正直なところ
今日は、朱雀が部活を終えて校門に行ったものの、吉丸の姿はなかった。どうということもない。いつもはここで待つところを、一人校門を抜け、駅とは逆方向へ向かった。吉丸の塾がある方向だ。
朝丘を送った日以来、吉丸と一緒に帰ることが、なんとなく決まった日課となっていた。先に帰った朱雀が謝って、別にいいよと吉丸が言って……その瞬間に、毎週火曜は一緒に帰るという、暗黙の了解ができたのだ。
だからそれ以来、朱雀は部活が終わった後、校門で吉丸が来るのを待つようになった。吉丸は吉丸で、毎週当たり前のように朱雀を待っている。律儀な二人は、一度始めた習慣を、理由もなく簡単にやめることはなかった。お互いに嫌なわけではない。なら、別に構わないというスタンスだ。
以前にも思ったことを、また思い出す。なんで彼はわざわざ朱雀と帰って平気なのかということ。立川秀人のことはもう、きっぱり忘れられたのか。忘れられなくてつらいから、朱雀と帰るのか。
本当のところ吉丸がどう思っているか、朱雀にはわからなかったけれど、別にいいやと思う。嫌ならこっちに来なければいいことだ。
夕暮れのオレンジ色が風景のすべてを染めている。空の彼方は藍色がかっていて、もうすぐ暗くなることを知らせている。通りを歩く人々はほとんど朱雀とは逆、駅の方向へ歩いていて、なんとなく、置いていかれているような、置いてけぼりにしているような、妙な感覚にとらわれる。不思議な気分だ。
人々の中に、学生の姿はあまり見られなかった。この近辺では、高校生向けの学習塾はひとつしかないので、まだ塾の授業が終わっていないのだろう。
しばらく歩いて、ほどなくその学習塾の大きな看板が見えてきたところで、学生の集団が現れてきた。たった今授業が終わり、出てきたところのようだ。ぞろぞろと流れてくる学生の中に、沖男子高校の制服を目で探す。こうして見ると色々な学校の制服の生徒がいて、結構人気の塾なのかもしれない、と思った。
「朱雀さん!」
声がしたと思って目をやると、目の前に吉丸が現れた。遠くばかり見ていて目の前が見えていなかった。爽やかな半袖の開襟シャツに、深緑のネクタイ。同色のチェック柄のスラックス。朱雀に目を合わせると、にっこりと笑う。元々整った顔の彼がそうやって笑うと、それはそれはいい笑顔になっていて。……また、落ち着かない。
「朱雀さん?」
「あ、うん。お疲れさま」
「ありがと。わざわざこっちまで来てくれるなんて」
「いや。今日があの実力テストの日だったんでしょ。遅くなるんじゃねーかって、わかってたし」
そう言うと、吉丸は一瞬驚いたように目を丸くして、またこぼれ落ちるように笑った。
「うん。そう……よく覚えてたね」
「あんたがテスト忘れてたって騒いでたんじゃん」
「確かに」
学生の集団がそばを通り過ぎたのを機に、二人は歩き始めた。
「テストが時間いっぱいあって、そのあと自己採点もあったからさ」
「どうだったわけ」
「うん。まあまあ。わかってるとこは全部合ってた」
そう言うと、またこちらを見て微笑む。潤んだ瞳に思わずどきりとして、朱雀は目を逸らした。
戸惑うんだ。
こいつがこんな風にうれしそうに笑うから。俺を見て、うれしそうに……本当にうれしそうに笑うから。バカな勘違いをしそうになって困る。
……俺に会えたことがうれしいんじゃないかってさ。
「……なに考えてんだ俺」
頭を掻く。落ち着かない。調子が狂うんだ。
吉丸が問うような視線を向けてきたので、首を振ってやり過ごした。
「あ」
思い出した。今日は、
「今日は夕飯、なし?」
思いつくと同時に吉丸が聞いてきた。にこにこしてんなよ、バカ。
「うん。そうだった」
「よし。じゃあ、うどん行こう!」
小さく拳を上げて宣言する。
「は? またかよ」
「朱雀さんだって好きでしょ」
「好きだけどさ。あんたはいいわけ?」
「全然。母さんにメールする」
「あっそ」
また今回も二人でご飯を食べに行くことになった。駅前のうどん店だ。
そう、あれ以来二人でご飯を行くこともある。それには朱雀の家の事情があって。
「今週もお母さんは出かけてるの?」
「うん」
「二週間に一回、火曜日に」
「そう。うちの母親、町内会のインディアカチームに入っててさ。その練習が隔週火曜にあるってわけ」
と、そういう事情からだ。この日の夕食だけは、自分で作るなり買うなり調達しないといけない。「火曜のインディアカだけは、許してくれる?」と母からお願いされたのは、中学生の頃だった。
料理なんてするわけがない。たいてい朱雀は部活仲間か一人かでご飯を食べに行くことが大半だった。毎月の小遣いも、夕飯代を少し上乗せしてもらっている。
「インディアカ?」
「うん。そういう競技があるんだってさ」朱雀は少し記憶をたどる。「バドミントンの羽あるだろ? あれの丸いところをぺちゃんこにしたのがボールみたいなので、こうやって打ち合うんだ。見た感じラケットがないバドミントンみたいなやつかな」
手振りを交えて説明すると、吉丸はそれを見ながら感心したような声を出した。
「へぇー。朱雀さんのお母さんってスポーツやってるんだ」
「これだけだけどね。よくわかんないけど。休みの日はあんま家いないし」
暇が出来れば外出するような人なのだ。
「ふーん。……それならさ」
吉丸の声が低くなる。朱雀は思わずその顔を覗き込んだ。
「インディアカの日は、ご飯付き合ってあげる」
「は?」
「毎回なんでしょ? 俺も火曜は塾だし。ちょうどいいじゃん」
「え……」
一体どうしたんだろう。
これからも俺と飯を食うだって? いきなりどうしたんだろう。こうして約束もなしに(暗黙の了解が出来たとは思うけれど)一緒に帰っているのも疑問なのに、ご飯までとは。
「ね?」
「え、なんで?」
「なんでって……」吉丸は戸惑うように視線をさまよわせ、「……いいじゃん別に」と目を伏せて口を尖らせた。
「朱雀さんが嫌ならいいけど」
少し不機嫌そうな声。
「や、俺じゃなくて。あんたは平気なのかよ」
「は? 嫌だったら言うわけないじゃん」
「……ならいいけどさ」
「うん。じゃあ決まり」
あっさりと吉丸が言った。
そんな横顔から目をそらす。はたと気づいた。
もしかしたら、むしろ立川のことがあるからかもしれない。この間のように。立川がいない今、吉丸にとってここ数ヶ月、秀人と別れたことも含めて朱雀が一番事情が知れた人間だから。そう思うと、さっきまで感じていた何か……戸惑って落ち着かなかった何かは、一気に消えていく。何だ。それはどこか冷たい感覚で、また、調子が狂う。
以前は、楽しくもない会話をしながら食べたうどんだったけれど、今日はまるきり雰囲気が違った。主に吉丸のせいだ。よく食べよく話しよく訊いてくる。最近朱雀もわかってきた。この明るく活動的な方が普段の姿なのだ。再会した日に見たのは、特に落ちていた時だったのだろう。そろそろ慣れてきたけれど、時々調子を狂わされる。
「あ」
店を出て通りに立ったところで、先に立った吉丸は朱雀を振り返った後、声を上げて来た道を戻った。
ほら、こういうところも。気まぐれで、予測がつかない。
朱雀が目をやると、そこには電柱にポスターが貼られていた。最近よく見かける、この街で毎年開催される花火大会の宣伝ポスターだ。夏休み期間中にあるため、朱雀の学校の中でも、部活生には特によく知られている。
「花火大会?」
こちらを振り向いて、思った通り目を輝かせて吉丸が訊いてくる。朱雀はうなずいた。
「毎年あってんだよ。あんた知らねーの」
「俺、ここの塾行きだしたの春からだもん。へぇー。そんなのあるんだ……楽しそう」
「去年は部活終わって大勢で観に行ったよ。結構人集まるんだ」
「花火すごい?」
「うーん……数はたいしたことないけど、その代わり、かなり近くで見れる。迫力はあるかな」
「へぇー……」
開催日時を口で繰り返している。その横顔を見ていると無意識に、行きたいの、と言葉が出そうになって、慌てて朱雀は口を手の甲で押さえた。
うーわ、気持ち悪。どうしたいんだよ俺。
「行こっか」
「うん」
外はもうすっかり暗く、街灯やネオンの光がそこここに散らばっていて、行き交う人の足取りもゆっくりしたものに変わっている。欠伸がもれる。ご飯を食べるといつもこうだ。見上げた空にはちかちか星がまたたいているのが見えた。
「朱雀さん」
「ん?」
吉丸の改まった、はっきりとした呼びかけに、朱雀は傍らを見やる。
「あのさ」
「うん」
「あの……」
歯切れ悪く口ごもる。
「なに」
「……なんでもない」
そう言うとスラックスのポケットに手を突っ込んで、少し早足になる。朱雀は前に出た栗色の頭に声をかけた。
「だからあんたさ、言いかけて引っ込めるのやめろって。何回言えばわかんだよ」
すると吉丸は首だけで振り向いて、照れくさそうに鼻に皺を寄せ、また前を向く。
なんだよその顔は。
「じゃあ、また今度言う」
「今度言うなら今言えよ」
「なんか言えなくなった」
駅はもうそこだ。入り口からもれる、圧倒的に眩しい蛍光灯の光に顔をしかめる。照らされた吉丸の顔は心なしか赤い。それに気づいて、また、戸惑う。
「……面倒くせー」
「ふん、今頃わかったの?」
更に早足になった吉丸は、先に改札を抜けた。
ホームへ上がると、電車は数分と待たずに到着した。いつもよりも随分人が多い。今日は何かイベント事でもある日なのだろうか。人の隙間におさまるようにして乗り込む。吉丸のさっきの顔はもう元に戻っていて、文句を言うでもなくついてくる。九時過ぎ。周りを見渡せば、ほとんどが仕事帰りの会社員らしき男女ばかりだ。中には学生らしい人も混ざっていたけれど、制服を着ているのは朱雀たち以外にいなかった。
……それはいいんだけど。
混み合う車内。吉丸が軽く咳き込む。その息がシャツの胸元にかかる。身じろぎすると栗色の髪が首元を撫でる。後ろを向いてしまったら本当に押し潰してしまいそうだったので、朱雀は向かい合うように立ったのだけれど。これはこれで少し……居心地が悪い。
吉丸のそばのドアに手をついて、もう片方の手は横の手すりを掴んでいるので、まるで彼を囲う形だ。ただ、朱雀も半分はそういうつもりもある。またどこかの誰かに目をつけられたら気分が悪い。
以前噴水公園で肩を抱いた時よりも、距離が近い。そのせいなのかわからないが、どうにも落ち着かない。別に男同士だし、何を意識するわけでもないと思うけれど。
目の前の身体の息づかいが、自分の身体を通して伝わってくる。急に頬が熱くなってきて、心臓がうるさく鳴り出す。少し、速い呼吸だった。
「だいじょうぶ?」
尋ねる声がかすれてしまった。電車の音に紛れたかと思ったけれど、吉丸は朱雀の胸に額をつけることで、うなずいた。
俺の心臓の音、聞こえてねーかな。
ますます頬が熱くなる。
情けない。あー気持ち悪。何やってんだって。次の駅でかなり人が降りるはず。大丈夫、それまでの辛抱だ。
車内に次の駅へ到着するアナウンスが流れ始める。
本当に、本当に正直なところを言ってしまうと。
朱雀はこの時、少し……ほんの少しだけ、離れがたかったのだ。
息づかいを、もっと確かめたいと思った。
咳き込むなら背中をさするとか、息苦しいなら抱き上げるとか。そうすることもできるのだと思った。
意識しないようにすればするほど、意識する。
ばっかじゃねーの。
くだらねえ。
なんでまたわざわざこんなやつ。
胸のうちで何度毒づいても、それを打ち消すことが出来ない。
吉丸に……惹かれている自分。
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