第4話 倒れるときは前のめり2

 座りこんで頭を抱えて、つぶやきを落とす。すぐ、咎めるような美佐子の声が叫んだ。

「都雅ちゃん!」

 友達が目の前で自殺未遂で死にかけた子の前で言うことじゃない。そんなことは知っていたけれど、どうでもいい。

「うるさい!」

 都雅が怒鳴る。誰を、何を?

 ――死ねば楽になる? 何から、誰から、誰が……?

 誰が?

 あたしが? 相手が?

 目の前の教室の床が、違うものに重なって見えた。ワックスで磨かれたフローリングの板と、小さな膝。現実とぶれて重なって、自分がどこにいるのか、何が本当に見えているものなのか、分からなくなってきていた。

 幼い頃の記憶と今の状況が重なる。

 都雅は家にいる間、無気力に座り込んでいることが多くなった。

 何もかもが億劫で、無駄だった。不必要に広い部屋の、やたらと手の込んだ家具に囲まれて。膝を抱えて隅でうずくまっている。木の床を見て考えている。暗くなってもずっと、電気もつけずに考えている。

 ここで何をしているのか。なぜここにいるのか。

 なぜ生きているのか。なぜやめないのか。

 何もかも無駄なのに。

 息をすることも食べることも笑うことも、考えても行動しても、何もかも無駄なのに。誰にも望まれていないのに。

「あたしなんて……」

 つぶやきが漏れる。

「そんなこと言わないで!」

 憤慨した声が近くで聞こえる。都雅は思わず顔を上げた。

 美佐子が眉を吊り上げて、都雅を睨んでいた。さっき怒鳴りつけられたことに、少しもひるんでいない。

「都雅ちゃん、わたしのこと助けてくれた。自分も大変なのに、菊ちゃんと一緒に来てくれた。わたし、都雅ちゃんと一緒に高校に行きたいの。死ぬなんて、どうしてそんなこと考えるの!?」

 ――怒っている。

 怒られた、と心の中で、幼い自分がますます縮こまる。だけど同時に、その怒りに呼応されて、また記憶がよみがえる。 

 都雅が中学に上がったのは、弟が小学校に入ったのと同じ年。同じ日が入学式だった。

 真新しい制服は、家政婦の付き添いで購入に行ったものだ。袖を通してみて少しだけ浮足立った。けれど一人で朝食を食べている間に気持ちは沈んでいく。誰も見送ってくれず、学校まで一緒にくる人もいなくて、歩いている間にどんどん沈んでいった。途中で、「おやおや、奇遇だね」とめかしこんだ祖母が合流して、ほんの少しだけ救われた。

 だけど学校について、自分の場違いさに、自分が痛々しくていたたまれなかった。

 両親が一緒にくるような子供たちばかりではない。それでも、学校にあふれていたのは、明るく浮かれた空気だ。

 華々しい入学式、新しい門出に浮足立つ子供たち、晴れやかな親たち。

 なんだかもう、あまりにも自分が場違いで、苦しかった。呼吸もうまくできない。

 何があったかどうやって過ごしたかあまり覚えていない。

 家に帰って、大きな門の前で、車が帰ってくるのに行き会った。

 弟が、母と一緒に車から降りる。無邪気な彼と、目があった。その表情が曇る。母親を見上げて何か言う。けれど、母は弟に微笑みかけ、せかしながら歩き出す。振り返ることもなく。出迎えた家の者たちも、母の機嫌をとるように、後ろに従っていく。

 馬鹿みたいに大きな門の前で、都雅は仁王立ちになって、家を睨み付けていた。

 ひどく腹が立った。

 誰もが、いないもののように都雅を扱った。

 あたしなんて、いなくなればいい。誰もがそれを望んでる。

 馬鹿馬鹿しい。なんでこんなところにいるんだろう。

 死ねばいいんじゃないか。そうしたらこの虚しさも、腹立たしさも、なくなる。

 そうしたら、少しは傷つくだろうか。そんなことを少し考えて、余計にむかっ腹が立った。

 ――なんで。

 なんで、そこまでしないといけないんだ。

 なんで、あたしが、消えないといけないんだ。

「うちにくるかい」

 陰鬱な目で家をにらみつける都雅の背に、祖母が言った。

「年寄りだけで侘しい暮らしだからね、あれこれ手伝ってくれると助かるんだよね」

 いつもの口調で、少しも気を使っていない。それは相手に気を使わせない気軽さだった。

 けれど、都雅を憐れんだ言葉だというのは分かる。それは、はっきりと現実を突きつけた。

 これ以上無理をして、我慢をしても、何も変わらないのだということだ。

 ああ、そうだ。無駄なんだ。

 自分を抑えても、自分のすべてを無駄にして尽くしても、無駄なんだ。

 馬鹿馬鹿しい。本当に、なんて無駄。

 いたたまれなさが、息苦しさが、全部全部腹の底からの怒りに変わっていた。

 こんなに思うほど努力して、寂しい思いをいっぱいして。おかげで、友達も作れなくて、何もかもうまくいかなくて。あたしのものをこれだけ、めちゃくちゃに壊されて、傷つけられて。それなのにさらに犠牲を払うのか。

 努力し続けても無駄だ。

 でも、だからって、あたしが、あたし自身を諦めるのは、道理に合わない。もう十分やった。だからって、死ぬのではなくて――次に出来るのは、戦うことだ。拳を固めて振るうことではなく。心をよろって、自分自身を貫くこと。まだそれをしていない。今まで、自分を押し込めることしかしてこなかったから。

 決意した。決めてしまった。それ以来、今までしていたことをすべてやめた。すがりつこうとするのも、傷つくのを覚悟して近寄るのも。気を引くために魔力を抑え込むのも、媚びるような行動も、やめた。さしのべるのをやめた手は、振り払われる前に、振り払った。壁を作らなければ弱い自分を守れないことを知っていたから。余計に周りの人々は彼女を奇異の目で見て、もしくは恐れて、近寄ろうとしなくなったけれども。

 誰に望まれなくても関係ない。

「なんで、あたしが、こんなに苦しまないといけないんだ」

 ――でも、相手だって、苦しいのに?

 母にも理由があって、痛みがあって、そのせいで自分につらくあたるのだと、知っている。

 母は過去から逃げるために、学歴を手に入れて、美貌を武器にして、自分の力で、まったく別の世界へ飛び込んだ。

 家柄を持たない母親は、嫁いだ家でたいそう苦労にしたに違いない。それでも気が強い彼女は、嘲笑も文句も跳ね付けて突き進んできたはずだ。いつだって胸を張って美しく立つ姿そのままに。

 それなのに、都雅が生まれて、また自分の忘れたい部分を突きつけられた。

 人と違うこと。人から嫌われ恐れられ、避けられる性質。母は子どものころに、この力のせいで友達を傷つけてしまったと、祖母が言っていた。嫌なことを忘れて逃げ出した。

 それなのに、追いかけてきた。自分の子供の姿をとって。トラウマは、記憶と力を封じても、心の奥底にいつも眠っている。いつ目を覚ましてもおかしくない状態で、ただ眠っているだけだ。それを露見させそうになる都雅の存在は、母親にとって忌まわしい力の記憶と同じように、拒絶しなければならないものだった。

 何よりおかしな子供は、彼女が懸命に築いてきた地位を、覆す危険があった。

 理屈では分かる。でも、理解はしてあげない。しようともしない。出来るわけがないじゃないか。

 それは理由にはならない。

 あたしにはどうしようもないことだ。どこにも、責任なんてないことだ。

 母の勝手でしかない。だから、あたしはあたしの勝手で、自分のためにあんたを無視する。

 ――でも、そんなに苦しいのに?

「うるさい、うるさい、黙れ!」

 強いのね、と前に美佐子は言った。その言葉は都雅にとって皮肉だ。

 強いから戦えるわけじゃない。戦っているから、強いわけじゃない。自分は誰よりも本当は弱いのだと分かっている。ただ単に、弱みを見せるのが嫌いなだけ。同情されるのが嫌いなだけ。負けを認めるのが嫌いなだけ。そして弱いがゆえに戦うのだ。

 挫けても倒れても、逃げても負けてもまた帰ってこれるなら。また立ち上がって戦えるのならそうすればいい。でもあたしはそれが出来ないのを自分で分かってる。一度倒れたらもう立てない。それだけの気力はない。だから踏みとどまっているだけ。あの時もそれが分かっていたから、膝をついて倒れ込む寸前に、無理矢理にも立ち続けた。あきらめてしまったら、終わりだと分かる。だから、まだ。

 ――でも、だから今また、苦しい。

 当たり前だ。生きていれば誰だって苦しい。

 ――でも、ここまでの苦しみを味わうことなく、安穏に生きている人もいるのに。

 そんなこと、関係ない。あたしには関係ない。

 ――でも、誰もあたしを望まない。

「知るか、そんなこと」

 吐き捨てるようにつぶやく。知るか、人の思いなんて。

 もう振り回されない。十分振り回されてやったのだから。思い通りになんてなってたまるか。

 ――でも、これからだって、傷つく。先を見通すことだって、できないくせに。

 だけども、死は選ぶものじゃないだろう。手段じゃないだろう。

 すべてを切り離してしまうには、まだ強さが足りなくても。忘れてしまうことはきっと一生できなくても。傷口は生々しくて、今はまた、母親に会ったせいで、幻惑のせいで、血を流しているのだろうけれど。

 追い込まれて、岸壁に立たされて、あとはもう落ちるしかないというところまで来て、都雅が選んだのは、後ずさることではなかった。

 抗うために前へ踏み出すこと。

 あきらめない。血なんか流しっぱなしでもいい。傷なんか開いたままでも、今までだって構わなかった。これからも生きていける。

 この思い一つあれば、生きていける。

 いつだって、希望の光は見えないけれど。だからこそ、強くなりたいといつも願う。強くありたい。

「都雅ちゃん」

 案じるものと安堵の混ざった声がした。支えてくれる手が肩に触れて、思わず笑ってしまった。

 顔を上げた都雅を見て、美佐子は小さく笑った。励ますように。

 変な子だ、と思う。

 この先も一緒にいることを望んでくれた。もう一人、同じことを言ってくれた人がいた。いつもさりげなく背中を支えてくれていた祖母を思い出す。ああ、帰るとも。こんなところで死ぬなんて冗談じゃない。

 ――強さがほしい。

 立ち続ける、強さ。

 人の言葉に惑わされない強さがほしい。何を言われても、どんな視線を向けられても、気にしないで立っていられる強さ。絶望を希望に変えられる強さ。

 人に微笑みかけることのできる、強さがほしい。

 ――――かすかな光、目を凝らせば見えないこともない。声をかけてくれる人がまだいるのなら。

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