描き出されると振り払っても無駄だった。想像ではなくて、本物を確かめたくなる。会いたくなる。
「ダメだ、ダメだ……」
頭を掻く。やめろ。あいつを好きになったってどうしようもない。不毛だ。あり得ない。
ベッドに倒れこむ。見上げた部屋の明かりが眩しかった。
「なんで、」
なんで俺が好きになるやつはいつもいつも不毛な相手ばかりなんだ。
あの日……立川に抱きついた時、朱雀は想いを伝えるために声を出そうとしたが、できなかった。
「なんだよ。……お前、雷怖いのか」
そう、立川が言ったからだ。普段のからかう口調じゃなく、どこまでも柔らかい声で。それを聞いた時、一瞬で、朱雀は……どこかに放り投げられた心地がした。飛んでいる間に、立川と初めて会った時から今までの様々な場面の欠片が、走馬灯のように周りを駆け巡る。
一緒にいて、楽しかったこと。うれしかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。切なかったこと。苦しかったこと。……そして、好きだと思ったこと。たくさんの輝く花びらが目の前を通り過ぎていく。
やがて朱雀は落ちた。たくさんの花びらが落ちたその真ん中に。
そして、理解した。
立川が朱雀のことを見ることは、ないということ。
「…………」
身体が勝手に震え出していた。そんな朱雀を立川は怖がっていると解釈したのだろう、向き合って肩をぽんぽん、と叩いた。
「立川にそんなかわいい弱点があったのかー。あ、泣いていいよ」
「泣くか、バカ」
「大丈夫だよ。ここら辺高いマンション多いし。傘差しててもまず落ちねえ」
「…………」
「俺もついてるし。大丈夫大丈夫」
「っ……」
その温かい手の平の感覚は、ますます胸を締めつける。
「よしよし、すざくちゃん。おにーさんがついてるから平気ですよー」
「キモい」
それ以来、朱雀は立川を諦めた。二人きりの誰もいない教室で、あんなに強く抱きしめても、立川はあくまでも『友達』だった。朱雀が考えているようなことは少しも感じていなかったのだ。叶うわけもない。それからまた、新たな苦しみが生まれてくるのだけれど。
手の甲で瞼を覆う。
なんとも思わなければいい。あいつは、ただの知り合いだ。男だぞ。好きになるなんて、バカだ。まだできあがる前の気持ち。惹かれていることも、切ないってことも、もどかしくて苦しいってことも。立川の時と同じ。いや、それよりずっと簡単だ。
今なら、捨てられる。……はずだ。
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