第9章 異形の子
第1話 目覚めた日1
太陽の熱で地面が暖かい。夕日があたりを前を赤く照らし、影を濃く映し出す。奏は小さな村を横断して、細い
刈り入れが終わった田は少し寂しげに、乾いた大地をさらしていた。田植えと刈り入れは、いがみ合っている相手も協力し、村が総出で行う大仕事だ。
朝までは、稲穂の黄金の海が広がっていた。豊作とは言えないが、世間が荒れて、人々が飢え苦しんで入る中で、これだけのものを収穫できたのは幸運だったと誰もが思う。これで翌年もしのげる。戦火が広がったりしなければ。理不尽に徴収されたりしなければ。
まだ忙しく落穂を拾う人々に、奏は大きく手を振った。
「父さん、そろそろ日が落ちるから飯にしないかって、母さんが呼んでる」
明るい少年の声に、腰をかがめていたうちの一人が顔を上げた。つられて村の皆が次々と顔を上げ、時間を計るように夕日を見た。空の色が変わりつつあるのに気がついていなかったようだ。
「そうだな、もうこんな時間か。すぐに行くって伝えて……いや、もうちょっとだから、お前も手伝え」
父親に手招きされて、奏は笑ってうなづく。
「うん」
応えて、田圃の乾いた土の上へ飛び降りる。手近なところに落ちていた穂を、身をかがめて拾い出した。
父の言う通り、作業は手早く終わりそうだった。休まず働き続けてきたおかげだ。
――邪魔さえ入らなければ。
悲鳴が聞こえた。途端に、皆申し合わせたかのように手を止め、声の方向を計る。そして、距離を。「賊だ!」という叫び声が飛び込んできた。ボロボロになった鎧を着た男たちが、四方からなだれ込んでくる。
都では権力の奪い合いが戦へと発展し、多くの人が命を落とした。争いは各地へ飛び火していく。主を失った武者や、住処を失った農民が増えた。多くの者が生きるために他者を踏みにじり、物を奪い、人をさらって売り、蹂躙していく。それが当たり前だった。
誰もが手にした物を放り出し、農具を掴んで駆けだして行く。
「お前は母さんと一緒に逃げろ!」
「でも、父さん!」
父は少年の声を後ろに残して駆け出すと、畦道に放り出してあった鎌を手にとった。
「危ないと思ったら、村を捨てて逃げろ。いいな」
念を押すように言い、一足で畦道に駆け上がり、他の男たちと一緒に走っていく。奏は困惑して後姿を見送ったが、すぐに慌てて走り出した。父とは違う方向へ。
呆けている場合ではない。抵抗するか、逃げるか。できなければ、賊の手にかかって死ぬだけだ。
家に駆け戻る。入り口に垂れ下る簾を乱暴に払うと、すぐそこに母が立っていた。土間の竈の鍋の前に立っていた母は、外の喧騒に困惑していた。入ってきた影を見てびくりと肩を震わせ、奏を見てちいさく息を吐く。
「母さん、逃げよう」
奏は母の前を通り過ぎ、板間のまな板に乗っていた包丁を手にとる。すぐ引き返して、母の腕を掴んだ。
「でも、父さんが」
突然の出来事に心がついてきていない様子の母親は、強く手を引く奏に逆らった。母は家にいて外の様子を見ていないし、奏の様子に驚いている。尋常でない声や騒ぎが聞こえていても。考えたくないのだ、日々恐れ続けてきたことが目の前に起きて。
奏は母親を振り返り、怯えた目を見た。母の手を強く握って、なるべくゆっくりと、気持ちを落ち着かせるように言う。
「賊が現れたんだ。皆が総出で抵抗してる。大丈夫、多分抑えられるよ。だけど万が一何かあったら困るから、ちょっと村から離れていよう?」
奏の言葉に、母もようやく頷く。すぐに母の手を引いて外に出ようとした。けれど、入り口の簾を払っただけで、一歩も外に出られなかった。後から続いていた母がぶつかる。後ろの母を背中で押すようにして、後退さる。
目の前に、刀を持った男たちがいる。逃げ出すのが少し遅かった。――父さんは? 考えたけれど、分かるわけもない。それどころではなかった。
後退した奏に、母も賊の存在に気づき、息を飲んだ。彼女の姿を見た男たちの間で、無言の会話が交わされる。下卑た眼差しの、淀んだ視線が母親へ向かう。
奏は、全身の血が逆流したような気がした。今まで感じたようなことのない感情。激流のような感覚に翻弄されて、気がつくと相手に向かって突進していた。
敵のうちひとりに包丁を突き出したが、それは別の者の手に叩き落とされた。頭を刀の柄で殴りつけられ、そのまま払いのけられた。容赦ない力は細身の少年を簡単に吹き飛ばし、奏は地面へ投げ出される。――相手が多すぎた。
背中をうちつけたが、気にならない。痛みもなかった。殴られた頭からどくどくと血が流れる。それは痛みよりも奇妙な眩暈を引き起こした。
「やめて、子供は助けて!」
母親が叫ぶ声が、遠くの方で響いているように聞こえる。
体中が熱い。目の前すらも、日が落ちて藍に染まった世界が、再び赤い陰影に包まれたかのように赫い。瞳に流れる血の奔流を透かし見るかのように、赤い。口の中を切ったらしく、血の味が喉の奥に広がる。それがさらに感情を煽る。
怒りを。
普段穏やかな奏が感じたこともないくらい、自分がどうかしてしまったのかと思うくらい、一度堰を切ったものは抑えようがないほどに、激しかった。その感情に耐性のない彼が、押し流されそうなほどに。殺意が体を突き動かす。
手をついて、肘をついて身を起こす。顔をあげて敵を睨みつける。目に入るのは、彼を殴って赤い血のついた刀の柄。身をよじり逃げようとする母と、取り押さえようとする男たち。その手に持った刀についた、血の色。
気がつくと奏は立ち上がっていた。何を思うよりも前に手を振り上げていた。鋭く堅い爪を武器のように振り上げ、相手の頭をめがけて振り下ろしていた。
奏は何故か、それが鋭く強く堅く、人の肌など簡単に傷つけられることを知っていた。その凶器は、敵の頭を傷つけ、頭蓋を砕き、血と脳漿をあふれさせていた。
何事かと見た男たちが驚愕に凍りつく。すぐ刀で切りかかってくる者もいたが、何ほどのものでもない。刃は奏を傷つける前に自ら折れ、砕ける。
気がつくと奏は、血を浴びて赤く染まって立っていた。まわりに死体が転がっている。
動きまわったはずなのに、息が少しも乱れていない。疲れてもいない。身は妙に軽かった。ただ頭の奥で、何かが脈うつ音が聞こえる。妙に気持ちがざわついている。
妙な高揚感に突き動かされたまま、母親のもとに歩み寄る。母親は、土間に座り込んで奏を見ていた。
「母さん、怪我してない?」
震えている母親を落ち着けるつもりでそっと声をかける。大丈夫だから、と笑みを浮かべながら。早く、ここから逃げないといけない。
それなのに、耳に飛び込んできたのは恐怖の声だった。
「いやあっ。来ないで、化け物!」
母親が、奏を見て悲鳴を上げた。乱暴に腕をつかまれ、引きずられたときよりも、ずっと怯えた目で奏を見ていた。身の引きちぎれるような叫び声をあげながら、外へ飛び出す。そこにちょうど、家の様子を見に来た父がいて、驚いた顔で母を見る。そして奏を見る。
父の顔に驚きが宿る。すぐにその表情は染め変わった。単純な驚きは驚愕に、そして嫌悪と恐怖に。父は怯えたまま、手にしていた鎌を振り上げた。どこの誰ともつかない賊の血のついた鎌を。それは村を、家族を守るために、賊を排除した道具だ。その鎌で、同じように、目の前の者を排除しようとした。――奏を。
はっきりと覚えているのは、その瞬間までだった。
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