第3話 倒れるときは前のめり1

※    ※    ※


 奏は蓮の肩をなだめるように軽く叩くと、体を離した。気負いもなく魔族に歩み寄って、目の前にあった教卓を掴む。軽々と持ち上げて投げつけた。容赦ない一撃は、空中で弾き飛ばされる。四散して、黒板に破片をめり込ませ、菊たちのほうへも吹き飛んだ。菊が猫の唸るような悲鳴を上げる。

「あー残念」

 右の肩を回しながら軽く言う。頭には、二本の角。

「やはりお前もか……」

 人間なら死んで当然の重症だった。なのに、平然とそこに立っている奏を見ても、魔族は驚かなかった。

「お前も魔族ならば身をわきまえて、邪魔だてをするな。おのれの力量を思い知ったはずだ」

「あのねえ。何か勘違いしているようだから、教えして差し上げますけど」

 おどけた声で、奏は慇懃無礼に言う。頬に人差し指をあてて。

「俺は人間なんですよお」

 頭から二本の角を生やして、金の瞳をしたまま。笑う唇から鋭い牙が覗いているのも、わかっていて。陽気に宣言する。

 魔族に憑かれた少女は、自分の胸に掌を当てて、唇を釣り上げて嘲笑った。憐れみのような表情で。

「人ならば、この人間のことは何とする。この娘を殺すことは、人の技なのか?」

「だからさ、言っただろう。俺は大抵の場合は女子供には優しいけどね。蓮をいじめた場合は、俺の言う大抵には含まないんだよ。手段を選ぶ優しさはもう持ち合わせてないよ。何が何でもお前を排除する」

 仁王立ちで笑いながら、奏は言う。

「俺は人間だけど、生きてきた時代が、この子たちとは違うんだ。人を殺した事もあるし、殺せる。守るためなら殺せる」

 本当はそれをしたくないから、犠牲を払って回避しようとしたのだが。

 大きく足を踏み出した。拳を握り締めて、振りかぶる。力いっぱい殴りつけるが、少女には届かない。何もないはずの空間で止まってしまった。

「蓮ちゃん、頼む」

 渋々の顔で蓮が――そのくせ、すぐそばに控えていた彼が、同じように両手を伸ばす。

「結局、お人よしなんだから」

 ぶつくさ言いながら、魔族の守りの結界ごと、力いっぱい押した。

 出来ることなら、ここにいる人間たちを巻き込みたくない。そんな考えなどお見通しだった。

 少女の足が床をすべる。守りの結界で奏の攻撃を阻んだものの、懇親の力を込めた鬼二人の前に、踏みとどまることができなかった。結界ごと壁に叩きつけられる。

 蓮の攻撃のせいで壁には亀裂が走っていた。そこに魔族の結界が押し付けられ、壁が吹き飛んだ。瓦礫ごと少女は壁の向こうに追い出されていた。

 ここは二階、壁の向こうは何の障害物もない運動場だ。

 奏は壁に開いた穴へ手をかけると、頓着せずにひょいとまたいで飛び降りた。面倒くさそうな蓮が後を追う。




 肩を震わせたままの都雅に気がついて、美佐子がそっと呼びかける。

「都雅ちゃん?」

 優しい声だった。害そうとする意志など少しも感じられなかった。

 けれども今、意識を、眼差しを向けられること自体が、都雅にとっては恐怖でしかなかった。

 机に押し付けた手が震えている。怯えと、それを振り払おうとする気持ちがせめぎあって、震えている。必死に抑えこもうとして、力がこもり、机の分厚い木の板に亀裂が走った。四方へ向かって、ひび割れが走っていく。

 力が暴走している。魔力が抑えられなかった。

 ――子どもの頃、必死に抑えようとしても、身に宿った強い力は勝手に表にあふれ出た。強い力は都雅の手に余った。その頃のように。

 駄目だ。こんなことしたら、ダメだ。

 慌てて顔を上げた。染みついた怯えに体を震わせながら、うかがうように、長く伸びた前髪の隙間から辺りを見る。

 また、お母さんに叱られる。また遠くなってしまう。もっと手が届かなくなる。

 けれど、怒りに唇をゆがめた母親はいない。

 かわりに瞠目した少女がいる。そして後ろの方で、怯えて都雅を見ている女。驚愕に目を見開くその姿に、あの母親とどう違いがある。

 隣の少年は、何も言わずに顔をしかめている。あれは、侮蔑とどう違う。嫌悪と、一体どこが違う。

 ――ねえ、高校どこ受けるか決めてる?

 問いかけが、心によみがえってくる。そんなこと聞かないで欲しい。そんな無責任なことを気軽に聞かないで。あたしは今日を耐えることで精一杯だから。

 明日のことは知らない。先のことを見通せない。どうしたいと思う、余裕がない。

「化け物!」

 どこからともなく、声が聞こえた。幾度となく聞いた、ヒステリックな声。驚愕と侮蔑と、心の底からの拒絶を、上品な顔に浮かべて叫ぶ母親。

 あれと、どう違う。

 どうせ誰も誰も誰もあたしの存在なんか許してくれなくて。もがいてももがいても、抑えても、懸命に気を引こうとしても、誰もが目を素通りさせていく。

「お前なんか、生まなきゃ良かった!」

 耳をふさいでも、聞こえる声がある。

 存在を否定される、それがどれだけ痛いか。言ってはならない相手、言ってはならない言葉。それを、よりによってその人に、言われることの痛み。

 ――もう嫌だ。

 愛してもらうための努力なんて、何にもならなかった。受け止めてほしかった。特異な力を持って、人に気味悪がられても、母親には受け止めてほしかった。振り向いてもらおうと、必死になっていた。でも無駄だった。

「あたしなんてあたしなんて、あたしなんて、あたしなんて……!」

 視線を落として、つぶやく。壊れた机、壊してしまったこの手。繰り返される出来事、言葉、嫌悪、拒絶、憎悪。あの、視線。

 もう嫌だ。もうあの目もあの声も言葉も。もう見たくない。考えたくない。

 ――死んでしまえば。

 見なくてすむ。考えなくてすむ。どうせ、母親にすら望まれない、命。

「……死んでしまえば。あたしなんて、あたしなんて……」

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