第3話 逃げるにしかず2

 大気が閉じこめられた。外界から遮断された。息苦しくなるわけではない、眼に見えて何かが変わったわけではないが、空間が閉じられたのが感覚で分かる。

「結界……っ」

 崇子が上げた声は、語尾が震えていた。

 中から誰も出て行けないよう閉じ込められた。崇子が最初にやろうとしていたことだった。だが相手にやられてしまうと、これほど威圧感を感じるものはない。ここから出られなくなってしまった。いよいよ本気であの魔族は、崇子たちを逃がすつもりがないようだ。

「どの範囲だ。分かる?」

「多分、校門から学校の敷地全体だと」

 奏の言葉に崇子は即答した。

 閉じ込められた空気の感覚、感じる外部の遠さ。それをすぐに察知することくらいならできる。それは崇子自身、並ならない能力を持っている証明だった。――君は、能力はあるんだけどねえ、と言う上司の声が崇子の脳裏をよぎった。

「そいじゃ、さっきので近所の人が警察に通報したとして、警察来ると思う?」

「通報されたら、彼らも出ないわけにはいかないから、来ることは来るでしょう。でも協会から連絡がいっているはずだから、絶対に手出しはしてきません。かえって邪魔が入らないように見張ってくれる程度だと思います」

「そうか。なら良かった。結界あるんなら、中で何やっても外に迷惑かからないだろうけど、間違いはないにこしたことないしな」

 奏はずっと悠然と構えてるし、あれこれ無頓着に壊すし、何も考えていないのか鷹揚なのか分からなかったが、他の人間を気遣う気概はあるようだった。蓮はフンと鼻を鳴らしただけだったが。蓮の場合、これでピザのデリバリーを頼めなくなったのに腹を立ててるのかもしれない。

「どうしますか」

 相談するとか、打ち合わせるとかよりも、あんなものをどうすればいいのか、いまどうすればいいのか何も思いつかない。むしろ答えを教えてほしいと思いながら、奏に問うが。

「まあ、なんとかなるさ」

「なんとかって……」

「ま、俺らもがんばるし」

 軽い調子で返ってきただけだった。能天気で、お人よしな言葉だった。体が頑丈だと言う奏が得意とする分野ではないし、どちらかというと崇子の領分だ。だが彼は、そのことについて何も言わなかった。崇子が、問題を丸投げしたかったのも、気づいたかもしれないが、何も言わなかった。

「俺らって言う? ぼく何もしないって言ったじゃん」

「あー、はいはい。がんばりますよ、俺が」

 口を挟んだ蓮にも、飄々と応える。

「さて蓮の無事も確かめたことだし、どうせあっちから仕掛けてくるだろうから、広い場所に移動しておこうかね。ここだとせっかくのトロフィーとか盾とか壊しちゃうし、こればっかりは修復不可能だからな」

 文句たらたらに立ちあがった蓮を最後尾に、校長室を後にした。



 夜の学校が怖いのは、昼間とはまるで別の場所に見えるからだ。

 いつもは声にあふれて、人が支配しているはずの空間が、暗闇と静寂に満ちる。得体のしれない別の者が蹂躙しているように見えてしまう。

 ――そして彼らの目の前、夜を彷徨うものがいた。少女の皮をまとって。

 奏が壊した玄関口よりも手前、もれ入る月の光を背後に流して、それは立っていた。

 逆光で暗くなった顔で笑う。白い歯がこぼれて見えたために、それが分かった。

 崇子が息を呑む。そして、視界がまたゆらいだ。

 周波数の合わないテレビのように、ぐらぐらと現実と幻影が乱れて入る。思わずこめかみを押さえて、目をしばたいてしまった。また、何か声が聞こえる――

 けれども、自分をさいなむような、いたたまれなくするような声は、高飛車な声にさえぎられて消えた。

「うっわ。何あれ。何をそんなに慌ててんのかと思ってたけど、人間じゃん」

 美しく背筋を伸ばして、腰に手を当てている蓮が、容赦のない一言を突きつけている。眼前の少女にも、奏たちにも。

「外見は人間だけど、中に魔族が入ってるんだよ。あんまり無差別に攻撃するなよ」

「何それ。ぼくがまるで誰彼構わず攻撃しまくる危険人物みたいな言い方して。だいたい、ぼくは手を貸さないって言っただろっ」

「はいはい」

 この期に及んでわがままな蓮に対し、奏はそれ以上何も言わない。かわりに、身をかがめて崇子をうかがう。

「お嬢さん?」

 崇子は身をすくめて、震えたまま魔族を凝視していた。

 彼女には、相変わらずな奏の反応も蓮の反応も理解できない。だからといって、彼女自身、何もできなかった。いつもいつも、悪いくせだと思うけれど、何もできない。さっき敵わなかったことが強く脳裏に残っているから、恐くて恐くて祝詞を唱える声も、もう出ない。――だめなのだ、本当に。

 この世ならざるものを前にすると、身がすくんでしまう。自分が能力者だからって、関係ない。だって、恐いことに変わりはない。

 協会の所属とはいえ、崇子は現場を遠のいていた。彼女の臆病な性格から、崇子自身の希望と上司の判断で、サポートにまわることが多かった。

 だが今回の依頼、他に派遣できる人間がほとんどいなかった。神舞家と新藤家から、子どもを連れ去った「高位魔族」の捜索を頼まれていた協会は、どうしてもそちらを優先せざるを得なかった。現在も皆が血眼で探している。

 だから協会は人手を割けないかわりに、奏たちに依頼をするよう、学校側に言ったわけだったが。

 それを知っていても、崇子は何もできなかった。何もできずに、かばうように前に立った奏の後ろに隠れていることしか、できなかった。情けなくて嫌になるけれど、足がすくむ。

「さあ、お前たち、どうする?」

 愉悦にあふれた声で、魔族が問いかけてくる。また逃げ出すのか、と。

「さあて、どうしようかなあ」

 のんびりと奏が応じる。

「俺は、たいていの場合は、女子供には優しいんだよな。手が出せないとなると、どうしようもないなあ」

「……奏」

 蓮が低い声を出す。今までよりもずっと不穏な声だ。奏は苦笑した。

「わかってる」

 少女の顔にさげすむような表情が浮かぶ。追い詰めて楽しむ愉悦と、嘲笑とが混ざったような表情だった。当然のように蓮が眉を吊り上げる。

 飄々と立ちふさがる奏と、残忍そのものの少女と、正反対の空気を持ちながら、相手の気持ちを探るように沈黙が降りた。

 そのため、今まで気がつかなかった小さな物音が耳に届く。――足音だ。こちらへ駆けてくる音。

 ――そんな、はずは。

 奏が足音の主を探すように、音の方へ目を向けた。ぱたぱたと軽い足音は、目的を持った確かさで、間違いなくこちらへ向かってきていた。



彩花あやか!?」

 声は、魔族に憑かれた少女の後ろから聞こえた。肩で息をして、目の前の少女と同じくらいの年頃の少女が、必死の顔でそこにいた。大人しそうな、けれどしっかりとした目をしている子だった。

「彩花、どうしたの。どうしてこんなところに……?」

 少女は驚いて声を上げ、奏たちを見た。

 だが彼女よりも、崇子たちの方が驚いていた。新手の敵かと、また幻でも見ているのかと思ったが、違う。

 あれは本当に、ただの少女だ。運悪く、結界で閉じ込められる前に足を踏み入れてしまったのだろう。

 ――しかし、名を呼んだ。

「あの時、死ななかった生き残りか」

 「生き残り」の言葉に、校長の言葉を思い出す。事件の被害者は皆、奇妙な死に方や、異常な状態での死体を残していたが、第一の事件だけが違っていた。

「お前のせいで三人も喰い損ねた」

 身を投げた生徒以外、自殺を図った少女たちは一命をとりとめ今も入院中だが――関わった人の中で、一人だけ動ける人がいたはずだ。第一発見者の少女。

 声をかけられ、魔族の憑いた少女は、緩慢な動きで振り向いた。奏たちに背を向けることなどまるで気にもせず、闖入者をうかがう。

 だが、それだけで済むわけがなかった。

 魔族の意図に気がついても、逃げろ、と簡単な言葉を口にする暇もなかった。魔族のとり憑いた少女は振り返って、ついでのように片腕を振った。



 風がぶれた。目に見えない害意の塊のような力と、押しやられた空気が反発する力のせいで、視界が歪む。まるで場そのものが歪んだようだった。風が吹き荒れ、力の塊は少女の方へ突進していった。

 奏は足を踏み出していた。少女がいるのは、魔族を挟んで向こう側。行っても間に合わない。守ってやれない。庇ってもやれない。それでも彼は走りかけた、が。

 その必要はなかった。

 迫り来るものに少女が悲鳴を上げる。その瞬間。

 不自然な風が少女のまわりを包み込んだ。

 彼女を取り囲むようにして渦巻き、力の塊を受け止め、吹き飛ばした。衝突した地点で反発する力が生まれて、周囲の壁が弾け飛ぶ。爆風が人々を襲う。

「魔道……っ?」

 手で顔をかばいながら崇子が声を上げる。

 そんなはずはない。ここにいる者で魔道が使える者はいない。奏はそういったタイプの能力者ではないし、蓮も同じだ。現れた少女からも能力者の気配は感じられない。

 ――どういうこと……!?

 訳も分からず、崇子は少女の方を見た。暗い廊下を見上げた。

 その彼女の耳に、か細い猫の鳴き声が聞こえる。



 魔族にとりつかれた少女の向こうにいる、少女。そのさらに向こう。

 黒い影がいた。

 全身を黒い布に包んだその影は、足下から伸びる自らの影と同化している。月明かりの中、夜の闇からも浮かび上がるようにして、そこにいた。

 確たる存在感を持って君臨する存在もの。黒い布で身を包み、足下に黒猫を従えて、絵に描いたような魔道士ウィッチ

 それは静かな声で、それでいてどこか腹立たしげにつぶやく。

「やっと見つけた」

 ――――まるで呪詛のように。

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